ドイツとポーランドの国境近くに、リーチェン(Rietschen)という市があります。 第二次世界大戦のあとにドイツが東西に分断されことは、みなさま御存知の通りです。 分断された東ドイツ側にあったリーチェン市は、ソ連の支配下という共産主義の厚い鉄のカーテンによって、そこで起こった様々なことが隠蔽されてしまいました。 ところがそのリーチェン市の市内各所に桜の木があります。 そして毎年3月には、ドイツとポーランドの少年少女たちによる柔道大会が行われています。 さて、何があったのでしょうか。 |

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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
!!最新刊!!予約受付中 以下のお話は2011年にこのブログでご紹介して以来、文章もそのままで、いろいろなサイトや動画で拡散いただいたものです。
この物語で重要な役割を果すのが日本人医師の肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)博士です。
彼は明治41(1908)年に、東京の八王子で外科医肥沼梅三郎氏の次男として生まれました。
幼いころから優秀で、東京府立二中(現立川高校)を卒業後、日本医科大学に進学、そこから東京帝国大学(現東大)放射線研究室へと進んでいます。
そして昭和12(1937)年、29歳になった肥沼信次博士は、ドイツに渡ってベルリン大学医学部放射線研究室で学び、同大学で東洋人として初の教授資格を取得しています。
ところがその2年後の昭和14(1939)年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まりました。
9月3日には英国とフランスがドイツに宣戦布告、9月17日にはソ連が東からポーランドに侵攻します。
昭和15年には、ドイツ、イタリア、日本が三国同盟を締結し、昭和16年には大東亜戦争が開戦に至っています。
その激動の時代の中でドイツでは、国内の全職業集団のナチス化を進められました。
ナチス思想のもとでは、ナチスに忠誠を誓わない者は、学者であれ官僚や教師であれ、公職追放となります。
このためベルリン大学だけでも数百人の学者が追放されています。
そして昭和19年2月15日、ついに彼らから見た外国人である肥沼博士のもとにまで、ナチス党員が武装してやってきて、ナチスへの宣誓を強要してきたのです。
このときに、肥沼博士がナチスに提出した宣誓書が残っています。
そこに次のように書かれています。
「私はドイツ職業組合に所属せず、
純潔な日本人であり、
日本国籍を有する者である」
つまり、自分は日本人であって、ナチス党にくみしないと堂々と宣誓しているのです。
肥沼信次博士

当時の時代の模様を考えれば、これはすごいことです。
肥沼博士がいかに意思の強さと勇気を持つ人であったかがわかります。
そしてその意志の強さと勇気が、「日本を愛する、祖国を愛する」という信念に依拠していることもわかります。
これは実はすごく大事なことで、自国に誇りを持ち、自国を国家を背負うことが、実は人間に偉大な勇気をもたらすということの証明だからです。
そしてこれは、戦後の日本人が見失ったことでもあります。
昭和20年1月、ベルリンは連合軍の大空襲を受けます。
街が焼け野原となり、ベルリン大学も灰燼に帰してしまいます。
同年3月、ドイツにあった日本大使館は、ナチスの敗北必至とみて、日本人在独者に帰国命令を出しました。
そしてこのとき、約300人の日本人が、ドイツ南部からチェコスロバキアを経由して日本に向かっています。
ところが肥沼博士は、日本大使館の避難勧告も帰国命令も無視して、誰にも告げずに、反対方向の、まさにソ連が攻めてくるポーランドの国境の街、エバースパルデに向かったのです。
いったいどうしたのでしょうか。
実は当時、肥沼博士を助けていた人に、シュナイダー夫人という人がいました。
肥沼博士35歳、シュナイダー夫人32歳です。
婦人は軍人だった夫を亡くし、5歳になる一人娘のクリステルを育てていました。
幼い子供を抱えたシュナイダー夫人に同情を寄せた肥沼博士は、シュナイダー夫人が妹の住むエバースパルデに疎開すると聞いて、医師である自分がそこに行けば、何かの役にたてるのではないかと考えたのです。
