山本権兵衛〜妻への愛と敬意



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国も家族、社会も組織も家族です。ひとりひとりの愛、献身、思いやりの心、そういうものが国の柱、日本人の柱です。

山本権兵衛
20190515 山本権兵衛
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
小名木善行です。

先日、ある方と話していて、ひとつ気が付かせていただきました。
それは、「ねずさんが他の歴史研究家や、古典文学研究家らと異なるのは、彼らが単に学問としての歴史や古典を説くのに対し、ねずさんはものすごく深い愛情をもって歴史や歴史上の人物、あるいは古典文学を説く。だけどねずさん自身は、自分自身のことを少しも愛していない」というご指摘でした。
当たっているだけに、もう笑うしかない(笑)

でも、古い奴だと思われるかもしれないけれど、本来、日本男児って、そんなもんだと思うのです。
この世で一番キライなやつは誰かと問われれば自分自身だし、さんざん無茶をしてきたし、不器用だし、いつも誠実であり続けようと研鑽努力を重ねながら、最後はいつも失敗してきたし、嫌われたし、ろくなことはなかったし、いまさらなんで生きているのかわからないけれど、どうやらまだ息をしているらしいから、ろくでなしの自分を抱えて、それでも懲りずに誠実であろうと努力し続ける。
どうしようもない。そうとしでしか生きられないから。そういう生き方しか知らないから。他の方法なんてわからないし、知ったところでどうせできないってわかっているから。

今回ご紹介する山本権兵衛は、海軍出身で、日本の内閣総理大臣を二期(第16・22代)務められた方であり、戦後は、ずっと能無し総理という批判を受け続けた人物です。
しかし彼は、若い頃は悪さばかりしていたけれど、長じてはどこまでも正直公正を貫こうとした一本気な人物です。だから個人的に、最も尊敬する歴史上の人物が誰かと聞かれれば、私は迷わず山本権兵衛と答えます。

バカみたいに真っ直ぐに生き、戊辰戦争、西南戦争、日清日露戦争を戦い、関東大震災時の被災処理と復興を総理大臣として一手に引き受け、辞職後は元老に就任することを拒否して、妻とともに余生を送り、妻がこの世を去ると、あとを追うように自分もまたこの世に別れを告げています。

そういう男が日本にはいたし、そういう男が生きることができた。
私は、そういう男たちが生きることができる日本を取り戻したい。そういう男たちが立派に役割を果たして生きることができる世界にしていきたい・・・そんなふうにいつも思っています。

ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人 第二巻』(2014年刊行)から、「山本権兵衛〜妻への愛と敬意」のお話をご紹介したいとおもいます。

▼武家の厳しい教育と実戦の体験

戦前に第16代内閣総理大臣、第22代内閣総理大臣と、二度も総理を務めた人がいます。
海軍大将の山本権兵衛です。
薩摩藩士を経て海軍軍人となり、第二次山縣内閣で入閣、海軍大臣を八年間務め、日露戦争においては大臣として海軍を支え、日本海海戦を勝利に導いています。

大国ロシアの南下政策によって日本に危機が迫る中、山本権兵衛は「ロシア海軍に必ず勝つ」という一点を目標に、海軍の大改革を行いました。
その中で大抜擢されたのが、日本海海戦における司令長官東郷平八郎であり、参謀秋山真之であり、戦死して軍神となった広瀬武夫中佐でした。
海軍といえば、昨今では海軍カレーが有名ですが、その海軍カレーを正式に採用したのも、実は、山本権兵衛です。

山本権兵衛の父は、薩摩藩の槍術師範を務めていました。
武家、しかも師範の家ですから、躾はとても厳しいものでした。
彼が子供の頃の逸話があります。

ある雪の降った朝のこと、権兵衛は庭で槍の稽古をしていました。
雪の朝ですから、当然気温も低く寒いわけです。
寒いですから、手がかじかみます。
手がかじかんだら、稽古になりません。

