生麦事件から薩英戦争への道筋に於いて、薩摩は断固として戦うという道を通しました。 結果、軽々に賠償に応じた幕府は倒れました。 及ばずながらも力一杯戦った薩摩は生残って維新の立役者となりました。 いざというときに、戦う覚悟と実行を示すことは、わたしたちがこの世界を生きて行く上で、とても重要なことです。 |

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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに小名木善行です。
8月21日といえば「生麦事件(なまむぎじけん)」が起きた日です。
(新暦ですと9月14日になります。)
文久2年(1862)の出来事です。
この事件は、江戸から京都に向かう薩摩藩の行列に、前方を横浜在住の英国人4人が乗馬のまま乗り入り、薩摩藩士がこれを静止したけれど、4人の英国人は馬上のままどんどん行列の中に侵入。
やむなく警護役の薩摩藩士がこの4人を無礼討ちにし、1人が死亡、2人を負傷させたという事件です。
この時代、王族や貴族のこうした隊列を荒らす行為は、一種のテロ行為に等しく、犯人はその場で全員現行犯で殺害されても仕方がないというのが世界の常識です。
ですから薩摩藩の行為には国際社会において完全に正当性があり、本来ならこれを咎めることは誰にもできません。
もっとわかりやすく言うならば、英国やフランスの貴族の行列に、もし日本人が乗馬したまま乗り入れれば、その場で射殺されるし、そのことによる苦情はどこからも決して来ることはありません。
なぜならそれが当時の世界の常識であったからです。
けれどもその逆は通用しない。
力こそが正義の時代です。
欧米列強には力があり、有色人種には彼らに匹敵する力がない。
力がなければ、人とさえもみなされない。
それが当時の世界の現実でした。
ですから当時の英国人の感覚からすれば、
「動物園で猿の行列を、おもしろいから車で横切ってみた。」
それだけのことです。
怒った猿が、横切った人を殺せば、襲った猿の側が「処分」されます。
その意味では、現代も力の世界であることに、実はなんら違いがないといえるかもしれません。
生麦事件後、英国は幕府に謝罪と賠償金10万ポンドの要求、薩摩藩に対しても犯人の処罰と賠償金2万5千ポンドを要求しています。
「幕府は屈服して賠償金を支払い、
薩摩は屈服を拒否したために薩英戦争が起き、結果敗北した」
というのが戦後的歴史認識です。
鹿児島の薩英戦争記念館でも、まさにそのような歴史認識での展示が行われています。
それが汚鮮され政治的に変形された我が国の歴史学会の定説であり、司馬遼太郎の空想歴史小説に描かれたストーリーだからです。
歴史とは、あくまで過去に起きた出来事を、時系列に沿って系統立てて再現可能性がマックスになるようにストーリー化する学問です。
政治は都合が優先しますが、歴史は事実が優先します。
出来上がったストーリーに、再現可能性があるかないか。
それこそが歴史が科学であるのか、政治であるのかの違いです。
薩英戦争で英国が勝ったというなら、なぜ英国は薩摩への上陸さえできず、横浜に撤退したのでしょうか。
撤退したというのならば、それは勝利をあきらめた=敗退したということではないでしょうか。
まず薩英戦争です。
薩摩が賠償金の支払いを拒否したことを理由に、英国は、翌年7月2日の未明、旗艦ユーライアラスを先頭に、7隻の艦隊で薩摩湾に侵入、薩摩藩で、薩摩の汽船3隻を拿捕(だほ)しました。
これは薩摩湾への無許可侵入であり、薩摩藩の汽船の不法拿捕という明らかな国際法違反の行為です。
さらに英国艦隊は艦上から、21門のアームストロング砲を含む合計100門の砲で、薩摩の陸上砲台を砲撃しました。
これに対し薩摩藩は、正午、湾内各所に設置した陸上砲台80門で、英国艦隊に向けて反撃のための砲撃を行いました。
さらに英国艦隊司令長官のクーパー提督は、拿捕した薩摩の蒸気船3艦に火をつけ、これを燃やして沈没させました。
また英国艦隊は、鹿児島城や城下町に対して無差別砲撃を行いました。
これによって城下で大規模な火災が発生しました。