実はリーチェン市は、そのエバースバルデからおよそ25キロほど南に下ったところにあります。
そして肥沼博士がエバースバルデに疎開していたときに、そのリーチェンで発疹チフスが発生し、またたくまに病死者を多数出すに至ったのです。
発疹チフスというのは、高熱を発し、全身に発疹ができて脳症状まで起こして、最期には死に至る難病の伝染病です。
いまでも国際監視伝染病のひとつに数えられているくらいの、たいへんな病気です。
病原菌はシラミによって媒介されます。
このため、戦争や貧困、飢餓など社会的な悪条件が起きると必ず流行し、第一次世界大戦のときにはヨーロッパで数百万の死者を出しています。
リーチェン市は中世から栄えていた歴史のある都市で、人口およそ5000人の古都です。
しかし戦争によって市街地の9割の建物が灰燼に帰してしまい、さらにそこにポーランドから追放されたドイツ兵やドイツ難民、被災民が押し寄せてきていて、人口が数倍に膨れ上がっていたのです。
戦災のために下水も壊れ、衛生環境も極度に悪化した中で、敗戦後の極度の飢餓が襲いました。
こうして人々の生活環境が最悪の状態となっているところに、発疹チフスが大流行したのです。
リーチェンを制圧したソ連軍は、市内にあったナチスの戦車隊訓練学校の跡地を利用して、そこに「伝染病医療センター」を作りました。
しかしそこは「医療センター」とは名ばかりで、伝染病に罹った人をただそこに隔離しただけでした。
なんといっても、医師がいないのです。
そこで白羽の矢が立ったのが、25キロ北にいた日本人の肥沼博士だったわけです。
法定伝染病の蔓延する街の、しかも衛生環境も最悪の医療センターに行く。
これは医師のみならず、誰だって普通なら嫌がるものです。
しかし、他に医師がいないのです。
リーチェンの医師たちは、全員戦争に駆り出されていました。
地元には医師は誰一人残っていなかったのです。
そこで日本人医師の肥沼博士に白羽の矢がたちました。
肥沼博士が医療センターに着くと、そこには医師は肥沼博士ただ一人。
他には赤十字から派遣された助手が一人と、看護婦7人、調理師3人だけでした。
しかも看護婦のうちの5人は、チフスのためにすでに亡くなっていました。
一方、患者は病院のベッドだけでは足りず、毛布の代わりにワラを敷いて、廊下にまで寝かされた患者があふれていました。
吐瀉物や排便による悪臭の中で、患者たちは病気だけでなく飢えにも苦しんでいます。
そのうえ薬や消毒液、ガーゼなどの医療用品も不足していました。
そんな中で、患者は次々と死んで行きます。
肥沼博士は、そんな劣悪な環境の中で収容されている患者の面倒を診ただけでなく、看護婦さえ行くのを拒むような汚くて臭い不衛生な所へも、平気で往診に出向いて懸命に治療にあたりました。
このとき、肥沼博士に命を助けられたマルサ・クラスケさんという人が、平成5(1993)年に取材に答えて話してくれたときの模様が「大戦秘史、リーツェンの桜」という本に書かれています。
「当時、私の70才になる舅のヴィルヴァルトが
発疹チフスにかかってしまった。
1945年夏に主人が戦争から帰ってきていたが、
体が弱まっていてすごく衰弱していました。
村にはシュモレーさんという
頭の病気を治す医師がいただけです。
そんな時、暮れに舅が発疹チフスにかかり
大変困ってしまいました。
村人に相談したら、
リーツェンに日本人医師がいて、
その医師に治療して貰った人がこの村にいる、
その医師はドイツ語をよく話すチフス専門医なので、
是非治療して貰ったらと勧められました。
その話しを聞いて、
父もその日本人の先生に診てもらおうと思いました。
でも夫も衰弱しており、
どうやってリーツェンまでいくか悩みました。
鉄道は爆撃でやられていて、
隣の駅までしか動いていなかったのです。
家には馬を一頭飼っていましたが、
非常に弱っていて、
しかもこの馬は役所に内緒で飼っていた馬でした。
当時、馬は役所に徴発されていたのですが、
農家ですので一頭だけ隠していたのです。
見つかると取り上げられてしまいます。
でも馬でいく以外にないと引っぱり出して、
主人が病をおして
肥沼先生を迎えに出かけて行きました。
弱い馬だったので途中で倒れてしまい、
そのあとは歩いて、
