◆次回倭塾は6月26日(土)開催です。
13時30分講義開始、場所は東京江東区の富岡八幡宮婚儀殿です。
https://www.facebook.com/events/469516267509745戦後76年、反日であることを国是とした日本が、再び誇りある日本に生まれ変わるためには、まだまだ長い年月がかかるのかもしれません。 あきらめず、毎日コツコツと、それを積み重ねていく。 ウソは100万回重ねてもウソです。 けれど、真実はひとつです。 奥山隊長他、英霊のみなさまに心からの感謝を捧げ、黙祷したいと思います。 |
奥山道郎義烈空挺隊大尉

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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
今日ご紹介する義烈空挺隊は、戦後、長く「消された歴史」になっていたものです。
ほんの一部の人にしか知られていない、他の多くの日本人は、まったく知らずに過ごしてきた事実です。
あたかも「なかったこと」にされてきた歴史ですし、実は、12年前に当ブログでこのことを取り上げたときには、「ねずがまた嘘をでっちあげている」などと書かれもしました。
けれど、末尾に動画でご紹介しますが、奥山道郎隊長の肉声もいまに残っていますし、記録も明確にあるのです。
だから、これは実際にあった出来事です。
ちなみに義烈空挺隊の奥山隊長は、いわゆる「しょうゆ顔」です。
けっして男前というわけではないかもしれません(奥山隊長ごめんなさい、笑)。
彼は、ぽっちゃりして、丸めがねをかけ、顔が大きくて肩幅が狭く見える、ごくあたりまえのどこにでもいる、日頃は静かで、ユーモアのある普通の日本人です。
けれど、見た目はボンボンでも、その魂に堂々たる武士道精神が宿っているのが日本男子です。
その精神は、いまも日本男子の魂に、しっかりと刻まれています。
メディアや学校教育でどんなに歪められても、時が来れば自然と目覚める。
なぜなら、それは後天的な刷り込みではなく、日本男子の魂に刻まれた記憶だからです。
私は、奥山隊長以下、散華されたすべての英霊に、心からの感謝を捧げたいと思います。
そして、自分もまた日本男子でありたいと思うひとりです。
写真は奥山隊長です。
お写真で見ると、ぎゅっと真一文字に結んだ口元、大きなあご、そして小さな目と、その全身から浮かぶ、まるでほとばしるような熱い命の炎を感じられます。
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沖縄戦は昭和20年3月26日から6月23日まで、約3ヶ月続きました。
下の写真を見て下さい。
砲撃で蜂の巣のようになった沖縄

写真にみえる水たまりのようなものは、すべて砲弾の着弾跡です。
写真の上の方の林も、丸焼けになっています。
ちなみに米軍が戦艦から沖縄本土めがけて撃ち込んだ艦砲射撃の砲弾は、ただの爆弾ではありませんでした。
火薬の中に無数の鉄片が仕込んである炸裂弾だったのです。
このため爆弾の炸裂や爆風による被害だけでなく、爆発とともに金属片が四方に飛び出し、幼子を背負って逃げるご婦人の背後で砲弾が炸裂して、飛散した鉄片がその子の肉を切り裂き、必死で丘を越えてようやく逃げおおせた若い母親が背中を見ると、我が子の首がなかった、そんな光景が日々繰り返されました。
昼夜を問わない米艦隊によるこの砲撃は「鉄の暴風」といわれました。
昭和20年6月だけで、米軍が撃った砲弾や銃弾は680万発です。
当時、本島南部にいた人の数を考えると,1人あたり50発です。
沖縄を守る日本の軍人さんたちは、その危険極まりない爆風の中を戦ったし、また沖縄の民間人々は避難を続けたのです。
この、まるで嵐のような艦砲射撃が昼夜をわかたず繰り返され続けた沖縄ですが、その砲撃が、まるでウソのように、ピタリと止む瞬間がありました。
それがどういうときかというと、上空に日本の飛行機が飛来したときです。
それが特攻機でした。
特攻機がやってくると、米艦隊の砲火は地上への砲火ではなく、対空砲火一色に切り替わります。
