戦争に敗れるということがどういうことなのか。 当時中学3年生だった山崎満男君の手記から学んでみたいと思います。 「二度と戦争の悲惨を繰り返してはいけない」 このことは我々日本人にとって国民的合意事項であると思っています。 けれど、それだけではいけないのだと思います。 「私達は二度と、戦争に敗れてはならない」 このことを、私達日本人は、しっかりと肝に命じていかなければなりません。 |
満州国の新京・吉野町の様子

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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
ある中学生の手記
山崎満男(仮名)
僕ら日本人の一団は、吉林省の平安屯で、ひとつの団体を作りました。
ロシア軍が不意に国境を越えて満洲国に侵入したとき、吉林省内の各地に散らばって開拓の仕事をしていた人たちは、何一つ持つこともなく、着の身着のままで吉林に向かいました。
でも吉林もロシア軍が侵入してきて、無茶苦茶なことをしていたので、平安屯に集まった人たちでひとつの団体を作って、新京に逃れることにしたのです。
この新京に到着するまでの出来事を思い出すと、いろいろのことが山のようにあります。
その出来事というのは、ロシア人と満人から日本人である僕らがいじめられたということです。
ロシア人にとって、日本人というのは虫けら以下でした。
あの当時、ロシア兵は日本人を殺そうが、焼いて食おうが、自由気ままにできました。
平安屯から新京までの間でも、ずいぶん痛めつけられました。
ようやく新京に着いたので、これで安心と思ったのは、日本人のヌカ喜びでした。
ロシア兵と満人が、田舎から出てきた僕らに対し、虫けらでも殺すのと同じように殺したり、傷つけたり平気でした。
道をひとりで歩けませんから、二、三人で歩いていると、不穏の動きがあると言ってロシア兵から取り締まられました。
ロシア兵に見つかって逃げると、すぐパーンと銃で撃たれました。
それで日本人が死んでも、それは全く日本人が悪いのだというのです。
何をしても日本人の言うことは通用しないし、いじめることではロシア人ほど上手な奴はいないでしょう。
あれは、人間ではなくて、鬼か蛇のようなケモノ達でした。
結局、僕たちは新京にいてはいけないと、ロシア兵が言うのです。
とうとう平安屯から一緒にきた日本人は、ハルピンに追いやられることになりました。
さんざん苦労してハルピンに着いたのは、満洲では降った雪が来年まで溶けないと言われる11月の中ごろでした。
そのハルピンも、僕たちにとっては永住の地ではありませんでした。
もちろん僕たちも戦争に負けた日本人のひとりだから、そんなに楽な生活をしようとは思ってなかったのです。
しかしロシア軍が、日本の強い兵隊がいたときに満洲に攻めてきて、強い日本軍と戦争して勝って満洲国に入ってきたのだったら仕方がないとあきらめるけれど、ロシア軍というのは卑怯な奴だから、強い日本軍がほとんどいなくなったすきに、コソ泥のように満洲に入ってきて、日本人である僕たちをいじめるのだから、腹が立って仕方なかったのです。
もし僕がもっと大きくて力をもっていたら、僕ひとりでもロシア兵と戦うのになあと思いました。
ロシア兵はそんな無茶苦茶なことをするのです。
僕たちは、みんな、歯を食いしばってロシア兵の乱暴に耐えたのです。
こうした思いをもってハルピンまでたどりついたのです。
ところがハルピンに着くと、ロシア兵がやってきて
「お前らのような汚い日本人をハルピンにおくことはできない。お前たちはみんな奉天に移動せよ」と申すのです。
やっとハルピンに着いたのに、また奉天に行けとはあんまりなことであったので、日本人を代表してロシア兵に抗議をしに行った日本のおじさんは、抗議をしたというだけで、その場で撃ち殺されてしまったのです。
僕たちは、もう、抗議をすることも、お願いをすることも許されないということを知らされました。
牛や馬が、人間の言うままに動かなくてはならないのと同じだったのです。
奉天に移動するということになると、もうひとつ大変困ったことがありました。
それは、平安屯から新京へ、新京からハルピンへと移動したのですが、実をいうと移動するたびに、僕らの持っている荷物が減ってくるのです。
そんなことはロシアの兵隊にはわからないし、また、わかっても言うことを聞くような奴らではありません。
ロシア兵という奴は、自分たちが少しでも機嫌が悪くなると、すぐ日本人をなぶり殺しにするのです。
日本人が死んで行くのを見ては、ワイワイ騒ぎながら酒を飲んで、自分たちの機嫌を直すのです。
こんなロシア兵が奉天に移れと言うので、仕方なく奉天に移ることにしました。
奉天に移ることになると、汽車に乗らなければなりません。
