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大西瀧治郎中将といえば、特攻隊の生みの親として有名です。
けれど実は真珠湾攻撃の原案作成者でもあります。
大西中将は、航空艦隊参謀長だった昭和16(1941)年1月に、山本五十六連合艦隊司令長官から、
「ハワイを航空攻撃できないか」
と腹案を示されたのだそうです。
それで源田実中佐らと協力して真珠湾攻撃計画を作成し、この作戦を見事成功させました。
大西中将は、たいへん優秀な作戦参謀であったわけです。
ただし、大西中将には疑問があったといわれています。
当時、大西参謀に与えられた作戦は、真珠湾の攻略です。
参謀ですから、当然、これを達成できる作戦を考案するし、その作戦を成功させるために、要員の訓練も施(ほどこ)します。
ハワイの真珠湾を攻撃し、米国の真珠湾基地を占領してそこを日本の軍の支配下におけば、なるほど米国の太平洋進出を停めることができるかもしれない。
従って、大西中将としては、自分に与えられたのは、航空機による真珠湾奇襲作戦であっても、当然奇襲後の真珠湾基地の占領作戦、米兵捕虜の鹵獲(ろかく)と収容、そしてハワイを前進基地にした際の対米軍事作戦が煮詰められているものであると考えたわけです。
ところが蓋を開けてみれば、あった作戦は大西参謀に与えられた航空機による奇襲作戦だけです。
「そんなバカな!
それでは何のために奇襲したのか、
まったく意味不明ではないか。」
これは、大西中将ならずとも、作戦を考案する参謀なら、誰もが当然同じ思いを持つものです。
疑問を持ったとしても、大西参謀は、自分に与えられた作戦を、たとえそれが全体としておかしなものであったとしても、立案し、実行していかなければなりません。
それが軍人としての大西参謀の使命だからです。
ところがいよいよ戦況が押し迫まり、グアムが陥落し、硫黄島が陥落したとき、ついに大西参謀に、沖縄戦の作戦立案の命令が下っています。
グアムと硫黄島が陥落したあと、米軍がどこに攻めかかるのか。
日本本土に決戦の場を設けるなら、そのための基地が必要になります。
そうであれば次には沖縄が標的となるということは、当時、予期できることです。
これまでの島嶼の戦いから、米軍の上陸作戦は明確です。
攻撃対象となる島の海に、海が見えなくなるほどたくさんの艦船を並べ、徹底した艦砲射撃と空爆で蟻の這い出る隙間もないほどの爆撃をし、地上に何もなくなったのを見計らってから、上陸作戦に移るというものです。
パターンはいつも同じです。
ということは、沖縄戦に際しては、米軍は全艦隊ともいえるだけの艦隊を沖縄の海に浮かべることになります。
そしてこの時期、日本は原爆の完成を急いでいました。
当時は威力の大きな新型爆弾という名称です。
沖縄の海上に集結した米艦隊の頭上で、その新型爆弾を炸裂させれば、米国は太平洋艦隊を一瞬で失います。
日米戦は、その瞬間に形成が一気に逆転します。
そしてこの作戦を実現するためには、まずは沖縄本島の住民を本土、および沖縄本島北部に疎開させる必要があります。
このため沖縄県民の疎開作戦は、前年(昭和19年)の7月から開始しています。
これはサイパン島が陥落してから、すぐのことです。
戦いはその後、グアム、パラオ、硫黄島と進んでいます。
沖縄の疎開開始が、特別に早いことに注目すべきです。
ところがこの疎開が、当時の沖縄県知事によってあからさまな妨害に遭います。
このため県民の疎開が進まない。
さらに昭和20年1月の時点で、参謀長が昭和天皇に新型爆弾開発と使用の報告を奏上すると、陛下は、その開発も使用も、一切をお認めになりませんでした。
日本の原爆開発については、諸説あります。
日本にはウランがなくて、開発が不可能であったとするものが多い。
