島から島へ、旧石器時代の海洋民族としての庶民の暮らし



8月14日(土)に靖國神社昇殿参拝を行います。
受付開始は13時から。靖國神社参集殿正面入口前です。お志のある方、どなたでも参加可です。皆様のご参加をお待ちします。
詳細は → https://nezu3344.com/blog-entry-4963.html


いまでも日本人には、誰かがひとつの思想等を強要しても、「てやんでえ、こっちにはこっちの人生があるんでえ」といった気分が濃厚にあります。
日本でキリスト教を布教しようとした戦国時代のバテレンたちが布教がうまくできなかったのも、明治時代に欧米列強諸国が日本にキリスト教を布教しようとしてうまく行かなかったのも、戦後GHQがさかんにキリスト教を布教しようとしてうまく行かなかったのも、あるいは共産主義が莫大な資金を投じて、日本人のマインドの解体工作を行っていながら、ここへきて日本人としての精神性に目覚める人たちが続々と数を増していることも、あるいは仏教があれだけの巨大建造物を用いて国内の布教に勤めながら、いまだに大半の日本人がお正月になれば神社に参拝に行くのも、もしかすると、もともとの日本人が海洋族であり、人から言われたことよりも、自分で良かれと思うことを優先するという自由な気性を万年の単位で熟成してきたからなのかもしれません。


20210717 極東共和国



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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
小名木善行です。

 我々戦後教育を受けた者は、縄文時代とか弥生時代という時代区分は小中学校で習う常識となっていますが、実は戦前戦中までの日本では、縄文土器、弥生土器という土器の区分としての用語はありましたが、時代区分としての縄文時代、弥生時代はありませんでした。

 縄文土器という用語は、実は東京品川区の大森(おおもり)貝塚(かいづか)に由来します。明治10年《1877年》6月、来日していた米国の動物学者のエドワード・S・モース(Edward Sylvester Morse)が、たまたま横浜から新橋へ向かう途中の列車の中から、崖に貝殻が積み重なっている様子を見つけました。そして同年10月に、さっそくその場所の第一回発掘調査が行われています。

 この発掘調査で、土器や土偶、土製の耳飾り、ニホンジカの角で出来た釣針、石斧、石のヤジリ、鹿や鯨の骨や人骨片などが発掘されました。このとき発掘された土器に縄目の模様が付いていたことから、最初は索文(さくぶん)土器、とか、大森貝塚から出土したから貝塚土器などとも呼ばれたのですが、それがまわりまわって、いつのまにか縄文土器(じょうもんどき)の名が定着するようになりました。

 そして実はこの発見が、我が国の考古学の始まりです。というのは江戸時代までの日本では、たとえば東北の亀ヶ岡遺跡で発掘された土器、土偶などは、単に地中から掘り出された過去の遺物であって、いわば観光土産品のような形で国内で売買され、その一部が海外に流出していたような状況であったわけです。古いものであるということはわかるけれど、それがどのような価値を持つ物かがわからない。だから、単に「あった、見つけた」だけのもとなっていたわけです。

 これが大森貝塚の発掘以降、我が国でも西洋にならって、遺跡から出土する遺物や遺構などの史料をもとに、人類の活動とその変化を研究する学問としてのアキアロジー(Archaeology)を、日本語で「考古学」として学問の一分野が形成されました。すると早速(さっそく)、なんとその考古学の本拠地となっていた東京帝国大学の構内である東京市の向ヶ岡の弥生(やよい)から縄文式の土器と明らかに製法の異なる土器が、ほぼ完全な形で出土しました。そこでこの縄文土器とは、明らかに製法の異なる土器のことを弥生(やよい)土器と呼ぶようになったわけです。

 けれどもこうした縄文土器、弥生土器の考古学的発掘が、歴史と結びつくことはありませんでした。というのは、歴史学というのは「過去に起きた事実を、時系列に沿って論理的かつ再現性があるようにストーリー化していく学問」です。つまり土器が出た、というだけではストーリーが組めないわけで、こうなると考古学状の発見を歴史学に反映させることができません。それでどうなったのかというと、歴史学では、あくまで2600年以上昔の初代神武天皇以前は、いわゆる神代(かみよ・しんだい)であって、「神々の時代」と規定していたわけです。

