天秤棒で荷物を担いで270km・・・ヤマハの創業物語



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田舎の山の中の小学校にも、古いオルガンが置いてあります。
かつて、そのオルガンを必死で作った人がいて、それをその小学校まで歩いて運んだおじさんたちがいました。
トラックなんてなかった時代です。みんな担いで運んだのです。そうやって子供たちに歌が届けられました。そして同じ国の同じ国民として、みんなで共通の思い出を刻んでいきました。
その先人たちの思いや努力、歴史というものを、個人主義とか個性化とかいう能書きひとつで、ぜんぶぶち壊しにするということが、本当に良いことといえるのでしょうか。
ひとつ思えるのは、子供たちから共通の思い出を奪う者、世代を超えた思い出を奪う者は、もはや教育者の名に値しないということです。すくなくとも、そうやって造ったり、運んだりしてくれた先人たちに対する感謝の気持ちは、ぜったいに忘れてはならないことだし、伝えるべきことといえるのではないでしょうか。

山葉寅楠
山葉寅楠



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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
小名木善行です。

ヤマハといえば、いまや世界のヤマハであり、楽器メーカーとしてだけではなく、自動車のエンジンやバイク、クルーザーなども作っている一大企業です。
そのヤマハですが、社名の由来は、創業者である山葉寅楠(やまはとらくす)の名字にあります。
寅楠という名前は、南方熊楠(みなかたくまくす、植物学・民俗学者)や、横井小楠(よこいしょうなん、儒学者・政治家)、楠木正成にならって付けられたそうです。

ヤマハの創業時の名前は「山葉風琴製造所(やまはふうきんせいぞうじょ)」です。
「風琴(ふうきん)」というのは、オルガンのことで、オルガンは「風の力で音を出す琴」と考えられていたわけです。

さて、創業者の山葉寅楠は、嘉永4(1851)年、紀州徳川藩で生まれました。
父親は、天文暦数や土地測量・土木設計などの天文方を勤めていた人です。

少年時代の山葉寅楠は宮本武蔵が大好きで、16歳で二天一流の修行に出ています。
修行というのは、二天一流を学んだ少年剣士が、全国の様々な流派の道場をめぐる旅に出ることを意味します。
ちなみに近年、時代劇等で、この道場巡りがあたかも「道場破り」という乱暴のように語られていますが、大きな間違いです。
他の流派の道場をめぐることで、それぞれの流派の剣さばきなどを学ぶのです。
実際、実戦ともなれば、剣術諸派が戦場であいまみえるのです。
だからこそ、平時においては、諸派が交流し、互いの技術を磨き合う。
それが剣士にとっての修行の旅であったわけです。

ところが明治維新で、武家であった家が没落。
当時二十歳だった山葉寅楠は、なんとか家の経済を支えようと大阪に出て、時計や医療器具などの精密機械修理を学びました。
ところが、学んでも肝心の仕事が、ないのです。

彼は技術者として職を求めて、全国各地を転々とします。
そしてある日、友人から静岡県浜松市で県立病院の修理工を捜しているとの知らせをもらいます。
明治17(1884)年、寅楠35歳のときのことです。



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その頃、明治政府の意向で小学校に随意科目として唱歌科がもうけられたのです。
浜松尋常小学校(現・浜松市立元城小学校)でも唱歌のためにと、オルガンを輸入していました。

オルガンはもちろん外国製で、たいへん高価なものでした。
そんな高価な風琴(オルガン)を、小学校が買ったというのですから、その話は、浜松だけでなく静岡県じゅうに広まり、各地から大勢の教師が見学におとずれたそうです。

ところが、このオルガン、すぐに故障してしまうのです。
修理しなければならない。
けれど、オルガンは外国製です。
部品もなければ修理工もいない。
しかも貴重品です。
万一修理に失敗でもしたら、それこそとりかえしがつかない。

