男と女は頭の構造が違います。 だから葛藤があり、葛藤があるから小説の題材になり、人々の共感を得る。 人々は、そんな葛藤の中で、持って生まれた魂を鍛え、訓練し、自分の魂をより高度なものに成長させる。 それが魂がこの世に生かされている理由としてきたのが、日本の国柄であり国民性です。 |
木下恵介監督『野菊の如き君なりき』より

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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
伊藤左千夫の小説『野菊の墓』に、主人公の政夫と民子の次の会話があります。
今回は、すこし詳しく考えてみたいと思います。
会話の民子は17歳、政夫が15歳です。
兄弟同然に育てられた二人は、互いに慕情を抱いています。
二人は畑仕事に行く途中、道端に咲いている野菊を見つけます。
**********
「まア綺麗な野菊、
政夫さん、私に半分おくれッたら。
私ほんとうに野菊が好き」
「僕はもとから野菊がだい好き。
民さんも野菊が好き?」
「私なんでも野菊の生れ返りよ。
野菊の花を見ると
身振いの出るほど好もしいの。
どうしてこんなかと、自分でも思う位」
「民さんはそんなに野菊が好き。
道理でどうやら民さんは野菊のような人だ」
民子は分けてやった半分の野菊を顔に押しあてて嬉しがった。
二人は歩きだす。
「政夫さん、私野菊の様だってどうしてですか」
「さアどうしてということはないけど、
民さんは何がなし野菊の様な風だからさ」
「それで政夫さんは野菊が好きだって?」
「僕大好きさ」*********
と、こういう会話です。
この小説は、小学校のときに読んで、また映画化もされています。
下にYoutubeを貼りました。
映画でも、この通りに描写されました。
民子にしてみれば、
政夫さんは野菊が好きだと言った。
自分のことを野菊のような人だと言った。
ということは、
政夫さんは自分のことを好きだと言ってくれている・・・。
と、このように思うから民子は、頬を赤らめながら、うつむいて黙ってしまうわけです。
大好きな政夫さんが、間接的にせよ、自分のことを好きだと言ってくれたと感じたのです。
女性の方なら、以上の意味は説明するまでもないことと思います。
ところが、男にはこれがわからない。
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小説の中で、政夫の頭のなかでは、
「野菊が好き」ということと、
「民子は野菊のようだ」ということは、それぞれが独立しています。
つまりこの二つは結びついていません。
もちろん政夫は民子のことが好きなのだけれど、だからといって「民子さんが好き」と言っているわけではないのです。
政夫の頭の中では、民子のこと好きと思う気持ちと、野菊が可愛い花で好きだということ、民子のイメージが野菊のようであるということは、まったく別々なものとして認識されているわけです。
民子のことを好きであることは、その通りなのですが、だからと言って民子に「好きだ」と告白しているわけではない。
そんなことは気恥ずかしくて言えないし、自分では、まさかそんな気持ちを民子に悟られているとも気づいていない。
コンピューターに例えれば、男性脳は分類処理ですから、ひとつひとつのことを分類し、整理し、識別し、区別していこうとする。
これに対して女性の脳は、並列型分散処理ですから、同時に複数の事象や言葉をつなげることで、様々なことをいちどきに察することができます。
ですから小説のこの場面を読む読者も、
女性なら、政夫の告白と受け止めますから、ここはドキドキのシーンになりますが、
男性なら、ただ野菊が好き、民子は野菊みたいな女性という2点は、別々な情報として頭の中で処理されますから、この段階では意味がわからない。
かくいう私も、この小説は大好きで、小学校のときに初めて読み、そのあとたしか中学高校のときにも、あるいは社会人になってからのまだ若い頃にもこの小説を読んでいますが、このシーンの持つ意味がわかるようになったのは、やっと五十路を過ぎてからのことでした。
小説では、このあと、しばらく黙ってしまった民子に、政夫は次のように言います。
