諸般の事情から、拙著『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』からはこの解説を削除しました。 しかし私個人としては、本日書いた内容が、この『貧窮問答歌』の真実であると確信しています。 この歌は筑前の国司が、いまでいう半島事情を詠(えい)じた歌です。 |

画像出所=http://blog.livedoor.jp/hirohiko24-bokepuri/archives/18343825.html
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)
人気ブログランキング応援クリックは
←こちらから。いつもありがとうございます。
歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
山上憶良は、筑前の国司だった人です。
つまり筑前の国の頂点にある人です。
その山上憶良は、筑前の国の民のひとりひとりを、心から愛し、美しいと捉えてて、次の歌を遺しています。
【原文】
[題詞] 山上<臣>憶良詠秋野花<歌>(山上憶良 万葉集 巻八)
[其一] 秋野尓 咲有花乎 指折 可伎数者 七種花 [1537]
[其二] 芽之花 乎花葛花 瞿麦之花 姫部志 又藤袴 朝皃之花 [1538]【訓読み】
[其一] 秋の野に咲きある花を指折りて
かき数へれば七種(ななくさ)の花
[其二] 萩の花 尾花葛花 なでしこの花
をみなへし また藤袴 朝顔の花【かな】
[其一] あきののに さきあるはなを ゆびおりて
かきかぞへれば ななくさのはな
[其二] はぎのはな をばなくずはな なでしこのはな
をみなへし またふぢはかま あさがほのはな現代語に直訳すると
[其一] 秋の野に咲いている花を指折り数えると
七種の花がありますな
[其二] その七種とは萩の花、尾花(をばな)葛花(くずはな) なでしこの花 おみなえし、ふじばかま、あさがおの花です。といった感じになります。
これが「秋の七草」で、特徴としては、山上憶良は花を、ただ植物ととらえているのではなく、人とともにある「生きた友」としてそれぞれの花を鑑賞していることです。
花は「めでる」といいます。
漢字で書いたら「愛でる」で、意味は「目で愛(め)でる」、つまり眺めて楽しみ、かつ「愛」は「おもひ、いとし」ですから、いとしく思う。
花へのそんなやさしい気持ちや言葉遣いをしてきたのも、古くからの日本人の感性(かんせい)です。
さらに山上憶良は、それらの花を「野に咲く花」と詠んでいます。
つまり「野に咲く花」が「自然の中で力強く咲き、生きている花である」と解しています。
「いろいろな花」とは、憶良が勤める筑紫国の住民です。
その「いろいろな花」を、山上憶良は、美しいと詠んでいます。
だから題詞(ひたいのことば)で、「山上《臣》憶良詠秋野花歌」と書いています。
万葉集の選者は、筑前の国司だった山上憶良が、民衆を心から愛していたこと。
そして憶良が、天皇の臣(おみ)であると書いているのです。
つまり、憶良のように
「民衆を心から愛する者」こそが、
「万世一系の天皇の家臣」であるという認識の上に立っています。
ちなみに、この歌にある「朝貌(あさがお)」は、いまでいう桔梗(キキョウ)のことです。
私たち現代人にとってのアサガオは、夏の早朝に咲く朝顔ですが、この花は熱帯アジア産で、渡来したのは平安中期以降のことだからです。
山上憶良の時代には、まだ日本にアサガオはなかった。
山上憶良といえば、『貧窮問答歌』が有名です。
いまでも教科書に載っています。
この歌について、学校では、
「山上憶良の貧窮問答歌は
律令体制下の民衆の貧窮ぶりと
里長による苛酷な税の取り立ての様子を
写実的に歌った万葉集の有名な歌です」
と教えます。
教科書にもそのように書かれています。
だから日教組系の教師は、この『貧窮問答歌』を子供たちに全文暗記、暗誦させたりもします。
そうすることで、「日本が昔、どれだけ庶民からひどい搾取をしていたのか、これが証拠だから暗記しなさい!」というわけです。
実は、私も、暗記させられた組です。
ところが不思議なことに、古典の成績は決して悪くはなかったのですが、なぜかこの歌の暗記だけが、どうしてもできない。
結局テストでは、その問題だけ白紙答案で、学年順位を下げた遠い記憶があります。
けれども大人になって、社会経験をしてから、あらためてこの歌を読むと、実は全然違う意味であることに気付かされます。
ひとことでいうなら、人の上に立ち、責任をもって国を統治することを任せられた者が、自分が治めている国の成績が悪いことを自慢するような歌など、詠むはずがない、ということです。