そこで権兵衛少年が、手にホウホウと息をかけていたのです。
そこに槍術師範の父が家の中から現れました。
父は、権兵衛の様子を見るや否や、裸足で庭に飛び下り権兵衛を怒鳴りつけました。
「武士がそんなことで役に立つかっ!」
戦いの場にあっては、寒いの熱いのと言っていられません。
そして父は権兵衛の頭をつかむと、その頭を雪にねじこみました。

山本家の子供たちは全員、寒中であっても毎晩、井戸水を石鉢に汲み入れ、翌朝、氷が張って冷たくなったその水で、家の中の拭き掃除をしていました。
いまどきなら、子供への虐待行為とか言われそうです。
けれど、昔の武家では、そうやって子供を厳しく育てていました。
その厳しさのせいで自然と威厳が備わり、素裸で風呂に入っていても、ひと目で武家と分かったそうです。
男も女もです。

逆に、甘やかされたらろくな人間になりません。
体罰はいけないとか、過度な躾がどうのこうのとか、そういうカタチの問題ではないのです。
カタチの問題ではなく、大切なのは、厳しさのなかに相手への思いやりの心があるかないかです。

厳しくも愛情ある教育のおかげで、権兵衛は正義感が強く、弱い者には優しい少年に育ちました。
しかも三歳くらいから、武術を叩き込まれています。
だからめちゃくちゃ強くて、年上の少年たちが四、五人でかかっても、権兵衛にかなわなかったそうです。

いじめっ子たちが、他の子をいじめているところに権兵衛少年が現れると、いじめっ子たちは、
「権兵衛が来たぁ!」
と言って、一目散に逃げだしたそうです。
「栴檀(せんだん)は双葉(ふたば)より芳(かんば)し」といいます。
権兵衛は少年の頃から、みんなから一目置かれる存在だったのです。


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そして、数え年で12歳(いまの11歳)になった権兵衛は、薩摩湾で起きた薩英戦争に参加しています。
もっとも役割は、後方での砲弾運びの手伝いでしたが、このとき真っ黒な鉄の船体から次々と砲弾を繰り出すイギリス艦隊の様子をその目で見たことは、権兵衛のその後の人生に大きな影響を与えました。

16歳になったとき、薩摩藩は戊辰戦争のための藩兵を募集しました。
血の気の多い権兵衛です。さっそくひとりで役所に出かけていって「従軍したい」と申し出ました。
ところが藩兵になれるのは18歳以上です。
しかし彼は、ためらうことなく「18歳です」と答えました。

権兵衛は地元では有名人ですから、藩の役人たちも、権兵衛がまだ16歳であることを知っています。
それでも「権兵衛なら大丈夫」ということで、採用されてしまいました。
役所仕事にしては、ずいぶんといい加減だと思われるかもしれませんが、そういうことではなくて、役人たちは16歳の権兵衛を一人前の大人として見たということです。
こうして薩摩藩兵となった権兵衛は、いまでいったら中学三年生のときに、京都、北越から東北方面へと転戦しました。


▼ドイツ海軍、グラフ・モンツ艦長との出会い

戊辰戦争が終わって帰郷した権兵衛は、郷中の大先輩だった西郷隆盛を訪ねています。
西郷は「おはんは海軍に行きなさい」と、権兵衛に勝海舟への紹介状を書いてくれました。
紹介状を胸に、権兵衛は東京へ行き、勝海舟を訪ねました。

勝海舟といえば、大西郷と江戸開城の談判をした人物です。
権兵衛は「よほどの豪傑に違いない」と思い込み、勝海舟に会う前から身構えていたそうです。
そしたら、ひょろっとした小男が出てきました。
下男だろうと思ってたかをくくっていたら、なんとそれが勝海舟本人です。
びっくりして平伏し、
「ご指導を願いたい」
とやったのだけれど、勝海舟は首を縦にふりません。
西郷隆盛の紹介状を見せても取り合ってくれません。

結局この日、朝の9時から午後4時まで粘りましたが、
「海軍なんざぁ技術的なことばかりで難しいから、止めたほうがいいぜ」
と言って、勝海舟は許してくれませんでした。

