今、混迷の時代にあって、どこの企業も商店も、これまでのマネジメントが、まったく通用しなくなっていることをご実感されているものと思います。 そんな時こそ、原点です。 製品やサービスを通じて、いかにお客様とのコミニュケーションを図るのか。 いかに社内のみんなで理想を共有するか。 このことを花王の創業社長の長瀬富郎から学んでみたいと思います。 |

画像出所=https://diamond.jp/articles/-/51509
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
!!最新刊!!予約受付中 天祐は常に身を律して待つべし長瀬富郎(ながせとみろう)は、花王の創業者です。
小学校を出ただけで世に出て働いて、若くして支店長にまで大抜擢されながら、妙なプライドを持ったがゆえに失敗して、丸裸になってしまう。
そこから立ち上がり、身を律して生きることを学び、国産初の高給石鹸という新しいジャンルを切り開き、世界に冠たる花王を築き上げた人です。
その長瀬富郎が、亡くなる前に残した言葉があります。
それが、次の言葉です。
人ハ幸運ナラザレバ
非常ノ立身ハ至難ト知ルベシ
運ハ即チ天祐ナリ
天祐ハ常ニ道ヲ正シテ待ツベシ
現代語に訳すと、
人は幸運でなければ、立身は困難である。
幸運とは、天のたすけである。
天のたすけを得るには、
常に身を律して待ちなさい。
となります。
実は、最近のドラマや邦画などで、どうしても許せないのが、ここです。
天佑というのは、天の助けのことを言いますが、その点の助けを得るには、やはり、どこまでも「道ヲ正シテ待ツベシ」だと思うのです。
ところが、最近のドラマや邦画でよくあるのは、身を律して厳しく精進した結果、勝利を得たり何かに成功するのではなく、いってみれば集団性のない不良が成功を得るという物語の展開が、ゴリ押しされているように思えます。
これは「ありえないこと」です。
何をするにも、身を律して真面目に取り組むから、良い結果が出るのです。
不良のことを、昔は「斜めの人」と言いましたが、体が斜めなら、影も斜めなのです。
そして体が斜めで、その斜めの状態を「良い状態」と規定するなら、世の中の真っ直ぐなものが、全部、斜めに見えてしまいます。
そして、それは、間違った見方であり、決して成功など覚束ないものであると断言することができます。
何をするにも、どんなことにも、多くの人の支えがあるのです。
その支えに、感謝の気持ちを持つところに、天佑が巡ってくるのです。
もちろん、そうでないケースもあります。
しかし、何の感謝もない、斜めの心しかない者であれば、一時的には成功があるように見えても、どこかの国の大統領のように、何かの拍子に、やはり斜めの人たちに糾弾され、地位を失うことになるのです。

長瀬富郎は、文久3(1863)年、美濃国恵那郡福岡村(現在の岐阜県中津川市)に生まれました。
12歳で小学校を卒業した富郎は、親戚の塩問屋兼荒物雑貨商「若松屋」に奉公に入りました。
相当努力したのでしょう。
なんと若干17歳で、もう、下呂支店を任されるまでに信頼されています。
若い時にこうして信頼され、支店長まで経験させられると、おかしなもので人間、ある種の自信過剰になってしまうものです。
富郎は、明治18(1885)年、23歳で店を辞めてしまいます。
辞めて何をしたかというと、それまでに貯めたお金150円を元手に、上京して米相場を貼ったのです。
いまなら、だいたい200万円くらいのお金です。
元手を増やして、商売でもやろうと思ったのでしょう。
ところがこれが、大失敗で、富郎は無一文になってしまうのです。
富郎が偉いところは、この失敗を教訓として、以後、とにかく
「堅実に生きる」
この一語を終生の誓いにし、それを守り通したことです。
ちなみに人は一般に「自分の成功と、他人の失敗からしか学ばない」のだそうで、だから、たった一度の成功体験に縋ってギャンブルにのめり込んだりするのだそうです。
「明治の気骨」と言うのは、こういう「失敗から学べる」ことを言うのかもしれません。
金を失った富郎は、日本橋馬喰町の和洋小間物商「伊能商店」に就職します。
この頃の日本橋馬喰町は、舶来品の専門問屋街で、マッチ、靴、洋傘、帽子、コーヒーなどが、ひかり輝くような高級輸入品として売られていました。
なかでも人気だったのが「石鹸」でした。
もともと石鹸は、安土桃山時代に「しゃぼん」の名で日本に入ってきたもので、このことは慶長元(1596)年8月の石田三成が博多の豪商神屋宗湛に送ったシャボンの礼状で確認できます。
もっともその時代から江戸時代まで、石鹸は超高級品で、庶民が手にできるようになったのは明治になってからのことです。
