日本は、武士として戦いました。 武士だから、みずから口からは、戦時中の多くを語りませんでした。 だからといって、彼らの名誉ある行動を汚すようなことを許すのは、わたしたち現代を生きる日本人のすべきことではありません。 悪とは、人の名誉を奪うことです。 |
工藤艦長(「雷」艦上)と、フォール卿

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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
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85歳になる元英国海軍中尉サムエル・フォール卿が来日しました。
フォール卿は、埼玉県川口市に向かい、そこで工藤俊作(くどうしゅんさく)という日本人の墓にお参りをしました。
フォール卿は戦後に英国外交官を務め、その功績によって「サー」の称号を贈られた人物です。
外交官を定年退職した後、1996年に自伝『My Lucky Life』という本を出しました。
その本の巻頭には、
「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」
と書いてありました。
時は、来日の日から66年ほどさかのぼります。
昭和17年(1942年)3月1日、ジャワ海からの脱出をしようとして出港した英重巡洋艦
「エクゼター」(13,000トン)
「エンカウンター」(1,350トン)
の二隻が、日本海軍と交戦して撃沈されました。
両艦艦長を含む約450人の英海軍将兵は、海上を漂流の身となりました。
南方の暑い日差しの中です。
翌3月2日の午前10時ごろには、彼らはもはや生存と忍耐の限界に達していました。
そして一部の将兵が自決のための劇薬を服用しようとしていました。
そのとき、たまたま単艦でこの海域を哨戒していた日本の駆逐艦「雷(いかづち)」が、漂流している英国乗組員を発見しました。
「雷(いかづち)」の乗員は220名です。
敵兵とはいえ、その時点ではすでに漂流民です。
しかも漂流している英国兵は450名余います。
平時の感覚としてなら、これを救助するのは、海の男たちにとって当然の責務です。
しかし戦時では情況が異なりますし、あらゆる価値観は逆転します。
まず第一に、この海域には、英国潜水艦が多数徘徊しています。
救助のためには、艦を停止させなければなりません。これは自殺行為です。魚雷の的になるからです。
加えて人数の問題があります。
自艦の船員の倍以上の人数の敵兵を艦内に収容すれば、敵兵によって自艦の船員たちを皆殺しにされた上に、自艦を乗っ取られるおそれもあります。
ですから海上で敵兵を見つければ、それが漂流中であれなんであれ、全員殺すことが戦時の常識です。
酷いことと思われるかもしれませんが、そうしなければ、こちらが殺されてしまいます。戦時というのはそういうものです。
そして、そうされても仕方がないということを表しているのが軍服です。
それが戦時国際法のルールです。
自国の軍人を救助してもらっているのに、潜水艦が魚雷攻撃をしてくるはずがないと考えるのも平和ボケです。
潜水艦側から見れば、日本艦が英国兵を救助しているところなのか、屠殺している現場なのかの判断はつきません。
ですから英国潜水艦にしてみれば、まずは日本艦を魚雷で轟沈させて危険を取り去った上で、英国兵を救助することになります。
これが戦時の常識です。
しかし工藤俊作少佐(当時)は、艦長として「雷」を停止させました。
そして敵英国水兵の救助を命じました。
そして敵兵を自艦に収容しました。
