米軍上陸軍司令官バックナー中将と石原正一郎陸軍大尉



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日本の歴史は恥ずべき歴史だと言う人がいます。
逆です。
日本の歴史は、調べれば調べるほど、真実を知れば知るほど、誇りが持てる歴史です。
私達の祖先や先輩たちは、そういう生き方をしてきたからです。

20200815 バックナー大将
20200815 バックナー大将
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小名木善行です。

昨日、沖縄戦での高級参謀であった八原博通大佐のことをご紹介しましたが、その中で沖縄戦の米陸軍司令官のサイモン・ボリバー・バックナー・ジュニア(Simon Bolivar Buckner, Jr.)大将について触れさせていただきました。
そこで今回は、米沖縄戦の司令官であったバックナー大将と、そのバックナー大将を射止めた石原大尉のことをお話したいと思います。

大東亜戦争における沖縄戦は、米軍側では「アイスバーグ(氷山)作戦」と呼ばれるものです。
もともとは、日本の大本営が読んだ通り、米軍は台湾攻略計画の「コーズウェイ(堤防)作戦」を策定していたのです。
ところがフィリピン進攻の成功によって、日米の戦力格差が格段に開いたと確信した米軍は、台湾攻略作戦を棚上して、沖縄作戦の展開を決めた。
これが、昭和19(1944)年10月3日の出来事です。

この日、米統合参謀本部は、沖縄作戦の立案を太平洋地域総司令部に指示します。
太平洋地域総司令官は、米海軍のニミッツ元帥です。

ニミッツ元帥は、10月25日には、沖縄攻略のための「アイスバーグ作戦計画」を策定し、さらに翌昭和20(1945)年1月6日には、作戦概要を各部隊に通達しました。
この計画は、実際に沖縄戦が始まる3月下旬までに何度も微調整され、おかげで作戦計画の細部に至るまで精巧なものとなります。

そして米陸海空軍統合作戦計画として完成した「アイスバーグ作戦」で、ニミッツ元帥の総指揮官のもと、参加兵力、54万8000人、軍艦318隻、特務艦船1139隻という大部隊による沖縄上陸作戦が展開されたのです。

欧州戦線を含めて、これだけ大規模な作戦は、世界史上まれな大作戦です。
沖縄の日本軍守備隊は、充分な装備もないまま、これだけの兵力を迎え討つことになったのです。

米軍の最前線に立つ沖縄本島の上陸部隊は、米国第10軍の18万2000人です。
指揮官は、サイモン・B・バックナー・ジュニア(Simon Bolivar Buckner, Jr)陸軍中将です。

バックナー大将は、南北戦争で、南軍の将軍であったサイモン・B・バックナーの息子です。
米国陸軍士官学校を優秀な成績で卒業し、アラスカ軍司令官としてアリューシャン戦線に従軍。その後、士官学校教官を経て、沖縄戦で上陸作戦の指揮官を委ねられています。

沖縄本島での戦いは、4月1日から6月22日まで、82日の激しい戦いでした。
この戦いの中、沖縄県民を救うために、本土からは約1900機の特攻機が出撃しています。
特攻隊の攻撃に対して、米海軍は、新開発の近接信管をもって対抗しました。

近接信管というのは、5インチ高角砲から発射される対空用の高射砲に用いられるもので、砲弾を中心に半径15メートルに電波が発射されていて、その電波が飛行機を察知した瞬間に炸裂するようになっていました。
弾が当たらなくても、近くに特攻機が来ただけで、飛行機にダメージを与えて撃墜してしまうのです。

そんな近接信管による砲弾を、まるで弾で幕を張るかのように撃ちまくられているなかを、若い日本の特攻兵は突入を敢行したのです。
特攻機は、この時代、すでにオクタン価の高いまともなガソリンを搭載できなくなっています。
粗悪なガソリンで飛行場を飛び立っても、敵地に着く前にエンジンがオーバーヒートする。
整備に整備を重ねても、質の劣化したガソリンでは、飛行機の本来の性能もままならない。
それでも彼らは、力の出ない飛行機に250キロもの大きな爆弾を積んで、夜間、目視だけで敵のレーダー網をかいくぐって敵艦隊に接近し、特攻攻撃を行いました。