その間に、地上にいる人々は、急いで防空壕を出て、さらに奥地へと逃げることができました。
そしてそのときだけ、艦砲が沖縄の地面に飛んで来ませんでした。
当時の沖縄の人たちは、特攻機が飛んでくると、逃げながら、走りながら、胸の中で上空のパイロットに手を合わせたそうです。
なぜなら飛行機に乗っているのは、自分たちよりはるかに年下の、まだ十代の若い子なのです。
その若い子が、ほんの数機、ほんの数名で、海を埋め尽くす何百もの米艦隊に挑んでくれているのです。
絶対に生きて帰れる見込みがないのに、それでも立ち向かっていってくれているのです。
上空にあって、顔をみることもできない。
その子たちのおかげで、自分たちは逃げて、命をながらえることができる。
当時の日本人は、日本人がみな兄弟、日本人はみな同胞と考えていました。
これは本気でそう思っていたし、そのように子供の頃から教育されて育っていました。
だから、上空にいる子のおかげで、自分が命を永らえることは、まるで我が子を戦わせて親が逃げるような、そんな気持ちだったのです。
だからこそ、沖縄の人たちは、逃げながら、心の中で手を合わせました。
それが日本人でした。
沖縄戦について、様々な評価があります。
けれどひとつはっきりしているのは、日本は沖縄での猛烈な市街戦に、手をこまねいていたわけでは決してなかった、ということです。
すでに制空権制海権を奪われていた中で、それでも日本は沖縄を救うため、必死の防衛戦を挑んでいたのです。
沖縄戦が始まった十日後には、戦艦大和が出撃しました。
大和には、沖縄の女性たちに届けるための10万個の生理帯も乗っていました。
特攻機も連日出撃しました。
その特攻機は、戦闘機に爆弾をくくりつけたもの、重爆撃で出撃したもの、赤とんぼと呼ばれる練習用の複葉機で出撃したものなど様々です。
空だけではありません。
海上からも、小さなモーターボートに爆弾を装着した攻撃邸による特攻、さらには地上戦そのものでも、自分の体に爆弾を括り付けて、敵の戦車に体当たり突撃するといった、まさに命を的とした戦いが繰り広げられました。
そのことごとくが、沖縄を、そして祖国を守るための行動でした。
こうして命をかけて沖縄を守ろうとしてくれた同じ血を分けた、血の繋がった私たちの先輩たちの前で、英霊たちの前で、ウソまで交えたデタラメを吹聴する。
そういう人たちのことを、「人の皮をかぶったケダモノ」というのです。
さて、空挺隊というのは、敵の真っただ中にいきなり降り立って、敵基地を強襲し、破壊するという特種任務を帯びた部隊です。
すこし考えたらわかることですが、遮蔽物のない敵の飛行場のど真ん中に飛びこむのです。
まごまごしていたら、ただ殺されるだけです。
ですから、あらゆる状況において、素早く果敢に行動することが求められます。
そのために、猛烈果敢な激しい訓練が連日行われました。
実戦となれば、生きて帰れる可能性は皆無です。
ということは、生き返って英雄となることなど、最初から望むべくもありません。
また、特攻隊のように、任命されたその日から神と称えられることもありません。
その存在さえ公開されないまま、ただ死ぬためだけに、日々、猛烈な訓練を積み重ねた隊員たちです。
空挺隊の悪条件は、ただ敵の飛行場のまっただ中に突入するという難事だけではありません。
そもそも空挺隊が乗る飛行機は、爆撃機です。
飛行速度が遅いのです。
ですから敵の猛烈な対空砲火による弾幕と、敵戦闘機による空対空の激しい戦いの中を、くぐりぬけます。
つまり、空中で撃墜され、敵基地のど真ん中に降り立てれない確率の方が高いのです。
それでも、やる。
それが空挺隊という存在です。
最初から死ぬことを予定した部隊です。
ですから陸軍は、空挺隊の編成にあたり、事情を話して志願兵を募りました。
それでも応募して集まった中で、家督を継がなければならないであろう長男などは、すべて不採用にしています。
こうして最終的に身体頑健な若者136名が空挺隊員となりました。
昭和19年の終わり頃のことです。
義烈空挺隊奥山隊

空挺隊は当初、サイパン防衛戦を目標に猛訓練を繰り返しました。
けれど、突入前にサイパンは玉砕してしまいました。
