相沢忠洋氏

画像出所=相沢忠洋記念館
http://www15.plala.or.jp/Aizawa-Tadahiro/index.html
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
!!最新刊!!予約受付中 2013年に刊行した拙著『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』から、「三万年前の磨製石器」をお届けしたいと思います。
内容は先日
「むすび大」の動画でもお話しました。
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『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』(2013年刊)
「三万年前の磨製石器」より。
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▼日本で発見された人類最古の道具──────────────
昭和二十四年に群馬県の赤城山麓で「槍先型尖頭器」と呼ばれる磨製石器が発見されました。
薄緑色に透き通った黒曜石でできていて、中心には白雲のような筋状の模様が入り神秘的な美しさを放っています。
長さ約七センチ、幅約三センチの、この小さな石器は、三万年前につくられたことが調査の結果わかりました。
「磨製石器」というのは、石を打ち砕いた破片をそのまま利用した「打製石器」と違い、刃を鋭くするため磨きあげられていて、極めて鋭利で耐久性の高い石器です。
つまり、人の手によって加工が施されているという意味で、人類最古の道具といっていいと思います。
こうした磨製石器は、槍先型尖頭器の発掘以降、日本では関東・中部地方を中心に多数発見されましたが、海外ではオーストリアのヴォレンドルフ遺跡から出土した、二万五千年前の磨製石器があるのみです。
つまり、日本より五千年も新しい時代のものというわけです。
ほかにはロシアのコスチョンキ(約1万4千年前)、アフォントヴァゴラ(約2万年前)、オーストラリアのナワモイン(約2万1500年前)、マランガンガー(約2万9千年前)などがありますが、いずれも人が石を磨いて作ったというより、はじめからその形になっている自然石を利用したものです。
日本の加工技術は、なんと三万年の歴史があるのです。なんだか、技術大国日本を象徴したようなお話ですね。
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▼ 驚くべき建築方法──────────────
いまから5500~4000年前の縄文時代の集落跡とされている、青森県の三内丸山遺跡では、有名な六本柱建物跡が発見されています。
この遺跡の六本柱建物のような建造物をつくるためには、まず大きな木を伐採しなければなりません。
では昔の人たちは、どうやってこのような大木を切っていたのでしょうか?
もちろん、チェンソーや電動ノコギリはありません。
鉄製の斧やマサカリ、ノコギリが普及したのは古墳時代以降のことです。
それ以前に、どうやって木を伐採していたのかというと、これが実は磨製石器を使っていたのです。
こんな小さな石器でどうやって大木を切り倒したかというと、これが実に根気のいる作業なのです。
まず、木の根もとで火を起こして切りたいところを焦がします。
その焦げたところを先の尖った石器で少しずつ削ったのです。
気の遠くなりそうな作業ですが、そうやって切り倒した樹木を、今度は枝を打ち払い、必要な長さに切って家屋や船の材料に仕上げました。
ですから、もしかすると冒頭の磨製石器も三万年前という途方もない昔に、大木を倒して枝を打ち払ったり、さまざまな材料を加工したりなど、建物を建てる際の道具として実際に使用されていたのかもしれません。
ちなみに磨製石器のように石を加工しない、単なる「石器」であれば、日本では島根県出雲市の砂原遺跡から、12万年前のものが発掘されています。
自然人類学によると、いまから200万年前に人類は猿人から分化し、15万年前に現世人類が誕生したとされています。
ミトコンドリア・イブの解析では、15万年前の人類の始祖はアフリカ中央部にいたそうです。
その人類が、いまから5万年前に世界に散り、3万年前に地球の気温が急速に低下したことにあわせて、バイカル湖辺りにいたモンゴロイドが南下して日本人になったといわれています。
つまり日本に人が住み始めたのはいまから3万年前で、ちょうどその3万年前の世界最古の磨製石器が日本で出土しました・・・と、ここまではつじつまが合うのですが、ところが日本では、12万年前の石器が出土しているのです。
こうなると日本というのは、いったいどれだけの深みがある国なのだろうかと、ワクワクしてしまいます。
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▼ 三万年の歴史をもつ技術大国日本──────────────