米軍は、何十キロも手前で、すでにレーダーで何機が、高度何千メートルでやってきたのか、正確に把握しています。
そして大量の戦闘機で迎撃をする。
特攻機は、飛来する数十機の米軍戦闘機の出迎えを、重たい爆弾を抱えながらふりきり、ようやく目視で確認した敵艦に向かって突撃する。

敵艦からは、近接信管による砲弾が飛んでくる。
近くで炸裂した砲弾は、爆弾に仕掛けられた無数の鉄片とともに、特攻機と搭乗員に多大なダメージを与える。
大怪我をし、血まみれになった状態で、飛行機の体制をなんとか立て直し、特攻機は敵艦に向かう。

武力の乏しい、敵輸送艦を狙うなら、まだたやすいのかもしれません。
しかしこれだけ厳しい状態の中の特攻でありながら、彼ら特攻兵たちは、敵の軍艦や、空母といった軍用艦に対してだけ、攻撃を行っています。
武器を持たない敵への攻撃はしない。
それが日本の特攻隊員たちの武士道だからです。

特攻兵の活動について、
「当時の特攻機はほとんど撃墜され、
 実際に体当たりできた飛行機はなく、
 特攻は犬死にそのものだった」
という人がいます。

これは違います。
申し訳ないが、そのことは、敵将のニミッツの一言がすべて証明しています。
沖縄攻略戦の総指揮官であったニミッツ提督は、18万人の地上軍を指揮する陸軍のバックナー陸軍中将に、次のような異例の申し入れをしたのです。
これは、米軍の戦時記録に、明確に残されている出来事です。

「海軍は一日に1.5隻の割合で艦船を失っている。
 5日以内に第一線が動き始めなければ、
 貴官の更迭を求める。」

特攻機の攻撃が、何の成果もない犬死にだったとするなら、このニミッツ提督の言葉は、いったいどのように説明したらよいのでしょうか。

米軍の公式記録によれば、日本側の特攻攻撃により、米軍の軍艦34隻が沈没し、米軍の空母、戦艦368隻が重大な損傷を受けています。
特攻に飛び立った飛行機は1900機です。
おおむね4~5機の編隊で敵地に向かって飛んでいます。
攻撃回数を、1900÷5=380回とするなら、402隻の船に損傷を与えたという事実は、ほぼ全隊が、特攻攻撃で一定の成果をあげたということになります。
これは簡単な算数の問題です。
それを「なんの成果もなかった」だと言いきるなら、それは歴史を述べているのではなく、意図的に歴史を捻じ曲げる政治的発言をしていることになるのではないでしょうか。

大東亜戦争における米軍の記録では、その場で轟沈したもののみが沈没、重大な損傷を受けて、2~3日後に沈んだ船は、記録上は損傷という扱いとなっていることは、いまでは誰もが知る事実です。
その意味からも、日本の特攻攻撃が米軍からみて、いかに恐怖であったか理解できようと思います。

また米軍の被害は、
 軍艦34隻が沈没
 空母、戦艦368隻が重大な損傷
というものです。
そのどこにも「輸送艦」の文字がありません。

戦闘の勝敗だけを言うなら、敵に対するダメージは、ある意味、戦艦や空母よりも、輸送艦を叩いた方が、敵のダメージは大きいのです。
防御力が乏しく、食料、砲弾、ガソリン、兵員を満載した輸送艦を撃沈すれば、敵の戦力の消耗は計り知れない。
実際、日本軍の輸送船団は、南方戦線において数限りなく沈められています。

しかし日本は、敵がどれほど強大であったとしても、こちらがどんなに寡兵であったとしても、どんなに不利な状況にあったとしても、防御力に乏しい敵輸送艦隊への攻撃をしていません。
それが日本の武士の戦いというものだったのです。

