事実はシンプル。 歴史もシンプル。 活動もシンプル。 バカになってやり続ける。 そういうことが大事なのではないかと思っています。 |

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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
設問に、長い長い方程式が書いてあって、「その解を求めなさい」という問題。
中学や高校時代に、よくもまあ、こんな長い式を考えたものだと思えるほど、長い式が書いてある。
ところがそれを解いていくと、なんのことはない、答えは
x=2
でしかなかった!!なんていう経験をお持ちの方は多いと思います。
もっとも途中ですこし間違えると、x=2.9374619・・・なんていうような割り切れない解になったりする(笑)
自分で「これって絶対どっか間違えたよな」と思って、解答欄に仕方がないからエイヤッで「2」と書いたら、それがたまたま正解だった!(笑)
要は、言いたいことは、
「真実は常にシンプルである」
ということです。
難解に見える方程式も、解いてみれば「x=2、y=1」でしかなかったりする。
5000ピースもありそうなジグソーパズルは、ただ商業的な楽しみのためのものでしかなくて、出来上がってしまえば、それはよく知られた有名な絵画であったりします。
世の中には、そういう難解パズルが大好きな人もいますが、大切なことは、繰り返しになりますけれども、真実は常にシンプルなものであるということです。
シンプルであるということは、論理的整合性がとれていて、再現可能性がMAXである、ということです。
過去に起きた出来事というのは、まるでジグソーパズルの切片のようであり、日本の人口が1億なら、それは1億ピースのジグソーパズルです。
さらに歴史となると、その歴史に登場する人々の数は数十億に達するかもしれない。
でもできあがりは、常にシンプルな1枚の絵です。
歴史の場合、それらピースが、どのように組み合わさって、日本の歴史が織りなされてきたのかを考える。
事実をつなぎ合わせて、これこれこういうことがあれば、必ず結果はこうなる、というところまで煮詰めたものが、「歴史」です。
よく誤解されていることが2つあります。
ひとつは、歴史をジグソーパズルのピースを歴史と勘違いすることです。
テストのための学校教育がこれにあたります。
年号や事件名、人物名をひたすら丸暗記する。それが歴史だと勘違いする。
それらは年号学であり、暗記術であり歴史ではありません。
歴史はそれらのつながりを論理的に説明する学問です。
いまひとつは、誰かが唱えた論を、正しい歴史と勘違いすることです。
「家康が将軍になりたかったから関ケ原の戦いを起こした」というのは、誰かが唱えたストーリーでしかありません。
事実は、関ヶ原の戦いがあったということだけです。
では、なぜ家康は関ヶ原の戦いを起こさなければならなかったのか。
それは西暦1600年の出来事ですが、その1600年に生きていた人たちの中でも、おそらくその理由に対する考えは様々であったことでしょう。
けれど私たちは、その後の歴史を知っているわけです。
そこから、なぜ関ケ原の戦いがあったのかを考えてストーリー化する。
そこには100人の研究者があれば、100通りのストーリーが発案されてしかるべきなのです。
なかには、本になっていない筋書きもあることでしょう。
あるいは、過去においては考察が不十分だった点があるかもしれません。
それらを踏まえて、新たな考察をする。
その考察は、本邦初であって、それまで誰も唱えたことがないストーリーかもしれません。
それを「どこに書いてあるのですか?」というのは愚問です。
どこにも書いてない、誰も唱えていないから、提唱しているのです。
「歴史」とは過去の事実を再現性を持ってストーリー化したもののことを言います。
事実は、論ではありません。
再現性があるということは、科学的であるということで、ファンタジーではありません。
ストーリー化するということは、流れを明確にするということです。
たとえば歴史の授業では、
「1192年 源頼朝が征夷大将軍となり鎌倉幕府が成立した」
