問題を自分のことと受け止め、その問題を乗り越えるために、自分なりにできる一歩を踏み出していく。 日々においてできることは、それだけです。 けれど、その一歩こそが、明日をひらくのだとおもいます。 私達は、そのために歴史や神話を学んでいるのです。 |

画像出所=https://cultural-experience.blogspot.com/2015/07/blog-post.html
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)
人気ブログランキング応援クリックは
←こちらから。いつもありがとうございます。
歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
日本神話に関するお話を、このブログや講演、あるいは動画などで行っていますが、大切なことは、神話を、ただそのまま信じるのではなく、神話で語ろうとしていることを読み解き、理解する、というところにあると思います。
実はこのことは、幼児でもしていることです。
たとえば、因幡白兎(いなばのしろうさぎ)という神話があります。
うさぎが沖合の島から海を渡ろうとして、ワニを騙すのです。
するとワニは怒って、うさぎの皮を剥(は)いでしまう。
だから
「ウソをついてはいけませんよ」
と教わる。
物語に書かれていることは、うさぎがワニを騙したこと、皮を剥がれたことだけです。
だから「ウソをついてはいけませんよ」というのは解釈です。
人は、その解釈から学びを得ています。さらにオトナになって神話を読むと、実は因幡白兎(いなばのしろうさぎ)の神話は、大国主神話の中のごく一部の物語であることがわかります。
そして我々は、そんな大国主神話の全体のストーリーからも多くの学びを得ることができ、かつ、その部分としての因幡白兎(いなばのしろうさぎ)の物語にしても、もしかするとここに書かれたうさぎというのは、動物のうさぎのことではなく、またワニというのも、漢字で和迩と書かれていて、もしかするとこれはアウトリガー付きの双胴船のことなのかもしれないなどと、さまざまな
意見を持つことができるようになります。
そしてそこから大国主神話を通じて古事記が伝えようとしたことは、商業物流中心の社会体制から、生産者中心の社会体制へのシフトによる、国民生活の安定化という、きわめて大きな政治的ねらいであり、我が国が求めてきた社会体制の本質であったのかもしれないといったことを
理解します。
こうしたことを、昔の人は、「古事記には七つの読み方がある」などと言って伝えてきました。
要するに、文字の表面をなぞっているだけ、あるいは表面上のストーリーを追いかけるだけでなく、そこからさらにもっと大きな、もっと深い学びを得る。
そういうことが大事だし、またその姿勢こそが、学問をするうえでもっとも大切なことであるとしてきたわけです。
最新刊
ヤマタノオロチも同じです。
幼児教育の場であれば、ヤマタノオロチは、頭が八つある大蛇のような怪獣、ということで足ります。
もちろん、本当にそのような大蛇が古代にはいたのかもしれません。
けれど、そのような大蛇の化石が上がってきていない以上、我々は「ではこのヤマタノオロチとは何であるのか」、そして古事記の作者は、あるいは古事記を世に残そうとした人たちは、このヤマタノオロチの物語を通じて、私達に何を伝えようとしたのか。
それを考えるのが、神話を学ぶ、学問というものです。
もちろん、ハリウッド映画でもゴジラがつくられるくらいなもので、オトナだって怪獣は好きですから、ヤマタノオロチを怪獣と理解することが、イケナイということではありません。
それはそれで楽しい解釈です。
けれど、神話から何かを学ぼうとするなら、古事記の作者は、ヤマタノオロチを通じて、何を後世に残したかったのかを考える必要があります。
もちろんそれは解釈ですから、百人の人がいれば百通りの解釈が成り立ちます。
どれが正しいということではありません。
自分なりに考え、自分なりの見解を持つことが大事です。
これを難しい言葉でいうと、アブダクションといいます。
意味は、「仮説を立てる」ということです。
そしてその仮説から、自分なりになんらかの学びを得る。
そこが大事なのです。
繰り返しますが、正しいとか、間違っているとかが問題ではありません。
自分がそこから「何を得たのか」。
たとえ、他の人から見たら、「その解釈っておかしくない?」と言われても良いのです。