まず、この歌が成立したのは、山上憶良が筑前の国司をしていた天平3〜5年(731〜733)のことです。
この時期、山上憶良は、筑前の国司をしていたわけですが、国司であるということは、筑前の行政に「全責任」を追う立場にあります。
そして民衆が貧しい生活を強いられているとするならば、その責任は当然、「全責任」を負う国司の責任となります。
しかも書いたものは、未来永劫残るのです。
しかも万葉集は、我が国の古典を代表する歌集です。
その歌集に、俺が治めている国の民衆が、日常的にあわれな生活状況にある、などという歌が載せられたのでは、自分の統治能力が最悪と言ってよいほど劣っていると吐露しているようなものです。
ところがその山上憶良は、庶民を心から愛しているのだ、という上に述べたような歌を遺しているのです。
このギャップを感じないほうが、どうかしています。
つまり筑前の国司が、わざわざ「ウチの国はこんなに庶民が貧乏です」と自慢するような歌を、詠むわけはないし、ましてそのような歌ならば、天皇の勅撰歌集である万葉集が、わざわざ掲載されるはずもないのです。
国司というのは、中央から派遣された、いまでいう県知事です。
戦後の日本では、県知事は、その県の人達が選挙によって選ぶようになりましたが、戦前までは、古代王朝時代からの継続で、すべて中央からの派遣です。
江戸時代では、全国各地は国司ではなく大名がこれを治めましたが、その大名たちは、参勤交代で年替わりで江戸詰めでした。
そして大名同士で血縁関係を結ぶなどしていました。
つまり全国のお大名たちは、互いによく知る間柄であったわけです。
どうしてこのような、いまでいう県知事、昔の大名や国司たちが、互いに顔見知りの関係であることが重視されたのかというと、ここには日本ならではのとても大切な、そして大きな理由があります。
その理由とは、日本が「天然の災害大国」である、ということです。
万一、自国全域が何らかの災害や凶作で食糧不足に陥った場合、豊作となった他国から、お米を融通してもらわなければならない。またその逆もあります。
畿内が凶作でも、関東が豊作なら、関東からお米をまわす。
関東が凶作で、畿内が豊作なら、畿内からお米を融通してもらう。
日本全国がひとつ屋根の下に暮らす家族のように、そうやって互いに助け合うことができる体制を、社会的な仕組みとして保持してきたのが日本だし、そのようにしなければ、我が国の国土は、人が住むことができない過酷さを持っているのです。
そしてこのことは「日本全国天下万民がひとつ屋根の下で暮らす家族のようになって」と述べられた神武天皇の日本建国の詔に記されたことでもあります。
「トントントンガラリっと隣組」という発想は、何も隣近所のことだけでなく、大名同士、国司同士で、国を越え地域を越えて助け合いを行なっていこうという、我が国の国柄を示すものです。
それこそ、災害列島で生き抜く生活の知恵であり、古くからの日本の知恵であったわけです。
従って、国司は税を取りたてますが、税を払う側からしてみれば、これは災害保険のような意味を持ちます。
災害や、これによる凶作などのとき、自分たちが払った何倍ものお米を支給してもらえるからです。
その意味では、昔の国司というのは、災害対策保険事務所の所長さんみたいなものとさえ、いうことができるのです。
その国司となる人たちは、青年期までを中央で過ごします。
成人すると、国司の助手として地方勤務になり、長じて国司になりました。
つまり全国の国司は、お互いによく知る間柄であったわけです。
こうした人間関係が、いざというときに、どれだけ多くの人の命を救うことになるか。
災害は、凶作だけでなく、地震や津波、水害、土砂災害、大火災など、多岐にわたります。
そして被災すれば、復興に莫大な費用と人手がかかるし、復興するまでの民衆の食の確保は、本当に大切な課題といえるのです。
くりかえしになりますが、
「そうしなければ、日本列島では生きていくことができない」
このことは、我が国の歴史を考える上において、とても大切なことです。
そうした背景のうえに、『貧窮問答歌』があるのです。
そして、山上憶良が生きた時代は、白村江の戦いで日本が朝鮮半島の権益の一切を手放したすぐあとの時代です。
白村江事件が663年。
山上憶良が筑前の国司に赴任したのが、726年です。
わずか63年後の事であるわけです。
筑前から、海を渡った対岸にあるのが、かつて南部が日本の直轄地であった朝鮮半島です。
そしてそこはかつては、とても豊だった所です。
けれど憶良が筑前に赴任した頃には、その「かつて豊かだった半島」が、まさに貧困のどん底に至っていた時代であったわけです。