救助の最中、工藤艦長は、英国兵の体力が限界に達している事に気づきました。
そこで万一の警戒にあたらせていた要員も、すべて救助に投入しました。
一部の英海軍将兵は、艦から降ろした縄はしごを自力で登ることすらできませんでした。
竹ざおを下し、いったんこれにしがみつかせ、艦載ボートで救助しようとするのですが、間に合わずに力尽きて海に沈んで行く者もありました。
工藤艦長は、下士官を海に飛び込ませ、気絶寸前の英海軍将兵をロープで固縛して艦上に引き上げさせています。
サムエル・フォール卿は次のように回顧しています。
***
「雷」が眼前で停止したとき、
「日本人は残虐」と言う潜入感があったため
「機銃掃射を受けていよいよ最期を迎える」と
頭上をかばうかのように両手を置いてうつむこうとした。
ところが「雷」は、メインマストに
「救助活動中」の国際信号旗を掲揚し、救命ボートを下した。
私はこの瞬間を、夢ではないかと思った。
何度も自分の腕をつねった。
***
さらに艦上でフォール卿を一層感動させる光景がありました。
日本海軍水兵達が汚物と重油にまみれた英海軍将兵をまったく嫌悪せずに、服を脱がせてその身体を丁寧に洗浄し、また艦載の食料被服全てを提供し労ってくれたのです。
当時「石油の一滴は血の一滴」と言われていた時代です。
にもかかわらず、「雷」の工藤艦長は艦載のガソリンと真水をおしげもなく使用してくれたのです。
戦闘海域における救助活動というのは、下手をすれば敵の攻撃を受け、自艦乗員もろとも自沈します。
実際、そういうケースは多々あります。
ですから相当温情あふれる艦長であっても、ごく僅かの間だけ艦を停止し、自力で艦上に上がれる者だけを救助するのが戦時の常識です。
ところが工藤艦長は、艦を長時間停泊させただけでなく、
全乗組員を動員して洋上の遭難兵を救助したのです。
さらに工藤艦長は、潮流で四散した敵兵を探して終日行動し、例え一人の漂流者であっても、発見したら必ず艦を止めて救助しました。
これらの行動は、戦場の常識ではありえないことです。
こうして、英国兵422名が救助されました。
救命活動が一段落したとき、工藤艦長は、前甲板に英海軍士官全員を集めて、英語で次のように訓辞しました。
「貴官らはよく戦いました。
貴官らは本日は、
日本帝国海軍のゲストです。」
そして艦載の食料の殆どを供出して歓待しました。
フォール卿はこの艦長への恩が忘れられず、戦後、工藤俊作艦長の消息を捜し続けました。
*
工藤俊作艦長は、明治34年1月7日、山形県に生まれました。
明治41年4月に屋代尋常小学校に入学。
明治43年4月15日に第六潜水艇の事故があり、当時屋代尋常小学校では、校長が全校生徒に第六潜水艇佐久間艇長の話を伝えたそうです。
校長は、責任感の重要性を話し、全校生徒は呉軍港に向かって最敬礼しました。
工藤俊作艦長はこの朝礼のあと、担任の先生に聞いたそうです。
「平民でも海軍仕官になれますか」
担任の先生は、米沢興譲館中学(現:山形県立米沢中学校)への進学を勧めたそうです。
そして工藤艦長は5年間、現在の上新田にあった親類の家に下宿し、片道約3キロの道のりを毎日徒歩で通学し、念願の海軍兵学校に入学しました。
当時、一流中学校で成績抜群で体力のすぐれた者は、きまって海軍兵学校への受験を志ました。
次が陸軍仕官学校、それから旧制高等学校、ついで大学予科、専門学校の順ででした。
この点、当時の欧米の兵学校は、貴族の子弟しか入校できません。
全寮制ですし、学費も極めて高額だったからです。
経済的にも一般庶民が入学できるような学校ではなかったし、身分上の制限もあったのです。
ところが世界の中で、日本は学力と体力さえあれば、誰でも兵学校に入校できました。
