戦後左翼評論家の「ああだ、こうだ」のご託宣(せんたく)よりも、現実にあった歴史の事実に何が会ったのかをしっかりと見極めることの方が断然、真実に迫ることができるのです。 |

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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
!!最新刊!!予約受付中 大東亜戦争の末期、昭和19年3月から6月にかけて、日本陸軍はビルマ(現在名ミャンマー)からインド北東部の要衝、インパールを攻略しようとして作戦を発起し、勇戦したが補給の不備で果たさず、空と地から英国軍の反攻を受けつつ退却しました。
負傷し、飢えて衰弱した体でマラリアや赤痢に罹患し、退却途中で大半が力つきて、退路には延々と日本兵の腐乱死体や白骨が折り重なっていたことから「白骨街道」と呼ばれました。
生還した兵の記録に次のようなものがあります。
***
「白骨街道生死の境」小田敦巳
「道ばたに腰掛けて休んでいる姿で
小銃を肩にもたせかけている屍もある。
手榴弾を抱いたまま爆死し、
腸(はら)わたが飛び散り
鮮血が流れ出したばかりのものもある。
たいてい傍(かたわ)らに
飯盒(はんごう)と水筒が置いてある。
ガスが充満し、
牛の腹のように膨れている屍(しかばね)も見た。
地獄とは、まさにこんなところか。
・・・ その屍にも雨が降り注ぎ、
私の心は冷たく震える。
そのような姿で屍は道標(みちしるべ)となり、
後続の我々を案内してくれる。
屍を辿(たど)った方向が分かるのだ。
皆これを白骨街道と呼んだ。
屍の道標を頼りに歩いた。」英国軍はこの退路にもしばしば現れ、容赦(ようしゃ)なく銃弾を浴びせました。
日本兵の死体のみならず、負傷し罹患して動けない兵をも、生死を問わずガソリンを掛けて焼いたといいます。
こうした酸鼻な敗戦だから、作戦を指導した牟田口(むたぐち)中将は、戦後あらゆる罵声(ばせい)を浴びせられました。
負ければ賊軍は世の習いです。
然(しか)し、幾(いく)らそんな評価をしても、失われた生命(いのち)は帰ってきません。
寧(むし)ろ戦争を知らない世代を生きる我々は、歴史を評価するのでなく「何を学ぶか」が大切なことだと思うのです。
そのインパール作戦には、戦争を知らない我々には不思議なことが幾つかあります。
◇ ◇
昭和18年9月の御前会議で絶対国防圏として千島、小笠原、マリアナ、西部ニューギニア、スンダ、ビルマを含む圏域と定め、この外郭線において敵の侵攻を食い止めようという戦略が決定されました。
その基本戦略に反してインドに撃って出ようというインパール作戦は、最初に書いたようにその翌年3月のことです。
なぜ、この時期にこういう作戦を立てたのでしょうか。
反対していた大本営(だいほんえい)も、当時日本に滞在していたチャンドラ・ボーズの強い要請を受けて作戦の実施を認めました。
インドの独立に火をつけることで、退勢(たいせい)が濃くなって来た大東亜戦争の戦争目的を、改めて世界に訴える意味が重視されたのではないでしょうか。
守る英国軍は15万でした。
攻める日本軍は9万、他にインド国民軍4万5千がいました。
加えれば戦力はほぼ並ぶのに、日本軍はそのインド国民軍をまるごと温存しました。
世界の普通の国ならこうした場合、インド軍を寧(むし)ろ前に立てて自国軍主力の犠牲(ぎせい)を少なくしようとするものです。
ましてインド独立のための戦いである。インド国民軍を前に出して何が悪い、とさえいえます。
然(しか)し日本軍はそれをしませんでした。
自分たちが戦いの先頭に立ちました。
個別に少数のインド兵を配属された日本軍の下級将校も皆そうしています。
戦闘のプロである日本軍の幹部は、これがどういう困難な戦いになるかは分かっていたことでしょう。
だからインド兵は後ろに置き、自分たちが先頭に立ってインドを目指しました。
日本軍の心意気は必ずやインド兵に伝わり、インドの決起(けっき)を促(うなが)すであろうと、或(ある)いは末端の兵士はそこまで考えていなかったとしても、虐(しいた)げられたアジアの尖兵(せんぺい)として戦うという本能的なアジアの心は、大東亜戦争の日本軍将校が共有していたのではないかと思います。
果(は)たして遠からずインドは独立しました。
つまりインパール作戦は成功したといえるのです。
その意味を知ればこそ、戦後の東京裁判に独立間近のインドは歴史の証人としてパル氏を判事として送り込んだのではないでしょうか。
◇ ◇
戦争を知らない我々にとって二つ目の驚きは、こういう惨烈(さんれつ)な戦いに、終始日本兵の士気(しき)が高かったと聞くことです。
インパールは補給を無視した無謀な戦いであると戦後の誰でもが書きますが、もともと国力の隔絶(かくぜつ)している日本が、やむを得ず世界を相手に広いアジア全域で正義の戦いを始めたのです。
第一線への補給の困難は分かっていることです。