「おかしい」と言われたなら、どこがおかしいのかを自分の頭で考える。
そうすることで、自分なりの自説(もしくは仮説)を強化していく。
その繰り返しが、いま起きている問題、自分が抱えている問題を解決し、自分の人生を切り開くヒントになっていくのだと思います。
現状に問題があるのは、何事においても同じです。
家庭でも職場でも、国も世界も、問題だらけです。
だから「たいへんだ、たいへんだ、問題だ、問題だ」と百万遍のお題目を唱えても、たぶん百年経っても何の問題の解決もありません。
問題を自分のことと受け止め、その問題を乗り越えるために、自分なりにできる一歩を踏み出していく。
日々においてできることは、それだけです。
けれど、その一歩こそが、明日をひらくのだとおもいます。
私達は、そのために歴史や神話を学んでいるのです。
福沢諭吉は『学問のすゝめ』のなかで、次のように書いています。
「学問とは、
ただむずかしき字を知り、
解(げ)し難き古文を読み、
和歌を楽しみ、詩を作るなど、
世上に実のなき文学を言うにあらず。
これらの文学も
おのずから人の心を悦(よろこば)しめ
ずいぶん調法なるものなれども、
古来、世間の儒者・和学者などの申す様(よう)に
あがめ貴(とうと)むべきものにあらず。
古来、漢学者に世帯持ちの上手なる者も少なく、
和歌をよくして商売に巧者なる町人もまれなり。
これがため心ある町人・百姓は、
その子の学問に出精するを見て、
やがて身代を持ち崩すならんとて
親心に心配する者あり。
無理ならぬことなり。
畢竟(ひっきょう)その学問の
実に遠くして
日用の間に合わぬ証拠なり。
(中略)
およそ世の中に
無知文盲の民ほど憐(あわれ)むべく
また悪(にくむ)べきものはあらず。
智恵なきの極(きわ)みは
恥を知らざるに至り、
己(おの)が無智をもって貧窮に陥り飢寒に迫るときは、
己が身を罪せずして
みだりに傍(かたわら)の富める人を怨み、
はなはだしきは徒党を結び
強訴(ごうそ)一揆(いっき)などとて乱暴に及ぶことあり。
恥を知らざるとや言わん、
法を恐れずとや言わん。
天下の法度(ほうど)を頼みて
その身の安全を保ち、
その家の渡世をいたしながら、
その頼むところのみを頼みて、
己が私欲のためにはまたこれを破る、
前後不都合の次第ならずや。
あるいはたまたま身本(みもと)慥(たしか)にして
相応の身代ある者も、
金銭を貯(たくわ)うることを知りて子孫を教うることを知らず。
教えざる子孫なればその愚なるもまた怪しむに足らず。
ついには遊惰放蕩に流れ、
先祖の家督をも一朝の煙となす者少なからず。
かかる愚民を支配するには
とても道理をもって諭(さとす)べき方便なければ、
ただ威をもって畏(おどす)のみ。
西洋の諺ことわざに
『愚民の上に苛(から)き政府あり』とはこのことなり。
こは政府の苛きにあらず、
愚民のみずから招く災(わざわい)なり。
愚民の上に苛き政府あれば、
良民の上には良き政府あるの理なり。
ゆえに今わが日本国においても
この人民ありてこの政治あるなり。」福沢諭吉が言うのは、ひとことで言うなら
「学問とは民度を上げるためのものである」
ということです。
そこをおろそかにして、学問をただのマニアックな趣味の道にしてしまうことは愚かなことである、ということです。
学問とは、物事の理を知り、文明の風に赴(おもむ)くためのものなのだ、と福沢諭吉は述べているわけです。
まったく同感です。
神話を学ぶということも、これと同じです。
神話を学ぶということは、神話マニアをつくることではありません。
神話を通じて、我が国の根幹となるものを探り、知り、自らの知恵とし、社会をより良い方向に向けていくための知恵を得ることが、神話を学ぶということなのです。
お読みいただき、ありがとうございました。
日本をかっこよく!! むすび大学。
人気ブログランキング↑ ↑
応援クリックありがとうございます。
講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。nezu3344@gmail.com 最新刊 《塾・講演等の日程》 どなたでもご参加いただけます。 第80回倭塾 2月21日(日)13時〜17時 富岡八幡宮婚儀殿2F 第81回倭塾 3月21日(日)13時〜17時 富岡八幡宮婚儀殿2F 第82回倭塾 4月17日(土)13時〜17時 富岡八幡宮婚儀殿2F
|
『ねずさんのひとりごとメールマガジン』 登録会員募集中 ¥864(税込)/月 初月無料! |
コメント