もっともらしい綺麗ごとで目先の財政にとらわれ、国家百年の体計を誤ると、結果として取り返しのつかない切羽詰まった事態に陥るのです。 それが今も昔も変わらぬ政治の現実です。 |

Takamori Saigō et ses officiers à la rébellion de Satsuma (1877)
画像出所=https://fr.wikipedia.org/wiki/R%C3%A9bellion_de_Satsuma
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
上の絵は、フランスのニュース紙に掲載された西郷隆盛とその仲間たちの肖像画です。
明治10(1877)年のものですが、ここに描かれた西郷隆盛の肖像画は、後年描かれた西郷さんの銅像や絵画の姿とは、ずいぶんと雰囲気が違いますが、この絵は当時写生したものと考えられており、おそらく実際の西郷さんの肖像にかなり近いものであったであろうと言われています。
さて、その西郷さんが自刃したのが、9月24日です。
明治10(1877)年のことです。
享年51歳でした。
いま考えると、ずいぶんと若かったのですね。
西南戦争は、西郷隆盛の『征韓論』がきっかけとなったというのは、多くの人の知る事実ですが、昨年、このブログで『征韓論』は「朝鮮を征伐にいく論ではない」と書きましたら、多くの方に衝撃が走ったようです。
けれど、そうなのです。
当時、ようやく開国して新政府を築いたばかりの日本にとって、最大の脅威はロシアの南下でした。
英米仏欄などが、主として海路を通じて海軍の派遣しかできないのに対し、ロシアは大人数の陸軍で南下できるのです。これは元寇どころの騒ぎではありません。
まさに国としての死活問題でした。
このロシアに対して我が国を防衛するためには、日本の防衛力を高めるためだけでは追いつきません。
国力が違いすぎるからです。
清国にも、李氏朝鮮国にもそれなりに頑張ってもらうしかない。
とりわけ朝鮮半島は、ロシア南下に際しての最大の防衛拠点です。
ここがロシアに蹂躙されたら、次は間違いなく日本です。
と、ここまでは、よく聞く説明です。
ただし、これだけのご説明ですと、ものすごく大事な点が見落とされてしまいます。
というのは、当時の国防は地政学であり、困難な相手との間に、いかにして緩衝地帯を築くかが大事にされた時代であったという点です。
ロシアがあって、そのロシアがシベリア方面から南下してチャイナ北部からコリアにかけてを征服して不凍港を手に入れると、次に植民地支配の対象として攻撃のターゲットとなるのは、あきらかに日本です。
これを防ぐには、次の3つの戦略が考えられます。
1 日本が直接ロシアと戦ってロシアの南下を食い止める
2 緩衝地帯となるチャイナ北東部やコリアに頑張って独立を保持してもらうことで、日本へのロシア南下を食い止める。(チャイナやコリアが独立を保てば、日本の安全保障になる)
3 放置してロシアの南下にまかせる。
明治新政府によって、もし3が選択されていれば、いまの日本はありません。
日本はロシアによって征服され、いまのシベリアと同じようにロシアの植民地となったでしょうし、共産主義革命後の旧ソ連によって、おそらくは収奪の限りを尽くされて、2021年における日本は、まるでアフガニスタンのような情況になっていたことでしょう。
1は、日露戦争によって、実際、それが行われましたが、かろうじて日本が勝利することができたものの、それはまさに乾坤一擲の大勝負でした。
もしこのとき日本が敗けていたらと考えると、そらおそろしい大戦であったといえます。
結局、選択は2しかないのです。
要するに、明らかに敵対的というか、乱暴者がいたならば、その乱暴者が入ってこれないように、塀を作る、お堀を築くだけでなく、中間地点に別な国を置くことで、自国の安全を図る。
これが(すくなくとも)先の大戦くらいまでの、いわゆるドンパチの戦争の時代には、実はもっとも有効な安全保障の方法であったのです。
こうした背景があるからこそ、明治新政府は再三にわたって李氏朝鮮に使いを送り、独立と国防の強化を促しました。
ところが清国の属国である朝鮮王は日本を馬鹿にして首を縦に振らない。
そこで出てきたのが「征韓論」です。