そして『貧窮問答歌』を読むと、そこに書かれていることは、およそ日本の統治時代とはまったく異なる半島の情況と、そして豊かで安全で安心して暮らせる国だったはずの半島が、わずか60年で、貧窮のどん底に陥った半島に住む民衆の暮らしぶりです。
そしてこのことは、かつて日本が統治していた頃の、緑豊かな半島の牧歌的な生活と、いつのまにか他人の悪口と教室の中まで上下関係と支配と隷属がまかり通るようになった、悲惨な低い民度の国に堕ちた現代の半島の姿と、実によく似ています。
では『貧窮問答歌』を読んでみます。
わかりやすいように、現代語に訳したものを、先に掲げます。
*****
『貧窮問答歌』山上憶良 万葉集巻五
風交(ま)じりの雨が降る夜や、
雨交じりの雪が降る夜は
どうしようもなく寒いので
塩をなめながら
糟湯酒(かすゆざけ)をすすり、
咳をしながら鼻をすする。
少しはえているヒゲをなでて
自分より優れた者はいないだろうと
うぬぼれているが
寒くて仕方ないので
麻の襖(ふすま)紙をひっかぶり
麻衣を重ね着しても
やっぱり夜は寒い
俺より貧しい人の父母は
腹をすかせてこごえ
妻子は泣いているだろうに
こういう時、あなたはどのように暮らしているのか。
天地は広いというけれど
私には狭い。
太陽や月は明るいというけれど
我々のためには照ってはくれない。
他の人もみなそうなんだろうか
それとも我々だけなのだろうか
人として生まれ
人並みに働いているのに
綿も入っていない
海藻のようにぼろぼろになった衣を肩にかけ
つぶれかかった家
曲がった家の中に
地面に直接藁(わら)を敷いて
父母は枕の方に
妻子は足の方に
私を囲むようにして
嘆き悲しんでいる
かまどには火の気がなく
米を炊く器にはクモの巣がはり
飯を炊くことも忘れてしまったようだ
ぬえ鳥のようにかぼそい声を出していると
短いものの端を切るとでも言うように
鞭(ムチ)を持った里長の声が
寝床にまで聞こえる
こんなにもどうしようもないものなのか
世の中というものは。
この世の中はつらく
身もやせるように
耐えられないと思うけれど,
鳥ではないから
飛んで行ってしまうこともできないのだ*******
あまりに悲惨な民衆の暮らしが描かれています。
従来説では、これは「筑前の民衆の生活を描いたものだ」としています。
しかし山上憶良は、筑前の国司です。
つまり筑前の民衆の生活について、全責任を担った筑前の長です。
その筑前守が、「俺の国の民衆は、こんなに貧窮しているのだ」と、自慢気に歌を遺すかと考えれば、おのずと、この歌が描いた民衆の暮らしぶりが、どこのことを言っているのか、明らかになります。
歌の中に、
「つぶれかかった家
曲がった家の中に
地面に直接藁(わら)を敷いて」
という描写が出てきます。
原文は「布勢伊保能 麻宜伊保 乃内尓 直土尓 藁解敷而」です。
地面に直接ワラを敷いているというくらいですから、稲作はしているわけです。
(稲作がなければ、ワラもありません)
そして稲作をするなら、普通、家屋は高床式になります。
なぜなら、水田は水を引くため、地面に穴を掘る竪穴式住居では、床に水が染み出してしまうからです。
不思議はまだあります。
「つぶれかかった家、曲がった家」とありますが、日本は地震が頻発する国です。
「つぶれかかった家、曲がった家」では、生活できません。
とりわけ高床式住居では、柱や梁(はり)が、しっかりしていないと、地震のときに家屋が簡単に倒壊してしまいます。
ですから古来、日本の家屋は、たいへんにしっかりしたつくりをするのがならわしです。
そして「しっかりした家屋」は、各家族では建てるのも維持するのも大変だから、古民家も大家族で住むように設計され、建造されてきたのです。
これが災害列島で住む人々の知恵です。
《注》現代日本は核家族化が進み、家屋は核家族用で、その多くは安普請です。だから地震が起きると、ほとんど街全体の家屋が倒壊しています。果たしてそれが日本の住宅行政として適切なものであるかは再考が必要な所です。
戦後の人口増加と、都市化、大量生産大量消費がもたらした特殊な事情のもとで、いまある核家族化と核家族用住宅が生まれています。しかしこれからの日本を考えるとき、住宅行政も、住宅ローンも、大家族を前提としたものに変えていくべきだと思っています。
「いや、そんなことはない。これは筑前の都市部の民衆の話だ。都市部ならつぶれかかった家、曲がった家もあり得るだろう」という方がいるかもしれません。
けれど我が国は、仁徳天皇が「民のカマドの煙」を見て、税の免除をされるような国柄なのです。
民衆がカマドの煙どころか、「米を炊く器にはクモの巣がはり」というような状況を、一介の国司が招いたとするならば、それこそ責任問題になることです。