困った小学校は、ある日、浜松県立病院に精密機器の修理工がいるという話を聞きつけます。
こうして山葉寅楠のもとに、オルガンの修理の依頼がきたのです。
時計や医療器具修理のできる山葉寅楠なら直せるだろうというわけで、いまにしてみれば、ずいぶんと乱暴な話なのだけれど、当時の人たちにしてみれば真剣そのもの。なにしろ他に選択肢がないのです。

山葉寅楠にとっても、そんな見たこともない貴重なオルガンを、どうやって直すのか不安でいっぱいです。

まわりの人が心配そうに見守る中、寅楠は、オルガンを点検しました。
そして内部のバネが二本壊れているだけだとすぐに気づきました。
そしておもしろいことに、寅楠はこのときに、
「これならバネだけでなく、
 オルガンそのものも俺につくれそうだ」と思い立つのです。

「アメリカ製のオルガンは45円もする。
 俺なら3円ぐらいでつくることができる!」

明治10年代の白米10キロの値段が50銭です。
いまだと5000円くらいです。
つまり現代の感覚からしたら、1台4500万円のオルガンを、寅楠なら30万円で作れる、というわけです。

寅楠は、
「将来オルガンは全国の小学校に設置されるだろう。
 これを国産化できれば国益にもなる」
と考えました。

このあたりの寅楠の考え方は、非常におもしろいと思います。
オルガンの市場性に着目したのではなく、「国益になる」と考えたのです。
一介の職人さんの意識の中にも、自分の行動を「お国のために」と考えるという精神構造があった。
時は明治の始めです。

よく、「お国のためという思考は、大東亜戦争直前の軍国主義教育のたまものである」という人がいまが、寅楠は、江戸時代に教育を受けた人です。
つまり日本人の心には、江戸の昔からお国のため、公(おおやけ)につくすという考え方があったということです。

さて、翌日から寅楠は、来る日も来る日もオルガンの内部を調べました。
修理すべきバネだけではありません。
いろいろな部分を細かく図面に書き写します。

約一ヵ月が経って、ようやく何十枚もの図面を書き終えた寅楠は、壊れたバネの修理に取りかかりました。
バネそのものは、冶金術が発達していた日本では、そんなにむつかしいことではありません。
こうして寅楠は、見事にオルガンを直してしまうのです。

「山葉さん、すばらしい。ありがとう!」
「いいえ、校長先生。
 私のほうこそお礼をいいたいくらいです。
 おかげでオルガンを知ることができたのですから」
山葉寅楠も、内心、ニッコリです。

しかし問題がありました。
寅楠に、オルガンをつくるための資金がないのです。

あちこち尋ね歩いて、協力を求めますが、多くの人が「おまえは気でも狂ったか」というなか、5日ほどたったある日、寅楠は飾り職人である小杉屋の河合喜三郎をたずねました。
そして「力を貸してほしい」と頼み込みました。

河合喜三郎は寅楠の熱意と腕にかけてみよう!と決心しました。
こうして、翌日から河合の小杉屋の仕事場を借りてオルガンづくりが始まったのです。

もっとも、二人には満足な材料もなければ道具もありません。
あるのは情熱だけです。

寅楠は朝4時から夜中の2時まで、ほとんど徹夜でひとつひとつ工夫しながら部品を作り、二ヵ月かかってやっとオルガンの第一号を完成させました。

寅楠は、真っ先に元城小学校へ運び、唱歌の先生に頼んで弾いてもらいました。
しかし「確かに形はオルガンだが、音がおかしい」と言われてしまいます。
そうです。
調律ができていないのです。

しかしドレミの音階そのものが、まだ世に伝わっていない時代です。
寅楠には、なにがどうおかしいのかがさっぱりわからない。

寅楠は、めげずに、今度はおなじく浜松市内にある静岡師範学校(今の静岡大学教育学部)へオルガンを持っていきました。
でも結果は同じでした。
やはり音がおかしいと言われてしまいました。

