それこそが政治の役割であり、これを実現していのが行政の役割です。 ことが起きてから四の五のというのは、司法の役割であって、政治や行政の役割ではありません。 「証拠がない」という言い方は、ただの言い訳でしかないのです。 |

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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
日本の文化は「察する文化」の国です。
これは聖徳太子の十七条憲法の第11条に由来します。
そこには次のように書かれています。
《原文》
第十一条
十一曰
明察功過 罰賞必當
日者
賞不在功 罰不在罪
執事群卿 宜明賞罰《読み下し文》
十一にいわく。
功過(こうか)を明らかに察して、賞罰を必ず当てよ。
このごろ、賞は功においてせず、罰は罪においてせず。
事(こと)を執(と)る群卿、よろしく賞罰を明らかにすべし。《現代語訳》
善い行いも悪い行いも、事前に察して、必ず先に賞罰を行いなさい。
このごろは、善い行いを表彰することせず、また罪があっても罰を与えないことが多々あります。
しかし政治や行政を行う者は、表彰と罰を、民衆によくわかるように明らかに行わなければなりません。十七条憲法の各条文は、すべて「このように心がけなさい」という努力規定です。
ところが、この11条だけは、「群卿、よろしく賞罰を明らかにすべし」は、なるほど努力規定なのだけれど、
功過(こうか)を明らかに察し《明察功過》だけは、単に努力するだけではどうにもならず、これは自ら意識して鍛えなければ、できない事柄です。
つまり11条だけは、努力規定+学習規定になっているといえます。
悪い行いをした者に罰を与えるのは、あたりまえのことです。
ところが十七条憲法は、善い行いに対してもまた、ちゃんと論功行賞を行わなければならない、罰と論功行賞は、両者がそろってはじめてひとつ・・・つまりセットであるとしています。
そしてさらに、その善いことも悪い行いも、起きてから表彰したり罰を与えるのではなく、起きる前に賞罰を先に与えよ、としています。
このことは、悪事を働いた者への処罰を考えるとわかりやすいです。
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仮になんらかの暴力事件があったとして、加害者を罰するのはあたりまえのことです。
しかし、加害行為が現実に行われ、死者やけが人が出てから処罰するのでは、現実には遅い。
事件が起きてからでは、被害者はもちろん、被害者の家族、あるいは加害者の側も、本人のみならずその家族や関係者一同、たったひとつの事件で、皆、不幸になるのです。
だから、そうなる前に手を打つ、事件や事故が起こる前に手を打つことが、そもそもの政治や行政の役割であり、人の上に立つ者の役割であるということを、この憲法17条の条文は明らかにしています。
そもそも普通に管理職になれば、自分の管轄する部下が不始末をしたら、自分の責任にもなるのです。
だから、そのような不始末が起こらないように、日頃から部下をしっかり監督する。
このような経験は、管理職経験のある方なら、誰しもお持ちのことと思います。
同様に、善い行いもまた、事前に褒める。
何か特別な親切があったから褒めるのではなく、日頃から親切をしている人を褒める。
そうすることで、親切をすることが、組織において、あるいは人間社会において、善いことであるということを、知らしめる。
それが、日本型の統治といえます。
ところが、明治以降に日本に輸入された西洋型の法治主義では、罪を法で特定し、その特定した内容を持つものでなければ人を裁いたり、逮捕したりしてはならない、ということになっています。
これは、人を裁くにあたって、悪事とは何か、裁くとは何かということを、先に明らかにしておこうという取り組みで、ここまでは、極めて合理的なものといえます。
ただし、これは「罪が起きてしまったとき」の、対策です。
そして罪が起これば、多くの不幸が生まれてしまうのです。
ですから、明察功過は、二段階を意味しているといえます。
つまり、
1 悪事が起こる前の対策(明察功過)
2 悪事が起きてからの対策(罪刑法定主義)
2の悪事が起きてからの対策は、すべて法に基づいて処罰しなければなりません。
そしてここで必要になるのが、証拠です。
客観的な、裏付けとなる証拠がなければ、人を裁いてはいけない。
これは当然のことです。
ところが、この後に、唯物主義なるものが生まれます。
これは共産主義者が、世間を混乱に陥れるためのもので、すべての意思決定は「証拠に基づかなければならない」とするものです。
ちょっと考えたらわかることですが、証拠がある、ということは、すでに事件が起きていて、現実の被害が生じているということです。
しかも現実に連続して被害が起きていても、証拠がなければ捕まえることもできない。
そして捕まえない限り、犯罪は、次々と連続して起きることになるわけです。
一方、「証拠がない」、もしくは「証拠を示してみろ」という言葉は、悪事を働く者を正当化します。
なぜなら、証拠さえなければ、何をしていても常に罪を逃れることができるという発想が根幹にあるからです。
しかもこの「証拠を示せ」という用語の持つおそろしさは、この正当化だけにとどまらず、どんなに明確な証拠があっても、それを証拠として認めなければ、もしくは認めさせさえしなければ、悪事が悪事として認知されなくなるという点にあります。
目の前で、店頭にある品物を、自分の持つずた袋に次々と入れ、その場にいた警察官に万引の現行犯で逮捕されたとします。
けれど、犯人は「俺はやっていない」という。
「だって、袋に品物が入っているではないか。これが動かぬ証拠だ」と言っても、
「俺はしていない。警察官が手柄をたてたくて、自分で品物を袋に入れたのだ」
「お前が袋に入れるところを店員が見ているのだ」
「店員は頭がおかしい。そもそもその袋は俺のものではない」
「じゃあ、どうして袋に品物が入っているのだ」
「知らない。自分とは関係ない。手柄をたてたい警察官か、売上をごまかしたい店員が、勝手に袋に入れたのではないか」等々。
嘘のような話ですが、昨今、このような問答は、多々起きています。
あるいは、ウイグルやチベットへの残酷な行為について、国会で問題にしようとすると、某政党が党をあげて、
「そのような証拠はなにもない」と言い張る。
「現実に、証言がいくらでもあるではないか」といっても、「それだけでは証拠にならない」という。
あるいは「状況証拠は証拠にならない」という。
古くからの日本的価値観から言えば、状況こそが証拠であり、まだ曖昧なうちに先に手を打つのが政治です。
地震が起きてから対策を講じるのではなく、いつ地震が起きても大丈夫なようにできる限りの手を打つ。
台風がやってきても大丈夫なように、日頃から備えを盤石にしておく。
日本が戦争に巻き込まれないように、あらゆる手を打っていく。
それこそが政治の役割であり、これを実現していのが行政の役割です。
こと起きてから四の五のというのは、司法の役割であって、政治や行政の役割ではありません。
「証拠がない」という言い方は、ただの言い訳でしかないのです。
そういうことを、私達は、もう一度、日本人としての原点に帰って、根本から考え直していかなければならない時代に来ているのではないでしょうか。
お読みいただき、ありがとうございました。
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