経済的合理性は、豊かさのためには大切なことです。 けれど、責任性もまた、大切なことであることは間違いないことと思います。 両者が、片方だけが優先されるのではなく、ともに共存できる社会こそが、これからの新しい日本にとってたいせつなことではないかと思います。
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足尾精錬から排出される煙

画像出所=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%B0%BE%E9%89%B1%E6%AF%92%E4%BA%8B%E4%BB%B6#%E9%96%89%E5%B1%B1
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
!!最新刊!! 12月18日といえば、改進党議員の田中正造が、足尾鉱毒問題に関する初の質問書を衆議院に提出した日です。
明治24年(1891年)の出来事です。
足尾鉱毒事件というのは、明治の中ごろに起こった足尾銅山の公害事件です。
場所は、栃木県日光市足尾です。
足尾の銅山の採掘は、江戸時代前期から徳川幕府によって行われていたのですが、幕末頃にはほとんど廃山の状態になっていました。
明治の政変によって、いったん明治政府がここを国有化するのですが、廃山ですから、政府が持っていても意味がないと、明治10(1877)年に古河市兵衛に払い下げられました。
その古河市兵衛は、銅山の調査を行い、明治18(1885)年に、新たな銅の大鉱脈を発見するのです。
そして近代的採鉱技術を導入することで、足尾銅山は日本最大どころか、年間生産量数千トンをかぞえる東アジア最大の銅山となったのです。
足尾の銅は、こうして日本の主要輸出品となりました。
折しも富国強兵を進める明治政府にとって、銅山は外貨を獲得するため重要な柱のひとつとなったのです。
ところが問題が起こりました。
精錬時の排煙やガス、あるいは排水に含まれる二酸化硫黄や金属イオンなどが、付近の環境に多大な被害をもたらしたのです。
まず鉱毒ガスによる酸性雨が、足尾近辺の山々を禿山にしてしまいました。
木を失い土壌を喪失した土地がどうなるかというと、崩れます。(この崩壊はいまなお続いています)
さらに崩れた土砂が渡良瀬川を流れて堆積し、足利市付近で渡良瀬川は天井川(地面より川の水面が高い川)となって流域に洪水被害をもたらしました。
明治11(1878)年、明治18(1885)年には、川の鮎(あゆ)が大量死するという事件も起こりました。
さらに渡良瀬川から取水する田や、洪水後に川から流れた土砂が堆積した田では、稲の立ち枯れが起こりました。
その被害は渡良瀬川流域にとどまらず、江戸川を経由して千葉の行徳方面や、利根川を経由した霞ヶ浦方面にまで及びました。
当時はまだ「公害」という概念がなかった時代です。
被害が、足尾銅山の影響によるものだということも、長くわからないでいました。
その被害が、足尾銅山の煙と何らかの関連があるのではないかと報じられたのが、明治18(1885)年10月31日のことです。
下野新聞がスクープしました。
けれどこの段階では、なにがどうおかしいのかまでは、わかりません。
けれど臭いにおいのする煙と、臭いのある雨が、林野を枯らし、農作物を枯らし、作物が育たず、近隣の村人たちは失明やら病気やらに苦しんでいるという現象だけは、間違いのない事実としてあったのです。
明治23(1890)年8月、明治24(1891)年7,8,9月に大洪水が発生しました。
この洪水で、千葉県市川市付近の田畑が水浸しになりました。
明治25(1892)年には、付近の農作物がまるで育たなくなりました。
「これはおかしい・・・」と気付いたのが、千葉県木更津市出身で東京日々新聞に就職して間もない松本英子(当時26歳)でした。
彼女はその原因の取材調査に乗り出し、千葉から栃木県の渡良瀬、そして川の上流にさかのぼった日光の足尾地区で、すさまじい被害が発生していることを目の当たりにしました。
山々の木は見るも無残に枯れ果ています。
周辺の土壌は荒廃して作物が育ちません。