ウランと、原爆の製造方法については、ドイツから教わる必要があったけれど、ドイツのUボートは、この時期日本にやってくることができなかった、等々です。
ところが不思議なことに、当時広島県呉の海軍軍港の近くに住んでいた方々は、呉の軍港にドイツのUボートが浮かんでいる姿を目撃しています。
公式には「日本に来ることができなかった」とされているUボートが、目撃されているのです。
このこのと持つ意味は重要です。
さて、陛下の御意思が新型爆弾(原爆)を使わない、開発もしないということであれば、当然に沖縄戦における新型爆弾の使用はできません。
つまり沖縄作戦は、根底から作戦の変更を余儀なくされることになります。
そこで次善の策として考案されたのが、特攻作戦であったわけです。
つまり、米艦隊の真上で新型爆弾を炸裂させることで、米艦隊を一瞬で壊滅させることができないなら、人間爆弾で250キロ爆弾を搭載した戦闘機で敵艦をひとつずつ抹殺していくしかない。
他に選択の余地はないのです。
こうして特攻作戦が生まれました。
昭和19(1944)年10月20日、早朝のことです。
大西瀧治郎中将は、初代海軍特別攻撃隊(特攻隊)に任命された関大尉以下、敷島隊の隊員達を集めて訓示を行いました。
大西瀧治郎中将の訓示

その訓示です。
「日本はまさに危機である。
この危機を救いうるものは、
大臣でも軍令部総長でも、
地位の低い司令官でもない。
私は一億国民にかわって、
みなに犠牲をお願いし、
みなの成功を祈る。
みなはすでに神であるから、
世俗的な欲望はないだろう。
がもしあるとすれば、
それは君たちの体当たりが
成功したかどうかであろう。
みなは永い眠りにつくのであるから、
それを知ることはできないだろう。
我々もその結果を
みなに知らせることはできない。
私はみなの努力を最期までみとどけて、
上聞に達するようにしよう。
この点については、
みな安心してくれ。」
ここまで話して、中将は涙ぐまれたそうです。
涙ぐむと思います。
新型爆弾を使用するならば、この子達を死地に追いやる必要はなかったのです。
けれど新型爆弾は、その開発さえできず、この子たちを死地に追いやらなければならない。
それは人の上に立つものとして、苦渋の決断であり、悲しみです。
だから大西中将は、自分で出撃する若者に会い、そして訓示をし、握手をしました。
そしてこのとき、大西中将は隊員たちひとりひとりの顔を、その目にしっかりと焼き付けるように見回したそうです。
そしてひとこと、
「しっかり頼む!」
と訓示されました。
映画やドラマなどの中では、中将がこの訓示の中で、
「私も君たちのあとを追う」
と述べたとしているものがあります。
しかし当日この場に居合わせた人の話では、中将は隊員に対し、
「君たちを送るのに際し、
私は行くことはできない。
なぜなら私は将官だからだ」
と述べられたのだそうです。
この言葉にも大西中将の悔しさがにじみます。
実際に中将がどのように語られたかは、私達はその場にいあわせたわけではないのでわかりません。
けれどひとつはっきりと言えることは、
「行けない」と述べられた、
もしくは何も言わなくても、
「行けない」と、みんながちゃんとわかって話を聞いていた、ということです。
いまどきのテレビや新聞や国会の野党さんたちなら、
「部下に死ねと言っておいて
自分は助かろうというのか。
それは問題発言ではないのか」
などと大騒ぎするかもしれないところですが、日本人の場合、そんな歪んだ心では全然ないのです。
当時の隊員たちは、誰も中将に特攻してもらいたいなどと毛ほども思わなかったし、それ以上に大西中将の心にある大きな愛と誠を感じていたし、そこに深い信頼の絆があったのです。
どういうことかというと、隊員たちは全員、特攻命令を出す側の大西中将が、自分で飛行機に乗って体当たり突撃をする方がよほど楽だと知っていたのです。
なぜか?