 ちなみにここでいう神々とは、西洋でいう人智を超越した唯一絶対神ではありません。これは我が国の古くからの考え方で、計算してみるとわかりますが、700年もさかのぼったら、日本全国の人々は、全員が親戚になってしまうのです。《注》

《注》1人の人が生まれるためには父母2名が必ず必要です。その父母が生まれるためには4人の祖父母、祖父母が生まれるためには8人の曾祖父母が「必ず」必要です。こうして2のn乗で計算しますと、現代のひとりの人が生まれるためには、700年前の1億3千万人が必要であるという計算になります。けれど700年前の日本の人口は700万人弱です。このことが何を意味しているのかというと、日本人は全員、ご先祖がどこかでかぶっていることになります。奈良平安の昔なら千年以上昔です。弥生時代なら2500年、縄文時代なら1万7000年もの昔にさかのぼります。つまり日本人は、その間、何度も祖先がかぶっている・・つまりみんな親戚だ、ということになります。

 このことから、400年くらい前までは○○家のご先祖という言い方ができますが、700年以上さかのぼると、もはや○○家のご先祖とばかりはいえず、天下万民《つまり日本に住む日本人のこと》は、全員血縁関係にある、ということになります。そこでご先祖をずっと上(かみ)の方にさかのぼった人々の共通のご祖先という意味で「かみ《神・上》」と呼ばれるようになったのです。そしてその「人々の共通のご先祖の時代」としての「神々の時代」の出来事を時系列にまとめて整理して筋書き化したものが、神語(かむがたり)とされていたわけで、こうして生まれた神語と、考古学上の発見が、戦前戦中までは、統合されることがなかったのです。このため弥生土器があり、それよりもっと古い時代の縄文土器があっても、それらは単に考古学上の遺物(いぶつ)であって、歴史学には含まれないものとされていました。

 このことに変化が訪れたのが、終戦後のGHQによる神話教育の否定です《これを神道指令と言います》。これにより単に土器の区分にすぎなかった縄文土器、弥生土器の名称が、戦後には「時代区分」となって、縄文時代、弥生時代という用語ができました。つまり初期の頃のこの縄文弥生の時代区分は、我が国の先史時代の神話教育を否定するために用いられた政治用語であったわけです。

 ところがそのおかげでにわかに活気づいたのが考古学会でした。戦争が終わった翌年の昭和21年《1946年》には、市井(しせい)の考古学研究家の相沢忠洋(あいざわただひろ)が、群馬県赤城山のふもとから、相次いで石器を発掘します《岩宿遺跡》。そして昭和24年には、明らかに人工品と認められる黒曜石(こくようせき)の槍先形尖頭器(やりさきがたせんとうき)を発見しました。

 石器は、自然石をそのまま使用していた時代が「旧石器時代」、自然石を人が使いやすいように加工して使うようになってからのものを「新石器時代」と区分します。そして世界の新石器時代が、おおむね8千年前の古代シュメール文明にはじまるとされていた時代に、なんと相沢忠洋は3万年前の磨製石器(ませいせっき)を発見してしまったわけです。

 磨製石器は、世界で古いものとしては、
  ヴォレンドルフ遺跡(オーストリア)   約2万5,000年前
  コスチョンキ遺跡(ロシア)       約1万4,000年前
  アフォントヴァゴラ遺跡(ロシア)    約2万年前
  ナワモイン遺跡(オーストラリア)    約2万1,500年前
  マランガンガー遺跡(オーストラリア) 約2万9,000年前
などがあります。