しかも学費は全額国庫の負担でした。
そして、
英国のダートマス
米国のアナポリス
日本の江田島
この3つの海軍学校が、世界の三大海軍兵学校とされていました。
そして日本だけが、入学に際して身分の制限がなかったのです。
少し補足すると、陸軍は、当時の日本人であれば、誰もが入学出来たのに対し、海軍は「内地籍」を持っている者に入学が限られました。
つまり海軍は「外地籍」である台湾、朝鮮、満洲、南方の島々の日本人(当時は日本の一部です)は入校を認めていませんでした。
これは差別です。
差別というのは、必要なものです。
理由は簡単です。
長期間海上で、艦という閉鎖された空間で起居をともにするのです。
何代にも渡る家系が明確で、家系に犯罪歴や疾病歴がなく、親族一同によって身元保証がしっかりされている者でなければ、海軍軍人として採用できない。
あたりまえのことです。
こういう点、頭ごなしに「差別はいけない」という人がいますが、間違っています。
世界中、どんな民族にも善人もいれば悪人もいるのです。
いま善人でも、いざとなったら悪人になってしまう残念な人もいます。
問題は、そのいざという時に、悪行へと走ることを防ぐことができる社会体制が何代にも渡って確立されているかにあるのです。
ここは大事なところです。
その人自身の善悪ではなく、悪に走ることを抑えることができる社会体制、集団体制が整っているのかどうかが問題なのです。
日本は大家族制であり、戸籍もあり、いわば親族一同がそのひとりのための監視役になっています。
セガレが外地で悪事を働けば、戸主も親戚一同も、その責任を世間から追求されます。
ですから戦地で戦う日本軍人は、そこでひとりで戦っているわけではないのです。
その背後には、親戚一同の期待と監督がついている。
これはとても重要な事です。
誰にでも弱い心はある。
それをどこまで封じ込めることができるかが大事だからです。
言い換えれば、個人が個々に独立しており、しかもその個人が名前までコロコロと変えられるような社会環境下では、犯罪を意図して誘発するようなものです。
ですからもっというなら、昨今の「在日が悪い」のではないのです。
彼らが悪事を働くことを制限しようとしない日本が悪いのです。
この点江戸時代の日本の社会システムは徹底しています。
長屋でひとりでも犯罪者を出せば、長屋自体が取り壊し、家主と地主は江戸所払い、同じ長屋に住んでいた住民のうち、向こう三軒両隣は叩き、加えてその他の長屋の住民たちとともに、以後何年にもわたって重税を課せられました。
自分たちのコミュニティから犯罪者を出すということは、重大なことだったのです。
また、犯罪者そのものに対しても処分は厳しく、軽犯罪であっても行えば百叩き、再犯すれば牢屋入り、三犯になったら、入れ墨を入れられました。
墨の入った者は、通常の社会からは隔離されましたので、もはや二度と普通の社会に戻ることができない。
それでも墨の入った者も生きていかなければなりませんから、特定の人足場の親方のもとで働くことになります。
ただしそこでは、親方にひとことでも逆らったら、口減らしのために殺されました。
また家中に犯罪者を出すことは、家の恥であり、地域社会の恥であり、藩の恥とされました。
そして恥は、そのまま家禄の召し上げや、村人なら村八分となることを意味しました。
国元にある親戚一同にまで迷惑をかけることになったのです。
そういう背景があるから、江戸時代の人々は、道端に何百両もの大金が置いてあっても、誰もそれを盗もうなどとはしませんでした。
欲をかいて盗みでもしようものなら、たいへんなことになることがわかっていたからです。
