我々日本人は、たいへんに古くて長い歴史を持つ文化の中にいます。 そうした日本文化の持つ意味を、あらためて見直して見る。 そうすることで、あらためて、私達が日本人であることの意義を再発見してみる。 それが、とりもなおさず、私達日本人が、日本人としての誇りを取り戻すきっかけとなっていくのだと思います。 |
神葬祭

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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
熊本県にある幣立神宮(へいたてじんぐう)は、我が国最古の神社といわれ、そこには樹齢1万5千年と伝えられる二本の御神木の巨樹がそびえています。
つまり幣立神宮は、1万5千年前の神をお祀りする神社でもある、ということです。
縄文時代のはじまりが、いまからおよそ1万7千年前のことですから、幣立神宮は、縄文時代を通じて、人々の向き合うことであり、悠久の太古から未来永劫に続いていく宇宙の真理に向き合うことでもあるのです。
二本の御神木は、それぞれ、それぞれカムロギのミコト・カムロミのミコトと呼ばれています。
「カムロ」というのは、「神が宿る」という意味で、それに「キ」と「ミ」がついています。
古語において、「キ」は男、「ミ」は女のことですから、カムロギ、カムロミは、それぞれ、男性神が宿る木、女性神が宿る木、と呼ばれていることになります。
ミコトは敬称です。
西洋における神と、我が国における縄文以来のカミの概念は異なります。
西洋における神は、主であり、人類に対する支配者であり、人類のオーナーです。
そしてここから派生して、神と直接契約のある人たちだけが人であり、主との契約のない者は人の形をしていても、人ではない、いわばヒトモドキとして理解されます。
我が国におけるカミは、自然への畏敬と先祖崇拝に基づきます。
自然への畏敬としては、大木や大岩、あるいは山そのものが御神体となったりします。
木や岩、山などはカミの依代であり、依代自体が神聖として、カミと認識されます。
また先祖崇拝では、亡くなられた方は肉体から魂(これを霊(ひ)と言います)が分離して、イエやムラ、あるいはクニの守り神となります。
守り神は、また人として肉体を持つ、つまり生を受けることがあり、これが「生まれ変わり」です。
人とは、肉体に魂を留めた霊止(ひと)(または霊留)であり、霊(ひ)の依代が肉体です。
依代のことを、カミのヤシロ(社)といいます。
シロとは、器(うつわ)のことをいいます。
この器に「ヤ」、つまり屋根が付くと、ヤシロ(社)となります。
ですからお社(やしろ)とは、すなわちカミの依代であり、それは形としては、神社であったり、自然の岩や山であったり、大樹であったり、あるいは人の体(肉体)そのものもまた、オヤシロ(お社)となります。
こうした自然信仰を、よく多神教だという人がいますが、この言い方は、やや誤解を生みます。
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西洋における多神教は、ギリシャ神話のオリンポスの神々、または精霊信仰のことを言います。
オリンポスの神々は、人とは異なる存在です。
精霊信仰もまた、花の妖精、木の妖精などというように、これまた人とは異なる存在です。
さらに英語では、それら精霊や神話の神々のことを「MYTH(みす)」といいます。
これは、根拠のない作り話を意味する単語です。
つまりギリシャ神話のオリンポスの神々も、妖精たちも、いずれも根拠のない作り話と認識されているわけです。
当然です。
キリスト教では、主こそが神であり、他の神を信仰する者たちは異教徒であり、人以外の存在でもあるからです。
これに対し我が国のカミは、我々の祖先の御魂を意味します。
ですからたとえば山が御神体という場合、かつて山で暮らしたり、あるいはその山をとても大切にした祖先があり、その祖先の御魂が宿った山が、御神体という理解となります。
あるいは、我々の祖先をずっとさかのぼっていくと、人も森も天も地も、ひとつのものから生まれ、そして別れていったものと理解されます。
ですから、木も森も、土も、鳥も虫も他の様々な動植物のすべてが、私達の親戚です。
なかでも大きな岩とか、偉大な山などは、いわば神となった親戚であり、みな、人の延長線上にあります。