しかし我が国で発見された磨製石器は、それらのいずれのものより古いものです。そしてさらにいうと、これら海外で発見された古い時代の磨製石器は、その後、これら磨製石器を用いていた種族が、どのように文化を発展させていったのかを示す遺物遺構がまったく発見されていないのです。つまりポツンと、これらの石器が、過去の古い時代のものとして「遺(のこ)されている」わけで、むしろ、そうした磨製石器文化を持った人が、たまたまそこにやってきたのだと解釈したほうが、よさそうなのです。

 磨製石器は、新石器(しんせっき)時代を代表する石器です。ちなみに旧石器(きゅうせっき)時代というのは、人類が自然石をそのままの状態で使っていた時代、新石器時代は、人類が自然石を加工して用いた時代のことを言います。その新石器時代の代表的石器が磨製石器です。鉄器が普及しなかった地域では20世紀になってからも磨製石器である石斧(いしおの)などが普通に使われていました。また、この磨製石器の製造技術は、なんと現代の最先端の半導体のシリコンウエハースの研磨技術の基礎になっています。

 そして石器時代が新石器時代に入ることで、人類は神話を持つようになったと言われています。なぜなら硬い石を加工するためには、集落内にそのための専業者が必要になります。つまり社会的分業体制が確立していないと、石器を新石器《磨製石器》にすることができないのです。そして集落を営むためには、自分たちがなぜここで集落を営んでいるのかという物語が必要になります。こうして神話が生まれたとされます。つまり旧石器から新石器時代への以降は、人類社会にとっては一大事なのです。

 それだけ重要な意味を持つ新石器が、日本では相沢忠洋の発見のあと、さらに調査が進むことで、なんと、最も古いものはおよそ3万8千年前にまでさかのぼることが確認されました。これは伊豆諸島の神津島(こうずじま)でしか採れない黒曜石が、長野や沼津の遺跡から発掘されたことによって確認されました。伊豆半島から洋上に浮かぶ神津島までは、海上57キロの距離があります。しかもそこは黒潮に洗われ、潮流が速くて、泳いで渡ることはできません。また木をくり抜いただけの丸木舟でも、往来は不可能です。すくなくとも、帰路には石を持って運ばなければならないのです。

 この「石を持って外洋を往来(おうらい)する」ためには、南太平洋の島々にいまもある、アウトリガー付きの帆掛け船の存在が不可欠になります。葦の茎などを使って、船を造り、その片側に船体を安定させるためのアウトリガーを付けます。こうした船については、ディズニー・アニメの『モアナと伝説の海』にも登場していたので、どういう姿かは想像ができるものと思います。実際にどのような船が使われていたのかは想像の世界でしかありませんが、はっきりわかっていることは「伊豆半島から神津島まで海上57キロを、石を持って3万8千年前に往来していた」という事実です。つまり、我々日本人の祖先は、3万8千年前には、すでに外洋航海を自在にこなすだけの航海術と船舶を持っていた、ということです。このことは、世界の新石器が8千年前に始まるという事実を考えれば、どれだけすごいことであったか、といえることであろうと思います。

 さらにおもしろいのが、万年の単位で時代をさかのぼるときには、「海岸線を今と同じと考えてはいけない」ということです。現代と全く異なっていたのです。現代の海面の高さは、この20万年くらいの間では、かなり高い時代にあたります。4万年前から3万年前あたりですと、海面はいまよりも70〜80メートル低く、さらに2万年前になりますと《これが最終氷河期の時代ですが》、海面がいまより140メートルも低くなります。

 どうしてそのようなことになるかというと、地球環境が刻々(こくこく)と変化しているからで、特に寒冷期にあたる氷河期においては、陸上にたくさんの氷が出来るため、その分、海面が低くなります。それがなんと2万年前には、現在の海面よりも140メートルも海抜(かいばつ)が低くなっていたのです。

 ちなみに反対に温暖化が進んだ6千年前には、陸上の氷が海に溶け出し、さらに海水そのものが熱膨張を起こすことで、海面が最大でいまより20メートル前後高くなります。これが縄文海進と呼ばれた時代で、いまの関東平野は北関東海という海原であったし、いまの平野部はおおむね海に沈みます。縄文時代のこの頃の遺跡《貝塚等》が、海からかなり内陸部にはいったところにあるのは、それが理由です。