やっとのことで肥沼先生のところまで
たどり着いてお願いすることが出来ました。
肥沼先生は主人に
「すぐ行きますから」
といってくれました。
そして本当に肥沼先生は来てくれたのです。
たった一人で寒い中を。
おじいさんは、生まれて初めて
お医者さんが家まで往診に来てくれたと大変喜びました。
これまで家に来てくれるお医者さんはいなかったのです。
先生は診察したあと
持ってきた薬を全部置いていってくれました。
その後も2回、治療にやってきてくれました。
私の舅は比較的高齢にもかかわらず、
治療を受けて治りました。
その後10年も生きられたということは、
それだけでも奇跡です。
肥沼先生のおかげです。
実は、肥沼先生のところに頼みに行くとき、
最初はためらいがあったのです。
というのは、この辺りにもソ連軍の兵隊がいて、
日本人の医者と関わり合いをもったら、
と心配したからです。
でも心配は無用でした。
肥沼先生は診察料のことを口にしませんでした。
うちだけでなく、他の家ででもです。
人を慰め、握手を求め、
薬を運んで救助を急いでくれて……。
すべてが狂乱・興奮状態であった時代にですよ。
本当にそういう先生がいたのかと、
今の人には信じられないでしょうけど、
大変素晴しい尊敬できる人です。」
当時、マルサさんが住むこの村には、30軒の農家がありました。
そしてどの家にも一人以上の発疹チフス患者がいたそうです。
肥沼博士は、この村にまで、荷馬車で治療に幾度も通ったのです。
取材のとき、クラスケ夫妻は肥沼博士のことを、子々孫々伝えていくと言いました。
そしてその取材のときに、おさげ髪の、目の澄んだ優しい表情に満ち満ちているお孫さんが、
「小学校、中学校でも
先生が肥沼先生のことを
話してくれます」
と話してくれました。
肥沼博士が呼ばれた伝染病医療センターから、5キロほど離れたところには、難民収容所がありました。
そこでも発疹チフスが発生しました。
この難民収容所は、ポーランド領地から逃げてきた多数のドイツ人の収容所です。
そこでは発疹チフスだけでなく、マラリアや赤痢まで発生していました。
難民収容所には大勢の衰弱した患者が横たわり、栄養失調で手足は枯れ枝のように痩せこけ、暗い部屋のなかで、苦しくてうめき声を上げていました。
それは、さながら地獄のような惨状だったそうです。
肥沼博士が最初に診察のためにこの収容所を訪れたとき、同行した若い看護婦は、あまりに悲惨な状況を前に、怖くて部屋に入ることができなかったそうです。
ところが肥沼博士は、何のためらいもみせずに部屋に入って行くと、感染に怯える様子もなく、患者一人一人の手をとって優しく声をかけ、患者を励まし、治療にあたりました。
当時、日本人はドイツでも勤勉な民族として知られていました。
また武士道の精神を持つ勇敢な民族としても知られていた。
肥沼はそのような日本人をイメージさせ るかのように、不眠不休で、それでいていつも優しく患者に話しかけていたのです。
患者や看護婦たちから見た肥沼博士は、勇敢な日本のサムライそのものに見えたといいます。
伝染病に感染したのは大人たちだけではありません。
子供たちも数多く感染した。
肥沼博士は、子供達にもできる限りの治療をつくし、おかげでこのとき何人もの子供が助かっています。
治療に欠かせない医薬品は、肥沼博士自身が、あちこち走り回ってようやく調達しました。
ソ連の野戦病院へは、寿司詰めの汽車で2時間、そこから徒歩で2日の距離を進み、何度も断られながら辛抱強く頼み込んで薬を手に入れています。
そして抱えられるだけの医薬品を持ち帰ると、惜しみなく患者に薬を与えていました。
また栄養失調に苦しむ患者のために、食料を求めてバルト海沿岸までも奔走しています。
何百人ものドイツ人が、こうして肥沼博士の献身的な治療で危機を脱しました。
彼は不眠不休で働き、自宅に帰ると服を着たままソファーに倒れ込んだそうです。
こうして献身的な治療を続けた肥沼博士なのだけれど、彼はいつも笑顔で患者たちを励ましながら、個人的なことは何も話そうとしませんでした。
なぜここにいるのか。
なぜここまでして治療に打ち込むのか。
肥沼博士が話したことといえば、
「日本の自然はとてもすばらしい。
富士山は美しい山で、
特に桜はたいへん綺麗だ。
桜の花をみんなに見せてあげたい」
というようなことだけだったそうです。