音の何がどうおかしいのか。
河合と寅楠には、さっぱりわかりません。
どうすればいいのか。。。。

こりゃもっと偉い先生に聞いてみなきゃわからんかもしれん。

二人は、作ったオルガンを東京の音楽家に見てもらおうと話し合いました。
それには音楽取調所(現東京芸術大学)がいいだろうと思い立ちました。

音楽取調所で、いったい誰に会えばいいのか。
会うためには、どうすればいいのか。
そういうことは、さっぱりわかりません。
電話なんてものさえなかった時代です。
直接会いに行くしかありませんが、行ったところで、エライ先生が会ってくれるかどうかもわからない。

「とにかく行くしかないだろう。。。」
二人は、そう結論付けると、天秤棒にオルガンをぶらさげて、浜松から東京までかついで運ぶことにしました。

かつぐといっても、100kg近い重量のあるオルガンです。
まず重たい。
道のりは東海道を270kmです。
雨の日は動けない。
風が吹いたらあおられる。
箱根の山越えは、ずっと坂道の難所です。
いったい何日かかったか。。。

山葉オルガン1890年
山葉オルガン1890年


ようやく音楽取調所に着いた二人は、オルガンを教授たちに見せました。

教授たちはびっくりしました。
国産でオルガンをつくってしまったことにも驚いた。
そのオルガンをかついできたことにも驚いた。
音が外れていることにも驚いた。

音程が狂っている。音階もおかしい。
これでは楽器として使えるものではありません。

西洋音楽を指導していた所長の伊沢修二は、
「調律が不正解なんだ。
 あと一歩です。
 君たち音楽を学習していきなさい」と言ってくれました。

伊沢所長は彼らのために、親切に宿泊所を提供し、音楽取調所で聴講生となることを許可します。
寅楠は、調律、音楽理論を必死で学びました。

1ヶ月後、浜松に帰った寅楠は、先に帰っていた河合喜三郎と協力して、すぐさま2台目のオルガンの製造にとりかかりました。
しかし途中で、資金が底をついてしまいます。

河合の妻は、親戚中をかけまわって借金しました。
河合の妻の衣服も、嫁入り道具の服から普段着まで、ぜんぶ質屋に入ってしまいました。
残った1着は、着ている1着だけです。
それを洗濯するときは、もうまる裸になるしかない。

親戚からは、お前たち気でも狂ったのかと言われました。
しかし、寅楠と喜三郎は「今度こそ立派なオルガンをつくるんだ!」「日本の子供たちに音楽を届けるんだ」と心に念じて努力に努力を重ねました。

そして、二ヵ月。

とうとう第二号のオルガンが完成しました。
こんどは大丈夫だ。
しっかりと調律もした。
これならきっと認めてもらえる。

二人は、そううなづきあうと、天秤棒にオルガンをぶら下げ、ふたたび270kmの道のりを歩いて東京の音楽取調所に向かいました。

天秤棒で荷物を運ぶ人
天秤棒


再び、箱根の山を越えたオルガンは、伊沢所長の前ですばらしい音色を響かせました。

「山葉さん、すばらしい! よくやりましたね。
 これなら外国製に負けない見事なオルガンです。
 これで、全国の小学校へ
 国産のオルガンを置くことができますよ」

やっとできた! 認められた!
このとき、寅楠と河合は、顔をぐしゃぐしゃにして泣いたといいます。

この時代、「男は泣くのは一生に1度だけ」と言われていました。
教わってきた世代(時代)です。
その男が、だいの大人のおやじが、うれし涙を流したのです。

感動した山葉寅楠は、このオルガンを、国産第1号オルガンとして、そのまま音楽取調所寄贈してしまいました。
「伊沢所長のおかげで完成したオルガンです。
 どうか使ってください。」
というわけです。