話が脱線しました。
工藤俊作氏は、大正9年に海軍兵学校に入学するのですが、実は入学の前年の大正8年に、鈴木貫太郎中将(後の総理大臣)が校長として赴任していました。
鈴木貫太郎は、海軍兵学校校長に着任した大正8年12月、兵学校の従来の教育方針を大改新しています。
・鉄拳制裁禁止
・歴史および哲学教育の強化
・試験成績公表禁止(出世競争意識の防止)
工藤ら51期生は、この教えを忠実に守り、鉄拳制裁を一切行わなかったばかりか、下級生を決してどなりつけず、自分の行動で無言のうちに指導する姿勢を身につけました。
さらに鈴木貫太郎校長は、乃木大将が水師営の会見の際に
「敵将ステッセルに武士の名誉を保たせよ」と御諚(ごじょう・貴人の命令のこと)されたこと、そしてステッセル以下列席した敵軍将校の帯剣を許したことなどを生徒に語りました。
海軍兵学校を卒業した工藤俊作氏は、駆逐艦「雷」の艦長として、昭和15年11月着任しました。
工藤艦長は駆逐艦艦長としてはまったくの型破りで、乗組員たちはたちまち魅了されたそうです。
その工藤艦長の着任のときの訓示です。
「本日より、
本官は私的制裁を禁止する。
とくに鉄拳制裁は厳禁する」
乗組員たちは、このような新艦長を、当初「軟弱」と思ったそうです。
ところが工藤艦長には決断力があり、官僚化していた上官に媚びへつらうこともまったくない。
しかも工藤艦長は酒豪で、何かにつけて宴会を催しては部下たちと酒を酌み交わしました。
工藤艦長は日頃から、士官や先任下士官に、
「兵の失敗は
やる気があってのことなのだから
決して叱ってはならない」
と繰り返しました。
見張りが遠方の流木を敵潜水艦の潜望鏡と間違えて報告しても、見張りを呼んで「その注意力は立派だ」と誉めました。
このため、見張りはどんな微細な異変についても先を争って艦長に報告するようになったといいます。
実は戦場において、このことはものすごく大事なことです。
ミッドウエー海戦で、日本海軍は大敗しましたが、実は、米軍の航空機を日本側の偵察機が先に発見していたのです。
けれどそのパイロットは、敵機を発見しながら撃墜しなかったことを上官にとがめられることを恐れてしまい、その報告をしなかった。
このため日本側の米海軍近接への準備が遅れ、結果として日本の大敗となりました。
もしこのとき、そのパイロットが、自己の処分を覚悟で敵機発見の報告をしていたら、ミッドウエーでは日本が勝利したと言われています。
戦いというのは、それほど微妙なものなのです。
その微妙な微差をいかに上手に活用できるかが、勝利の要諦なのです。
そんなわけで、2ヶ月もすると「雷」の乗組員たちは、工藤を慈父のように慕うようになり、
「オラが艦長は」と自慢するようになり、
「この艦長のためなら、
いつ死んでも悔いはない」
と公言するようになっていったそうです。
艦内の士気は日に日に高まり、それとともに乗組員の技量・練度も向上していきました。
そして、昭和16年12月8日に大東亜戦争開戦。
開戦の二日後、日本海軍航空部隊は、英国東洋艦隊を攻撃し、最新鋭の英戦艦「不沈艦プリンス・オブ・ウェールズ」と戦艦「レパルス」を撃沈しました。
このとき、英国の駆逐艦「エクスプレス」は、海上に脱出した数百人の両艦の乗組員たちの救助をしています。
日本の航空隊は「エクスプレス」が救助活動にはいると、一切これを妨害せず、それどころか手を振ったり、親指をたてて、しっかりたのむぞ、という仕草を送っています。
またウエールズは、沈むときに艦長が乗員全員を海に逃したあと、自身を舵に縛り付け、艦と運命をともにしました。
このとき日本の航空隊は、その艦橋の周りを旋回し、最敬礼を尽くしています。
