日本は昭和20年8月15日に戦いの矛をおさめました。そして東京裁判によって東亜諸国を侵略したとして裁かれました。けれど、まさにその裁判のさなかに、東亜の諸国は再び植民地支配しようと戻ってきた(東京裁判で日本を侵略国として裁いていた)諸国と果敢に戦っていたのです。大東亜の戦いは終戦の日以降も続いていたのです。 さまざまな意味において、日本は世界にものすごく大きな影響を与え続けた大国といえます。 陸の面積にばかり目や心を奪われないことです。 移動速度は、陸上の面積を超えることができるのです。
インドネシア独立戦争 画像出所=https://www.mag2.com/p/news/192427 (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。 画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。) 人気ブログランキング 応援クリック は
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
お時間のある方は、是非、下の動画を御覧いただきたいのですが、この動画の中で加瀬先生が、
「日本は昭和20年8月15日に戦いの矛をおさめたが、日本が東京裁判によって東亜諸国を侵略したとして裁かれていた、まさにそのときに、東亜の諸国は再び植民地支配しようと戻ってきた(東京裁判で日本を侵略国として裁いていた)諸国と、東亜の諸国は果敢に戦っていた。大東亜の戦いは終戦の日以降も続いていたのだ。」
との指摘をなさっておいでになります。
これはとても重要な指摘です。
終戦記念日特別番組第二弾!! 日本はいかに『理想の人種平等の世界』を作ったのか?! 加瀬英明 中村功VIDEO 先の大戦について、大東亜戦争という呼称を禁じ、太平洋戦争(The Pacific War)と呼ぶことを強制したのはGHQ(General Headquarters)です。
米国では「The War in the Pacific」と呼ばれますが、英国では「極東戦争」と呼ばれています。
クリストファー・ソーン(Christopher Thorne)やA・J・P.・テーラー(Alan John P. Taylor)など英国の歴史家たちは、
「先の大戦は、日米間で使用されている太平洋戦争では、戦争の地理的・地政学的側面の性格づけが、とくにその広範囲にわたる影響に関してはほとんどなされていない。
日本はアジアにおける英国の勢力を駆逐するために戦争を始めたのであり、結果として英国は植民地を失い敗北したのだから、極東戦争、あるいは日本が用いている大東亜戦争と称することが適切である」
と指摘しています。
また日本においても、国際政治学者の柳沢英二郎氏や、加藤正男氏などは、
「日米戦争は西太平洋の覇権をめぐる闘いとしての戦争であり、日本にとっては東南アにおける勢力圏確立のための手段であったのだから、『アジア・太平洋戦争』と呼ぶべきである」
との指摘をしています。
そもそも戦争というのは、単一の目的によって行なわれるものではありません。
さまざまな事象が折り重なって、外交上の最後の手段として行われるものです。
そしてこの時期、日本は有色人種として、唯一の独立国家であり(タイも独立を保っていたとはいえ、ほぼ完全に英国の指揮下にありましたから、すでに完全な独立国とは言い難い)、かつ国際政治上、きわめて大きな勢力を持つ国になっていました。
日本が欧米諸国から追い詰められるようになった原因は、第一次世界大戦後に開催されたパリ講和会議(1919年・大正8年)において、日本が国際連盟憲章に「人種の平等を入れるべし」との案を正式に国際舞台に出したことに起因します。
これは人道的には正しい議論です。
しかし、植民地支配によって富を得ていて、かつ政治的な影響力が大きい欧米諸国の経済人すべてを敵に回す発言であったわけです。
それまで世界最強の海軍国である大英帝国と対等な同盟関係を結んでいた日本は、これによって欧米諸国(の大金持ちたち)にとっての明確な「敵」となりました。