つまり、御神体と我々は血のつながった、そして霊(ひ)のつながった存在であると認識されているわけです。
ですからいたずらに、英語で、
「Japan is a polytheistic country.」
(日本は多神教の国です。)
などと翻訳して、ちゃんと意味が通じている気になっていると、外国の人にあらぬ誤解を受けることになります。
異文化との交流は、単に語学ができたらそれで良いというものではないのです。
自国の文化、他国の文化について、ちゃんとした知識を持たないと、誤解が誤解を生み、あらぬ誹謗中傷や、決定的な対立まで引き起こしかねないのです。
英語を学ぶ初心者ならいざしらず、大人が外国人と交流するときには、そうした文化の違いを、はっきりと認識しておくべきなのです。
ちなみに中国語では、
「日本是多神教的国家」
(日本は多神教の国です。)
と表現するのだそうです。
しかし中国もまた、多神教は、人とは異なるものへの信仰という、西洋と同じ認識の上にたちます。
ですから、上の表現では、文化上の誤解を生むことになります。
では、西洋や中国における妖精などのことを、日本語では何というのでしょうか。
答えは、「妖怪」、もしくは「あやし」です。
妖怪も「あやし」も、カミとは区別される存在です。
我が国の多神教は、いわば先祖崇拝を意味するのですが、この原型は縄文時代の集落跡に見ることができます。
縄文時代の集落跡を見ると、集落の真ん中に環状列石、つまりお墓が置かれています。
つまり集落の真ん中にお墓があったわけで、これは縄文時代の人々が死者と共存していたことを意味します。
こうした集落の形は、いまでも南米や太平洋の島々に残っています。
南米では、その墓地の真中にさらにバナナの木などが植えられていたりします。
このバナナは、特別なバナナで、埋葬されて土に帰ったご先祖の肉体の栄養分を吸って生育しています。
そのバナナを、特別な儀式のときに、みんなでいただくのです。
そうすることで、ご先祖の智慧や勇気をいただく、という習慣であったりします。
我が国の縄文時代において、集落の真ん中に植えられていたのがバナナの木であったのか、はたまた別な木、たとえば栗の木などであったか。
それは、わかりません。
もしかしたら栗の木であったかもしれない。
しかし、そうした習慣が、日本から広く太平洋の島々、そして南米にまで分布しているということは、我が国がもともと海洋民族であったことの、ひとつの証拠です。
海洋民族は、死者と共存する。
これは、実はいまでも行われている日本人の習慣です。
それは、神式の葬儀、仏式の葬儀、いずれにも現れています。
我が国では、江戸時代に、神社の神官以外は、身分を問わず、すべての民が「葬儀は仏式で行うこと」と義務付けられました。
なぜかというと、寺請制度といって、生きている人の、いまでいう住民基本台帳の管理が、お寺でのみの扱いとされたからです。
仏式と神式では、葬儀のあり方がまったく異なります。
まず、仏式では、亡くなられた方の御魂は極楽浄土に旅立つとされます。
ですから葬儀は、そのためのお別れの儀式ですから、別れを告げる式という意味で、「告別式」と言います。
告別式に際しては、死者には三途の川の渡し賃として六文銭と、極楽浄土までたどり着くためのお守り刀、そして旅装束として経帷子(きょうかたびら)を着せ、わらじを履かせます。
ちなみにこのとき経帷子を男女とも左前に着せるのは、極楽浄土では、何もかもがこの世と反対という仏教の思想からきた習俗です。
こうして仏式では、死者の肉体は埋葬され、魂は極楽浄土へと旅立ちます。
旅立つということは、もう、そこにはいないわけです。
ところが何故か、極楽浄土に行ってしまったはずの死者の魂が、家の仏壇のお位牌(いはい)の中にもおいでになるという。
位牌の中に、死者の御魂が備わっていると言うのです。
逝ってしまったはずの魂が、お位牌にもある。
これはまったく矛盾した話で、どうみても仏式の極楽浄土に逝くという思想とはかけはなれた習慣です。
どうしてこのようなことになったのかというと、もともと江戸時代以前まで、神式で葬儀を行っていた多くの人々にとって、いきなり死者が極楽浄土に旅立ってしまって、家にいないということが、どうにも納得できないことであったからだと言われています。
そこで、日本独自の方法としてはじまったのが、お位牌を仏壇にお供えするという習慣です。
では、神式の葬儀とはどのようなものなのかというと、お亡くなりになった方の御魂(みたま)は、肉体から離れて、イエやムラ、あるいは護国の守護神、つまりカミとなるとされます。