このため農業に頼る住民の生活は、窮乏を極めていました。
さらに村人たちには、いまでいうイタイイタイ病や失明に悩まされ、ほとんどの人が深刻な体調不良に悩まされていたのです。
村人たちには噂がありました。
彼らは口々に、
「足尾の鉱毒が原因ではないか。
すくなくとも最低でも、ちゃんとした調査をしてもらいたい」と、実は再三にわたって村役場に訴えを起こしていたのです。
けれど役人たちは、逆に抗議する村人を脅かし、弾圧していることもわかりました。
けれどそのことが、世間にまったく伝えられていない。
要するに被災者たちは、社会からまったく見放されていたのです。
なんだかいまどきの日本の、真実を伝えないメディアにもよく似た話です。
取材を進めた松本英子は、このことをなんとしても世間に訴えようと決意しました。
東京日々新聞の記者である自分がこれを書かなくて、いったい誰がこの悲惨を世間に訴えるのか。
松本英子は、何度も被害地に足を運び、丹念に取材を重ね、惨状を告発する記事を、東京日々新聞に60回にわたって連載しました。
さらに松本英子は、婦人会の仲間たちと力を合わせ、荷車を引いて、食料や衣類を、一軒一軒、村人の家に運んだりもしました。
具合の悪い病人の元には、看護婦さんを連れて行って手当てを施す手伝いもしました。
このあたりは、いまどきの大手メディアのジャーナリストと違う点です。
彼らは、批判をしたり事実を隠蔽したりするだけで、自分の脚を使わない。
ところがここに大きな問題がありました。
足尾の銅は、国富を図らなければならない明治政府として、どうしても操業を守らなければならない先だったのです。
ですから世間の他のジャーナリズムは、誰もそのような告発をしていません。
知っていて、口にチャックだったのです。
つまり、その時点で事件の告発をしているのは、松本英子ただひとりでした。
その結果、松本英子の書いた記事は、世間から讃えられるどころか猛烈な非難を浴びました。
いわく、
ただの金儲けの売文屋だ。
売名行為だ。
素人の婦女子の口出すような事柄ではない。
実際の被害はもっと少ない。
世間を騒がし、人心を惑わす悪人だ、等々です。
明治27(1894)年、日清戦争が勃発しました。
明治政府にとっては、年々深まる他国との緊張関係の中で、是が非でも富国強兵を進めなければなりません。
そのために足尾の銅は、ますます重要性を増していました。
松本英子は、当局に呼び出されました。
厳しい取り調べを受けました。
売名と金儲けのために、世間を騒がせ人々に混乱を招く悪徳記者だというのです。
治安のよかった時代のことです。
当局に逮捕されたということは、それだけで親戚一同の恥さらしであり、会社の恥さらしとなりました。
松本英子は、世間から非難を浴びせられ続けました。
あらゆる誹謗中傷が、彼女を襲いました。
個人の損得を考えたら、足尾銅山事件から手を引いたほうが、絶対に得です。
それは、ただ「書くのをやめる」だけのことです。
たったそれだけのことで、彼女は難を逃れることができる。
けれど彼女は筆を折りませんでした。
彼女は、たったひとりで戦い続けました。
そんな松本英子には、応援者も現れ出しました。
幸徳秋水や、内村鑑三らが、彼女を応援し励ましてくれるようになったのです。
さらに地元出身の代議士である田中正造も立ち上がってくれました。
田中正造は、元下野新聞の編集長で、明治18年に足尾銅山が怪しいというスクープ記事を出した人でもあったのです。
明治23年、第1回衆議院議員総選挙で衆議院議員となった田中正造は、この足尾銅山鉱毒事件について、明治24(1891)年の第2回衆議院議会で鉱毒問題に関する質問を行ないました。
それが、今日、12月18日のことです。
田中の厳しい追及に、政府はただ、だんまりを決め込みました。
新聞各紙も、田中正造の追及をまるで報道しませんでした。
しかし松本英子の記事、そして田中正造の必死の訴えは、やがて政府を動かします。
ようやく明治30(1897)年3月になって、政府は足尾銅山鉱毒調査委員会を設置しました。
そして数度の鉱毒予防令を出し、銅山の経営者である古河氏に、排水の濾過池・沈殿池と堆積場の設置、煙突への脱硫装置の設置を命令しました。