加えて『貧窮問答歌』に出てくる人物は、どうやら庶民ではないらしい。
なぜならその人は、「ヒゲをなでながら自分より優れた者はいないだろうとうぬぼれ、俺より貧しい人がいる」人であるわけです。
つまり最下層の人というわけでもない。様子からすると、貴族階級の人のようにも思えます。
ところがそんな貴族であっても、竪穴式のつぶれかかって曲がった家に住んでいるわけです。
これって筑前国のことなのでしょうか。
そもそも日本のことでしょうか。
山上憶良の時代のすぐ前には、半島で百済救援の戦いがあり、また白村江事件で日本人の若い兵隊さんたちが大量に殺されるという事件もありました。
そしてこの歌が詠まれた時代の、わずか60年前には、高句麗が滅亡し、半島は新羅によって統一されています。
筑前には、ご承知の通り大宰府があります。
大宰府という名称は、「おおいに辛い(厳しい)府」という名前です。
この時代の日本は、渤海国との日本海交易も盛んに行っていますが、渤海国との交易のための港には大宰府など設置されていません。
単に国司のいる国府が、その交易管理にあたっていただけです。
それがどうして筑前だけが「辛い府」なのかというと、そこが新羅や唐の国という敵性国家との窓口にあたる場所であったからです。
唐や新羅への警戒から、日本は都を奈良盆地から近江に移したくらいですから、大宰府がいかに国防上の重要拠点とみなされていたかは明白です。
しかも、大陸も半島も、伝染病の宝庫といえるところです。
ですから、出入りする船も、厳しく監督しなければ、病原菌を日本に持ち込まれたらたいへんなのです。
山上憶良は、その大宰府の長官であった大伴旅人とも親しい間柄でした。
そしてこの時代、かつては倭国の一部であった半島南部が、新たに半島を統一した新羅によって、きわめて過酷な取り立てと圧政が行われていたことは、歴史の事実です。
そうした背景を考えれば、この『貧窮問答歌』に歌われている民衆の姿というのは、かつては倭人の一部であった半島の人々の姿であると見るのが正解といえるのではないでしょうか。
つまり、山上憶良は、政治ひとつで、あるいは国の体制ひとつで、ここまで民衆の生活が犠牲になるのだということを、この『貧窮問答歌』であらわしたのではないでしょうか。
幕末から明治初期にかけての李氏朝鮮の様子は、たくさんの写真が伝えられています。
「我が国を絶対にこのような国にしてはいけない!」その固い決意と信念あればこそ、山上憶良は、あえてこの『貧窮問答歌』を詠んだのではないでしょうか。
『貧窮問答歌』には、短歌が一首付属しています。
その短歌です。
世間(よのなか)を
う(憂)しとやさしと
おも(思)へども
飛び立ちかねつ
鳥にしあらねば半島と筑前の間には、海峡があります。
船便が禁止されていれば、倭国へと移動する手段もありません。
だから「飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」。
これで意味がすっきりと通ります。
要するに『貧窮問答歌』は、かつて日本領であり、いまでは新羅によって蹂躙された半島の人々の困窮した生活の様子を、半島の向かいに位置する筑前の国司であった山上憶良が長歌に描いた作品であったのです。
このような、ある程度社会経験を積んだ大人なら、少し考えたら誰にでもわかることを、意図して歪めて子らに教える。
それは、すくなくとも子らに対して、また教職という立場に対する、不誠実といえるのではないでしょうか。
このようなデタラメが、戦後にはじまり、そしていまだに行われ続けている。
それを立て直すためには、私たちいまを生きる大人たちが目覚めていくしかないのではないかと思います。
諸般の事情から、拙著『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』からはこの解説を削除しました。
しかし私個人としては、本日書いた内容が、この『貧窮問答歌』の真実であると確信しています。
この歌は筑前の国司が、いまでいう半島事情を詠(えい)じた歌です。
※この記事は2020年9月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。
YOUTUBE
日本の心をつたえる会チャンネル
人気ブログランキング↑ ↑
応援クリックありがとうございます。
講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。nezu3344@gmail.com 最新刊 『ねずさんのひとりごとメールマガジン』 登録会員募集中 ¥864(税込)/月 初月無料! |
コメント