この歌の素晴らしさは、紅葉を擬人化しているとか、そういうことではありません。 公務で忙しい毎日を送っている天皇への感謝が、歌の真意です。 だからこそ素晴らしい名歌として、千年の時を越え、いまも多くの人に親しまれています。 |

画像出所=http://blog.livedoor.jp/wmelon14/archives/53298393.html
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)
人気ブログランキング応援クリックは
←こちらから。いつもありがとうございます。
歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
藤原忠平の歌を通じて、我が国のカタチを考えてみたいと思います。
京都嵐山の北側に、大堰川(おおいがわ、桂川ともいう)をはさんで「小倉山(おぐらやま)」があります。
まるい、まるでおまんじゅうのような形をした山です。
小倉山は古来紅葉の名所とされる山です。
『小倉百人一首』という名称は、藤原定家がこの小倉山の山荘で「百人一首」を選歌配列したことに由来しています。
その百人一首に、藤原忠平(880-949)が詠んだ歌があります。
小倉山 峰の紅葉葉 心あらば
いまひとたびの みゆき待たなむ(おくらやま みねのもみちは こころあらは
いまひとたびの みゆきまたなむ)
この歌を詠んだ藤原忠平は、後に関白太政大臣にまで栄達して藤原家繁栄の基礎をつくり、没後にその徳をたたえられて「貞信公(ていしんこう)」という謚(おくりな)を贈られた偉大な人物です。
この歌は『拾遺集(1128番)』に掲載されていて、詞書(ことばがき)には次の紹介文があります。
「宇多上皇が大堰川に遊ばれた際に、
上皇が見事な小倉山の紅葉に感動して、
『我が子である、醍醐(だいご)天皇にこの紅葉を見せたい』
とおっしゃられたことを受け、
藤原忠平が醍醐天皇に
そのことを伝えるために詠んだ。」
(原文)亭子院大井河に御幸ありて行幸もありぬべき所なりとおほせ給ふにことのよし奏せむと申して。
解説書のなかには、この歌の解釈として、直接「宇多上皇がお誘いですよ」と伝えるのではなく、むしろ紅葉を擬人化して、「待っていておくれ」と謳い上げているところに興(きょう)があると評しているものがあります。
つまり「擬人法を使ったところに、この歌の面白さがある」としているわけです。
しかしそれを言うなら、拾遺集よりもはるかに古い時代に成立した『古事記』のなかに、「因幡の白兎ウサギ」の物語があります。
そこではウサギが人と会話しています。
まさに擬人そのものです。
つまり擬人法はもっとはるかに古い時代から我が国では普通に使われていた表現方法です。
別に平安時代にはじめて生まれたテクニックではありません。
実はこういう、ちょっとしたところに、こっそりと反日的な思想を忍ばせるというのが、戦後70年の日本の学会の特徴です。
おそらくは、そのように書かれた教授も、9世紀から10世紀の半ばにかけて生きた藤原忠平の時代よりもはるか以前から日本文学に擬人法が使われていることくらい、とっくに承知のことであったことでしょう。
けれど、現代日本の学界では、「日本の古代は平安時代まで」ということになっているわけです。
鎌倉時代からが中世、古代の前は有史以前です。
つまり古代というのは、ある程度記録はあるけれど、よくわからない歴史時代であって、階級とか国家がなんとなく成立していた頃だというのが、現代の学会の理解です。
つまり平安時代は、「よくわからない時代」だというわけです。
古代とか中世とかいう区分は、西洋史にあった区分方法で、西洋史では古代ギリシア文明の成立の時代から、5世紀の西ローマ帝国の崩壊までの時代を指します。
西洋では、このあと、フランク王国とかビザンツ王国とかロンバルト王国とか、様々な王国が栄えては消えるという「よくわからない時代」が続き、紛争続きで文明が停滞します。
そして弱体化した西洋諸国は、13世紀にモンゴルによって征圧されてしまう。
西洋史では、ここまでが「中世」です。
ところがそのモンゴルのオゴデイが死去することで、モンゴルの正統な後継国を自認する国が次々と誕生しました。
こうして生まれたのが、いまに続く西欧諸国で、ですからそこからが西洋史では「近世」になります。
西洋の学校で自国の歴史として習うのは、その「近世」からの歴史です。