まさに日本武士道です。
さらに救助活動後に、この駆逐艦がシンガポールに帰港する際にも、日本軍は上空から視認していたが、一切攻撃をしませんでした。
こうした日本海軍の武士道は、英国海軍の将兵を感動させました。
フォール卿は語ります。
****
艦長とモーターボートに乗って脱出しました。
その直後、小さな砲弾が着弾してボートが壊れました。
この直後、私は艦長と共にジャワ海に飛び込みました。
間もなく日本の駆逐艦が近づき、われわれに砲を向けました。
固唾をのんで見つめておりましたが、何事もせず去っていきました。
私たちは救命浮舟に5~6でつかまり、首から上を出していました。
見渡す限り海また海でした。
救命艇も見えず、陸岸から150海里も離れ、食糧も飲料水もなかった。
この時ジャワ海にはすでに一隻の米英欄連合軍艦船は存在しなかったのです。
しかし我々は、オランダの飛行艇がきっと救助に来てくれるだろうと盲信していました。
けれども救助船は来ない。
一夜を明かし、夜明け前になると、精気が減退し、誰もが沈鬱な気分になっていきました。
私も死後を思い、優しかった祖父に会えることをひそかに願うようになっていました。
翌日、われわれは赤道近くにいたため、日が昇りはじめるとまた猛暑の中にいました。
仲間の一人が遂に耐えられなくなって、軍医長に、自殺のための劇薬を要求しました。
軍医長はこの時、全員を死に至らしめてまだ余りある程の劇薬を携行していたのです。
***
その情況の中で、偶然通りがかったのが駆逐艦「雷」だったのです。
二番見張りと四番見張りからそれぞれ、
「浮遊物は漂流中の敵将兵らしき」
「漂流者400以上」
と次々に報告がはいりました。
工藤艦長は「潜望鏡は見えないか」と見張りと探信員に再確認を指示し、敵潜水艦が近くにいない事を確認した後、午前10時頃「救助!」と命じました。
フォール卿は語ります。
***
午前10時、突然200ヤード(約180M)のところに日本の駆逐艦が現れました。
当初私は、幻ではないかと思い、わが目を疑いました。
そして銃撃を受けるのではないかという恐怖を覚えました。
***
工藤艦長は、日本海軍史上極めて異例の号令をかけました。
「一番砲だけ残し、
総員敵溺者救助用意」
工藤艦長は、浅野市郎先任将校に救助全般指揮をとらせ、谷川清澄航海長に後甲板を、田上俊三砲術長に中甲板における救助の指揮をとらせました。
このときの模様を佐々木確治一等水兵(当時21歳)が回想しています。
****
筏が艦側に近づいてきたので『上がれ!』と怒鳴り、縄梯子を出しましたが、誰も上がろうとしません。
敵側から、ロープ送れの手信号があったのでそうしましたら、筏上のビヤ樽のような高級将校(中佐)にそれを巻き付け、この人を上げてくれの手信号を送ってきました。
五人がかりで苦労して上げましたら、この人は『エクゼター』副長で、怪我をしておりました。
それから、『エクゼター』艦長、『エンカウンター』艦長が上がってきました。
その後敵兵はわれ先に『雷』に殺到してきました。
一時パニック状態になったが、ライフジャケットをつけた英海軍の青年士官らしき者が、後方から号令をかけると、整然となりました。
この人は、独力で上がれない者には、われわれが差し出したロープを手繰り寄せて、負傷者の身体に巻き、そして、引けの合図を送り、多くの者を救助をしておりました。
『さすが、イギリス海軍士官』と、思いました。
彼らはこういう状況にあっても秩序を守っておりました。
艦に上がってきた順序は、最初が『エクゼター』『エンカウンター』両艦長、続いて負傷兵、その次が高級将校、そして下士官兵、そして殿が青年士官という順でした。