つまり死者は、いよいよ肉体を離れてカミさまになられる。
カミになられたということですから、葬儀はお祝いの儀式で、だから葬儀のことを神式では神葬祭(しんそうさい)といいます。
つまり、お祭りです。
亡くなった方は、護国の守り神や家の守り神として、子孫をずっと見守っていてくださることになっています。
つまり・・・死者と生者は、この世界で共存します。
死んだじいちゃんや、ばあちゃんは、死んであの世に逝ってしまったのではなくて、イエの、ムラの、クニの、守り神として、私達を、ちゃんと見守っていてくださるのです。
愛情の深い種族にとって、自分が死んで、肉体という重みを抜け出して、いよいよ自由になるとしても、だからといって、愛する子や孫をほったからして、自分だけが、素晴らしい世界である極楽浄土で楽してたのしく暮らすなど、思いも寄らないのが日本人の庶民感情す。
行ってしまったら、もはや永遠のお別れなのです。
お別れして、自分だけ幸せな世界の極楽浄土に逝くのです。
そんな贅沢など、許容できるはずもなく、それより、近くにいて、子や孫が豊かに安全に安心して幸せに生きていくことができるように、ずっと守っていてあげたい。
死者を送る側も、「ああ、やっと居なくなってくれた」などと不謹慎なことを思うのではなく、「ずっと近くにいてね」と自然と思える。
というか、生き残る子や孫たちに、そう思い続けてもらえるような、じいちゃん、ばあちゃんになっていきたい、あるいはそう思ってもらえるような自分になれるよう、日頃から努力をし続ける。
そういう心のふれあいが、縄文以来の我が国の神葬祭となっているわけです。
そして江戸時代、葬式は仏式が強制となったとき、多くの人々が選んだ神仏習合の道が、魂は極楽に旅立つけれど、その一部はお位牌に残って、私達を見守っていてくださっている、という、これはいわば自動車のプリウスのような、いわばハイブリッドの思考であったわけです。
我々日本人は、たいへんに古くて長い歴史を持つ文化の中にいます。
そうした日本文化の持つ意味を、あらためて見直して見る。
そうすることで、あらためて、私達が日本人であることの意義を再発見してみる。
それが、とりもなおさず、私達日本人が、日本人としての誇りを取り戻すきっかけとなっていくのだと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。
日本をかっこよく!! むすび大学。
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コメント
湘南童子
『・・我々の祖先をずっとさかのぼっていくと、人も森も天も地も、ひとつのものから生まれ、そして別れていったものと理解されます。
ですから、木も森も、土も、鳥も虫も他の様々な動植物のすべてが、私達の親戚です。
なかでも大きな岩とか、偉大な山などは、いわば神となった親戚であり、みな、人の延長線上にあります。
つまり、御神体と我々は血のつながった、そして霊(ひ)のつながった存在であると認識されているわけです。・・』
靈ノ本の大和を始め私たち
生きとし生ける全ての物の天命が完うされますように
地球を司る神々様 八百萬の大神たち樣 ありがとうございます
2021/04/28 URL 編集
u
ふむふむと納得してしまいます。
私にも のしかかる近代合理主義はどこへ行ったのだ、といいつつ。
さて、よそのブログを名指しするので、ボツとして、愚痴としてご理解いただければ
幸いです。
先生が日本史ジャンルに引っ越したので、つい3位あたりに位置する方のブログを
まとまった量読むことになりました。「日本人の縄文思想と稲作のルーツ」
基本的に温厚、健全な方とは思います。
やはり、半島出身あるいは、類する方なのでしょうか。
最近のDNA鑑定に基づくのは、いいとして、、
ツングース、アイヌで日本人を分類したがるのは、
私としては論外と考えます。
先生、以前ご指摘のモンゴロイドという呼び方のようなもの。
雑駁にいえばアイヌはツングース系のひとつとしてもいいかなと。
歴史に登場するまえにもアイヌには、確かにある程度の文化はあったのでしょう。
昨今のアイヌ協会とやらは、Zaiの機関となっているようなので。
またひとつ歯がゆい思いです。
たいへん失礼、お手間を取らせました。おわび申し上げます。
2021/04/28 URL 編集