一方で有色人種諸国からの日本への期待も高まりました。
これも上の動画のなかで加瀬先生が述べられていますが、昭和5年(1930年)当時、独立を守ろうとしていたエチオピアの王子が、日本の華族出身の黒田雅子さんと婚約に至ったことがありました。
それだけ日本に対する期待が高かったのです。
しかし、当時大評判になったこの婚約は、残念なことに欧米諸国の猛烈な反対によって破談になりました。
なかでもイタリアのムッソリーニは、強硬に反対を唱えていたのですが、なんとそのムッソリーニは、破談の5年後の1935年(昭和10年)にエチオビアに侵攻、使ってはいけないはずの毒ガスを用いてエチオピア軍を壊滅させ、エチオピアを植民地にしています。
こうした欧米列強による理不尽が次々と行われる中、日本は大東亜共栄圏構想を打ち上げ、東亜諸国の独立と発展を標榜していき、ついに先の大戦に至るわけです。
500年続いた植民地支配を守ろうとする欧米諸国と、結果として植民地の解放を意味する人種の平等を目指す日本。
この両者の溝は、ますます深まっていったのです。
そして昭和16年、ついに戦争になる。
戦争は、日本国中が焼け野原になって、昭和20年8月15日に日本は自主的に戦闘を終結させました。
けれど、それで大東亜の戦いが終わったわけではありません。
東亜諸国は、日本が敗れたあと、再び自国を植民地支配しようと戻ってきた欧米諸国と果敢に戦い、ついにそれぞれの国が独立を手にしています。
並べてみると以下のとおりです。
インド、パキスタン、インドネシアの独立記念日が昭和20年年8月17日
ベトナムの独立が昭和20年9月2日
フィリピンの独立記念日が昭和21年7月4日
ビルマの独立記念日が昭和23年1月4日
スリランカの独立記念日が昭和23年2月4日
韓国の独立記念日が昭和23年8月15日
北朝鮮の独立記念日が昭和23年9月9日
台湾の独立記念日が昭和24年12月7日
カンボジアの独立記念日が昭和28年11月9日
ラオスの独立記念日が昭和29年7月19日
中共の独立記念日が昭和29年10月1日
マレーシアの独立記念日が昭和38年9月16日
シンガポールの独立記念日が昭和40年8月9日
バングラディッシュの独立記念日が昭和46年3月26日
です。
これら諸国は、日本の終戦以後、再び舞い戻ってきた欧米諸国とそれぞれ独立記念日以後も果敢に戦い、勝利し、そしてようやく独立を果たしました。
たとえばインドネシアでは、独立宣言は日本が戦いを終了した翌々日ですが、オランダはこれを認めずに再植民地化を図ろうと英国の協力を得て軍事侵攻しました。
この戦いは、昭和24年(1949年)12月のオランダ-インドネシア円卓会議によるオランダからの無条件での独立承認の日まで、まる4年間も続いています。
そしてこの戦いで、インドネシアに残留した日本軍人3千人のうち、およそ千人が命を失ないました。
ちなみにこのとき、インドネシアにいた華僑は、むしろオランダ側に加担してインドネシア人に銃を向けたのは有名な話です。
国家というものは、軍事的な戦いによって独立を勝ち得たとしても、それだけで国ができあがるわけではありません。
国家が国家として成立するためには、国を営むための行政機構の整備や法整備、経済的繁栄を支えるための経済、財政政策などが必要です。
これはたとえていえば、生まれたての赤ちゃんに、母親がいないと子が生き残れないのと同じです。
ひとあし早く戦争を終結させていた日本は、まさに東亜諸国の母となって、各国の支援を行い、それぞれの国の法整備、行政機構の整備、企業誘致、観光資源開発などに、莫大な援助を行ないました。
そしてその行動は、まさに母と同じく、無償の、ただ一方的な愛情によるものでした。
東亜諸国のこうした独立への動きは、そのままアフリカの黒人諸国や、中東諸国にも伝播していきました。
1900年のパリ・オリンピックの参加国は、世界24カ国です。
これは参加しなかった国が多かったのではなくて、世界にそれしか国がなかったからです。