当初『雷』は自分で上がれる者を先にあげ、重傷者はあとで救助しようとしたんですが、彼らは頑として応じなかったのです。
その後私は、ミッドウェー海戦で戦艦『榛名』の乗組員として、カッターで沈没寸前の空母乗組員の救助をしましたが、この光景と対象的な情景を目にしました。
****
浮遊木材にしがみついていた重傷者が、最後の力を振り絞って「雷」の舷側に泳ぎ着いて、「雷」の乗組員が支える竹竿に触れるや、安堵したのか、ほとんどは力尽きて次々と水面下に沈んでいってしまう。
甲板上の乗組員たちは、涙声をからしながら
「頑張れ!、頑張れ!」と呼びかけました。
見かねた二番砲塔の斉藤光一等水兵(秋田出身)が、海中に飛び込み、続いて二人がまた飛び込みました。
立ち泳ぎをしながら、重傷者の体にロープを巻き付けました。
艦橋からこの情景を見ていた工藤が決断しました。
「先人将校!重傷者は、内火艇で艦尾左舷に誘導して、デリック(弾薬移送用)を使って網で後甲板に釣り上げろ!」
甲板上には負傷した英兵が横たわり、「雷」の乗組員の腕に抱かれて息を引き取る者もいました。
一方、甲板上の英国将兵に早速水と食糧が配られたが、ほとんどの者が水をがぶ飲みしました。
救助されたという安堵も加わって、その消費量は3トンにものぼったそうです。
便意を催す者も続出しました。
工藤は先任下士官に命じて、右舷舷側に長さ四メートルの張り出し便所を着工させました。
工藤艦長は全甲板に大型の天幕を張らせ、そこに負傷者を休ませました。
艦が走ると風も当たり心地よいからです。
ただし、これで全甲板の主砲は使えなくなりました。
フォール卿が語ります。
****
私は当初、日本人というのは、野蛮で非人情、あたかもアッチラ部族かジンギスハンのようだと思っていました。
『雷』を発見した時、機銃掃射を受けていよいよ最後を迎えるかとさえ思っていました。
ところが、『雷』の砲は一切自分達に向けられず、救助艇が降ろされ、救助活動に入ったのです。
駆逐艦の甲板上では大騒ぎが起こっていました。
水平たちは舷側から縄梯子を次々と降ろし、微笑を浮かべ、白い防暑服とカーキ色の服を着けた小柄で褐色に日焼けした乗組員がわれわれを温かくみつめてくれていたのです。
艦に近づき、われわれは縄梯子を伝わってどうにか甲板に上がることができました。
われわれは油や汚物にまみれていましたが、水兵たちは我々を取り囲み、嫌がりもせず元気づけるように物珍しげに見守っていました。
それから木綿のウエスと、アルコールをもってきて我々の身体についた油を拭き取ってくれました。
しっかりと、しかも優しく、それは全く思いもよらなかったことだったのです。
友情あふれる歓迎でした。
私は緑色のシャツ、カーキ色の半ズボンと、運動靴が支給されました。
これが終わって、甲板中央の広い処に案内され、丁重に籐椅子を差し出され、熱いミルク、ビール、ビスケットの接待を受けました。
私は、まさに『奇跡』が起こったと思い、これは夢でないかと、自分の手を何度もつねったのです。
間もなく、救出された士官たちは、前甲板に集合を命じられました。
すると、キャプテン・シュンサク・クドウが、艦橋から降りてきてわれわれに端正な挙手の敬礼をしました。われわれも遅ればせながら答礼しました。
キャプテンは、流暢な英語でわれわれにこうスピーチました。
You had fought bravely.
Now you are the guests of the Imperial Japanese Navy.
I respect the English Navy,but your government is foolish make war on Japan.
