日本人は、常に一本独鈷(いっぽんどっこ)。自由人でやってきたのです。 自由人だから、自由人同士、互いの自由と尊厳を尊重し合うことが可能なのです。 これが和の文化です。 これが日本文化の根幹です。 |

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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
他人の意見を聞いたり読んだりしたときに、ただいたずらに否定するという姿をよくみかけます。
当ブログや筆者のフェイスブックサイト、あるいはyoutubeなどにも、そのようなコメントを(ほぼ毎日のように)見掛けます。
基本的に、意見というものは、百人あれば百通りの意見があるものです。
絶対賛成、絶対反対という極の意見もあれば、賛成だけど一部反対、反対だけど一部は賛成というものもあり、最も多いのは、どっちつかずだけれど、やや賛成、やや反対といったところではないかと思います。
要するに、意見というものは、上の図にあるように、かならず「分布」します。
ですから一部の意見だけが絶対に正しく、他の意見はすべて間違っているとして、一切認めないなら、そういうもののことを「全体主義」といいます。
そのようなものは、日本人なら、おそらく誰も歓迎しないと思います。
日本は、もともと言論の自由の国なのです。
「戦前の日本は全体主義だったではないか」と思っていらっしゃる方も多いことと思います。
しかし、それは戦後の洗脳です。
戦前戦中までも、日本は言論は自由な国であったのです。
ただし、このことを考える上においては、たいせつなことがひとつあります。
それは、「言論の自由」を実現するためには、
「かならずそこに高度な民度が必要になる」
ということです。
民度が低ければ、言論の自由が容認できなくなるのです。
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なぜなら、「人の意見を尊重する」、「異なった意見を傾聴する」ためには、「お互いが」、感情的にならず、相手の意見をしっかり聞き、相手の意見から積極的に学ぼうとする姿勢が不可欠の要素であるからです。
「お互いが」です。
これが、片方には聞く耳があり、片方は、ただ闇雲に言い張るだけという関係下では、人の意見を尊重するという姿勢は熟成されません。
強盗傷害で現行犯逮捕された犯人が、
「ワタシ、やってないアル。
生まれてこの方、
ワタシ、人に迷惑をかけたことないアル」
と口角泡を飛ばして、力説したとしても、そのようなものは「ゴタク」にすぎないのです。
世間の上に立つ、ごく少数の人たちが、社会全体を支配し、好き放題に乱行を繰り返すような社会や、そのような愚かな歴史しかもたない国では、人々は、常に高圧的に、相手を従えなければ、安心して暮らすことなどできません。
というより、暮らしに安心というもの自体が存在しない社会では、生き残りのためには、周囲の人を頭ごなしに征圧し、征服し、無理やり言うことを聞かせることができるようにしないことには、自分の安心は常に手に入りません。
しかし日本では、誰もがより良く生きるために、心を常に真っ直ぐにして、みんながよくなるように、そのために自分でできることに貢献していこうということが、社会一般の基本になっていました。
そういう社会であるからこそ、議論をしたときにも、相手の話をちゃんと最後まで聞いて、そのうえで自分の意見を述べるという社会秩序が形成されたのです。
議論は、勝ち負けが問題なのではなく、互いの誤解を解いて、互いがより協力しあうことができるように行われるものという社会常識も、それが通用したのは、日本が高度な民度を保っていたからのことです。
このことは、文化の根源的な違いといえます。
つまり世の中には、
意見の違いを尊重する文化と、
意見を押し付けて上下関係を構築する文化
がある。
この両者は、いわば水と油みたいなもので、互いに絶対に相容れることができないものです。
昨今の日本では、半島のように、一部の富裕層が両班(やんばん)を形成して社会を牛耳り、他の一般の日本人はその国の奴隷階級を意味する白汀(はくてい)と同じ構造になっていると、公然と述べる人まで現れている有様です。
しかし、それは、彼らの文化で見たら、そのようになっているというだけのことで、もともと海洋民族であった日本人に、その思考は通用しません。
日本人からすれば、「は?何言ってるの?ばかじゃん?(笑)」程度にしか思われないし、思えないのです。
誰かが横暴に取り仕切ろうとしても、海洋民族というのは、一歩、海に出れば、そこは自由な大海原です。
陸上で四の五のと、どちらが上かなどと言っていても、海の上ではそのようなものは通用しない。
日本人は、常に一本独鈷(いっぽんどっこ)。自由人でやってきたのです。
自由人だから、自由人同士、互いの自由と尊厳を尊重し合うことが可能なのです。
これが和の文化です。
日本文化の根幹です。
お読みいただき、ありがとうございました。
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