******
「民さんはさっき何を考えてあんなに脇見もしないで歩いていたの」
「わたし何も考えていやしません」
「民さんはそりゃ嘘だよ。
何か考えごとでもしなくてあんな風をする訣(わけ)はないさ。
どんなことを考えていたのか知らないけれど、
隠さないだってよいじゃないか」
「政夫さん、済まない。
私さっきほんとに考事かんがえごとしていました。
私つくづく考えて情なくなったの。
わたしはどうして政夫さんよか年が多いんでしょう。
私は十七だと言うんだもの、ほんとに情なくなるわ……」
「民さんは何のこと言うんだろう。
先に生れたから年が多い、
十七年育ったから十七になったのじゃないか。
十七だから何で情ないのですか。
僕だって、さ来年になれば十七歳さ。
民さんはほんとに妙なことを云う人だ」*******
民子の頭の中では、
自分は政夫さんが好き。
政夫さんも自分のことが好き。
私も政夫さんが好き。
だから、二人は結ばれたい。
けれど私のほうが歳が多い。
どうしよう・・・・、
とこのようになっているわけです。
一方、政夫の方はというと、民子のことが好きではあるけれど、野菊が好きと言っただけで、民子に好きだと告ったわけではない。
だから政夫は、先回りして思考が進んでしまった民子の思考についていけず、
ただ額面通りに、
「十七年育ったから十七になったのじゃないか。
十七だから何で情ないのですか。
僕だって、さ来年になれば十七歳さ。
民さんはほんとに妙なことを云う人だ」
となります。
多くの男性の読者も、同じ感想になります。
映画で民子を演じた有田紀子さん

このような男女の思考の微妙な違いを題材にした日本最古の作品が古事記です。
イザナキ、イザナミの思いのすれ違い。
トヨタマヒメとヤマヒコの、お互いの心のすれ違いなどが描かれています。
世界最古の女流文学である『源氏物語』も、こうした男と女の微妙な意識差が描かれ、それが人々の大きな共感を呼んでいます。
共感があるから、千年以上にわたって作品が生きているのです。
こういう心のヒダのすれ違いは、とてもやっかいだし面倒なものです。
けれど、やっかいだからこそ、千年たっても、そこに共感があるわけです。
ところがこうした心のヒダのすれ違いのようなものは、西洋の文学には、ほとんど描かれることがありません。
イプセンの『人形の家』にしても、トルストイの『アンナ・カレーニナ』にしても、ハーベイの『テス』にしても、あるいは『シンデレラ』のような童話であっても、女性の気持ちと、男性の脳の働きからくる微妙な心のヒダのすれ違いが小説のテーマになることはありません。
シェイクスピアの『ロメオとジュリエット』にしても、二人が愛し合っていたのはわかるけれど、愛し合いながらも、互いの心のスレ違いに葛藤する男女というのは、そこにはありません。
題材は常に「物理的に結ばれるか結ばれないか」であり、思慕は描かれても、心のすれ違いは、テーマとして扱われません。
要するに、女性の気持ちになど関係なく、『人形の家』のように、「手に入れたはずの女性がが家を飛び出してしまった。なんでだろう」みたいなものが世界最高峰の西洋古典文学作品と讃えられているわけです。
これが東洋に至ると、女性の気持ちが描かれるということ自体が皆無になります。
楊貴妃にしても、虞美人にしても、本人の意思や思いにまったく関係なく、ただ美人であって、武将に愛されているだけの存在です。
チャイナ社会の場合、女性が男性の意に反せば、彼らはその女性を殺して食べてしまっていたのですから、さもありなんといえるかもしれません。
要するに西洋においても、東洋においても、やや強引な言い方をするならば、女性は男性にとって、単に略奪の対象でしかないわけです。
それがたまたま女性の側に、その男性を思慕する気持ちがあれば、シンデレラのストーリーになって「ロマンス」と呼ばれます。
シンデレラは、たまたま男女とも独身で、互いに相手を思う気持ちがあったから、ロマンスなのです。
けれど王子様は、シンデレラを得るために国中の女あさりをしています。
もし、探しているのが王子ではなく、妻子あるヒヒジジイの王様であったり、シンデレラは、たまたまあったお城でダンスパーティーがあるというから美しい衣装を着て踊ってみたかっただけで、他に愛する彼氏か、夫や子があったなら、あのガラスの靴探しは、とんでもない迷惑ストーカー行為となってしまいます。