もうひとつ、磨製石器に関連して、とてもおもしろいお話があります。
法隆寺の五重塔は、いまから1300年ほど前に建てられた世界最古の木造建築物です。
世界で一番古いとはいえ、磨製石器が3万年前ですから、ずいぶんと新しく感じられるのが不思議です。
芸術品とさえいえる五重塔は、耐震性や防火についてもよく考え抜かれて建てられています。
建物を支える重要な部分には釘を使わず、木組みといって木自体に切り込みを施し、はめ合わせていく技術が用いられ、その接合部が地震の揺れを吸収する仕組みになっています。
また、塔の中心を貫く心柱は、どの層とも釘などでつながれていません。
このような特殊な構造が、長年にわたって地震や台風などの天災から建物を守ってきたのです。
そして驚くことに、これらの主要な部分は、ほとんど「槍カンナ」と呼ばれる先の尖ったノミのような道具一本で加工が施されているのです。
槍カンナはもちろん鉄製ですが、その形状は冒頭の磨製石器と瓜二つです。
ということは、先の尖った道具一本で木材にさまざまな加工を施すという、そうした日本古来の技術は、少なくとも三万年の歴史があるわけです。
そしてそれは、日本の木材の加工技術や木や森そのものを大切にする文化が、それと同じだけの期間、しっかりと培われてきているということをあらわします。
このような長い歴史の積み重ねがあったからこそ、あの法隆寺の五重塔は1300年たったいまもなお、日本の大地に荘厳に建ち続けているのです。
五重塔のような仏舎利塔(ソトゥーバ)は、なるほど中国や朝鮮にもあります。
そしてこうした建築物は、建築技術とともに大陸から半島を渡って伝わってきたという人もいます。
けれど、大陸や朝鮮半島の仏塔は、すべて一層ごとに箱を積み重ねただけの構造です。
先に触れたように、法隆寺は巨大な心柱を中心にした木造軸組工法です。
造り方がまるで違います。
明らかに日本のオリジナルなのです。
そして、こうした高度で複雑な技術というのは、突然降ってわいたように生まれるものではありません。
つまり、世界最古の磨製石器が出土し、かつ先の尖った道具一本でさまざまな木工技術を開発した日本は、はるか大昔から「技術国家」であるということなのです。
そしてもうひとつ付け加えるならば、世界には四千年以上前から文明を築いてきた国がいくつかあります。その中で砂漠化していないのは、これまた日本だけです。
日本は木の文化でありながら森を大事に育んできました。
つまり自然との共生をしてきた民族でもあります。
そして技術に関しては3万年の歴史を持つ国なのです。
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▼ 世界史を書き換える大発見──────────────
この磨製石器の発見をめぐって感動的なお話があります。
冒頭でご紹介した「槍先型尖頭器」は、群馬県新田郡笠懸村(現、みどり市笠懸町)の岩宿遺跡で発掘されました。
発見者は相澤忠洋さんという方で、東京、羽田のお生まれです。
八歳のとき鎌倉に転居し、そこで考古学に目覚めたそうです。
九歳のときに両親が離婚して、父とともに、父の実家のある群馬県桐生市に転居しました。
しかし家は貧しく、その年のうちに商家へ丁稚奉公に出されています。
昭和十九年、相澤さんは十八歳で召集令状をもらい、海軍に入隊しています。
そして駆逐艦「蔦」の乗組員となりました。
昭和二十年、終戦によって桐生に復員しています。
彼は子供の頃からの考古学への夢が捨てられず、考古学の研究の時間を確保するために、納豆の行商をはじめたそうです。
そして毎日、納豆売りの行商をしながら、赤城山麓で土器や石器の採取活動を続けたのです。
相澤さんは、師匠である群馬師範学校の考古学者尾崎喜左雄先生から、次のような大切な教えを受けていたそうです。
・趣味の収集をするのか、事実の追究に目標を定めるのか、まず自分でやることにけじめをつけなさい。事実の追究をするのだったら多くの文献を読み、着実に事実の集積をつみあげていくことが大切です。
・事実の集積と学問とは同一であって同一ではない。事実であってもそれを学問のなかにとり入れるというのは容易ではなく、忍耐と努力、そして着実な勉強が大切である。そして考古学という学問は、一カ所や二カ所の遺跡発掘報告書を仕上げても結論は出せない。総合的な考察が必要である。井のなかの蛙にならず、考古学が好古学にならぬよう、着
実におやりなさい。あなたにもきっと事実の集積はできる。そのことが学問の基礎となり、勉強ということなのですよ。 (『「岩宿」の発見』相沢忠洋著)相澤さんは、この教えを信条として、採取活動や学問の追究を推し進めていきました。
そして昭和24年7月、世界史を書き換える重大な発見がなされました。
相澤さんの自伝である『岩宿の発見』は、そのときの感動を臨場感をもって次のように伝えています。