そして「薩摩側が戦いに敗北したのだけれど、あきらかに火力の勝る英国艦隊に対し、旧式の大砲しか持たない薩摩が果敢な戦いをしたことで、英国は薩摩の戦力を高く評価するようになり、英国のそれまでの幕府支持の方針を転換させ、英国と薩摩との連携を促進させ、英国は、以後全面的に薩摩を応援し、バックアプするようになった」といわれています。
ところが薩英戦争による損害を見ると、
英国 艦隊7隻の戦艦のうち、大破1、中破2。死傷者63人。
薩摩 非戦闘員の死者5~8人(死亡の時点のずれによって人数が異なる)
負傷者18人。
鹿児島城内の櫓、門など損壊、集成館、鋳銭局、民家350余戸、
藩士屋敷160余戸、
藩汽船3隻、民間船5隻の焼失です。
しかも薩摩の奮闘により英国艦隊は撃退されています。
英国は上陸さえもできていません。
勝敗を言うなら、どうみても薩摩の勝利です。
なぜこのようなことが起こったのかというと、実はこのとき英国艦隊は、当時としては国際的最新鋭最先端最強とされるアームストロング砲を装備していたのです。
アームストロング砲は、炸裂弾を発射できるという、当時の世界にあって、画期的な大砲でした。
それまでの大砲は、単に鉄球を発射するだけのものでした。
普通に考えて、砲筒の中で火薬を燃焼させて、砲弾を発射することは簡単に理解できると思います。
ところが炸裂弾を発射するということは、砲筒の中で火薬を燃焼させて爆弾を発射するのです。
当然のことながら、発射しようとした瞬間に、砲筒の中で爆弾が炸裂してしまうリスクがあるわけです。
薩英戦争は、世界で初めてこのアームストロング砲が用いられた戦争です。
ところがこのアームストロング砲、実戦では、ほとんどの砲弾が、発射時に自爆してしまったのです。
大砲の発射テストでは合格だったのに、なぜこのようなことが起きたのかというと、実戦では、続けて速射が行われるからです。
銃もそうですが、大砲は速射すると砲身が熱を帯びて真っ赤になります。
そのようなところに火薬を入れれば、その時点で火薬が燃焼(爆発)してしまうし、なんとか砲弾発射までにこぎつけたとしても、発射の瞬間に砲身自体が爆発してしまうのです。
薩摩側から見ると、これは意外な展開でした。
薩摩が鉄球を飛ばす大砲を発射すると、なぜか英国戦艦で爆発が起こるのです。
実際には英国戦艦が自爆しているわけですが、おかげで7隻の戦艦のうち、3隻が大破・中破してしまいました。
英国海軍が薩摩湾までやってきたのは、砲撃によってお金を出させることが目的です。
それが戦争に負けたとなると、賠償金どころではなくなってしまう。
そもそも国際法違反を犯しているのは英国側なのです。
一方、薩英戦争が始まる前、幕府は英国海軍に10万ポンド分の賠償金を支払っています。
これは当然です。
生麦事件に怒った英国が、江戸湾に侵入して江戸の街に砲撃を加えたら、当時の江戸は木造建築です。
しかも世界最大の250万の人口が密集し、かつ英国艦隊が持つ大砲は炸裂弾です。
これを江戸市中に撃ち込まれたら、江戸は大火災が起きる。
「おほみたから」である庶民の生命と財産を守ることが征夷大将軍である幕府の最大の使命です。
このような事態があらかじめ予期できるのに、英国艦隊に砲を撃たせたら、その時点で幕府の敗北なのです。
人口過疎地である地方都市と、江戸では、地理的条件があまりにも違いすぎるのです。
しかしだからといって、10万ポンドは大金です。
そのような大金をなぜ幕府は簡単に支払ったのか。
実はそこには、まったく別な理由があります。
実はこの頃、鐚銭(びたせん)といって、本来流通してはいけない民間ベースの純度の低い銀銭が出回っていたのです。
これは放置すれば、通貨体制を混乱させますから、幕府は全国的な鐚銭取締を行い、見つけ次第、これを回収していました。
しかし回収しても、これを改鋳して、正規の銀貨にしようとすると、費用が倍かかる。
つまり回収しても、その処分のしようがなかったのです。
つまり、粗大ゴミです。
これがちょうど、10万ポンド分。
英国海軍が言ってきている額が、同じく10万ポンド分。
というわけで、幕府は英国にそのゴミを渡して、英国も喜び、幕府も喜んだというのが、実際の出来事です。
幕府はまさにWin-Winを実現したのです。