18万人の米軍の沖縄上陸部隊を指揮したバックナー大将は、果敢に沖縄戦を戦い、ついに5月24日には、日本軍の司令部のあった首里を制圧しました。
日本軍の第32軍司令部は、南部島尻地区への撤退し、5月27日には津嘉山、30日には、さらに本島南端の摩文仁(まぶに)高地にまで、撤退しています。
この時点で、第32軍は、戦力の80パーセントを消耗していました。

そして、八重瀬岳方面の日本軍守備隊の独立混成第44旅団も、6月14日には全滅しています。
第62師団も、米軍の摩文仁高地進出を防ぐために全力反撃を実施して、6月15日、残存兵力の大半を失う。
6月17日には、喜屋武地区の第24師団も、師団としての組織的抵抗が不能になっています。

こうした状況の中、6月18日午後1時15分頃、摩文仁高地の眞栄田の最前線の戦闘視察中のバックナー大将が、砲弾の破片を胸に受けて亡くなりました。
受けた砲弾は、榴弾砲です。
最初の一発目が、中将の立っていたところから2メートルほどのところにある大きな岩に命中し、このときに飛ばされたサンゴが中将の胸を貫きました。

海兵師団のサーキシャー2等兵が、バックナー大将に駆け寄りました。
中将は、開口一番、「皆は大丈夫か?」と聞いたそうです。
サーキシャー2等兵は、
「将軍、大丈夫ですか、
 しっかりして下さい。
 あなたの家に帰りましょう」
と励ましました。

バックナー大将は、それを聞いて、力強く立ち上がろうとして、そのまま、どうと倒れる。
息は15分間ほどはあったけれど、結局、亡くなられてしまいます。
後に、日本側守備隊の牛島中将も亡くなっていますが、両軍の最高司令官が共に戦死するというのは、第二次世界大戦を通じて、極めて稀な出来事です。

このバックナー大将の死については、狙撃されたのだという説が、後年、日本国内で出ていますが、これは誤報です。
現に、このとき榴弾砲を撃った人物が生き延びています。
榴弾砲を放ったのは、当時、野戦重砲兵第一連隊中隊長だった石原正一郎大尉です。

部隊が位置していたのは、この丘から北に1300メートルほど離れた(当日車のメーターで測定)地点で、大砲を2門、草木で隠して敵がくるのを待っていました。
そこに、米軍のジープがやってきました。
敵が降り立ったのを見届け、砲弾を放ちました。

現地で大砲のあった場所から、バックナー大将の倒れた地点を眺めると、2000メートルくらい離れているように見えます。
これだけの距離で、よくぞ命中させることができたものだと、驚きます。

バックナー大将は、死後、沖縄に埋葬されますが、戦後、故郷に改葬されています。
そして、戦争が終わって9年目の、昭和29(1954)年、大将を追贈されています。

一方、榴弾砲を撃った石原氏は沖縄戦を、生き残りました。
そして、自分が放った砲弾が、バックナー大将を戦死させたことを、戦後になって知ります。
石原さんは、良心の呵責に悩み続けたそうです。

世間では、あれは自分は狙撃したんだという者まで現れて、腹立たしいところもあったけれど、いまさら名乗り出るわけにも行かない。
結局、石原正一郎元陸軍大尉が、事実を明らかにしたのは、平成14(2002)年になってからのことです。