簡単なことです。
一瞬で死ねるからです。
けれど大西中将は作戦指揮者です。
指揮者は戦いの帰趨を見極めなければなりません。
見極めるためには、みんなと一緒に死ぬことができない。
ひとたび飛行機が飛び立てば、作戦の成功はひとえに隊員たちの技量に、すべて委ねられます。
目的を告げ、作戦の成功を祈り、すべてを隊員たちに委ねる。
そして自らは、最後の最後まで戦線の帰趨を見守り、責任を持って戦いを勝利に導く。
それが作戦を企画する中将の責任です。
大西中将は、このときすでにみずからの死を覚悟していたといいます。
その覚悟を全員が「知って」いたし、わかっていたから、中将が「行けない」という、その言葉の裏側にある覚悟をみんなが感じ取ったし、中将の言葉の重さを、誰もが理解したのです。
死を前にして、こういう心の言葉のやりとりができるというのは、当時の軍人たちが、いかに優秀だったかということ、そして日本人の民度がいかに高かったかの何よりの証拠だと思います。
すこし脱線しますが、日本人のような顔をしていて日本人ではない人が会社の経営者になったり、事務所の所長になったりして日本人を雇った場合、労働時間は16時間があたりまえなのだそうです。
もちろん給料は8時間分しか払われません。
要するに日本人は責任感が強いし、怒鳴りつければ何でも言うことを聞くから、1日8時間分の賃金で16時間働かせれば、その分、生産に対して人件費が事実上半分になるから儲かる、というのが彼らのコミュニティの中での常識なのだそうです。
それに文句を言ってきたら、怒鳴る。
いつまでも怒鳴り続ける、毎日怒鳴る。
それで退社したら、あたかも会社側が被害者であるかのようにして、辞めた者の悪口を何年でもずっと言い続ける。
ほとんど偏執狂みたいですが、それが日本社会では通用すると思っているし、事実それが通用してきたのが戦後日本でした。
つまりそれが彼らにとっての成功体験でもあるわけです。
彼らの祖国では、権力者が倒れるときは、下の人達がまるで手のひらを返したように、権力者に対して徹底的に石礫を浴びせますが、それだけ彼らは日常的に高圧的に支配され、理不尽を強要され続けることで、社会的ストレスを抱えこんでいるわけです。
だから、きっかけがあると爆発したような蜂の巣をつついたような騒ぎになります。
そうなってしまうほど、上に立つ者が自分だけがいい思いをして、部下に対して理不尽かつ高圧的であることが常態となっているわけです。
そしてその原因となっているのが、彼らの社会全体を支配しているものが、上下関係による支配の構図です。
下の人は、そのような上になることを望むし、上にある人は自分以外を徹底的にこき下ろして下からの収奪を図り、わがままをし放題に通します。
「ウシハク」社会というのは、およそ、そういうものです。
だから我が国では、古来、権力者のさらに上位に権威を置いて、シラスの中にそのウシハクを内包させてきたのです。
そうすることによって、権力を持つ者は、どこまでもみんなのために人生を捧げるという社会構造が培(つちか)われてきたのです。
日本はそもそもそういう社会だから、下の人(この場合は隊員)たちも、上司である大西中将に絶対の信頼を寄せることができたのです。
これから死ぬとわかっている者が、死を命じる上司にそれだけの信頼を寄せることができる。
そういう社会というのは、これはすごいことだと思います。
こういう話を聞いたことがあります。
課長が部下に、目の前にある肥溜めに飛び込めと命令する。
「はい。わかりました」
と、部下を肥溜めに飛び込ませることができるのが、優秀な課長だ、という話です。
いまならパワハラだと言われそうなことですが、それができる上司には、極端に異なる2つの風土があります。
ひとつは、有無を言わせない高圧的かつ独裁的な上司であること。
もうひとつは、大西中将のように、部下から絶対の信頼を持たれる上司になること。
両者の外見はよく似ています。