たとえば、いまのインドネシアからベトナム、ラオス、などのあたりは、フランス領インドシナという名の、フランスの一部の地方であり、インドは英国領のなかのインド地方でした。
ところが今年行われるはずだった東京五輪では、参加国は207カ国です。
これは、世界中のそれぞれの有色人種諸国が独立を果たした結果です。
そしてその独立の背後には、日本による無償の、また無私の努力と、日本人の激しい戦いがあったのです。
20世紀における最大の出来事とは何でしょう。
それは「500年続いた植民地支配の終焉」です。
そしてこれを実現したのは、間違いなく日本です。
もし、日本の戦いがなければ、おそらく21世紀となったいまでも、世界は欧米列強による植民地支配のままに置かれていたことでしょう。
いまなお、白人の贅沢のためだけに存在する、私権の認められないただの家畜、それが有色人種に与えられた地位となっていたことでしょう。
日本は世界の良心ともいえる国です。
その日本人が、どこかの国の真似をして、アコギな道に進んだとしても、日本にはそのような歴史も伝統も有りませんから、アコギな道では、おそらく日本は世界に敵いません。
そうではなく、日本と日本人は、個人であっても国であっても、どこまでも良心と誠意という善の道を進む。
清らかであたたかかくて、明るい、それが日本書紀に書かれた「清陽(すみてあきらか)」です。
そして男は、いくつになっても、そのような国柄を守る清潔で正義感あふれる日本男児であらねばなりません。
それが「ますらをの道」です。
※「ますらを」は、りっぱな男や勇気ある強い男を意味する大和言葉です。
最後にひとつ。
2万年前、まだ海面が低かった時代、日本列島から小笠原諸島、グアム島、パラオ、西パプア、フィリピン、台湾、琉球諸島、日本列島まで、向こうに見えている島伝いにぐるりと一周することができました。
島伝いに船で進むと、何ヶ月もかかって、元の島にまで戻ってくるのです。
もしかすると、わ(輪・環)のクニという言葉は、そこから来たているのかもしれません。
ちなみに「ムー大陸」という言葉がありますが、古語で「む」は広大なを意味します。
いま太平洋の海底を調べてみると、どこにもかつて大陸があったことを示す場所が存在しませんが、上に述べた環状の島々のことを、古代の人達が、「広大な環」という意味で「ムー」と呼んでいたことは、十分にありえることと思います。
我々はこれまで、日本が農耕民族だと教えられてきましたが、農耕民族というのならチャイナもコリアも農耕民族です。
けれど、どうみても、どこからみても、チャイニーズやコリアンと日本人とでは気質がまるで違います。
理由は様々でしょうけれど、筆者は、なかでも最大の理由は、もともと万年の単位で、わじん(倭人・環人)たちは、海洋で暮らす海洋民族であったことが、精神性に極めて重大な影響を及ぼしたのではないかと思っています。
そして、陸上に住む人々よりも、葦で造った帆船を操作して暮らすわじん(倭人・環人)たちの行動範囲は、ものすごく広い。
そしてアカホヤの破局噴火のときに、そんなわじん(倭人・環人)たちが、まさに世界に散り、世界に文明文化を伝えてきたのではないか。
そのように見ています。
また、モンゴルの大帝国を築いたのも、日本の黄金と武士の制度。
そのモンゴルが崩壊した後に起きたオスマン・トルコの興隆も、日本の黄金が影響を与え、幕末に日本から流出した黄金は、その後の欧米の動乱の原因となっています。
そして、先の大戦では、日本は世界から植民地を駆逐しました。
さまざまな意味において、日本は世界にものすごく大きな影響を与え続けた大国といえます。
陸の面積にばかり目や心を奪われないことです。
移動速度は、陸上の面積を超えることができるのです。
この記事は昨年同日の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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