一見すると、とっても厳しい命令です。
期限を定め、ひとつでも遅れた場合には、銅山を閉山する、と書いてあるからです。
古河氏は、24時間体制で工事を行ない、すべての工事を期限内に間に合わせました。
ところが、いい加減に造った濾過池や沈殿池は、翌年の明治31(1898)年には早々に決壊してしまいました。
煙突の脱硫装置も、当時の技術レベルではまるで機能しませんでした。
つまり政府の行った対策と命令は、単にカタチだけのものでしかなかったし、ただのカタチだけの命令を受けた足尾銅山もまた、カタチだけ整えていただけであったのです。
あたりまえのことですが、そのような対策に効果などありようがありません。
ちなみにこのときの政府の命令や古河の対策工事が、ただの形式であり、なんら実質的な機能を持たなかったことを認めたのは、平成5(1993)年の環境白書に至ってのことです。
これを認めるまでになんと96年もかかっています。
被害はますます拡大していきました。
田中正造という強い味方を得た被災者の村人たちは、政府に向けて強訴に及びました。
1万2000名の村人たちが、国会に請願デモを行いました。
ところがこのデモ隊が、なんと警官隊と衝突してしまうのです。
原因は、デモ隊の一部が警官隊に突撃したことです。
この突撃は「ヤラセ」であったとも言われています。
しかし、その一部の者の突撃によって、デモは大流血騒動になりました。
そして大勢の逮捕者が出ました。
これを「川俣事件」といいます。
大きな事件ですから、当然、事件は大手新聞でも報道されました。
しかしその内容は、
「工事の効果が明確に出始め農地もかなり回復を見せている」
との政府高官の発表を鵜呑みにし、デモに参加した人々をただの狂人と決めつけ、
さらにその一方で、
「激甚被害地を除く他は極めて豊作」
と大見出しで報道するというものでした。
明治34(1901)年10月6日付の「東京 朝日新聞(現在の朝日新聞)」の記事です。
実際には、この年、足尾町に隣接する松木村、久蔵村、仁田元村では、人が死に絶えて廃村になっていました。
村が壊滅していたのです。
銅山の被害は、絶えているどころかますます拡大していたのです。
にもかかわらず、朝日は「取材なしの思いこみ」で記事を書きました。
朝日新聞のそういう社風は、何も戦後に始まったことではないのです。
国会議員である田中正造も叩かれ、政界を追われました。
川俣事件の直後の明治33(1900)年の国会で、田中正造は、
「亡国に至るを知らざれば之れすなわち亡国の儀」
と、日本の憲政史上に残る大演説を行なったのです。
この演説があまりに説得力があり、多くの人々の賞賛を得たものであったことから、逆に所属していた改進党から圧力をかけられ、田中正造は離党せざるを得なくなるのです。
しかもこの演説に対し、時の総理大臣であった山縣有朋は、
「質問の意味がわからない」
として答弁をあっさり拒否しました。
そしてこの年、田中正造は「川俣事件」裁判の傍聴中に「あくび」をしたから官吏侮辱罪だとして罪に問われ、議員辞職にまで追い込まれてしまうのです。
議員を辞職した田中正造は、私財をなげうって鉱毒事件の運動に身を投じました。
ぜんぶを鉱毒事件の被災者を守る活動に捧げました。
大正2(1913)年7月、田中正造は、仲間の運動家のもとで倒れ、そのままお亡くなりになりました。
そのとき、彼の総財産は、手にした信玄袋ただひとつだけでした。
中身は、書きかけの原稿と、新約聖書、鼻紙、川海苔、小石3個、日記3冊、帝国憲法とマタイ伝の合本です。
お金は一銭もはいていませんでした。
彼は、邸宅から田畑まで、全部運動のために売却してしまっていたのです。
無一文で世を去った田中正造だけど、彼の葬儀には、数万人の参列者が集まりました。
その数は福沢諭吉より多かったそうです。
おそらく、彼にとっての最大の財産というのは、葬儀に集まってくれた人々そのものだったのでしょう。
足尾事件では、国会議員ですら、ここまで追い詰められまし。
まして一介のジャーナリストだった松本英子には、想像を絶する迫害や嫌がらせ、非難、中傷がありました。