征韓論の「征」の字は、「正しきを行う」です。
ですから「征韓論」というのは、「朝鮮の近代化を促進する(正しきを行う)ことで、ロシアの南下を防ぎ、東亜の、ひいては我が国の自存独立を図ろう」という論です。
こういう字句のイメージからくる認識の違いは、度々発生しています。
たとえば、授産所と聞けば、いまどきの人なら、ほぼ100%、出産所をイメージすると思います。
ところが明治初期でいう授産所は、「産を授けるところ」という意味で、いまの職業訓練所を意味しました。
征韓論に対する認識の誤りも、これと同じです。
ですから西郷隆盛自身、朝鮮に軍事出兵しようなどとはまったく言ってません。
彼は自分が朝鮮王に特使として交渉に出向こうとしたのです。
彼自身が朝鮮国を訪問し、朝鮮国を説得し、朝鮮半島の近代化の促進に力を尽くしたいと主張したのです。
日本政府の要人として西郷隆盛が出向くとなれば、そのための陣立てが必要です。
この陣立てというのは、いまどきの「数人のガードマンが政府要人の警護にあたる」と意味合いが違います。
中世的社会は体面を重んじるし、特に儒教国を自認する李氏朝鮮は事大主義の国ですから、それなりの大物が出向くとなれば、それなりの陣立てをし、それなりの行列を組まなければなりません。
この点、同じ政府使節でも、遣欧使節団のように欧米に向かった使節団は、少数でOKです。
欧米には、儒教国家にあるような「体面」という思想がないからです。
李氏朝鮮は「体面」がなにより優先する国です。
もし日本が清国や朝鮮に、政府の公式訪問団を少数で訪問すれば、相手は、自分たちの国が「軽く見られた」と判断し、それだけで言うことを聞きません。
ですから公式使節団は、その国力に応じた、士族の相当な大行列である必要があったのです。
士族というのは、日本では武士団を意味しますが、儒教国では士大夫(しだいふ)です。
要するに特権階級の要人が、大行列を為して訪問すれば、李氏朝鮮は、行列が大きければ大きいほど自国が尊重されたと思い、その大行列に対して敬意を払うのです。
やっかいな話ですが、それが儒教国の中世的社会の基本的構造です。
もうひとついうならば、この士大夫の大行列は、江戸時代の大名行列の江戸入りや、同じ時代の朝鮮から日本への朝鮮通信使と同じように、軍事侵攻を意味しません。
あくまで体面を重んじるためだけのための行列です。
本当に無意味ですが、そうやって大行列を従えてワシのところに挨拶にやってきた=ワシはそれだけ偉いのだ、というのが半島のマインドなのだから仕方がない。
江戸時代の朝鮮通信使では、李氏朝鮮の使節団は、平和時でありながら、派遣使節団は600〜800名の大軍です。
日本からしたら、そんな大行列は迷惑なだけです。
しかもその旅費経費は、日本側で負担していました。
本当に迷惑な訪問だったのです。
けれど、半島はそういう国なのだから、仕方がない。
ならばロシア南下という非常時における日本から半島への派遣は、国威を示す意味においても、数千人規模にしなければならない。
そしてその使節団の経費は、大名行列がそうであるように、訪問する側、つまり日本側がその経費を全額負担です。それが儒教社会における常識です。
「征韓論」と聞くと、あたかも日本が武力で朝鮮を征伐し、征服しようとしたなどと、ありもしない妄想を膨らませる学者などがいますが、とんでもないことです。
わずか数千の大名行列で、一国の征服などできる筈もありません。
数千人規模の使節団は、古式にのっとって、数ヶ月かけて朝鮮を訪問し、それに対して朝鮮国が敬意を払ってもてなしをし、協力の約束をするのです。そいう構造なのです。
ただし、その訪韓の経費は、日本持ちです。
向こうがやってくるときは、日本が経費を負担。
日本が訪問する時も、日本が経費を負担。
バカな話ですが、それをさせる存在のみが、彼らの国の支えだったのです。
しかしこのことは、できたばかりの明治新政府には、とてつもなく重たい経費負担です。
ほんの少数をヨーロッパやアメリカに派遣するくらいなら、明治新政府にも、経費の捻出はできましたが、たとえお隣の国でも、何日もかけた数千の大行列の面倒をみるとなると、これは財政的に、ものすごく重たい。
しかも、そこまでの陣立てをして、李氏朝鮮がロシア南下に対して国防意識に目覚める可能性は低いのです。