歴史を振り返れば、西洋でもチャイナでも、現実には、そうした迷惑行為となる女漁りが現実だったわけで、このとき、シンデレラが、王子を拒めば、シンデレラは魔女として火炙りになり、チャイナなら本人は食べられ、一族は皆殺しにされるてきた、というのが、世界の現実であったわけです。
そういう社会構造が根幹にあるわけですから、男女の微妙な心のすれ違いが文学作品のテーマになることなど、これは起こりようがない。
逆にいえば、冒頭にご紹介したような、微妙な心のすれ違いが、「ああ、そうだよなあ。たしかにそんなことあるよね」といった人々の共感を生むということは、日本が築いてきた社会が、とても平和であったということと、男女ともに互いの気持ちを「察する」ことが大事とされる社会環境があったからといえます。
日本は、「察する」ということを、とても大切にしてきた国です。
それが大切にされなければならないということが、国の上から下まで浸透していたからこそ、冒頭にあるような微妙な会話が人々の共感を生みます。
先回りして思考が働く女性と、誠実だけど不器用な男性。
それが互いに相手の心を察しあう。
ISのテロや暴力とは対局の世界がここにあります。
日本文学が、妙にねちっこくて嫌だという人もいますが、社会環境を考えた時、この違いは大きいです。
つまり、気持ちなど関係なく蹂躙されることがむしろあたりまえであった社会と、
気持ちこそが大事とされた社会。
そこから生まれる文学は、
前者は「ロマンスへの共感」となるし、
後者は「すれ違いへの共感」となります。
では、なぜ日本では、心こそ大事という文化が育まれたのでしょうか、
その最大の理由は、日本が天然の災害の宝庫である国土を持つことにあったといえるかもしれません。
なぜなら日本では、災害は必ずやってくる。
しかも忘れた頃にやってくる。
そのときのために、非常事態を先読みして、事前に手を打っていかなければならない。
いまどきのメディアにひしめく近隣国からの渡来人のように、災害が起きてから「たいへんだ、たいへんだ」とバカ騒ぎ(あえてこう言わせていただきます)するだけでは、日本列島で血をつないでいくことはできないのです。
そしてそのために、国家最高権威としての天皇によって、すべての民衆が「おほみたから」とされました。
国や行政は、その「おほみたから」が、いついかなるときにあっても、たとえ天然の災害にあったとしても、必ず安心して生き延びることができるように、日頃から準備をすることが最大の使命となっていったわけです。
日本人のお役所に対する信頼意識も、そうした背景から育まれたものです。
もっとも近年では、そうしたお役所の社会的信頼が、インチキ○○○騒動のただのアオリ役となり、むしろ世の中の信頼を損ねる側の存在になってしまっているのは、残念なことです。
こうして国の形が、人を大切にするというところを出発点とする国柄が育まれると、その国に育った民衆もまた、相互に人を大切にするようになっていきます。
そして国や郷里や友を大切にし、男であれば女を、女であれば男をたいせつにするという国柄、文化を育みます。
ところが、そもそも男と女は、冒頭の民子と政夫の会話みたいなもので、頭の構造が違います。
だから葛藤があり、葛藤があるから小説の題材になり、人々の共感を得る。
人々は、そんな葛藤の中で、持って生まれた魂を鍛え、訓練し、自分の魂をより高度なものに成長させる。
それが魂がこの世に生かされている理由としてきたのが、日本の国柄であり国民性です。
『野菊の如き君なりき』は、いま、youtubeでご覧いただくことができます。
野菊の如き君なりき (1955年) - 木下惠介
また小説『野菊の墓』は、青空文庫で無料で読むことができます。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000058/files/647_20406.html※ この記事は2015年11月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。
日本をかっこよく!! むすび大学。
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