もっとも安土桃山時代にやってきたスペイン人たちが、なによりも驚いたのが日本人の清潔さだったそうで、日本人はそれまで訪れたアジアの国々ともまったく違っていて、毎日風呂に入り、灰汁や米ぬか、豆の粉末をお湯で溶いたものなどを泡立て、へちまの筋や手ぬぐいなどで体をこすって入浴する。
人も町も清潔なことに、たいへんな驚きをみせています。
ちなみにスペインのイザベラ女王といえば、コロンブスの新大陸発見(1492年)のスポンサーとなった女王として有名ですが、この女王の自慢が、「生涯に二度、風呂に入った」ということだったそうです。
「生涯で二度」です。
一回目が生まれたとき。
二度目は、結婚するときです。
イギリス女王、のエリザベス一世は、無敵艦隊でスペインを凌(しの)ぎ、世界一の文化の高さを誇った人ですが、この女王の自慢が、三か月に一度しか風呂に入らないこと。
これは宗教上の理由で、肉体は汚れたものだからキレイにすることはイケナイコトとされたという背景があったようです。
肉食で風呂に入らなければ、よほどにおったのではないかと心配になりますが、ヨーロッパは空気が乾燥しているので、香水を付けるだけであまり臭いとは感じられなくなったようです。
これに対し日本は高温多湿ですから、風呂にでもはいってさっぱりしなければ、体がベトベトしてどうしようもない。
お湯につかったり、沐浴したり、だから古代から日本人は風呂好きでした。
ついでにいうと、韓国には近代になって日本が統治するまで風呂も入浴の習慣もありません。
明治時代になって鎖国が解かれると、黒船の時代で海運力が増大し、また、西欧列強が東亜諸国にまで進出していた関係で、石鹸を輸入するのも、遠くヨーロッパから運んでくるのと違い、東亜の植民地化された近隣諸国から運んでくるだけでしたので、石鹸の値段が安くなったのです。
おかげで、またたく間に石鹸が庶民の間に浸透しています。
もっとも、そうはいっても輸入モノです。
爆発的な人気だけれど値段が高い。
そこで明治三年には大阪と京都に官営の石鹸工場が建設され、民間でも明治六年に横浜で和製石鹸の製造が始まったのですが、この石鹸の出来はイマイチでした。
原料となるヤシ油や苛性ソーダ、香料の入手が困難だったためで、結局国産品は洗濯石鹸くらいにしか使えなかったのです。
長瀬富郎は、ここに眼をつけました。
奉公先の荒物屋「若松屋」を一年あまりで退職すると、郷里に戻って資金を工面し、明治20(1887)年に、馬喰町の裏通りに間口二間(3m60cm)で「長瀬商店」を開いて、石鹸の卸売を始めたのです。
このとき富郎、24歳です。
商売は順調で、馬喰町の升屋旅館の三女なかとも結婚もし、商いは文房具、帽子、ゴム製品などにも広がって行き、一年後には表通りに店を構えるまでに発展しました。
富郎のおもしろいのは、この時すでに複式簿記による詳細な損益計算書も発行していることです。
とかく信用はこうした金銭に対するまじめさから生まれる。
長瀬商店の主要品目は、アメリカ製の石鹸です。
仕入れれば売れました。
ところが、これがなかなか入手できない。
一方で国産石鹸は粗悪で、納品しても苦情がきて返品されてしまう。
当時は返品は問屋が、かぶったのです。
富郎はここに目をつけました。
良質な石鹸を作ることができれば、それこそ右から左に売れるのではないかと考えたのです。
時を同じくして、国産石鹸の仕入先メーカーから、石鹸職人の村田亀太郎が退職しました。
富郎は、亀太郎に、長瀬商店専属で石鹸をつくらないかともちかけます。
そして友人で薬剤師の瀬戸末吉に分析の基礎を習いながら、亀太郎と二人で石鹸の原料や香料を調合に没頭します。
完成までは一年半かかりました。
ついに絶対の自信作の石鹸が完成しました。
かねてお世話になっていた高峰壌吉博士(ジアスターゼを発見した世界的化学者)にも分析結果を書いてもらいました。
製品はろう紙で包み、分析結果の紙を添え、さらに自分で描いた「花王」月のマークの図案を印刷した上質紙で、ひとつひとつの石鹸を丁寧に巻きました。
そして桐箱に三個づつを入れ、一箱35銭で売りだしたのです。
当時、アメリカ製の高級石鹸ですら、1ダースで28銭でした。
つまり三個で35銭というのは、飛びぬけて高価です。
富郎は、自信作の石鹸を、高級舶来品のようなブランド商品として売り出そうとしたのです。
狙いは当たりました。
桐箱入り花王石鹸が、贈答用に重宝されたのです。
富郎はさらに、高級ブランド品販売に際しての景品にも着目します。
石鹸を売るために、風呂敷、うちわなどを配布した。
さらに宣伝には、全国の新聞に積極的に広告を掲載しました。
鉄道沿線にある野立看板による広告も、花王が最初です。
鉄道網が全国に広がり、野立看板は、東海道線を皮切りに、関東沿線、東北本線、信越線へと次々に広がります。
また、劇場のどん帳、広告塔、電柱広告、浴場への商品名入り温度計配布などもしています。
高級品にして粗利率を高めた分、宣伝費を多くかけたのです。