足尾銅山鉱毒事件が解決したのは、平成元年(1989年)になってからのことです。
積極的な人の手によって解決したのではありません。
昭和48年(1973年)に、銅が掘り尽くされて銅山が閉山となり、鉱毒を垂れ流し続けていた銅の精錬所も、1989年に閉鎖になり、精錬所に原材料となる鉱石の運搬をしていたJR足尾線の貨物列車が廃止になったことで、その後、徐々に鉱毒被害がおさまって行ったのです。
それでも平成23年(2011年)3月には、地震で堆積場が決壊し、鉱毒汚染物質が渡良瀬川に流下し、大量の鉛が下流の農業用水取水地に流れ込んでいます。
またこのときに、足尾銅山操業時の公害によって、森を失った山が崩落して、堆積場と渡良瀬川の間にあるわたらせ渓谷鐵道の線路が破損して同鉄道が運休しています。
江戸時代まで、同じように銅を採掘し精錬していながら、明治以降の近代的採掘と精錬では、激しい公害問題が起きました。
その違いがなぜ起きたのかといえば、ひとことでいえば、経済的合理性の追求が先か、責任が先かの違いです。
もし、同じ事件が江戸時代に起きたのなら、鉱山奉行は、付近の住民への被害が明らかになった時点で、間違いなく切腹です。
当然、お上の手をわずらわせる結果を招いたのですから、奉行の家はお取り潰しです。
そして問題解決のために新たな奉行が任命され、その奉行も問題の解決ができなければ、切腹です。
権力を持つということは、責任を持つということと考えられてきたからです。
しかも幕府は、全国から、その問題についての解決にあたれる人材を広く求めることができました。
全国から人材を求めることができるということは、すなわち、人材の替えがいくらでもある、ということです。
これに対し、明治新政府の場合、足尾銅山開発に関する政府の総責任者は陸奥宗光でしたが、(長州の方には悪いですけれど)長州閥政権であったがゆえに、人材の取替えができない。
人材の替えができないから、責任を取らせて、他の人物に新たに仕事を委ねることができない。
だから問題が起きれば、それを先送りするしかなかったし、あるいは無視するしかなかったのです。
そして責任を取らされることがなければ、もっぱら経済的合理性が優先することになります。
これは、簡単に言ったら「儲かりさえすれば何をやっても良い」という風潮を生むのです。
日本人は民度が高く、高い道徳性を持ちます。
しかし、いくら民衆の民度が高くても、政府の根幹そのものが無責任体質であり、「儲かりさえすれば何をやっても良い」という認識であるなら、事態は複雑化します。
足尾銅山鉱毒事件はこうして起きたし、日華事変や先の大戦も、責任なき利益優先社会が招いた結果であったということができます。
現代における問題も同じです。
江戸の昔は15歳で元服です。
その意味では筆者など、おそらく十代のうちに腹を切らされるか、遅くとも20代で打首にでもなっていたであろうし、その後も何度も切腹になるところであったのではないかと思っています。
その意味で、自分がここまで生きて来れたのは、ただただ戦後の現代日本の持つ寛容性ややさしさによるものであったのであろうと思います。
それだけに、現代日本という国が持つやさしさに感謝だし、その感謝の思いを、すこしでも次の時代がより良くなる方向に向けたいと思う気持ちが、こうした活動の動機になっています。
経済的合理性は、豊かさのためには大切なことです。
けれど、責任性もまた、大切なことであることは間違いないことと思います。
両者が、片方だけが優先されるのではなく、ともに共存できる社会こそが、これからの新しい日本にとってたいせつなことではないかと思います。
「池の中に石を投げて見よ。
いかに小さい石であっても
たちまち波紋を起こし
波から波と伝わって、
池の中央からその片隅にまで波及する。
ひとりの志士が真に国を憂い世を嘆くなら、
その真実は人から人へと伝わって、
社会全体に波及していくのである。」
(永井元編「永井ゑい子詩文」大空社)
お読みいただき、ありがとうございました。
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