(諸官は勇敢に戦われた。
今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである。
私は英国海軍を尊敬している。
今回、貴国政府が日本に戦争をしかけたことは愚かなことである)
『雷』はその後も終日、海上に浮遊する生存者を捜し続け、たとえ遙か遠方に一人の生存者がいても、必ず艦を近づけ、停止し、乗組員総出で救助してくれました。
****
「雷」はもはや病院船のような情況となりました。
「雷」の上甲板面積は約1222平方メートル、この約60%は艦橋や主砲等の上部構造物が占めています。
実質的に使えるスペースは、488平方メートル前後です。
そこに、約390人の敵将兵と、これをケアーする「雷」の乗組員を含めると一人当りのスペースは驚く程狭いスペースしか確保できません。
するとなんと工藤艦長は敵将校たちに「雷」の士官室の使用を許可したのです。
蘭印攻略部隊指揮官高橋伊望中将は、この日夕刻4時頃、「エクゼター」「エンカウンター」の両艦長を「雷」の付近を行動中の重巡「足柄」に移乗するよう命令を下しました。
舷門付近で見送る工藤艦長と、両艦長はしっかりと手を握り、互いの武運長久を祈りました。
高橋中将は双眼鏡で、「足柄」艦橋ウイングから接近中の「雷」を見て、甲板上にひしめき合う捕虜の余りの多さに、唖然としています。
この時、第三艦隊参謀で工藤俊作と同期の山内栄一中佐が高橋中将に、
「工藤は兵学校時代からのニックネームが『大仏』であります。
非常に情の深い男であります」
と言って高橋司令長官を笑わせました。
高橋中将は
「それにしても、物凄い光景だ。
自分は海軍に入っていろいろなものを見てきたが、
このような光景は初めてだ」
とニッコリ笑ったといいます。
救助された英兵たちは、停泊中のオランダの病院船「オプテンノート」に引き渡されました。
移乗する際、士官たちは「雷」のマストに掲揚されている旭日の軍艦旗に挙手の敬礼をし、また、向きを変えてウイングに立つ工藤に敬礼して「雷」をあとにしています。
工藤艦長は、丁寧に一人一人に答礼をしました。
これに比べて兵のほうは気ままなもので、「雷」に向かって手を振り、体一杯に感謝の意を表しました。
「エグゼター」の副長以下重傷者は担架で移乗した。
とくに工藤艦長は、負傷して横たわる「エグゼター」の副長を労い、艦内で療養する間、当番兵をつけて身の回りの世話をさせました。
副長も「雷」艦内で、涙をこぼしながら工藤の手を握り、感謝の意を表しました。
その「雷」は、1944年(昭和19年)4月13日、船団護衛中にグアム島の西で米潜水艦「ハーダー」(USS Harder, SS-257)の雷撃を受け沈没しました。
乗員は全員戦死です。
工藤艦長は、1942年に「雷」艦長の任を解かれたのち、海軍施設本部部員、横須賀鎮守府総務部第一課勤務、海軍予備学生採用試験臨時委員を命じられ、1944年11月から体調を崩し、翌年3月15日に待命となって終戦を迎えています。
戦後、工藤氏は故郷で過ごしていましたが、妻の姪が開業した医院で事務の仕事に就くため埼玉県川口市に移りました。
そして、1979年に胃癌のため死去。
生前、工藤艦長は、上記の事実を家族の誰にも、ひとことも話さなかったそうです。
わかる気がします。
なぜなら、「雷」がその後沈没しているのです。
そして「雷」とともに、多くの部下の乗組員たちが犠牲になっているのです。
亡くなった部下たちへの工藤艦長の愛が、工藤艦長の口を閉じさせたのです。
これが日本の武士の心得です。
ですから工藤艦長の家族がこの話を聞いたのはフォール卿からです。
日本は、武士として戦いました。
武士だから、みずから口からは、戦時中の多くを語りませんでした。
だからといって、彼らの名誉ある行動を汚すようなことを許すのは、わたしたち現代を生きる日本人のすべきことではありません。
「悪とは、人の名誉を奪うことをいう」
こう喝破したのは、ニーチェです。
その通りと思います。
そして日本人がどこかの人々の真似をして、必死になって人の名誉を奪う活動を行っても、そのどこかの国の人々には永遠に敵いません。
なぜなら彼らにとっては、その悪は歴史であり伝統であり文化そのものであるからです。
日本人が付け焼き刃で悪の真似事をしても、適うはずがないのです。
日本人は日本人らしく、尊敬と敬意と愛情をもって人々と接することです。
それが日本の文化であり、日本人に骨の髄まで染み込んだ歴史であり伝統だからです。
歴史においても、それは同じです。
たとえ不器用でも、愛と敬意と尊敬の心に生きるのが、人としての、そして日本人の道だと思います。
※この記事は2009年6月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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