どちらも部下を死地に追い込むことができます。
けれど前者はそのために安直な組織ができ、後者では、立派な組織が生まれます。
その違いとはどこにあるのでしょうか。
当時のパイロットは、勉学優秀で、国内最難関の海軍兵学校を卒業した若者であり、しかも運動神経抜群で、視力もよい若者です。
要するに、勉強ができて、頭もよくて、運動ができて、礼儀正しくて、字もきれいな、超優秀な若者です。
ガリ勉で視力が落ちたら、それだけで飛行機乗りにはなれません。
彼らは、日本人の若者としてとびっきり優秀な若者であり「宝」です。
その「宝」に、「死ね」と命令する。
しかも「私は行けない」と言わなければならない。
その辛さ。
涙なくしては語れないことだと思います。
そしてそのことを相互に理解できた旧日本軍というのは、上官と部下との間に、強烈かつ強固な相互信頼関係が熟成された、真のチーム、チームというより、むしろ家族そのものといえるものでした。
さらに、中将は隊に常駐しているわけではありません。
おそらく隊長の関大尉ですら、大西中将にお目にかかるのは、はじめてのことです。
けれどそのはじめて会う相手にさえ、絶対的といえるだけの強固な相互信頼が成立する。
誰だって命は惜しいです。
その命を捨ててまで奉公する。
軍人としてだけではない、互いに一個の人間として、深く結ばれた<絆>と<信頼>があったからこそ、中将の訓示は、隊員たちの胸に沁みたし、中将もそれを語ることができています。
「武士は己を知るもののために死す」という言葉があります。
出世のためでもない、贅沢のためでもない、自分のためでもない。
「わかってくれている」と信じ切ることができるから、死ぬことができるのです。
特攻までして戦わなければならないことは悲しいことです。
しかし、そこまでの信頼の絆を持てる社会を生きるというのは、人に生まれて、ある意味最高の男の幸せといえるかもしれない。
それだけの社会を、戦前戦中までの日本は、現実に実現してきたのです。
戦後の日本の教育は、友や隣人を愛しなさいと教えます。
けれど国は悪いことをするところだから愛してはいけないと教えます。
しかし国家とは、その国に住む人々みんなの共同体です。
ということは、みんなの友や家族、隣人の相和が、国家なのであり、国家を愛することがいけないことなら、その国家に住むすべての人を愛してはいけないことになります。
これは矛盾です。
国家が共同体であることを忘れ、共同体の中の互いの信頼を忘れて個人主義に走れば、人々は和をなくし、社会の紐帯はバラバラになってしまうからです。
大西瀧治郎中将

昭和20年5月、大西中将は、軍令部次長として内地に帰還されました。
しかし彼は、同じ都内にある我が家へは帰りませんでした。
官舎に独居していました。
それを聞いた者が、
「週に一度は帰宅して
奥さんの家庭料理を
食べてはどうですか」
と勧めたそうです。
すると中将は、
「君、家庭料理どころか、
特攻隊員は家庭生活も
知らないで死んでいったんだよ。
614人もだよ。
俺と握手していったのが
614人もいるんだよ」
と目に涙をためて答えられたそうです。
若く将来性のある優秀な若者を死の突撃に送りだしたことへの責任を、その重さを、大西中将は誰よりも深く抱かれていたのです。
中将は、終戦の玉音放送の翌日、自らの軍刀で、切腹されました。
ふつう切腹は、重量の軽い短刀を用います。
そして介錯がつきます。
しかし中将は、ひとりで重たい軍刀を手に取り、腹を十字に切り裂き、自決されました。
古式の作法にのっとり、腹を切ったあと、自らの手で頸動脈を切ろうされました。
けれど軍刀は長刀だからずしりと重い。
切腹で体力を使い果たした中将には、もう重たい軍刀で自分の首を斬るだけの体力が残っていませんでした。
翌朝、大西中将は官舎の者に、部屋で血まみれで倒れているところを発見されました。
まだ息があったのですが、中将は医師の手当てを拒みました。
そして発見後約6時間、痛みに耐え続けた後、息絶えられました。
