石屋さんが、それぞれの城塞の城主の貸し借りの資金決済の代行をするようになりました。そしてその石屋さんのことを、英語でメイソン( Mason)または、石(ロック・Rock)のフェラー(屋・Feller)と言いました。 |

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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
ものすごくわかりやすくDSと世界の歴史を俯瞰してみたいと思います。
詳しく書くと、ものすごく長い(1冊の本になる)内容ですので、途中の要所要所は、かなりはしょっていますが、それでも、日頃ねずブロの読者の方なら、ご理解いただけるものと思います。
さて、いわゆる通貨としての貨幣が、流通するようになったのは、13世紀にモンゴルの大帝国がユーラシア大陸を席巻したおかげといわれています。
もちろん、それ以前にも貨幣はありましたが、それが王侯貴族たちだけのものでなく、広く一般に流通するようになったのが、元の時代であったわけです。
モンゴル帝国の時代というのは、ユーラシア大陸内に現代のような国境線が存在していたのではなくて、内陸部の要所要所に城塞都市があったというだけの時代です。
これは現代人にはわかりにくかもしれませんので、すこし補足しますと、大陸の内陸部というのは、水がありません。
ですから飲料水が湧く場所(オアシス)に、いつしか人々が集まり、そこに集落をつくりました。
人は移動する(動く)生き物ですから、大陸内部は人々が往来します。
その往来には、人々が生きるための水が欠かせません。
ですから自然、オアシスは旅人や交易商人、あるいは盗賊の一味などもやってくる場所になったわけです。
そこでオアシスを囲む人々が、自衛のために築いたのが、城塞都市であった、というわけです。
ですから当時の国家といえば、その城塞都市そのもののことを言うのであって、いまのような国境線を持つ国家とは、国家の形がずいぶんと違っていたわけです。
モンゴル帝国は、そんな城塞都市を次々と攻略して、都市を傘下におさめ、ユーラシア大陸内に広大な国家を築きました。
そして、政府した城塞には、王としてモンゴル人を、各都市に3人ずつ送り込みました。
たった3人でどうしてひとつの国家を治めることができたのかというと、その3人に万一のことがあったときには、元の大帝国が総力をあげてその都市にやってきて、城内に住む者全員を皆殺しにしたのです。
ですから当時、各都市に配属されたモンゴル人に逆らう者は、誰もいませんでした。
モンゴル帝国は、各都市の宗教も結社も商業も思想さえも、まるごと認めていながら、いっさいトラブルを起こさなかったのは、税さえちゃんと払っていれば、あとは城塞内の人々が自由に暮らすことを認め、同時に一切のモンゴル族に対する反論や反撃を許さなかったから、ということができます。
現代の世界では、宗教や思想が国家対立や暴動の引き金となり、そのために無辜の民の命が犠牲になり、またそうした対立で荒れる国々の人々が、悲惨なほどに貧しい生活を余儀なくされていますが、モンゴル人に逆らいさえしなければ、あとは一切自由という世界と、自由であるという思想によって対立が生まれている現代と、果たしてどちらが平和で豊かな世界であったのかは、議論の価値のあるものであるといえるかもしれません。
最新刊
モンゴルの大帝国の税制というのは、基本、通行税でした。
とにもかくにも、城塞都市の中にしか水がないのです。
人は水を求めて城塞内に入ろうとします。
ですから、その入口で税を取れば、常に安定した税収となったのです。
このこともまた、世帯や個人や法人の収入や支出に課税する現代の世界の税制と、元の大帝国の時代の税制を比較するとき、果たしてどちら徴税という面で合理的といえるのか、これまたおもしろい議論になろうかと思います。
なにしろ、城塞都市の通行税なら、城の門に徴税吏を配置するだけで済んだのです。
しかもここでモンゴル帝国は、たいへんな貢献をしています。
それは、各城塞都市の通行税の税率を、一律で、しかも安く設定したのです。
これは、交易商人たちにとっては、たいへんにありがたいことでした。
なにしろそれまでは、都市の入り口にいる税吏との力関係だけで、税が決まったのです。
こっちが武装していれば、税は低くなるけれど、丸腰だったら、手にした荷物を全部奪われる・・と、これでは商売になりません。
ですから、交易商人たちにとっては、元がユーラシア大陸にあるすべての城塞を、すべて同率課税にしてくれることは、ものすごくありがたかったのです。
そしてこのために、交易商人たちがこぞって各都市を仲介し、それによってモンゴルはいつのまにか、大帝国を築くに至ったわけです。
要するに、モンゴルは、当時の社会のニーズに、ちゃんと答えた帝国であったのでした。
さて、通行税を一律にしてもらうためには、元の大帝国の裏付けが必要です。
それがないと、門番の税吏に好き放題に税を取られてしまうのですから、当然のことです。
そのために元は、通行手形を発行しました。
いまでいうパスポートのようなもので、モンゴル人だけは、ちょっと高級な黄金製、他に銀製、銅製などの通行証を発行しました。
これさえ持っていれば、どこの都市に出入りするのも自由だし、出入りの際の税も、モンゴルが決めた低率の税を支払うだけですんだのです。
ところが、ここに大きな問題が起こります。
通行者の人数が、あまりにも多かったのです。
このためモンゴル帝国は、金や銅が不足になりました。
そこでモンゴルが、金の帝国を滅ぼしたときに、1236年、発行したのが、実は世界初ともいえる紙の通貨です。
これを「交鈔(こうしょう)」といいます。
ちなみにモンゴルは、この交鈔の受け取りを拒否した者を、あっさりと死刑にしています。
そこまでして紙の紙幣の流通を図ったわけです。
一方、この時期にユーラシア大陸を制圧したモンゴルは、各城塞都市に派遣したモンゴル人たちを年に何回かは集めて、互いの情報の交換をしたり、元の本国からの示達事項の徹底を図ったりしていました。
そこには、それぞれの城塞都市の王となっているモンゴル人たちが集まるわけです。
会議が終われば、そこで始まるのが、ご多分にもれず、飲む打つ買う、ですが、たくさんカネ(交渉)を持っている連中です。
気がつけば、博打(ばくち)によって、お互いに莫大な額の貸し借りが生まれています。
博打のツケというのは、確実に支払われなければならないというのが、古来、人類が築いてきた、というか男社会が築いた男たちのルールです。
ところが、それが各城塞都市の王たちの貸し借りとなると、その資金決済には、遠く離れた城塞に、遠路はるばる、いちいち現金を運ばなければなりません。
実は、そこで活躍するのが、石屋さんでした。
城塞都市というのは、石で出来た堅牢な建造物です。
戦いがあれば、城壁が壊され、新たな城主は、その城壁を修繕しなければならないし、また堅牢で秀麗な石組みは、権力のシンボルでもあったし、城に住む人々の安心、安全の証でもありました。
ですから腕の良い石屋さんは、どこの城塞都市でもひっぱりだこだったし、仕事柄、城主とも面識があるし、顔が広いし、ひっぱりだこだからお金もたくさん持っているわけです。
そこでこの石屋さんが、それぞれの城塞の城主の貸し借りの資金決済の代行をするようになりました。
そしてその石屋さんのことを、英語でメイソン( Mason)または、石(ロック・Rock)のフェラー(屋・Feller)と言いました。
さて、このメイソンさんや、ロックのフェラーさんたちが、その後どのようになっていくのか。
続きはまた次回。
お読みいただき、ありがとうございました。
日本をかっこよく!! むすび大学。
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