疲労が重なった肥沼博士は、ついに難民収容所からの帰り道で発疹チフスに倒れてしまいました。
自宅で療養にあたったけれど、昭和21年3月2日には、悪寒と発熱の症状で起きあがることさえできなくなってしまいます。
心配して看護婦たちがやってきたけれど、彼は、自分にチフスの治療薬や注射を使うことを拒否しました。
そして、看護婦たちに次のように話したそうです。
「はやく患者さんのところにもどりなさい。
そして貴重なクスリは他の患者に使ってほしい。」
昭和21年3月7日、博士の症状が悪化しました。
ちょうどその日は、家政婦のエンゲルさんの16歳の誕生日でした。
肥沼博士は、額の汗を拭き取ってくれるエンゲルさんに、
「お誕生日おめでとう。
誕生祝いを
やれずにごめんね」
と弱々しい声で言ったそうです。
そして、ひとこと、「桜が見たい」とつぶやいたそうです。
翌3月8日午後1時、肥沼信次博士は、シュナイダー夫人、家政婦のエンゲル、病院の看護婦たちに看取られながらリーツェンの自宅で亡くなりました。
享年38歳でした。
遺体は粗末な棺に納められ、冷たい小雨の降る中を市民に囲まれて、自宅からフリート広場の墓地まで運ばれました。
戦争が終わり、ソ連に占領された東ドイツ、ブランデンブルク州のリーチェン市では、伝染病医療センターの建物はチフス沈静後に閉鎖され、リーチェンの市役所となりました。
ソ連の衛星国となった東ドイツでは、市内のいたるところに秘密警察がいて、市として肥沼信次博士を公に賞賛することはできませんでした。
けれど、肥沼医師に助けられた多くの人々は、彼の功績を忘れず、肥沼医師の墓を建て、四季を通して花を絶やさなかったのです。
肥沼医師に助けられたリーチェンの市民たちは、命と引き換えに自分たちの救ってくれた肥沼医師への感謝の心を忘れなかったのです。
それから43年後。
平成元(1989)年、ベルリンの壁が崩壊し、東ドイツの共産主義者ホーネッカー大統領が失脚し、東西ドイツが統合されました。
リーチェン市では、43年間封印されてきた肥沼信次医師に対する感謝の気持ちを、晴れて公けにできるようになりました。
地元の郷土史家のシュモーク博士が、肥沼信次に関する住民の証言を集めました。
そして歴史に埋もれようとしていた彼の功績を公けにしました。
シュモーク博士の調査は、ドイツの新聞で報道されました。
それをきっかけにドイツでは、肥沼の身寄り調査が始まりました。
彼が日本人であることは、住民たちはみんな知っています。
けれど彼の経歴は、誰も知らない。
どうしてリーチェンに来たのかもわからない。
そもそも肥沼医師が、どこの誰なのかさえわからない。
ドイツ・アカデミー会員の長老で、フンボルト研究所所長のピアマン博士は、肥沼信次という人物に強い関心を寄せました。
そしてドイツ大学の客員教授で、当時ドイツに駐在していた桃山学院大学の村田教授に肥沼信次の調査を依頼しました。
村田教授は肥沼信次医師の遺族や家族を捜そうと、日本大使館や文部省などに照会しました。
けれどわからない。
やむなく村田教授は、朝日新聞の尋ね人欄に肥沼信次の名前をのせました。
そして平成元年12月14日、肥沼信次博士の実弟の肥沼栄治氏が東京で見つかりました。
弟の栄治氏は、兄の死を日本赤十字社から知らされていました。
けれど、どこでどのようにして亡くなったのかは、まるで知りませんでした。
肥沼信次博士の身元発見の知らせが、村田教授からピアマン博士、ピアマン博士からシュモーク博士、シュモーク博士からリーチェン市長へと伝えられました。
リーチェンの人々は自らの感染という危険を恐れず、自分たちの生命を守ってくれた肥沼博士の過去を初めて知りました。
平成5年、リーチェン市役所の入り口に肥沼信次博士の記念プレートが飾られました。
そこには次のように書かれました。
「肥沼信次博士は、
この建物で自ら悪疫に感染し、
倒れるまで
多くのチフス患者の生命を救った。」
平成6年、リーチェン市議会は、満場一致で肥沼信次博士の功績をたたえ、彼を名誉市民とすることを決定しました。
そして彼の墓は、市が永遠に責任もって管理することが決定されました。
平成6年、弟の肥沼栄治氏がリーチェン市に招かれました。
そしてリーツェン市長をはじめ多くの人たちの歓迎を受けました。
栄治氏は、兄の墓に花を捧げました。