山寺山にのぼる細い道の近くまできて、赤土の断面に目を向けたとき、私はそこに見なれないものが、なかば突きささるような状態で見えているのに気がついた。
近寄って指をふれてみた。
指先で少し動かしてみた。
ほんの少し赤土がくずれただけでそれはすぐ取れた。
それを目の前で見たとき、私は危く声をだすところだった。
じつにみごとというほかない、黒曜石の槍先形をした石器ではないか。
完全な形をもった石器なのであった。
われとわが目を疑った。
考える余裕さえなくただ茫然として見つめるばかりだった。
「ついに見つけた!定形石器、
それも槍先形をした石器を。この赤土の中に......」
私は、その石を手におどりあがった。
そして、またわれにかえって、石器を手にしっかりと握って、それが突きささっていた赤土の断面を顔にくっつけるようにして観察した。
たしかに後からそこにもぐりこんだものではないことがわかった。
そして上から落ちこんだものでもないことがわかった。
それは堅い赤土層のなかに、はっきりとその石器の型がついていることによってもわかった。
もう間違いない。
赤城山麓の赤土(関東ローム層)のなかに、土器をいまだ知らず、石器だけを使って生活した祖先の生きた跡があったのだ。
ここにそれが発見され、ここに最古の土器文化よりもっともっと古い時代の人類の歩んできた跡があったのだ。──────────────
▼ 苦難のはじまり──────────────
相澤さんは東大人類学教室と千葉の国府台にできたばかりの考古学研究所に、心を込めて手紙を書きました。
7月27日、東京に出た相澤さんは、明治大学の大学院生であった芹沢長介さんと出会います。
二人はちょうど同じくらいの年頃で、しかもどちらも北関東の縄文土器や石器を研究しています。
相澤さんが発掘した石器類が非常に高い価値を持つと直感した芹沢さんは、相澤さんの発見物を、当時明治大学の助教授だった杉原荘介氏に見てもらいました。
ところが渡された石器を見た杉原助教授は、
「これはちょっと人工品かどうか疑問です」と言います。ただ、
「調べてみるから、置いて行きなさい」というので、発掘物を置いていきました。
しばらくたったころ、杉原助教授が文部省で岩宿遺跡での石器発見に関する記者会見を行うことになりました。
その発表原稿を見た芹沢さんは驚きました。
なんとそこには、発見者である相澤さんの名前が載っていないのです。
芹沢さんは杉原助教授に原稿の訂正を申し入れました。
しぶしぶ訂正した原稿は、発表時には「地元のアマチュア考古学者が収集した石器から、『杉原助教授が』旧石器を発見した」という表現になっていました。
なぜこのようなことになってしまったのか、いまとなっては本当のところは分かりません。
ただ昭和24年というのは、公職追放の真っただ中です。
多くの学者が職を追われていました。
こういった時代背景が関係している可能性もあると思います。
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▼ 天が使命を与える人の条件──────────────
記者会見は行われました。
日本列島は一万数千年前まで火山活動が活発で、日本には人が住んでいなかったというのが、当時の定説でしたから、「三万年前の石器が発見された」というニュースは、日本の考古学会を震撼させるビッグニュースとなりました。
けれど、この発表のどこにも相澤忠洋さんの名前は登場しませんでした。
発見者にもなっていません。
芹沢さんは激怒しました。
「相澤忠洋は単なる情報提供者などではない。
石器の発見者であり、
日本の旧石器文化研究のパイオニアだ」
芹沢さんは、その後もずっと、そう言い続けてくれたのです。
ところが、このことが逆に物議をかもしてしまいます。
相澤さんは、考古学の大家と呼ばれる人々から詐欺師呼ばわりされてしまったのです。
このためひどい迫害を受け、住まいまでたびたび移すほど追い込まれてしまいました。
迫害する側の人々はその地位を利用して、アマチュアである相澤さんの発掘のじゃまをし、相澤さんの人格を攻撃し、中傷し続けました。
こうした迫害が痛いのは、迫害を受ける側が、結果として経済的にも追いつめられてしまうことです。
相澤さんは、ついに誰も住まなくなった古い廃屋に住むようになりました。
そこを訪れた芹沢さんが、様子を見て腰を抜かしています。
まず、家の中に畳が一枚もありません。
むきだしの床板はベコベコに凹凸ができ、ところどころに穴まで開いています。
柱も桟も斜めに歪んでいます。
どこで寝ているのかと聞いたら、押し入れだそうです。
そこに藁を敷いて寝起きしているというのです。
布団はどうしたと聞いたら、
「持っていたのだけれど、
中の綿をすべて引っぱり出して
遺物の標本箱にしてしまったから、ない」
というのです。
あまりのことに、芹沢さんは涙が止まらなかったそうです。
不思議なことに日本で、何か偉業をなす人というのは、必ずこうした難に遭っています。