三時間汽車に乗ると、五時間歩かなければならなかったし、五時間汽車に乗ると、五万円も七万円も機関手に賄賂を渡さなくてはならなかったし、いやないやな旅でした。
ようやく奉天に着いたものの、もう12月も終わりに近づいていた満洲は、大変な寒さでした。
ハルピンも奉天もこの、寒いということでは、一緒であったし、平安屯から持ってきた着物などもほとんど売りつくしていたので、奉天の集中営に入ったときは、乞食と同じようになっていました。
この集中営に入ってからは、自分の持っている着物は全部身につけてしまったけれど、まだ寒いので毎日震えていました。
そして何もない、本当になにもないお正月が終わって、五、六日過ぎた頃、突然ロシア兵が十五、六名、どやどやと部屋の中に入ってきました。
そしてその中で日本人のような顔をしたロシア兵が、大きな声でわめくように、
「この中に、陸軍の将校の家族の者はいないか。いたらすぐロシア軍の司令部まで来い」と日本語で怒鳴ったのです。
僕たちはどうなることだろうと思っていましたが、誰もそんな人はいないだろうし、またいても、出て、ロシア軍の司令部に行くようなお人好しはいないだろうと思っていました。
すると僕のすぐそばにいた、僕をいつも可愛がってくれていた、山田というおばさんがすーっと立つのです。
僕はびっくりしました。
時がときだけに、僕の心臓は早鐘を打つように高鳴ってきました。
山田のおばさんは、そのまま外へ出て行こうとします。
僕はおばさんの後を追って、部屋を出ました。
そして集中営の出口のところで、山田のおばさんに追いつきました。
「おばさん、どこへいくの」と尋ねたのです。
するとふっと振り返った山田のおばさんは、いつもよりすこし青ざめた顔をしておりました。
しかし、いつものようの微笑みながら
「ロシア軍の司令部へ行くんですよ」と、いつもの変わらぬ口調でおっしゃるのです。
僕はこの山田のおばさんの言葉にびっくりして、
「おばさん、行っちゃだめだよ。ロシア軍の司令部に行ったら、どんなことをされるかわからないから、行っちゃだめ。おばさん、誰も知らないことだから、行かなくてもいいよ。それにおばさんは、軍人さんのおばさんですか」と尋ねると、
「そうです。おばさんのところのおじさんは、立派な軍人さんでした」
「おばさん、行かなくてもよいでしょう。行かないでください」
僕が頼むように言うと、おばさんは笑いながら、
「おばさんは、帝国軍人の妻ですよ。満男ちゃん、立派な人になって、戦争に負けた日本の国を、早く再建してください」と言い残すと、そのままロシア軍の司令部の方へすたすたといつもと同じような様子で、立ち去って行かれたのでした。
奉天に来てから、あんなに僕を可愛がってくれたあの優しいおばさんのことが胸いっぱいに湧き上がってきて、おもわず僕は泣きたくなりました。
そしてその翌日のことでした。
昼ごろになったので、日本人はみんな食事をしようかなと話し合っているときでした。
ロシア軍の司令部から、命令が出たとのことです。
それは日本人は全員、奉天駅前に集合せよ、とのことです。
みんなは、何だろうと話しながら、奉天の前に急いだのです。
ただ、僕は、奉天の駅前に集まれとの命令が出たときから、何かしきりと胸騒ぎがしていたのです。
それは何の胸騒ぎであるかわかりませんが、きっと何かおおきな不幸が怒るんじゃないかと、胸が痛いほど心配がたかぶってきたのです。
奉天の駅前に着いてみると、もう黒山のように人がいっぱい集まっていました。
日本人だけではありません。
満人も、鮮人も一緒でした。
日本人が一番前の方に出されました。
するとあの日本人のような顔をした日本語をよくしゃべるロシア兵が出てきて、集まっている日本人をにらみつけました。
「今日ここで、みんなに見せつけのために、日本のかつての陸軍の将校の家族のものを処刑する。正しくない戦争、侵略の戦争をすれば、その最後はこんなものになるのであるということを、みんな肝に銘じておけ」と大声で怒鳴るのです。
日本語が上手といっても、ロシア人です。
ところどころの日本語はわからないようなところもありましたが、何かこのロシア兵がわめいていることを聞いているうちに、ぞーっとしてまいりました。
そして僕の体が、ガタガタと震えだしたのです。
この日本語をしゃべるロシア兵が、しゃべり終わって後ろを向いて合図をしました。
すると、ちょうど奉天駅の前に、僕らが奉天に着いたときからあったロシア軍の大きな戦車の横から、十三名のロシア兵に連れられた日本の女の人が現われてきたのです。
僕はその女の人をパッと見たとき、のけぞるばかりに驚きました。
その女の人は、あの山田のおばさんだったのです。
「あっ・・、山田のおばさん」と僕は叫びだしたいような衝動に駆られました。
僕の膝はガクガクと揺れ出してしまって止まりません。