 さて、海面が低かった時代は、たいへんな寒冷期で、年間の平均気温がいまよりも12度近くも低かった時代です。日本列島はおおむね寒帯化していたのですが、ところがここにおもしろいことがあるのです。
海面が140メートル下がりますと、いま大陸棚となっている推進130メートルの海域は、ほぼすべて陸上に露出します。すると日本列島の中央部からグアム島やパラオに至るまでの海域に、小さな島が連続している海域が出現します。この時代には、すぐ向こうに見えている島伝いに、なんと小舟でグアムまで行くことができたのです。

 また、九州から台湾にかけての海域では、琉球諸島がいまでは小さな島が点在しているだけですが、そこに巨大な島が連続する列島が出現します。そしてその北側には、広大な内海が広がり、その向こう側のいま東シナ海や黄海となっているエリアは、広大な平野部になります。朝鮮半島はその広大な平野の北東に位置する山岳地帯になります。この広大な平野部のことを「東東亜平野(ひがしとうあへいや)」と呼びます。また琉球列島とこの東東亜平野との間にあった内海は、ヤマビルのような形をしていて、昔はどうやら「ひる湖」と呼ばれていたようなのです。

 こうした2万年前のおおよその地形は、お手元のスマホやパソコンでグーグルマップの航空写真モードを使うと、簡単に確認することができます。グーグルマップで、薄い水色に描かれているところが、すなわち2万年前には陸地だったところです。拡大してよく見ると、明らかに河口であったと思われる地形などを見ることができます。

 さて、ひる湖は、外洋とつながった地中海のような広大な塩水湖ですが、水深が浅く、現代でも世界一海が透明なところで、このためおそらくは海底にまで陽光が届き、その陽光を得た海藻(かいそう)が繁殖し、これを食べるプランクトンが豊富で、そのため魚の宝庫であったことが伺えます。しかも内海ですから波がおだやかで、漁労をするにはもってこいの場所でした。

 さらにおもしろいことには、この琉球ラインから、グアム島にかけてのグアム島ラインにかけては、赤道から暖流が流れ込み、それが還流していたであろうということです。この時代、ユーラシア大陸と北米大陸は陸続きです《これまたグーグルマップで確認できます》。ですから北極海からの寒流は南下してきません。一方、赤道から流れ込む暖流は、いまの台風の進路と同じように台湾から琉球諸島を北上し、本州から伊豆諸島、小笠原諸島《当時はどちらも列島》で南下するのです。つまり、この琉球ラインからグアム島ラインにかけては、最終氷河期という寒冷期にありながら、暖流のおかげでとても温暖であったであろうことが伺(うかが)えるのです。

 3万8千年前には、すでに伊豆半島から神津島までを船で往来していた倭人(わじん)たちです。時の経過とともに、2万年前にはこの海域を自在に船で往来していたであろうことは想像に難(かた)くありません。美しい海と島。島から島へと自由に海を渡って暮らす人々。地形で見る限り、まるで『モアナと伝説の海』さながらの暮らしが、この時代にあったのかもしれません。

 琉球ラインに住む人々、グアム島ラインに住む人々、両方を合わせても、当時の人口は15万〜20万人です。
それでいて何千年も経過すれば、すべての部族はみんな血がまじります。つまり全員が親戚になります。琉球ラインから、グアム島ラインまでは、広大なエリアですが、海を渡って暮らす人々にとっては、それらはひとつの広大な生活圏です。

 ただ、違いは、グアム島ラインが小さな島がポツポツ並んでいるのに対し、琉球ラインは列島を形成していて陸が大きいことです。陸が大きいということは、平野部が広がっていて、そこで養える人口が大きくなります。つまり力関係でいえば、琉球ライン側に住む人々の方が人口が多い分、力がある。また琉球ラインの王の屋敷は、おそらくサンゴや貝殻のパールで飾られた建物で、太陽の光を浴びて美しく輝いていたことでしょう。もしかすると、そんな美しい場所を、大昔の人々は「タカラのハラ」と呼んだのかもしれません。そして王宮は、太陽の光を浴びて、貝やサンゴが輝く、まさに「天(アマ)照らす王宮」と呼ばれていたのかもしれません。これが後に「タカラのハラ」の「アマテラス」となり、万年の時を越えて神格化された・・・のかもしれません。