つまり西洋における歴史時代は、14世紀からということになります。
モンゴルの征服、その後の自立、独立という中で、現在に続く西洋諸国は誕生し、15世紀の大航海時代からが「近代」、第2次世界大戦以降が「現代」となります。
整理すると次のようになります。
<西洋史>
有史以前 3世紀以前。ギリシャ・エーゲ海文明以前
古代 4〜5世紀。古代ギリシャから西ローマ帝国の滅亡まで
中世 6〜13世紀。よくわからない王朝が続いて、ついにモンゴルに征服されるまで
近世 14〜18世紀。モンゴルの後継国が互いに競った時代から市民革命まで。
近代 19世紀〜。第二次世界大戦まで
現代 第二次世界大戦以降
ざっと、このような考え方の時代区分になっているわけです。
東洋史というのは、主にChinaの歴史を云いますが、もとより西洋史と東洋史では、歴史についての根本的な思想が異なります。
ですから同じ分類など、本来はあてはまるべくもないのですが、なぜかChina史(東洋史)にも、この分類が当てはめられています。
一応簡単に、いまの学会の分類を整理すると次のようになっています。
<東洋史>
有史以前 紀元前。秦王朝成立以前
古代 3世紀まで。秦王朝の成立から後漢の崩壊
中世 3〜10世紀。三国志の時代から唐、五代十国の時代まで
近世 10〜18世紀。宋から清朝まで
近代 19世紀〜。辛亥革命から第二次世界大戦まで
現代 第二次世界大戦以降
要するに、
Chinaの中世は3世紀、
西洋の中世は6世紀に始まるとしているわけです。
一方、これに対して日本の中世は、12世紀の鎌倉時代に始まるとする。
こうすることで、日本の文明は、Chinaより900年遅れいていたのだ、としているわけです。
しかし、古代というのが「ある程度記録はあるけれど、よくわからない歴史時代のあけぼので、階級とか国家がなんとなく成立していた時代」と定義するならば、たとえばいまのChinaも、チベットに侵攻したり、ウイグルや内モンゴルの人たちに、何をしているのか、よくわからない。
そういう意味では、Chinaは中華人民共和国となった現代においても、その実態は「古代国」にほかなりません。
つまり、Chinaはいまもまだ、国家としては古代の状態にあるわけです。
一方、日本は、紀元前の大和朝廷の時代から、天皇を頂点にいただく国です。
ということは、西洋史的な意味での分類に従うなら、紀元前7世紀の神武天皇から7世紀の皇極天皇あたりまでが古代、7世紀天智天皇以降が中世、17世紀の江戸時代が近世、明治以降が近代、大戦後が現代となります。
箇条書きにすると以下のようになります。
有史以前 紀元前7世紀以前。神話の時代
古代 紀元前7〜7世紀まで。神武朝からの古代大和朝廷の時代。
中世 7〜15世紀。大化の改新から織豊時代。
近世 16〜18世紀。江戸時代
近代 19世紀〜。明治維新から第二次世界大戦まで
現代 第二次世界大戦以降
というわけで、藤原忠平、貞信公の歌の良さが、ただの「擬人法の使用」にないというのなら、ではこの歌の本当の良さは、いったいどこにあるのでしょうか。
詞書に書かれていることから、宇多上皇が小倉山へ紅葉見物に出かけ、そこに藤原忠平も右大臣として同行したことが伺えます。
ここでひとつ質問です。
「なぜ上皇が天皇より先に紅葉狩りに出かけているのでしょうか」
答えは、「天皇(醍醐天皇)は、紅葉見物に、
「行きたくても行けなかったから」です。
いまでもそうですが、天皇の御公務は多忙をきわめます。
ありがたいことに私たち一般庶民の多くは週休二日ですし、盆暮れのお休みもあります。
年間の休日は、祭日を含めれば軽く百日を越えます。
つまり、一年のうちの三分の一がお休みになっています。
ところが陛下には、お休み(休日)がありません。
一年三百六十五日、すべてが御公務です。
公務の数は年二千回を超えます。
一日平均、5〜6件の御公務のスケジュールがはいっているのです。
そしてそのいずれもが、国の大事であり、なかには国運を左右する重大な用件を含みます。
そして陛下の御公務にミスは許されません。
風邪さえひけないし、ひいても寝込むことも許されません。
プライバシーもありません。
それだけの厳しい御公務を、陛下は日々こなしておいでになります。
さらにその忙しい御公務の合間をぬって、田んぼにはいって農作業をされたり、様々な研究もされています。
このことは醍醐天皇の昔も、昭和天皇の時代も、今上陛下の時代もなんら変わることがありません。