仕方なく翌日あらためて出直して、その日もまる一日嘆願を重ねました。
けれど、やっぱり許しが出ません。
三日目にも朝から出かけ、同じようにまる一日粘りました。
そしてついに許しが出て、その日から権兵衛は勝海舟の食客となったのです。

実はこのとき、勝海舟は内心は大喜びだったといいます。
彼は国想いの男です。
そこに西郷隆盛推薦の薩摩男児が来たのです。
見れば眼光鋭く、体軀も堂々、声にも張りがある。
聞けば十代で戊辰戦争を戦ってきたともいう。
これは見どころのある若者です。
けれど勝海舟は、権兵衛の決意のほどを見定めてから許可を出そうとしたのです。
それが、この三日間でした。

かくして勝海舟の家に居候を許された権兵衛は、東京開成所(東京大学の前身)で海軍の基礎学ともいうべき高等普通学(数学、外国語、国語、漢文、歴史、物理、化学、地理など)を習いました。
そして開成所を卒業した権兵衛は、築地にできたばかりの海軍兵学寮に入りました。
ところが権兵衛は暴れ者です。
しかも大酒飲みで、酒を飲んでは喧嘩ばかりしています。
学科は苦手で、得意といえばマスト登りくらいです。

兵学寮時代の権兵衛の様子を伝える文章が残っています。
「山本権兵衛首謀となりて、
 しばしば教官排斥の運動を起こし、
 教官室に乱入し、
 あるいは教官と乱闘し、
 あるいはテーブル、イスなどを破壊し、
 流血の暴挙を演ずるに至れり。」
(『伯爵山本権兵衛伝』より)」

もてあました教授陣は、権兵衛をドイツ軍艦に乗せてしまいます。
これが人生の転機になりました。
このドイツ軍艦で、彼は生涯の師と出会うのです。
その師とは、ドイツ艦「ヴィネタ」の艦長グラフ・モンツでした。
権兵衛はこの船で、十カ月に及ぶ世界半周の航海に出ました。
そこで船の操縦や軍事技術はもちろん、政治、経済、法律、哲学、服装、生活態度、礼儀、趣味など、あらゆる分野について、モンツから学びました。

モンツはドイツの貴族出身で、高い教養と高潔な人格の持ち主です。
しかも温情あふれる人柄、そしていかにもドイツ人らしい、鉄骨のような合理性を持つ人柄です。
後年、権兵衛は語っています。
「私の今日あるのは、
 まったくモンツ艦長の感化による」
数々の海軍改革を実施し、日本を日清・日露戦争の勝利に導いた権兵衛の合理主義の精神は、このドイツ人、モンツ艦長との出会いがあったからだといわれています。

権兵衛がモンツから学んだ、もうひとつの大切なことといえば、それは妻への敬意です。
妻のトキが、権兵衛の乗る軍艦を見学しに来たときのことです。
見学が終わってボートから桟橋(さんばし)に移るとき、権兵衛は自らの手で、トキの履き物を彼女の足元にそろえて置いたのです。

そもそも妻を軍艦に案内することがまずあり得ないことでしたし、男性が女性の履き物をそろえるなんて、当時の習慣では考えられないことでした。
実際、権兵衛はほかの将兵の冷笑をかっています。
「男としてみっともない!」
というわけです。

しかし権兵衛は、まったく意に介しません。
「妻を敬うことは一家に秩序と平和をもたらすのだ」
彼はこう言ってはばからなかったそうです。

権兵衛とトキとの出会いは、権兵衛の海軍兵学校時代にさかのぼります。
トキは新潟の漁師の娘で、家が貧しくて売られた身でした。
トキの身の上に同情した権兵衛は、仲間に協力してもらい、女郎屋の二階からひそかにトキを綱で下ろして足抜けさせてしまいました。
そして、知り合いの下宿にかくまい、ドイツ艦「ヴィネタ」での十カ月間にわたる航海の後に結婚しました。
権兵衛のトキへの愛と敬意は、終生変わることがなかったといわれています。