 あくまでもこのあたりは想像です。が、もう少し続けます。海を渡って島から島へと渡って暮らすグアム島ラインで生活する人々にとって、島で帰りを待つ女性たちは、まさに「浅瀬(セ)に居(お)る」神に等しい存在です。
女性は子を産むのです。つまり新しい生命を生み育む。瀬(セ)に居(オ)る女性たちは、海で漁をして暮らす男たちにとって、まさに神そのものであったのかもしれません。それが万年の時を越えて、「セオリツヒメ《瀬織津比売》」として神格化されたのかもしれません。

 そうだったと決めつけているわけではありません。ただ、そういう想像をかきたてるところに、古代史のロマンはあるといえます。

 さて、1万5千年前から1万年前にかけて、氷河期が終わり、陸上の氷が徐々に溶けて、海面が上昇しはじめます。海岸線も、現在のものに近くなってきます。その間にグアム島ラインでは、多くの島が水没し、わずかな島が広大な海原に点在するだけになっていきました。琉球ラインでも、広大な東東亜平野が失われ、琉球諸島もまた頂上のあたりがわずかに顔を出すだけの、点在する島になりました。そして、あの波が穏やかで魚の多かった「ひる湖」も水没して失われてしまいました。

 生き残った人々のうち、琉球ラインの人々は、一部は島に残り、一部を九州に上陸させたであろうことは、想像に難くありません。グアム島ラインの人々もまた、日本の本州に上陸して、そこで暮らすようになりました。
おそらくそれがはじまったのが、気温変化からすると、およそ1万年前のことです。

 それまでの人々は、琉球ライン、グアム島ラインの人々ともに、もともとは海洋民族でしたが、生活の拠点となっていた島々を失うことで、陸上での生活を重視した生活を始めるようになりました。なぜなら彼らは「島はいつか沈む」という体験をしてきたからです。

 ところが多くの人々が住むようになった日本列島は、北も南も東も西も、自然災害の宝庫です。火山の爆発はあるし、大地震はあるし、おそろしい台風は毎年やってきます。そして大きな自然災害があると、陸上生活では、食べ物が失われ、餓死者が出ます。とりわけ大きな事件となったのが7300年前の九州鹿児島沖のアカホヤのの大噴火でした。この噴火は破局噴火といって、巨大な島ひとつがまるごと吹き飛んだ大噴火です。火山灰は東北地方にまで降り積もりました。

 火山の噴煙は、大量のガラス質を含みます。これを吸い込むと、肺にガラスが刺さり、呼吸不全を起こして死に至ります。わずかに生き残っても、空は何年にもわたって噴煙が覆い、地上の作物には火山灰が降り積もり、極端な冷夏となり、また海にもガラス繊維が大量に溶け込んで、魚たちを殺します。

 人というのは、おもしろいもので、それだけの大被害をもたらした大噴火であっても、生き残る人というのはいるものです。とりわけ季節風の影響で、北九州から山陰、越の国と呼ばれた今の富山県、新潟県、秋田県、青森県のあたりは、火山灰の影響をあまり受けずにすみました。また噴火した火山の南側に位置する沖縄諸島のあたりも、噴火の影響をほとんど受けずに済みました。つまり、巨大火山の噴火に遭っても、生き残った人々がいた、ということです。

 このことは、二つの事実を生んでいます。ひとつは青森県の三内丸山遺跡で、この遺跡の場所で集落が営まれるようになったのが、このアカホヤの火山噴火の少し後の時代からです。またやはり同じ時期から、九州北部から山陰地区、越前越後地区、それと朝鮮半島の南部から大型の釣り針が発掘されるようになりました。つまり、陸上で作物が採れなくなった分、大型の魚を採って腹を満たそうとしたのであろうと思われます。