ちなみにこのときの鐚銭のことを、なぜか「レアル銀貨」と美しい言葉に置き換えて、「幕府は英国の要請に屈して英国の求めるレアル銀貨を支払った」などと書いているものがありますが、まあ、ものは言いようというレベルの話です。
それにしても、当時の10万ポンドは、いまのお金に換算したら、およそ20億円程度です(諸説あって300億円相当という説もあります)。
それだけの銀を、粗大ゴミと思っていた幕府もすごい!(笑)
ただ、このことは現代日本人は決して笑えないことで、現代日本もまた、黄金の都市鉱山を中共に、ただでくれてやっています。
この結果、現在日本が保有する金(GOLD)は765トン、中共の保有する金(GOLD)は、日本のおよそ2.5倍の1875トンです。
まさに「塵も積もれば山となる」なのです。
貨幣は、実はいまでもゴールドの裏付けがなければ信用になりません。
米ドルが世界の貿易基軸通貨であるのは、ゴールドと石油の二つによってドルの信用が支えられていることによります。
日本円は、「金と石油で裏付けのあるドルと、安定的に交換できる通貨」としてしか、世界通貨としての信用がないのです。
話が脱線しましたが、薩英戦争は、そもそも8月21日の生麦事件に端を発しますが、この事件の前に、日英修好通商条約が締結されていました。
そのなかには治外法権の規定があります。
つまり、日本にいても英国人が日本の法に従う必要はないとされていたのです。
「猿の世界のルールは、人間には適用されない」
というのが、治外法権の本質的な意味です。
そしてこの薩英戦争の4年後、朝廷から王政復古の大号令が下されました。
日本が、艱難辛苦の上、ようやく治外法権から脱して、関税自主権を回復したのは、明治44(1911)年のことです。
このとき、ようやく日本は世界と対等な国を実現しています。
それは生麦事件から49年後のことです。
けれど、そのわずか10年後の1921年(大正10年)には、日本はワシントン軍縮会議で、海軍力を弱められ、ここから次々と軍事力の弱化を強要されて、ついには石油まで禁輸処置されて、やむなく大東亜を戦い、敗戦して、以後、ずっと占領統治化に置かれ、いまなお、外国軍の基地が日本に置かれているという状況が続いています。
さらに戦後に生まれた国連では、いまなお日本は「敵国」とされたままです。
外国軍基地は、いわば治外法権地帯ですし、敵国とされているということは、対等な地位とは言い難い。
ということは、日本は、いまだ不平等条約下にあるということです。
明治維新の志士たちが夢見た坂の上の雲とは、不平等条約の解消と、国際社会における日本の対等性です。
それがいまなお実現されていないとするならば、日本の明治維新は、まだ終わっていないことになります。
ちなみにこの生麦事件から薩英戦争への道筋に於いて、薩摩は断固として戦うという道を通しました。
結果、軽々に賠償に応じた幕府は倒れました。
及ばずながらも力一杯戦った薩摩は生残って維新の立役者となりました。
いざというときに、戦う覚悟と実行を示すことは、わたしたちがこの世界を生きて行く上で、とても重要なことといえるのえはないでしょうか。
世界には、人の皮をかぶったケダモノが、現実にいます。
さらにそのケダモノが、国を自称していることもある。
大国になっていることさえもあります。
そういうケダモノは、人ではなく、やはりケダモノとして扱わなければなりません。
そうしなければ、人の世の平穏を保つことができないからです。
人の皮をかぶったケダモノが一国を統治すること、あるいは町中に放置することは、市中に野生の猿を放つのと同じです。
捕まえて野に戻すか、さもなくば射殺しなければなりません。
猿を野放しにして、人類が猿になるか。
それとも人類社会を護るために、猿を射殺すか。
つらいことかもしれませんが、選ぶべきは後者です。
・・・・
ペアトという人が当時の生麦のあたりの写真を撮っています。
道路をよくご覧になってください。
チリひとつおちていません。
これが当時の日本の民度です。
・・・さて、最近の日本はどうでしょうか。
※この記事は2009年9月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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