そこで次に硫黄島への突撃のための訓練を行いました。
けれど硫黄島も陥落し、これも立ち消えになってしまいました。
昭和20年5月、空挺隊は、ついに沖縄作戦への出撃が決まりました。
空挺隊には「義烈」の二文字が与えられました。
出撃が決定した日、義烈空挺隊・隊長の奥山道郎大尉(死後昇進で大佐)は、母への遺書を三角兵舎内の隊長室で書き遺しています。
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遺書
昭和二〇年五月二二日
この度、
義烈空挺隊長を拝命。
御垣の守りとして
敵航空基地に突入いたします。
絶好の死に場所を得た私は、
日本一の幸福者であります。
只々感謝感激の外ありません。
幼年学校入校以来12年
諸上司の御訓戒も
今日のためのように思われます。
必成以って
御恩の万分の一に報わる覚悟であります。
拝顔お別れ出来ませんでしたが、
道郎は喜び勇んで征きます。
二十有六年の親不孝を
深くお詫びいたします。
お母上様 道郎
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遺書に「幼年学校入校以来」とあります。
陸軍幼年学校というのは、旧制中学一年または二年で就学する超難関校です。
全国から学業優秀、身体頑健な選りすぐりの少年が集められ、徹底した英才教育が行われる学校です。
陸軍幼年学校に入学できたというだけで、地元の名士であり、地元の誇りでした。
幼年学校に入校した者は、その地元の誇りを背負っていることを幼い身に自覚したものです。
このことは親にしてみれば、これほど嬉しく誇らしいことはなかったのです。
自分の産んだ子が、日本を代表するエリート、ただ勉強ができるだけじゃない、体も心も頭脳も、すべてが飛びっきり優秀と認められたということでもあります。
平和でありさえすれば、親としてこれほど嬉しいことはありません。
もう可愛くて仕方がない我が子でもありました。
ですから奥山隊長本人にとっても、陸軍幼年学校出身であるというこは誇りです。
そして陸軍幼年学校入学から12年、まさに祖国を護ることだけを使命として、心身を鍛え上げてきた、そのすべてが「空挺隊として命を捧げるその日のためだった」と、彼は遺書にしたためています。
でも、死ぬのです。
死ぬ前に、生きて、一度でいい。母の顔を見たい。
心の中では、そういう思いがあったと思うのです。
奥山隊長だって、人の子です。
そのチャンスを得れないまま、奥山隊長は出撃しました。
「拝顔お別れ出来ませんでしたが、
道郎は喜び勇んで征きます。
二十有六年の親不孝を
深くお詫びいたします」
その言葉の中に、どれだけ強く母への愛(おもひ)があるのか。
米軍読谷飛行場に突入した義烈空挺隊の乗った陸軍97式重爆撃機

奥山隊長は、学業優秀であることに加え、体力も人一倍優れ、運動神経も素晴らしい若者です。
良く言えば、西郷さんを思わせるような堂々たる風貌です。
しかも明るい。
伸び伸びした、誰とでも明るく気軽に話す闊達な性格で、部下たちの信望もとても厚かったそうです。
その奥山隊長を含む義烈空挺隊の136名は、昭和20年5月24日の夕方、熊本の「健軍飛行場」から12機の九七式重爆撃機に11~2名ずつ分乗して飛び立ちました。
途中4機がエンジントラブルで基地に引き返しました。
残り8機が米軍基地に突入しました。
6機が、米軍に占領されていた沖縄の読谷飛行場、
2機が、嘉手納飛行場でした。
時間は、夜の22時11分でした。
読谷飛行場では、基地上空に突入した6機のうち、5機が、激しい対空砲火で撃墜されています。
残る1機は、機体を対空砲火によって穴だらけにされながらも、滑走路に胴体着陸しました。
パイロットは着陸と同時に戦死されました。
なぜ着陸できたのか。
体に何発も弾丸を浮けながら、最後の最後まで操縦桿を放さなかったからです。
彼は機内で突っ伏した状態で死んでいる写真が残されています。
この強行着陸できた九七式重爆撃機に乗っていたのは、2名の操縦士と、12名の空挺隊員です。