 そして火山灰が沈静化し、真っ黒に灰をかぶった大地に、ふたたび緑が戻った頃には、琉球ラインの太陽が照らす「アマテラス国」から、祖母の種籾(たねもみ)をいただいて九州に上陸を果たした人たちがいましたのかもしれません。これがもしかするといわゆる天孫降臨(てんそんこうりん)かもしれない。なぜならそのように考えると、天孫降臨が九州の宮崎であったことに合理的な説明が付くからです。

 おもしろいもので、このときに降臨したとされるニニギノミコトの別名が、「天之杵火火置瀨尊(あめのぎほほぎせのみこと)」です。「タカラのハラ」の「アマテラス国」から、沖の瀬で火を吹いた火山のあった場所から火を置いてやってきた尊(みこと)」という名が日本書紀に記されています。

 ちなみに稲作が中国から朝鮮半島を経由して渡来という説がありますが、賛成できません。なぜなら稲は、もともと熱帯性植物だからです。熱帯には雨季と乾季があります。この気象条件のもとで育つのが稲です。その稲が水耕栽培されるようになるためには、稲を食べていた人たちの住むところの気候が、熱帯から温帯に変化する必要があります。必要こそ発明の母だからです。はじめから稲が育たない地域で稲を育てる理由がありません。

 広大な大地があったかつての琉球ラインの列島あたりは熱帯性気候であった可能性があります。そのあたりに自生していた稲が、いつしか食べられるようになり、しかも稲は、冷蔵庫のなかった時代において、唯一十年単位の備蓄ができる貴重な食料でした。そうした非常食が気候の変化で食べられなくなれば、なんとかして栽培しようとするのは、人の世の常です。そこから水耕栽培が始まったとみるのが合理的です。

 一方、畿内より東に住んでいた人たちはどうなったのでしょうか。グアム島ラインの人たちは、もともと海洋族です。火山灰が10センチ以上も積もり、陸上のでの生活ができないとなれば、船に乗って住める場所へと移動します。本州を島伝いに、アカホヤの噴煙の影響の少ない場所まで北上すると、青森県にたどり着きます。こうして三内丸山遺跡のあたりに、生き残った人々が住むするようになります。おそらく一部は北海道へも流れたことでしょう。

 幸いなことに、アカホヤの噴火のあと、日本列島の年平均気温が2度ほど上昇し、青森から北海道のあたりは、いまの関東なみの気温になっていたようです。当時の青森は、温暖で住みよかったのです。《いまが住みにくいと言っているわけではありません。いまほど雪に閉ざされることがなかった、ということです。》
アカホヤの噴火後に生き残った人たちは、日本列島全体で、おそらく1万人以下だったことでしょう。もしかしたら、数千人だったかもしれない。けれど人々は繁殖し、次第に人口が増え、また噴火の影響がおさまるにつれて、人々の居住場所は、日本列島全域に広がっていったと考えられます。

 こうして日本は、主にグアム島ラインの人々が東日本に住み、主に琉球ラインの人たちを祖先に持つ人達が西日本に暮らすようになっていったと考えれます。ただし、数百年もすれば、すべての人は地が混ざり合うので、日本全国誰もが親戚なってしまいますが。

 個人的に、日本人が北のバイカル湖のあたりからやってきた北方系と、大陸から半島を経由してやってきた大陸系に分かれるという説は、成立しにくいと思っています。なぜなら、大陸からやってきたのだという説は、人が生きるために塩分を必要としているという、原資生活における基本的な課題を忘れているように思えるからです。