そしてその日、リーチェンの当時の生き残りの人達から、兄の信次が最後に「桜を見たい」と語ったという話を聞いたのです。
日本に帰った栄治氏は、リーチェンの市民から預かった寄付金で、リーチェン市に100本の桜の苗木を送りました。
その苗木のひとつは、肥沼信次博士の墓にも植えられました。
「桜を見たい」と語った兄の夢は、ようやく48年ぶりに叶えられたのです。
リーチェン市は、残りの苗木を市内各所に植えました。
その桜はいまでは大きく育ち、リーチェンの街中で桜が見られるようになりました。
平成12年7月1日、リーチェン市は市役所前の広場に、肥沼信次の記念碑を建て、その除幕式を行いました。
式には多くの人々が参列しました。
そしてドイツの新聞も、この除幕式を大きく報道しました。
そして郷土博物館には、肥沼信次の胸像とその生涯を説明した碑が建てられました。
肥沼医師の墓も建て替えられました。
高さ1メートルの大理石に、ギリシア神話に登場する医術の神アスクレピオスが持つ「蛇の巻きついた杖」が彫られ、肥沼が医師であることが示され、墓標には「伝染病撲滅のため自らの命を捧げた」と刻まれました。
さらにリーチェン市では、毎年、肥沼信次が亡くなった3月に、ドイツ、ポーランドの少年、少女たちの柔道大会が行われることになりました。
この大会は「肥沼記念杯」と名付けられ、数百人の参加者が試合前に彼の墓に花をささげます。
柔道着に身を包んだ少年少女たちが墓前に整列し、自分たちの祖父母を救ってくれた恩 人の冥福を祈る。
少年少女が通う学校でも、肥沼信次医師の物語は、学校の授業で取り入れられ、人としての立派な生き方として紹介されています。
遠い異国の地で、肥沼信次博士は、自分の命と引き替えに多くのドイツ人の命を救いました。
彼は学者として優秀であっただけでなく、人間として素晴らしい日本人でした。
医師として、患者救済の責任をはたし、人間として愛と倫理観を持ち、日本人としての勇気と正義を実践しました。
ひとついえることは、すくなくとも戦前〜戦中にかけて、あるいは戦後も昭和の時代には、こうした肥沼博士のように、ひたすらな誠意誠実で世界の各地に名を遺した日本人がたくさんいたということです。
あるいは、名前さえ知らないけれど、酒場などで日本人に助けてもらったとかいう話まで含めたら、それこそ数知ずあります。
慰安婦や南京、731部隊などが政治的に日本人の悪行として宣伝される一方で、実際に日本人と接した人たちは、口をそろえて絶賛していたのです。
海外に出たら、日本人一人ひとりが、いわば外交官だと言われます。
ひとりひとりの日本人が立派に生きたことで、日本製品の信頼性の高さとあいまって、世界の多く人々が、日本を絶賛していました。
その一方で、いまだに慰安婦や南京、731など、日本への貶め工作は後を絶たないし、日本製品への組織的なクレーム工作も後を断ちません。
西洋人には、日本人、Chinese、Koreanの識別が難しいのだそうですが、China、Koreaが政治的に「素晴らしい国」と宣伝され、Korea製品が品質の良さを大々的にアピールされながら、戦前も戦中もいまも、彼らはすべての国々で顰蹙をかっています。
だから、欧米に旅行すると、「Are you Chinese or Korea , Japanese ?」と聞かれます。
そして、Japaneseと答えると、ものすごい笑顔で迎えてくれます。
これは欧米に旅行した人、誰もが経験することです。
ただ、昨今、そのJapaneseの劣化が著しいと言われています。
米国の日本人社会でよく言われることは、実年齢に関わりなく、「何年代に渡米してきたか」によって、日本人の品格が異なるのだそうです。
1980年以前に渡米してきた人は、品格も高く、社会的にも信頼される。
ところが、とりわけ2000年以降に渡米してきて米国在住となった日本人は、Chinese、Korean並に信用できないのだそうです。
日本は、国をあげて、すこし考え直すべきときに来ているのではないでしょうか。
【参考文献】
舘沢貢次著「大戦秘史、リーツェンの桜」
※この記事は2011年9月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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