▼陸海平等の大改革と年功序列の悪習を廃する

この時代、国内では「佐賀の乱」「萩の乱」「神風連の乱」等々、旧士族による反政府運動や、農民による反乱が続けて起こっています。
こうした戦いでは、いきおい陸軍が主役になります。
そして西南戦争の翌年の明治11(1878)年には参謀本部条例が改正され、海軍は陸軍に従属するとされました。
いわゆる「陸主海従」です。

これに対して当時海軍大佐だった山本権兵衛は、異議を唱えました。
「島国の国防は
 海上権を先にすべきである。
 我が国は陸を主としているが、
 せめて陸海対等にすべきである」

しかし当時の軍中枢は、参謀総長が有栖川宮熾仁(ありすがわみやたるひと)親王、次長川上操六(かわかみそうろく)、陸軍大臣大山巌、陸軍次官児玉源太郎、しかも彼らのバックには山縣有朋がいます。
いまさら海軍大佐あたりが何を言おうが、蟷螂(とうろう)の斧(おの)でしかありません。
それでも権兵衛は主張をあきらめません。

そして十年後。ついに海軍大臣となった権兵衛は、宮中に参内し「陸海平等」を天皇に上奏しました。
そして陸軍の譲歩を引き出し、海軍軍令部の独立を勝ち取っています。
権兵衛の執念が実った瞬間でした。
権兵衛は、「陸主海従」から「陸海平等」へという大改革を実現したのです。

権兵衛の大改革は、もうひとつあります。
彼が海軍大臣官房主事のときのこと、海軍大臣である西郷従道(西郷隆盛の弟)に、海軍諸制度の改革と不要な人員整理の改革を上申しました。

これを見た西郷従道は、度肝(どぎも)を抜かれました。
なんと将官(局長、部長級)以下97名の海軍士官をクビにすると書いてあるではありませんか。
「こんなに整理したら、
 有事の際に支障はないのか?」
という西郷従道に、権兵衛は答えました。

「新教育を受けた士官が増えていますから心配はありません。
 戦争になったら、整理した予備役を召集します」

この大改革で、権兵衛は維新の論功行賞による人事を廃しました。
これは、海軍の近代化に障害となっていた年功序列制を廃し、実力本位の合理的新体制を確立したということです。


日本海海戦を大勝利に導いた陰の立役者▼

明治31(1898)年、権兵衛は海軍大臣に就任しました。
日露戦争を前に、風雲急を告げた時代です。
ここで権兵衛は、常備艦隊(後の連合艦隊)司令長官に、東郷平八郎を大抜擢しました。
当時の東郷は、舞鶴鎮守府長官です。
これを分かりやすくいうなら、窓際ポストである地方支店の営業所長を、いきなり本社の副社長に任命したようなものです。

国家の危急存亡のときには、こうした思い切った人事の刷新が不可欠なのです。
しかし、海軍省の本庁では、誰も東郷平八郎のことなど知りません。
海軍大臣直々のご指名ですから、いったいどんなスゴイ人物がやってくるのだろうと思って、みんなで待ち受けていると、風采(ふうさい)のあがらないヨボヨボした小さな男が着任してきました。

これには海軍内部だけでなく、他の大臣からも非難の声があがり、物議をかもします。
「なにも窓際で
 予備役編入寸前の
 東郷を起用することもなかろう」
「凡才ではとても大任など果たせやせんよ」
「それにしても風采があがらなさすぎる」
等々です。

しかも東郷平八郎と権兵衛は同郷です。
「平素は合理主義といいながら、
 内実は、ただの同郷人事か」
という声が、ついに明治天皇の耳にまで届きます。

明治天皇にその理由を尋ねられたとき、権兵衛が答えたのが、あの有名な言葉です。
「東郷は運の強い男です」

後にこの人事は、陸軍の児玉源太郎の参謀次長就任と並ぶ二大傑作人事と評されました。
けれど実は、この人事は権兵衛にとって、とてもつらい選択だったのです。
東郷平八郎の起用には、前任者の日高壮之丞(ひだかそうのじょう)を解任しなければならないという事情がありました。
日高と権兵衛とは、幼い頃からずっと一緒にやってきた竹馬の友です。
海軍兵学寮でも一緒でした。
なんでも腹蔵(ふくぞう)なく話し合い、幾度も議論して夜を明かし、一緒に酒を飲んだ大の親友です。