 また、着るものもろくにない裸の人類が、食べ物を得て安心して暮らすためには、森で生活するよりも、海で生活するほうが、はるかに楽だし合理的です。実際、いま、なんらかの天変地異でいきなり文明が崩壊した場合、森で獣や樹の実をとって生活するのは、普通に考えて、まずたいへんなことです。うさぎやたぬきを捕まえようと思っても、そうそう簡単につかまるものではないからです。けれど捕まえて食べなければ人が死んでしまう。しかも着衣さえない。ハダカで森を走り回ったら、草木で体が傷だらけになります。ところが海なら、海で魚や海藻や貝を拾って生活することが、素人でもある程度可能です。ただし、人には真水が必要ですから、陸があり、山があり、川が流れるある程度の大きさのある島でなければ、人は生活できません。

 万年の単位で、人々の営みを考えるときには、地形の変化や気温の変化といった問題は、考古上、避けて通れないものであるように思います。ようやくそうしたことが考慮された、新たな古代史研究がなされるようになってきました。これからの考古学は、まさに注目の的(まと)です。

 何千年も前のこと、万年の昔のことなど、いま考えても、何の役にも立たないではないかと思われる方も多いかと思います。私もそう思います。ただ大切なことは、古代がどうだったのかという知識にあるのではありません。
従来説をただ鵜呑みにするのではなく、「さまざまな事実から、自分なりの仮説を立てて、これをストーリー化し、それを記述し、さらに周りの人を説得し理解を得ていく」というところに意味があります。なぜならわたしたちがいま抱えている様々な難問や課題に対処するためには、やはり「さまざまな事実から、自分なりの仮説を立てて、これをストーリー化し、それを記述し、さらに周りの人を説得し理解を得ていく」必要があるからです。

 歴史を学ぶということは、いわゆる歴史マニアになることとは違うと思うのです。歴史を学ぶということは、我々が現代を生き、未来を拓く力を得ることにつながる。そこに歴史を学ぶ意義があるのだと思うのです。

 日本人は、いまでこそ稲作民族と呼ばれるようになりましたが、そうなったのは、ほんの2〜3千年前からのことです。万年の単位で歴史をさかのぼれば、日本人はもともと海洋族であったことがわかります。
 海洋族と、陸上族の間には、大きな文化の隔(へだ)たりがあります。
 陸上では王などの権力者から逃れることができないため、いきおい上下と支配の関係が成立しやすい文化となります。これに対し海洋族は、王などの権力者が、何を大声で怒鳴ろうと、船に乗って大海原に出てしまえば、王が何を言おうがまったく関係ありません。つまり自由人なのです。

 いまでも日本人には、
誰かがひとつの思想等を強要しても、
「てやんでえ、
 こっちにはこっちの
 やり方ってえものがあるんでえ」
といった気分が濃厚にあります。

日本でキリスト教を布教しようとした
戦国時代のバテレンたちが
布教がうまくできなかったのも、

明治時代に欧米列強諸国が
日本にキリスト教を布教しようとして
うまく行かなかったのも、

戦後GHQが
さかんにキリスト教を布教しようとして
うまく行かなかったのも、

共産主義が莫大な資金を投じて
日本人のマインドの解体工作を行っていながら、
ここへきて日本人としての精神性に目覚める人たちが
続々と数を増していることも、

仏教があれだけの巨大建造物を用いて
国内の布教に勤めながら、
いまだに大半の日本人が
お正月になれば神社に参拝に行くのも、

もしかすると、
もともとの日本人が海洋族であり、
人から言われたことよりも、
自分で良かれと思うことを優先するという
自由な気性を
万年の単位で
熟成してきたから
なのかもしれません。

 いまどきは学校で、一部の外国からやってきた生徒が、生粋の日本人の同級生に対して、支配者たろうとする傾向があるのだと聞きます。けれど日本人は、誰が支配者となろうが、関係ない。俺には俺の生き方がある。勝手にやってろい!といった気分は、ほとんどの日本人の心のなかにあることです。

 日本人は、元来、海洋型の自由人なのです。


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20200401 日本書紀
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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年生まれ。浜松市出身。上場信販会社を経て執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。またインターネット・ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。「歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに」という理念を掲げ活動する。古事記・日本書紀・万葉集などの原文を丁寧に読み解き、誰にでも納得できる日本論を発信。

《著書》日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、その他執筆多数。

《動画》「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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