着陸までの間に、隊員たちは機体を貫通してきた敵弾によって、体の一部を吹き飛ばされていた者もいたであろうと思います。
それは、もしかしたら全員かもしれない。
それでも彼らは、着陸した機体から飛び出しました。
そして群がる米軍の猛射を浴びながら、駐機中の敵航空機33機を破壊損壊させ、米兵20名を死傷させ、さらに飛行場にあった航空燃料用7万ガロンを炎上させています。
たった12名の空挺隊員によってです。
そして読谷飛行場は約8時間に渡って、飛行場としての機能を完全に停止させられています。
約2時間の戦いでした。
先日も書きましたが、銃撃戦というのは、普通1〜2分で終わるものです。
実際に海外で傭兵として戦った経験を持つ人から、そのように聞きました。
5分も続けば「今日の銃撃戦は長かったねえ」と後々まで語り草になる。
それくらい銃撃戦というのは、緊張するものです。
そりゃそうです。
銃撃戦をしている誰もが、自分の命がけで戦っているのです。
それが、2時間です。
空挺隊のメンバーの日頃の訓練の凄さがわかります。
戦闘が終わったとき、重傷で意識を失っていた一名を除いて、空挺隊の全員が散華されました。
その空挺隊たちは、出撃前、それぞれの搭乗機の前で、ひとりひとりが、自分の故郷のある方角に向かって、深々と頭を下げています。
それは、自分を育ててくれた故郷への感謝であり、またその故郷を守るためという決意であり、育ててくれた両親へのお別れの挨拶でもあったことでしょう。
出撃前に故郷に礼をする空挺隊員たち

彼らは血の出るような猛訓練を重ねました。
訓練して、訓練して、それでも足らずにまだ訓練しました。
それでも飛行中に7機が墜落し、4機はエンジン不調で帰投し、突入できたのは、わずか1機でした。
訓練を重ねても、途中で飛行機そのものが撃墜され、敵陣に突入さえできないままに死を迎えることもある。
そのことを知っていながら、彼らは猛特訓を重ねたのです。
それは実践以上に過酷な訓練でした。
そして、その訓練があったればこそ、地上に降り立ったときに、すでに重傷を負っていた彼らは、大戦果をあげています。
彼らは、なんのために戦ったのでしょう。
必死に戦い、散華された人たちの心を、歴史を、私たちは同じ日本人として、決して忘れてはならないと思います。
世界中、どこの国でも、自国の武人たちのことを誇らしく顕彰します。
「自由の国」米国でも、アラモの砦を守った人たちのことを歌に、映画にして伝えています。
硫黄島で戦った兵士たちのことも、銅像にして讃えています。
硫黄島は、米国領ではありません。
自国領でなくても、外国との戦いに勇敢に挑んだ軍人は、国の誇りであり名誉であり、なにものにも替えがたい名誉だからです。
国防だけではありません。
永世中立国スイスでは、フランスのルイ王朝を守って戦い死んでいったスイス傭兵たちの武勲を、ライオン像に託して残し、讃えています。
戦って生きても、戦って死んでも、その栄誉を語り継ぐ。
それが、世界の常識です。
けれど、日本だけがそれをしていません。
その結果、子供たちは自分の国を誇ることを知らず、その子供が長じて、国軍の長であることさえもわきまえず、世界に恥をさらす政治家に育ったりしています。
日本を取り戻す。
戦後76年、反日であることを国是とした日本が、再び誇りある日本に生まれ変わるためには、まだまだ長い年月がかかるのかもしれません。
あきらめず、毎日コツコツと、それを積み重ねていく。
ウソは100万回重ねてもウソです。
けれど、真実はひとつです。
奥山隊長他、英霊のみなさまに心からの感謝を捧げ、黙祷したいと思います。
※この記事は2009年12月の記事をリニューアルしたものです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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コメント
akiyama.obernai@gmail.com
2021/06/23 URL 編集
湘南童子
日ノ本の大和の天命が完うされますように
地球を司る神々様 八百萬の大神たち樣 ありがとうございます
2021/06/22 URL 編集