まさに、バックナー大将が亡くなったのと同じ、6月18日の琉球新報に、その記事があります。

~~~~~~~~~~~~~~~
【沖縄に通い続け慰霊、収骨続ける/元砲撃隊長の石原さん(東京在住) 】
(2002年6月18日 琉球新報)

1945年6月18日、米軍沖縄占領部隊総司令官サイモン・B・バックナー大将が糸満市真栄里の高台で日本軍の砲弾によって戦死した。
57回目の命日を前に、日本側の当事者である当時の野戦重砲第一連隊の中隊長だった石原正一郎さん(85)=東京渋谷区=が、中将の死について明かすとともに、44年間通い続けた沖縄への思いを語った。

石原さんが隊長を務める同連隊・球第4401部隊はこの日、真壁村(現糸満市真壁)に配備されていた。
昼すぎに「真栄里の丘に米軍幹部の車が集まってい る」との報告を受けた。
「双眼鏡で方角と距離を確認し、14人の砲手が作業を進めた。残る砲弾は8発。すべて4キロ先の丘に向け発射。丘はがれきの山だった」 と振り返る。

これまで中将は、歩兵銃で狙撃されたとの説もあった。

しかし米軍側の戦死記録(米国陸軍省編/外間正四郎訳「日米最後の戦闘」)にも
「日本軍の砲弾が観 測所の真上でさく裂。吹き飛ばされた岩石の一つが中将の胸にあたり十分後に絶命した」と記されており、石原さんの証言と一致する。

使用されたりゅう弾砲は戦後、米軍が保管していたが、石原さんが「戦友の遺品」として返還を要求。
現在、靖国神社境内に展示されている。

これまで事実を公にしてこなかったが、
「私ももう85歳。事実を語り残すべきだと思った」と話す。

昭和60(1985)年には、中将が倒れた高台に慰霊碑を建立。
「米軍人が戦友の墓参りをする場を作りたかった」という。

またドキュメンタリー作家の上原正稔さんの仲介で現在は、中将の家族と手紙のやりとりも行っている。
体調を崩す2年前まで、44年間、6月には沖縄を訪れ、遺骨収集を行い、慰霊祭に出席した。

「尊い命を奪われた人々の無念さを思うとやり切れない。沖縄に通い続けたのは、生き残った者として当然やらねばならないことだから」と話す。

「6月23日は、国の慰霊の日にしなきゃいかん」
と力を込めて語る石原さん。
今年も沖縄へ行くことはできないが、自宅で静かに手を合わせ23日を迎える。
~~~~~~~~~~~~~

石原さんの所属した野戦重砲兵第一連隊は、連隊長山根忠大佐以下739名が、戦没されています。
石原正一郎さんは、その連隊のわずかな生存者のうちの一人です。

この記事を見たドキュメンタリー作家の上原正稔(しょうねん)さんは、この記事を見て、石原氏の存在を知ります。
そして石原氏に会い、
「バックナーのご家族は、
 貴方を恨んだりはしないから、
 家族あてに手紙を書いてみたらどうか。
 手紙は、私が届けます」
と話しました。

こうして上原氏は、石原氏が書いた手紙と、英訳した文章をバクナーの息子さんに渡しました。
バックナーの息子さんは、

「そういうことは僕は一切気にしていません。
 知らせてくれて有難うと伝えてください」
とおっしゃられたそうです。
さすがは、南北戦争の勇者の将軍の家柄です。

戦場では、お互いが死力を尽くして戦ったのです。
バックナー大将の息子さんは、そこのことを知って、
「気にしていないから」
とメッセージを下さったのです。

時はすこし前後するけれど、昭和43(1968)年に、日本軍守備隊第32軍の総大将だった牛島満大将の奥さんと、バックナー大将の奥さんが、沖縄の摩文仁を訪れています。

牛島大将の奥さんは、バックナー大将が戦死された眞栄田の丘も訪れ、中将のご冥福をお祈りされています。
そして、バックナー大将の奥さんもまた、牛島大将が自決した摩文仁の司令部壕を訪れ、祈りを捧げられています。
そしてお二人とも、
「砲兵山吹之塔」に参拝されています。

「砲兵山吹之塔」というのは、昭和41年(1966年)6月22日に、石原さんの寄贈により建立されたもので、野戦重砲兵第一連隊球第4401部隊、山根部隊長以下739柱、および、配属鉄血勤皇隊員12柱が祀られているものです。