もちろん日高は有能な海軍士官ですが、才気に溺れ独断専行する傾向があったのです。
我が国にとって日露戦は、まさに国運を懸けた戦いになります。
全軍が大局的見地に立って行動しなければなりません。
その指揮系統において、独断専行はあってはならないのです。

なるほど東郷は風采はあがりません。
けれど指揮系統に従い、合理的かつ冷静沈着な判断と行動ができる男です。
それに極めて運が強い。

権兵衛は東郷以外に、この国難打開の任を委ねられる人物はいないと心に決め、自ら日高に解任を通告しました。
そのとき日高は腰の軍刀を抜き、
「この軍刀で俺を刺し殺せ」
と権兵衛に迫りました。
司令長官解任という人事が、どれほど日高の名誉と誇りを傷つけたか......。
日高の心中は察するに余りあります。

権兵衛は目に涙を浮かべながら言いました。
「そのおはんの性格が、
 国家の大事に際して不向きなのだ。
 だから東郷を選ばざるを得なかったのだ。
 俺たちは竹馬の友だ。
 おいは、おはんに
 少しも変わらぬ友情を今も抱いている。
 しかし、国家の大事の前には、
 私情は切り捨てなければならんのだ」

二人とも国を思う気持ちは同じです。
権兵衛の気持ちは日高に伝わりました。
「権兵衛、よく分かった。
 よく言ってくれた」
そして二人は涙を流しながら、互いの手をしっかり握りあいました。

これは実際にあった話です。
こういう話を、浪花節(なにわぶし)と笑ってはいけません。
命を懸けた男同士の会話だったのです。

こうして、日本の誇る大英雄、東郷平八郎連合艦隊司令長官が誕生しました。
そしてその後の経緯は、みなさまご存知のとおりです。


▼人の精神の軸となるもの

昭和8(1933)年12月8日、山本権兵衛は81歳の生涯を閉じました。
その8カ月前には、73歳になる妻登喜子(トキを改名)が亡くなっています。
登喜子は、目からポロポロと涙を流して夫の手を握り返したそうです。
その日、登喜子は夫の愛を胸に抱きながら旅立ちました。

登喜子がいよいよ最期というとき、権兵衛は妻の手を握って言葉をかけました。
「お互い苦労してきたなぁ。
 だがな、わたしはこれまで
 何一つ曲がったことをした覚えはない。
 安心して行ってくれ。
 いずれ遠からず、
 後を追っていくからな」

高齢となったご夫婦の場合、夫に先立たれても意外と女性は長生きします。
ところが、妻に先立たれると逆に男性は、まもなく亡くなることが多いようです。
まるで愛する妻の後を追うかのように、権兵衛も旅立っていったのです。
夫婦って、なんだか不思議です。

二度の総理を務めた山本権兵衛については、政治家として何かと批判的な評論が多いのも事実です。
けれど、思い切った人材登用で日本海海戦を勝利に導いたこと、そして何より、ひとりの女性を生涯にわたって愛し続けた彼の生涯からは、やはり学ぶべきものが多いように思います。
自分への厳しさと、弱い者をいたわる優しい心をあわせもち、一人の女性を愛し続け、尊敬してきた、そういう権兵衛の人となりが、周りの人を動かし、ひいては歴史を動かしていったのだと思います。

国も家族、社会も組織も家族です。ひとりひとりの愛、献身、思いやりの心、そういうものが国の柱、日本人の柱となっているのだと思います。



お読みいただき、ありがとうございました。
日本をかっこよく!! むすび大学。


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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
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出身:静岡県浜松市
住所:千葉県野田市
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「明治150年真の日本の姿」、「日本と台湾の絆」、「奇跡の将軍樋口季一郎」、「南京事件は4度あった」、などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。
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日本史検定講座講師&教務。
《著書》
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『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』
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