そしてその山田のおばさんの姿を見ていると、もう立っていることができないようになりました。
鬼より、野獣より、汚い恐いロシア兵が、山田のおばさんに何をするのだろうと不安で胸が破裂しそうです。
ロシア軍戦車の前に引き出された山田のおばさんは、薄紺のズボンに薄紺の上着を着ているのです。
とても綺麗なおばさんに見えるのです。
いままで山田のおばさんが、こんな綺麗な美しい人だとは知らなかったのです。
その山田のおばさんは、いま、僕の眼の前で、さみしそうだけれど、その顔には微笑みさえ見えるのでした。
やがてこの奉天駅前の広場に、五頭の馬が引き出されて来ました。
そしておばさんの右手と左手、右足と左足に、大きな縄がくくりつけられました。
そしてその縄のはしが、引き出された五頭の馬にそれぞれくくりつけられました。
山田のおばさんは、顔色を変えずにまだ立っていました。
そして僕たち日本人の方を静かに振り向きながら、はっきりした口調で、
「さようなら、みなさん。
元気で早く日本に帰ってください。
そしてまたきっと遇いましょう」
と言われました。
おばさんがこの言葉を言っているうちに、ひとりのロシア兵が出てきて、いきなりおばさんの顔を針金のようなものでピシリと殴り付けたのです。
おばさんの頬から、真っ赤な血潮がパッと吹きだすように流れました。
見ていた日本の女の人たちは、おもわず横を向いて目をつぶったのです。
見ていられなかったのです。
僕はおもわず、「おばさーん、おばさーん」と叫びました。
そしておばさんの方へ駆け出そうとしました。
その僕を、誰かがしっかり押さえました。
そのうち、もう一本の縄がおばさんの首にかけられ、馬にくくりつけられました。
やがて、ロシア兵の将校が現われてきました。
髭を生やした偉そうな男です。
この男が合図をすると、二人のロシア兵が来て、おばさんを押し倒し、そのおばさんの体の上に、このロシア兵が馬乗りになっていました。
五頭の馬には、ひとりずつ、ロシア兵が手綱と鞭を持って立っていました。
どうなることかと見守っていると、やがてあの髭を生やしたロシア将校が、さっと手をあげて合図をしました。
すると、ああ、いま思い出してもぞっとするあの惨劇が眼の前で行われたのです。
五人のロシア兵が馬の手綱をひきながら、鞭で馬の尻を叩いたのです。
馬は五方面に走りだしたのです。
そのときどうでしょう。
ギャーッという叫び声とバリバリという音が聞こえました。
そして山田のおばさんの体は無くなってしまっているのです。
ただ、蛇のような腸の切れ端が少し残っているだけだったのです。
満人と鮮人は、ワーッと喚声をあげていました。
ロシア兵はニタリニタリと笑っていました。
僕はとても見ていることができず、その場に座り込んでしまったのです。
動くことができなかったのです。
ロシア兵も満人も鮮人もいなくなりました。
あとに残ったのは日本人だけだったのです。
日本人の眼には、誰の眼にも涙が光っておりました。
僕はしばらくたって、あのおばさんの体の引き裂かれたものを、ひとつひとつ集めました。
ほかの日本人の人たちも、このおばさんの体を集めはじめました。
僕は、いまでも奉天という名を聞くだけで、何かを呪いたいような気持になさしめられるのです。
******以上が奉天駅前事件の顛末です。
力がなければ、正義はない。
力のない正義は、むしろ虐待を生む。
そのことを、私達は学ぶ必要があります。
山田のおばさんの悲劇は、終戦直後の事件ですが、戦後70余年を経由したいまも、同様の事件による日本人女性の被害は、いまもあとを絶ちません。
これで良いのでしょうか。
非道には力をもって対処しなければなりません。
そうでなければ、非道が横行します。
ひどい連中をのさばらせれば、まっとうな人達が迷惑を被るのです。
だからこそ人々の共同体としての国家に、力が必要とされます。
力は、国法の及ぶ範囲については、国権の警察力となります。
国法の及ばない問題、たとえば天変地異や他国の干渉や暴力に対しては、独立自尊のための国軍の保有となります。
この2つが揃って、はじめて私たちは平和と安定を保持することができます。
「二度と戦争の悲惨を繰り返してはいけない」
このことは我々日本人にとって国民的合意事項であると思っています。
けれど、それだけではいけないのだと思います
「私達は二度と、戦争に敗れてはならない」このことを、私達日本人は、しっかりと肝に命じていかなければなりません。
※この記事は、2010年12月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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コメント
ふみん
2021/08/24 URL 編集