これがジグソーパズルのピース、つまり事実です。
ここから、
「どうして頼朝は鎌倉に幕府を開いたのか」という設問が生まれます。
人の考えですから、頼朝自身にも、様々な思考があったことでしょう。
それをできるだけ合理的に、論理的に、なるほどそういうことなら、幕府を鎌倉に開くよなあ、と誰もが納得できるストーリーにする。
その際に、ストーリーをファンタジーにしない。
これが歴史の要諦になります。
時代には、様々な流れがあります。
その当時の人口が500万人なら、500万通りの歴史があります。
その500万通りの中から、どの切片と切片を組み合わせていけば、歴史という一枚の絵が完成するのか。
ジグソーパズルのピースをバラバラに、あるいは適当に並べてみたところで、一枚の絵になることはありますまい。
ちゃんとあてはまるようにピースを並べていく。
そうすることで、歴史という一枚の絵が完成します。
そういう意味では、1192年にあったかどうかなどは、どうでもいいことです。
大切なことは「なぜか」を自分の頭で考えるところにあります。
この場合、答えは「自分ならこうする」というものが答えですから、正解というのはありません。
答えさえすれば、すべてが正解です。
ただし、議論のためには、ただ自分がこう思うというだけではダメで、それを同じクラスの生徒たちに、「その通り」と思わせるだけの事実の裏付けを行うことで説得性を持たせなければなりません。
そしてその説得性が最大になったものが、再現性のある歴史です。
もっというと、再現性がなければ、それは「歴史」の名に値しません。
さきほどの関ケ原の戦いでいえば、なぜ家康は関ケ原の戦いを挑んだのか。
多くの歴史家や小説家たちは、家康の権力欲を理由としていますが、これは理由になりません。
そもそも家康は、将軍就任後、わずか2年で秀吉系の血筋を持つ秀忠に将軍職を譲っています。
国内を二分するような大きな戦いをして、ようやく欲しかった征夷大将軍を手に入れたのなら、どうして家康はわずか2年で将軍職を息子に譲って駿府に隠居したのでしょうか。
つまり、家康強欲説は、説明に合理性、論理性、再現性を欠くのです。
また関ケ原の戦いに、全国の大大名がこぞって参加したことも疑問です。
当時の大名は、それぞれが一国一城の主ですが、戦(いくさ)ともなれば戦傷者や戦死者への手当や保障は、大名の役目です。これはものすごい出費です。
関ヶ原の戦いが行われた西暦1600年は、すでに世は、戦いに明け暮れた戦国時代ではありません。
戦国時代なら、滅ぼすか滅ぼされるか、生か死かという選択で、まさに常在戦場であったわけですが、関ケ原の戦いが行われた西暦1600年頃は、すでに天下は泰平です。
そんな泰平の世にあって、ただ耄碌(もうろく)爺さんが、権力を欲しがったからといって、全国の大名たちが、その応援のために、わざわざ関ヶ原まで馳せ参じるでしょうか。
かような点に、ちゃんとした合理的説明ができないのなら、それは歴史としての再現性が不足し、歴史としてはいささか不十分な解釈といわざるをえません。
信長の桶狭間の戦いも同じです。
信長が、乾坤一擲の戦いを挑んだというのなら、なぜ信長は戦いに先立って「人間五十年〜」と「敦盛」を舞ったのでしょうか。
「敦盛」の舞は、敗れる、殺されるとわかっていても、それでもあえて乾坤一擲の大勝負を挑まなければならないときの謡曲です。
はじめから、ただ敗れる、ただ殺されるとわかっている戦いなら、それは乾坤一擲の大勝負とはいいません。
それならむしろ、楠木正成の「湊川の戦い」です。
死ぬとわかっているから、死して七たび生まれ変わって護国の鬼となるのです。
それが「七生報国」で、この精神を代表するのが「湊川の戦い」です。
けれど信長は、決して死ぬことを選んだのではなく、今川義元の大軍に対し、勝ちに行っています。
しかし、さまざまな歴史書や小説は、その出撃の理由については、「もともと信長は大うつけだった」という程度の認識しかありません。
つまり信長がアホだから桶狭間の戦いを挑んだのだ、というわけです。
しかし信長がただのアホなら、天下統一など到底できないことです。