それだけ多忙な御公務のなかでも、日本の心、みやびな心を失わないでいらっしゃるのが、我が国の天皇です。
そしてその天皇は、政治権力を持っていないのです。
現代風に分かりやすくいえば、政治権力というのは「立法」「行政」「司法」の三権です。
これに「軍事」を加えれば、四権といえるかもしれません。
西洋や東洋における王や皇帝は、それら三権(四権)のすべてを掌握し、直接に命令を下せる権限を持っています。
ですからたとえば、王の目の前で、くだらない意見を長々と述べたり、非礼な態度をとったりする者がいれば、王は即座にその者のクビを刎(は)ねることもできます。
それが古来変わらぬ、王や皇帝の権力と権限です。
社会そのものが「支配と隷属」の関係で成り立っているわけです。
ところが我が国における天皇には、その権力、権限がありません。
仮に、目の前でくだらない意見を長々と述べたり、非礼な態度をとったりする者がいたとしても、あるいは遠回しに婚礼をお断りしているのに執拗に結婚させろと迫る変態男がいても、そういう者を処分する権限は、あくまで天皇が親任した太政大臣や関白、いまなら内閣総理大臣や国会両院議長などの政治権力者の仕事とされているのです。
天皇ご自身が、どうしても政治権力を揮いたいと思うなら、天皇を退位しなければなりません。
そして、天皇の下の位である上皇になれば、政治に直接介入することができます。
上皇は、序列的に天皇の下になりますが、太政大臣よりも上位の政治権力者となるからです。
私たち一般庶民の感覚で考えると、政治権力者のほうが忙しくて、政治権力のない天皇のほうは暇ではないか思われます。
しかし、先に述べたように御公務は多忙ですし、この歌のなかにも天皇の忙しさが書かれているのです。
視点を変えれば分かることですが、政治権力者である上皇は、小倉山の紅葉が見事だからと、大臣をたちを連れて秋の紅葉見物に出かける余裕があるのに対し、天皇はどれだけ紅葉が素晴らしくても、それを見に行くだけの余裕も時間もないことが、この歌から分かります。
そして政府高官である藤原忠平は、天皇のスケジュールを調整する役割の人もあります。
だから藤原忠平は、
「天皇にも是非この美しい紅葉を味わっていただけれるように、
なんとか公務を調整するから、紅葉に
『御行幸いただくまで待っていておくれ』」
と呼びかけているのです。
実際、この歌のあと、小倉山への紅葉狩りのための天皇の行幸が、毎年行われるようになりました。
日々の公務に追われる天皇ですが、むしろ「御公務の側に小倉山までついてきてもらう」ように調整をすることで、天皇にたとえわずかな時間でも、秋の紅葉を楽しんでいただけるように、制度が変えられたのです。
実はこの「御公務の側についてきてもらう」ということは、現代でも行われています。
昭和天皇が戦後の焼け野原の中で、全国行幸をされたのは有名な話ですし、今上陛下も、東日本大震災などの被災地へ、たびたび行幸されています。
そしてこうしたときには、陛下が宮中で行う事務は、近習の者が持参して、現地で陛下が実務を執り行えるようにしているのです。
さてこの歌で、醍醐天皇に「是非とも紅葉狩りを楽しませたい」と提案したのは、父親の宇多上皇です。
少し前まで、ご自身が天皇だった方ですから、天皇の忙しさは、まさに身をもって体感しているわけです。
だからこそ、せめて美しい小倉山の紅葉くらいは、天皇に見せてあげたいと思ったのでしょう。
その気持ちが痛いほど分かるからこそ藤原忠平は、天皇のスケジュールは自分がなんとかするから、
「小倉山の紅葉よ、それまで散らずに待っていておくれ」と詠んでいるわけです。
この歌の素晴らしさは、紅葉を擬人化しているとか、そういうことではありません。
公務で忙しい毎日を送っている天皇への感謝が、歌の真意です。
だからこそ素晴らしい名歌として、千年の時を越え、いまも多くの人に親しまれているのです。
※この記事は2017年9月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。
YOUTUBE
日本の心をつたえる会チャンネル
人気ブログランキング↑ ↑
応援クリックありがとうございます。
講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。info@musubi-ac.com 最新刊 『ねずさんのひとりごとメールマガジン』 登録会員募集中 ¥864(税込)/月 初月無料! |
コメント