そして、石原さんは、建立された年から、毎年欠かさずこの広場で年6月22日に催される慰霊祭に出席されています。

「砲兵山吹之塔」と石原正一郎さん
(昭和63年撮影)
「砲兵山吹之塔」と石原正一郎さん


石原さんは、バックナー大将を倒した榴弾砲まで、戦後、米軍から譲り受け、これを靖国神社に奉納されました。
実は、このバックナー大将の死が、沖縄戦に大きな影を落としています。

バックナー大将は、前線を視察にたちながら、日本軍の統制のとれた戦いぶり、すくなくとも緒戦において、物量も兵力も圧倒的な米軍を完全に釘づけにした抜群の戦闘手腕に、牛島中将に対しても深い敬愛の情を持つようになったといわれています。

そこで彼は、急遽、在米日系人の沖縄出身者を投降の説得役として呼び寄せ、また、自ら筆をとって牛島中将に降伏勧告文を送ったのです。

気がつけば、牛島中将ととバクナー中将は、共に同じ年齢、同じ階級です。
そして、ふたりとも、陸軍士官学校の校長経験者です。
兵科も、歩兵出身です。
そして戦いは、双方とも果敢です。

バックナー大将は、そうしたことから、牛島中将に強い親近感を感じていたのです。
そのバックナー大将の投稿勧告文です。

~~~~~~~~~~~~
第三十二軍司令官 牛島満中将閣下へ

牛島将軍、貴下に敬意をこめて、この一書を呈します。

貴下は歩兵戦術の大家にして、我々の尊敬を集めるに充分な、立派な戦をされました。
私も貴下と同じ歩兵出身で、貴下が孤立無援の、此の島で果された役割と成果に、満腔の理解を持ち、かつ賞讃を惜しまぬもので有ります。

然しながら、すでにこの島の飛行場は、自由に我々の使用する所となりました。
この上、貴下が戦闘を継続して前途ある青年たちを、絶望的な死に追いやる事は、甚だ意義のない無益な事と私は信じます。

私は人格高潔な指揮官である貴下に対し、速かに戦をやめ部下の生命を救助せられる事を勧告します。

明十二日、マブニ海岸沖の軍艦上に我が方の軍使を待機させます。
貴軍に於かれても、軍使五名を選び、白旗を持って、同地海岸に差し出される様、切に望みます。

昭和20年6月11日
米軍上陸軍司令官 中将 サイモン・バックナー
~~~~~~~~~~~

皮肉なことに、バックナー大将の投降勧告文書は、牛島中将が受け取る前に、バクナーが爆死してしまい、両軍の和解はできずに終わってしまいました。
戦争は、人類のもっとも汚ない面だけれど、ときに、人のもっとも美しい姿も見せてくれます。

私たちは、二度と、悲惨な戦争はしてはならないと思います。
けれど、だからといって、当時、戦わざるを得なかった状況で、果敢に戦った日米両軍の兵士たちを貶めるというのは、これは、人としてあってはならないことだと思います。

両軍が勇敢に戦った、その事実は事実として認めたところに、バックナー大将の奥さんや、息子さんたちのように、真の友情が芽生えるのではないか。
それは、戦いもしないで、日本が敗れた後に、突然戦勝国民を自称したような人や国には、決してわからないことであろうと思います。
なぜならそこに「ファクト(事実)」がないからです。

「嘘も百回言ったら本当になる」という人がいますが、それは希望的観測にすぎません。
百回言おうが、千回言おうが、嘘は嘘です。
たったひとつの真実の前に、嘘はもろくも崩壊するのです。

日本の歴史は恥ずべき歴史だと言う人がいます。
逆です。
日本の歴史は、調べれば調べるほど、真実を知れば知るほど、誇りが持てる歴史です。
私達の祖先や先輩たちは、そういう生き方をしてきたのです。


※この記事は、2010年10月26日の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年生まれ。浜松市出身。上場信販会社を経て執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。またインターネット・ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。「歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに」という理念を掲げ活動する。古事記・日本書紀・万葉集などの原文を丁寧に読み解き、誰にでも納得できる日本論を発信。

《著書》日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、その他執筆多数。

《動画》「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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