孟子に、
「天の将に大任を是の人に降さんとするや、
必ず先づ其の心志を苦しめ、
其の筋骨を労し、
その体膚を餓えしめ、
其の身を空乏し、
行ひ其の為すところに払乱せしむ。
心を動かし、
性を忍び、
その能くせざる所を曾益せしむる所以なり」という言葉があります。
意訳すると次のようになります。
「神々が、その人に何らかの使命を与えようとするときは、必ず先にその人を苦しめる。どのように苦しめるかというと、まず、志が挫折するような事態を起こし、その人の心を苦しめる。そして、過剰な肉体労働を強いて体力を使い果たさせ、餓えに苦しませ、その身を極貧暮らしにまで追い落とし、その人の行おうとすることに、ことごとく反する事態を招き起こす」というのです。
ではなぜ、神々がそのようなことをするかというと、それは、その人の心を鍛えて忍耐強くし、出来ないことを出来るようにさせるためだというのです。
そして神々は、その人の苦悶が顔にまで出て、思わず悲痛な叫び声をあげざるをえないところまで、徹底してその人を追い込むのだそうです。
「それを乗り越えたとき、はじめて天は、その人に、使命を与える」
これが孟子の言葉です。
相澤さんは、まさに孟子の言葉どおりに、追いつめられていたわけです。
けれど相澤さんは、叩かれても追いつめられても、まるで動じませんでした。
そこまで迫害を受け続けながら考古学への情熱を失わず、迫害している人々に対してさえ、
「ボクは人間が好きだから」
と嘘や中傷への反論もせず、ただ黙々と発掘を続けたのです。
こうして学歴のない市井のアマチュア考古学者である相澤忠洋さんは、ごく一部のほんの限られた、彼の功績をよく知る人々に支えられながら、地道な研究、発掘活動を続けていったのです。
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▼ 天皇陛下のお耳に達する
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そんな相澤さんが、ようやく世間で認められるようになるのは、昭和42年になってからのことです。
この年、相澤さんは吉川英治賞を受賞しました。
それは彼が最初に石器を発見してから、なんと21年後のことです。
そして、本当にすごいと思うのは、昭和天皇が相澤さんを大変高くご評価され、平成元年に相澤さんに勲五等を授与されているということです。
相澤さんの地道な活動が陛下のお耳にまで達したということは、八百万の神々のお耳に、相澤さんが天命を果たしたことが伝わったということなのではないかと思えます。
そして不思議なことに、勲五等を授与されるその日5月22日)の早朝、相澤さんは63歳という若さで脳内出血によって他界されました。
きっと神々のもとに召されたのだと思います。
告別式の日、相澤さんをずっと支え続けて来た芹沢長介先生は、ハンカチで流れる涙をぬぐいながら、次のように語られました。
「相澤君の一生は苦難の連続だった。
アマチュアだからといってバカにされた。
地元では、行商人のやっていることなど
学問ではないとも言われ続けた。
無理に無理を重ねた結果、
このように寿命を縮めることとなってしまったのではないだろうか」けれど相澤さんの志を継ぐ人々は、相澤さんの遺徳を讃え、群馬県勢多郡新里村に「相澤忠洋記念館」を建立しました。
そして相澤さんの遺品や発掘品を展示し、相澤さんの奥さんは、その記念館の館長に就任して老後の安心な生活を得ています。
相澤さんの座右の銘です。
「朝の来ない夜はない」※本章では、相澤忠洋氏の発見した「槍先型尖頭器」を、あえて「磨製石器」と書かせていただきました。現在の考古学では、「槍先型尖頭器」を「打製石器」に分類しています。しかし、この石器が磨製か打製かという明確な判別がつくものではありません。日本の旧石器時代には、ヨーロッパなどの旧石器時代にはないとされている磨製石器があるのが特徴で、日本の旧石器文化が世界最古の磨製石器文化であるのは考古学上確かなことです。そして岩宿遺跡からは三万年前のものとされる磨製石器が、実際に発見されているわけです。筆者はかねてより相澤氏が発見した「槍先型尖頭器」も磨製石器であるという立場をとっており、また本章の趣旨が、日本人の技術史の深さの一面を取り上げるものであることから、所述のように筆を執らせていただきました。ご理解を賜われれば幸いに存じます。(著者)お読みいただき、ありがとうございました。
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コメント
のぎこ
自分が発見した功績を他人に盗られても、
妬まず恨まず、自分のキラキラした時間を自分の愛しい仕事にのみ
注ぎ続けた人。
人に授与されずとも、彼の功績は天の神によって褒めたたえられたことでしょう。
永遠の生を手に入れた人。
まぶしくて尊くて、心を打たれました。
2021/11/23 URL 編集