「それでもやらなければならない」
それが西郷隆盛の考えです。
そしてその大行列に、職を失った旧士族たちを充てれば、彼らにとってのそれが生活の糧ともなります。
旧士族は、失業していたからです。
海外派遣は、手当は国内出張よりも金額が大きくなります。
ですから同行した士族たちは、帰国後は、そのときの給金をもとに独立してお店を営んだりするだけの手持ち資金ができるわけです。
そして、運良く訪韓目的が達成できれば、ロシア南下に対しても大きな防御壁になる。
一石が二鳥にも、三鳥にもなる。
ところが明治新政府には、カネがない。
いや、むしろ、その後に巨額の経費のかかる西南戦争をしているくらいですから、費用の捻出はしようと思えばできたのです。
けれど当時の新政府の閣僚たちは、『征韓論』の承認をしませんでした。
ただでさえ、カネのかかる欧州派遣使節を出している最中だったのです。
ただでさえ財政難なのに、さらに朝鮮半島に数千人規模の使節を派遣するなど、財政的に考えられない。
ですから、西郷隆盛の『征韓論』は、却下されました。
歴史というのは皮肉なものです。
征韓費用をケチった政府は、結果としては西南戦争で、征韓を数倍する費用の負担することになったのです。
しかも日本は、西郷隆盛という、不世出の英雄を失ったのです。
西郷隆盛の切腹は、単に西南戦争に敗れたからというものではありません。
これは、必要なときに必要な行動をしっかりととれる政府になってもらいたい、という、西郷隆盛から明治新政府への諌言の切腹です。
そこを理解しないと、なぜまだ戦う力が残っているのに彼が切腹したのか、その意味がわからなくなってしまいます。
ちなみに、この国防が優先か、財政が優先かというせめぎ合いは、旧帝国政府内において、その後もずっと残りました。
そして財政優先にした結果、明治政府は西南戦争を引き起こしてしまうし、さらに山縣有朋内閣のときに国防力強化のために歳費の7割を陸海軍の増強に遣うという提案もしりぞけられ、結果として日清戦争を招いています。
目先の防衛予算をケチると、結果として、多額の費用と人命を失うのです。
これが歴史の教訓です。
大東亜戦争も、実は同じです。
日本が開戦前に、多額の予算を計上して、軍事力の強化をしていたら、もしかしたら先の大戦は防ぐことができたっかもしれない。
もっともらしい綺麗ごとで目先の財政にとらわれ、国家百年の体計を誤ると、結果として取り返しのつかない切羽詰まった事態に陥るのです。
それが今も昔も変わらぬ政治の現実です。
さて、その西郷隆盛の遺訓です。
十一 文明とは道の普く行はるゝを贊稱(さんしょう)せる言にして、宮室の壯嚴、衣服の美麗、外觀の浮華を言ふには非ず。
世人の唱ふる所、何が文明やら、何が野蠻やら些ちとも分らぬぞ。
予嘗て或人と議論せしこと有り、
西洋は野蠻ぢやと云ひしかば、否な文明ぞと爭ふ。
否な野蠻ぢやと疊みかけしに、何とて夫れ程に申すにやと推せしゆゑ、
實に文明ならば、未開の國に對しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導く可きに、
左は無くして未開矇昧の國に對する程むごく殘忍の事を致し己れを利するは野蠻ぢやと申せしかば、
其人口を莟(つぼめ)て言無かりきとて笑はれける。《現代語訳》
文明というのは、華麗な宮殿や、美しい衣装などのことを言うのではない。
文明というのは、「道が正しく行われているか否か」で見るべきものだ。
ある人と議論したとき、「西洋は野蛮だ」と言ったら、「いや西洋は文明社会だ」と言うから、重ねて「野蛮だ」と言ってやった。
すると「どうしてそれほどまで言うのか」と言うから、
「西洋が文明社会だというのなら、未開の国に対するとき、慈愛を根本にし、人々を教化して開明に導くべきなのに、彼らは相手が未開の国であればあるほど、残忍なことをして、自分の利益ばかりをむさぼっている。だから野蛮だと申しておる」と言ってやったら、その人は大笑いしていた。※この記事は2013年9月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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