赤穂浪士も、浅野内匠頭が吉良上野介という爺さんにイジメられたから、ブチ切れて殿中で刃傷沙汰を起こしたことが理由と説明されています。
しかし史書が明かすように、吉良上野介はたいへん立派なお殿様で、民衆からも慕われていました。
一方、殿様が、爺さんにイジメられたと、切れて刃傷沙汰を起こすような人であるならば、そのような殿様のために、浪人してまで仇討ちをしようなどと、まともな武士が考えることではありません。
それでは赤穂浪士たちは、忠義の武士どころか、ただのマヌケです。
赤穂の義士たちは、マヌケどころか、たいへんに優秀な人達です。
ということは、何か別な、ちゃんとした理由があったのです。
もうひとついうと、先の大戦は、真珠湾攻撃に端を発するとよく言われますが、なぜそのとき日本は、ハワイの真珠湾を攻撃しなければならなかったのか。
そこに、どうしたら合理的かつ、再現性のある解を見出すことができるのでしょうか。
こうした疑問に答えを出すのが歴史です。
逆に、合理的な再現性のある答えを導くことができないなら、それは歴史の名に値しないということです。
戦後、GHQによって歴史教育は禁止され、ようやく復活したもののその歴史教育は、あくまで社会科の中の一課目であり、また学校で教えるのは年号と事件名と人物名だけであって、「どうしてそうなったのか」という、歴史教育で一番大切な部分は、戦後75年を経由した現在においても、まだ復活されていません。
昭和27年に主権を回復して独立を取り戻したはずの日本が、それから68年も経過していながら、どうして教育内容が占領統治下にあるのと同様のものになっているのか不思議に思っていたら、なんのことはない、文科省の教科書担当官が、北朝鮮のスパイだったとわかってなお、その者の処分さえもできない。
いつから日本は北朝鮮の属国になったのでしょうか。
江戸時代の寺子屋の教科書に使われた童子教に、次の言葉があります。
畜悪弟子者 悪しき弟子を畜(やしな)へば
師弟堕地獄 師弟地獄に堕(を)ち
養善弟子者 善き弟子を養へば
師弟到仏果 師弟仏果に到る
不順教弟子 教へに順(したが)はざる弟子は
早可返父母 早く父母に返すべし
公務員も同じです。
悪しき公務員を国が養えば、国は地獄に堕ちます。
そのような官僚は、早く北朝鮮に返すべきです。
真実というのは、常にシンプルなものです。
難解な答えは、多くの場合、たいてい不正解です。
あたりまえです。
集団が動くときには、極限までその理由がシンプルになっていなければ、集団は動かないからです。
このことは、あるひとつのことを私達に教えてくれます。
それは、
「シンプルな目的をひたすら追求していけば、
必ず目的は遂げられる」ということです。
日本を取り戻そうとするのに、良い政治家、優秀な政治リーダーを求めることは、当然のことといえます。
けれど、どんなに優秀な政治がが誕生したとしても、率いる民衆がアホなら、ゲンコツにものをいわせる辛い政府にならざるをえないのです。
逆に、民衆の民度が高ければ、立派な政治家が率いることで、必ず日本は良くなります。
この両者は、クルマの両輪なのです。
時事問題を語り、政治批判をする人はたくさんいます。
それを聞いて「怒り」の声を上げる人もたくさんいます。
それはもちろん必要なことです。
しかし、新しい未来を開くのに、「怒り」の声だけではいけないと思うのです。
胸に抱く誇りや、高い理想、高い民度、気高い精神、そういったものが不可欠だと思うのです。
いまの政治を100年批判し続けたとして、それで国は良くなるのでしょうか。国は変わるのでしょうか。
では、日本人としての誇りや自身を取り戻す活動を100年続けたときには、どうでしょうか。
そうすることで影響の輪が広がります。
そして政治というのは、有権者の、わずか5%が変わり、目覚めるだけで、流れが大きく変わります。
それが10%になり、20%になり、40%になったら、日本はどのように変わるでしょうか。
事実はシンプル。
歴史もシンプル。
活動もシンプル。
バカになってやり続ける。
そういうことが大事なのではないかと思っています。
お読みいただき、ありがとうございました。
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