そして石鹸の大当たりから、薬剤師の瀬戸の指導のもとで、歯磨粉、ろうそく、練歯磨などの製造販売も開始しました。
ちなみに富郎は、明治の末期(明治41年)には、広告に、稀代の美人芸妓とされた萬龍を起用しています。
この萬龍という女性は、赤坂の芸子で、日露戦争の際に、出征兵士のために慰問用絵葉書で大人気を博し、明治41(1908)年には、文芸倶楽部誌の「日本百美人」投票で一位になった女性です。
萬龍を起用した花王石鹸のポスター(明治41年)
萬龍の写真

富郎は、花王石鹸の成功を受けて、明治33年には、化粧水「二八水」も発売しました。
この頃、花王石鹸の成功を真似て、偽物の「香王石鹸」なるものが出回りました。
ところが富郎のすごいところは、「花王」だけでなく、事前に「香王石鹸」でも商標登録をとっていたのです。おかげで富郎が勝訴。
偽物を撃退しています。
明治28(1895)年には、花王石鹸は4.4万ダース、金額にして3万円を売り上げました。
明治29年には、東京・向島に新工場を建設。
明治40年には、売上10万円を突破。
しかし、富郎は、それまでの過労が重なり、明治43年には床につくようになり、明治44(1911)年に、48歳の若さで、この世を去ります。
亡くなる直前、長瀬富郎は、長瀬商店を合資会社長瀬商会に改組しています。
合資会社長瀬商会が、花王石鹸株式会社に改組したのは、富郎没後の大正14年のこと。
現在の社名「花王株式会社」に社名が変わったのは、昭和60年のことです。
自分が儲かれば良いというのではなく、どうしたらより多くの人々に喜んでいただけるのか。
そのことを一途に追求した、血を吐くような努力と精進の人生が、花王の創業者長瀬富郎の創業精神です。
長瀬富郎は、過労のために48歳の若さでこの世を去りました。
けれど、その創業精神は受け継がれ、儲かっている会社を貶めて奪って横取りして経営者だけが利益を掠め取る会社とはまったく対局に位置する自立した企業として花王は、次々と創意工夫を重ねた新製品を世に送り出した会社だったのです。
花王という会社が大企業になれたのも、創業社長の命まで縮めてしまうほどの「不断の努力」と「知恵」と「人の和」にあったのだと思います。
最近は、その花王の経営陣が、日本人のような顔をして日本語を話すけれど日本人ではない集団に乗っ取られ、すっかり社風が変わってしまったと言われています。
けれど、もともとの花王は、常に身を正しながら、すこしでも消費者に喜んでもらえる製品を、全社一丸となって作っていこうと努力する会社でした。
世の中には、「◯の法則」と呼ばれるものがあるのだそうです。
その法則によれば、「◯流」に染まれば、一時的には成功が見られるかもしれないけれど、長い目で見れば、そういう会社は、必ず馬脚を表わし、失脚する。
なぜなら、そこにあるのは、常に「自分さえよければ」という身勝手という名です。
創業社長の命まで縮めてしまうほどの「不断の努力」と「知恵」と「人の和」。
花王に限らず、それこそが、世界に冠たる成長を成すことができた日本企業の原点です。
けれど、それだけでは、長瀬富郎を学んだことにはなりません。
よく考えていただきたいのです。
長瀬富郎は、何のために努力をしたのでしょうか。
その努力の方向は、どこを向いたものであったのでしょうか。
長瀬富郎は、製品を通じて、お客様とのコミュニケーションを図ろうとしていたということに、お気づきいただけたでしょうか。
西洋風のマネジメントは、計画、組織、統制、効率を言います。
けれど、そこで言われていることには、支配と隷属の関係しかありません。
長瀬富郎の事業は、製品の開発から、広告宣伝に至るまで、一貫して社員や顧客との理想の共有であり、喜びの共有です。
これを文化と言います。
文化を作れるのは思想です。
その思想の元になるのが歴史です。
だから、神話は文化です。
商売とは、価値を創造するものです。
創造とは差別化であり、それは新たな文化を作ることです。
長瀬富郎は、石鹸という文化を創造し、これを使うコミュを築造しました。
つまり長瀬富郎が築いたのは、石鹸という商品ではなく、その商品を通じた価値の創造であり、差別化であり、新たな文化の創造であったのです。
今、混迷の時代にあって、どこの企業も商店も、これまでのマネジメントが、まったく通用しなくなっていることをご実感されているものと思います。
そんな時こそ、原点です。
製品やサービスを通じて、いかにお客様とのコミニュケーションを図るのか。
いかに社内のみんなで理想を共有するか。
その答えは、シラス国に元から備わる文化にあります。
※この記事は2010年5月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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