気前がよくてオルガンを寄贈したとかそういう話ではありません。
それだけうれしかったのです。
だからそのうれしさをカタチにしました。

これを喜んだ伊沢所長は、二人が造ったオルガンを、「国産オルガン製造成功!」と、あちこちに語ります。いわば東京芸術大学学長のお墨付き・・・どころが学長の宣伝です。
ニュースは、口コミで広がり、次第にオルガン製造の注文も来るようになりました。

注文第1号は、静岡県から5台です。
その後も政府の方針によって文部省唱歌が普及したため、オルガンの需要はうなぎ登りに増えていきました。

山葉寅楠と河合は、「山葉風琴製造所」の看板を掲げ、本格的にオルガンの製造にとりかかりました。
わずか1年後には従業員は100名を超え、ロンドンにまで輸出するようになりました。

二人の努力と周囲の善意が実を結んだのです。

明治22(1889)年、山葉は、東京や大阪の楽器商社と協力して個人商店だった山葉琴風製造所を、「日本楽器製造株式会社」に改組しました。
そしてこの頃から、山葉寅楠はピアノの製造、国産化を目指すようになりました。

伊沢修二所長の紹介で文部省嘱託となった寅楠は、アメリカに渡り、ピアノ工場を見学し、部品を買い付けました。
帰国した寅楠は、国産ピアノ第1号をつくるべく、会社の総力をあげてピアノの製造にとりかかりました。
ピアノの部品には、アメリカで買い付けたものを使用したけれど、ピアノの生命といわれるアクション(響板)だけは日本で開発したものを使用しました。

なぜかというと、寅楠のそばに天才がいたのです。
その天才とは、河合の親戚の河合小市(かわいこいち)でした。
小市は、後に「河合楽器」を創業した人です。
このとき小市、わずか11歳でした。

山葉寅楠は明治33(1900)年にはアップライトピアノ、明治35年にはグランドピアノの製造にも成功しました。
そして山葉のピアノとオルガンは、アメリカのセントルイス万国博覧会で名誉大牌賞を受賞しました。
オルガン、ピアノの量産化で山葉寅楠は「日本の楽器王」と呼ばれるようになりました。
山葉寅楠の死後、「日本楽器製造株式会社」は「ヤマハ株式会社」となり世界一の楽器製造を誇る企業へと成長しています。

東海道を、天秤棒で担いで歩いて運んだ山葉寅楠と河合喜三郎。
彼ら二人の努力が、全国の小学校にオルガンを普及させ、文部省唱歌を全国に広めたといえるかもしれません。
老人ホームに行くと、ボケ老人でも、文部省唱歌をみんなで歌うと、目を輝かせて、これを歌う。歌っているおじいちゃん、おばあちゃんの顔は、そのときばかりは尋常小学校生の顔になっています。

歌は、彼らの少年少女時代の共通の思い出でもあります。

しかし最近では、学校で昔からある文部省唱歌を教えなくなったといいます。
子供たちは好きな歌を歌えば良いというのです。

しかし本当にそれで良いのでしょうか。
子供たちから唱歌を奪うということは、子供たちから彼らの未来における共通の思い出を奪うことです。その思い出は、その子の思い出であると同時に、同じ世代を共有する共通の思い出でもある。
人はひとりで生きているわけではないのです。
人と人とのかかわりの中で、みんなが生きている。

何かを一緒にやった仲間というのは、生涯の友になります。
知らないおじいさん、おばあさんどうしでも、同じ文部省唱歌を歌った思い出が共有されることは、共通の友に出会うということでもある。

逆に子供時代の歌が、ひとりひとりみんなバラバラとなると、それはなるほど個性化というものかもしれないけれど、共通の思い出を失うことにもなる。ほんとうにそれでいいのだろうか、と思うのです。