ましてアラカン山脈に分け入る進撃です。
ジャングルの中です。
食料も乏しく、弾薬も尽き、医薬品は最初から不足し、マラリアやテング熱、赤痢(せきり)も猖獗(しょうけつ)する日々を、遠路はるばる2ヶ月を戦い抜いきました。
かのワーテルローの戦いはたった1日です。
戦いの二ヶ月はものすごく長い期間です。
後方との連絡の細い山道は常に上空からの銃爆撃にさらされて、命令も情報も伝わってこなかったことでしょう。
その中を日本兵たちは、ほんの数人の塊(かたまり)となって英国軍と戦い続けました。
ひとりも降伏しない。
誰も勝手に退却しない。
軍の形は崩壊しても、一人一人の日本兵は弾の入っていない歩兵銃に着剣して、後退命令の来る最後まで戦い抜いたのです。
そうした闘魂の積み重ねで一時はインパールの入り口を塞ぐコヒマの占領まで果たしています。
前半戦は勝っていたのです。
◇ ◇
三つ目の不思議はその軍紀(ぐんき)です。
餓鬼(がき)や幽鬼(ゆうき)のような姿で山中を引き揚げる日本の将兵たちは、だれ一人、退却途中の村を襲っていません。
既(すで)に何日も食べていない。
負傷もしている。
病気にも罹(かか)っている。
けれどビルマ人の民家を襲って食物を奪い、家畜を殺し、ついでに女を犯すといったことは伝えられていません。
銃を持った敗残兵がそうのようなことをするのは世界史の常識です。
然(しか)し、戦場になったビルマ人たちは戦中も戦後も、日本軍に極めて好意的であったのは、そういう不祥事(ふしょうじ)がなかった証拠といえます。
更(さら)に驚くべきことに、戦後のインパール戦記は沢山書かれたけれども、民家を襲うようなことはしなかったことを誇(ほこ)る記述を誰一人も残しておられません。
戦争に関係のない民家を襲わないなんて「当たり前」のことだったからでしょう。
寧(むし)ろ、退却途中でビルマの人に助けて貰(もら)った、民家の人に食事を恵(めぐ)まれたと、感謝を書いている例が多いのです。
それが日本人でした。
そういう生き方が我々の祖父や父の若き日であったのです。
◇ ◇
最後の不思議です。
この戦いは英軍15万と日本軍9万の大会戦です。
有名なワーテルローの戦いはフランス軍12万、英蘭プロイセンの連合軍は14万です。
殆(ほとん)どそれに匹敵(ひってき)する歴史的規模の陸戦です。
にもかかわらず、英国はこのインパールの戦いの勝利を誇るということをしていません。
戦いの後、インドのデリーで、英国に胡麻(ごま)すりのインド人が戦勝記念式典を企画したのですが、英国軍の上層部が差し止めたと伝えられています。
何故(なにゆえ)なのでしょうか。
理由は判然としませんが、以上の戦いの回顧(かいこ)をして、何となくわかることがあります。
それは、第一線で戦った英国軍は勝った気がしなかった、ということです。
自分たちは野戦食としては満点の食事を摂(と)り、武器弾薬も豊富に持ち、次々と補給も受けることができます。
そして植民地インドを取られないために、つまり自国の利益のために戦っています。
それなのに日本兵は、ガリガリに痩せ、誰しも何処(どこ)かを負傷し、そして弾の入っていない銃剣を握(にぎ)りしめて、殺しても殺しても向かってきました。
それが何と、インドの独立のため、アジアの自立のためです。
そんな戦いが60日以上も続きました。
ようやく日本軍の力が尽(つ)きた後に、何万もの日本兵の屍が残っていました。
それを見たときに、英国人たちは、果たして正義がどちらにあるのか、自分たちがインドを治(おさ)めていることに、正義があるのか、根底(こんてい)を揺(ゆ)さぶられる思いをしたのではないでしょうか。
実際、インパールで日本軍と戦った後、インドに起きた独立運動に対する英国駐留軍の対応は、当時の帝国主義国家の植民地対応として、あまりにも手ぬるいものでした。
やる気が感じられないのです。
ガンジーたちの非暴力の行進に対して、殆(ほとん)ど発砲もしないで通しています。
以前の英国軍なら、デモ集団の真ん中に大砲を打ち込むくらいのことはしていました。
そして戦後の東京裁判で、英国はインドがパル判事を送り、パルが日本擁護の判決付帯書を書くことについて容喙(ようかい)していません。
そこに実は、日本のインパール作戦が世界史に及ぼした大きな、真に大きな意義を感じるのです。
戦後左翼評論家の「ああだ、こうだ」のご託宣(せんたく)よりも、現実にあった歴史の事実に何が会ったのかをしっかりと見極めることの方が断然、真実に迫ることができるのです。
※この記事は『偕行』平成24年4月号に掲載いただいた拙稿をリニューアルしたものです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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コメント
kaminari
2021/11/08 URL 編集
ウエストファリア
2021/11/08 URL 編集