上司・上官の覚悟の言葉を聞いても批判しかできない社会、ただ高圧的なだけの低俗な馬鹿者が組織の頂点に立つだけでなく、終身会長などという戯言かと思うような名聞名利の名声を手に入れる社会と、覚悟の言葉を聞いて、しっかりとその覚悟を受け止めれる高い精神性を持つ社会。
いったいどちらが、世界に認められる国家となりえるでしょうか。
現代日本に生きる私達は、自分は「人間」であると思っています。
なんの疑問も抱かずに、それが世界の常識であると思っています。
けれど、ほんの数十年前までは、それは世界の非常識でした。
人間は、白人種だけであり、有色人種は人間でなく「獣」の一種のヒトモドキと看做されていました。
ですから欧米による植民地統治というのは、白人という人間が、有色人種という野蛮な猿人を統御する国際社会の常識的仕組みだったのです。
そんな馬鹿なと思うかもしれませんが、それが事実です。
そしてそういう世界にあって、日本人は、どの白人国家より、どの白人種より、知的で、勇敢で、高潔で、誰からも好かれる民族たらんとしました。
だからこそ日本は世界から認められる人間の国家となり得たのです。
大西中将は、そうした日本を代表する、勇気と高邁な精神を持った、立派な帝国軍人としての生き様を、まさに体現されたのです。
高い教育と、高邁な精神、他人のために自らの命すら犠牲を厭わない日本人の心。
そうした無形の「心」が、日本人にとって、なによりも尊い財産として、厳に存在していました。
私達は、そういう日本にあった無形の「心」という財産を、大切にしていかなければならないのではないかと思うのです。
大西瀧治郎海軍中将の遺書です。
特攻隊の英霊に曰す
善く戦いたり深謝す
最後の勝利を信じつゝ肉弾として散華せり
然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり
吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす
次に一般青壮年に告ぐ
我が死にして輕挙は利敵行為なるを思ひ
聖旨に副ひ奉り自重忍苦するの誠ともならば幸なり
隠忍するとも日本人たるの矜持を失ふ勿れ
諸氏は國の寳なり
平時に處し猶ほ克く特攻精神を堅持し
日本民族の福祉と世界人類の和平の為最善を尽くせよ文中に、「自重忍苦する誠、隠忍するとも日本人たる矜持を失ふ勿れ」とあります。
誠意が相手に伝わるまでは、ものすごく時間がかかるかもしれない。
その間、日本は一方的に断罪され続けるかもしれない。
けれど、だからといっておのれを忘れて軽挙に走れば、それこそ日本を陥れたい人たちの思うつぼになります。
断罪され続けている間、自重忍苦することは、とてもつらいことかもしれない。
けれど、それこそが「誠(まこと)」であると、大西中将は述べられています。
けれど、です。
だからといって卑屈になってはいけない。
「隠忍するとも日本人たる矜持を失ふ勿れ」なのです。
大西中将の事績については、賛否両論あることは承知しています。
また新型爆弾使用の次善の策として特攻が用いられたという見方には、賛否両論あろうかとも思います。
しかし思うのです。
歴史は学ぶものです。
戦局苦しい中にあって、それでも勝利を模索し、さらにはたとえ国が破れ、国民精神が崩壊したとしても、その精神が後世にしっかりと残り、100年の後、500年の後、あるいは千年の後に、再び日本精神とその矜持が不死鳥のように蘇(よみがえ)る。
あるいは蘇らせようとするならば、もしくは蘇らせたいならば、批判よりも前に、その精神と行動から、何を学び取るのかが大切なことなのではないかと思います。
※この記事は2009年8月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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