だから、ちょっとだけ、言ってみたいのです。
子供たちから文部省唱歌を奪う日教組教師は、全員、天秤棒でオルガンを担いで270kmを歩いてみなさい!って。

いま、田舎の山の中の小学校にも、古いオルガンが置いてあります。
かつて、そのオルガンを必死で作った人がいて、それをその小学校まで歩いて運んだおじさんたちがいました。
トラックなんてなかった時代です。
みんな担いで運んだのです。

そうやって子供たちに歌が届けられました。
そして同じ国の同じ国民として、みんなで共通の思い出を刻んでいきました。

その先人たちの思いや努力、歴史というものを、個人主義とか個性化とかいう能書きひとつで、ぜんぶぶち壊しにするということが、本当に良いことといえるのでしょうか。
ひとつ思えるのは、子供たちから共通の思い出を奪う者、世代を超えた思い出を奪う者は、もはや教育者の名に値しないということです。
すくなくとも、そうやって造ったり、運んだりしてくれた先人たちに対する感謝の気持ちは、ぜったいに忘れてはならないことだし、伝えるべきことといえるのではないでしょうか。


※この記事は2009年11月の記事のリニューアルです。
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コメント

K.K.

発明小市
> このとき小市、わずか11歳でした。

河合小市11歳というのは、山葉楽器製造所に丁稚入りした年(明治30年)です。明治32年(1899年)、寅楠はアメリカへ視察旅行に出掛け、翌年にピアノ製造を開始します。この段階でオルガンの組立て部長が松山大三郎(26歳)、新部門のピアノ部長は山葉直吉(19歳)、技術開発を河合小市(14歳)が担当するという布陣でした。この時点で小市はアクションを独自に完成していたとする解説もありますが製品製造に手間取ったのか、小市アクションを組み込んだ国産ピアノの本格生産が開始されるのが明治36年(1903年)。小吉17歳、これでも十分早熟です。明治40年(1907年)、小吉21歳のときにアクション部長に就任。黒鍵を生産する工作機械や卓上ピアノを開発します。

大正5年(1916年)に寅楠が死去すると、2代目社長に天野千代丸が就任。天野体制下の大正15年(1926年)に空前の労働争議・日楽争議が起こります。ストライキは105日間に及び、動員警察官は延べ2​万人、検挙者620人、社内は社長派と反社長派に分裂し、社長派と目された小市、山葉直吉らは相次いで退社します。小市は住み込みの丁稚だったので寅楠に近かったのは間違いなく、寅楠の拡大路線を引き継ぐ形の天野社長にも近いと見做されたようです。

退社の翌年、小市(41歳)は仲間の技術者とともに昭和2年(1927年)に河合楽器研究所を設立し、昭和4年(昭和4年)に自在アクション、さらに独特の響板を開発。当時「世界的発明」と評価されることになります。ピアノは鍵盤を押すと内部のハンマーが弦を叩いて音を出します。このハンマーを動かすメカニズムがアクション(打弦機構)です。響板(サウンドボード)は弦で発生した音を共鳴・増幅する部品でアクションとは別物。自在アクションや独特の響板がどれほどの発明なのか、私には説明できませ。ごめんなさい。

谷山靖浩

仰げば尊し
先生いつも感動を持って拝読させていただいています.今回のオルガン物語で伊澤さんが登場しましたが台湾で殉職された六士先生を仲間として敬意を込めて仰げば尊しをつくられたんですよね.あの事件を深く理解すると仰げば尊しが感動を持って理解できるのではないでしょうか.
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: nezu3344@gmail.com
電話:080-4358-3739
出身:静岡県浜松市
住所:千葉県野田市
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「明治150年真の日本の姿」、「日本と台湾の絆」、「奇跡の将軍樋口季一郎」、「南京事件は4度あった」、などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。
日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
《著書》
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』
『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦
『ねずさんと語る古事記 壱〜序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
『ねずさんと語る古事記・弐〜天照大御神と須佐之男命、八俣遠呂智、大国主神』
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