
画像出所=https://www.buccyake-kojiki.com/archives/1012285290.html
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
!!最新刊!! ▼これまでのあらすじ
前回までに素戔鳴尊(すさのをのみこと)を海原から追放した父大神の伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が、淡路にお隠れになられたとことまでをお話しました。今回からはいよいよその素戔嗚尊が高天原へと向かうところになります。この素戔鳴尊の高天原訪問は、前回もお話しました通り、ちゃんと父の伊弉諾尊に、断(こと)わり入れた上での訪問です。また訪問先の高天原におわすのは、実の姉の天照大御神(あまてらすおほみかみ)です。そのあたりを注意しながら、原文から文意をきちんと読み解いて行きたいと思います。
▼原文を読んでみる
始素戔鳴尊 はじめにすさの をのみこと
昇天之時 あめへとのぼり ますときに
溟渤以之鼓盪 あほきうみもて とどろきて
山岳為之鳴呴 やまたけために なりほえき
此則神性 これはすなはち かむさがの
雄健使之然也 たけきのつかふ しかりなり
天照大神 あめをてらさむ おほみかみ
素知其神暴悪 そのかみあらく あくをしる
至聞来詣之状 きたるかたちを きこしめいたり
乃勃然而驚曰 すなはちさかり おどろきたまひ
「吾弟之来 「あがなせみこと きたること
豈以善意乎 あによきこころ もてせむや
謂当有奪国 おもふにまさに くにをうばはむ
之志歟 こころありてか
夫父母既任諸子 それちちははの もろもろのこに
各有其境 おのおのはその さかひをたもつ
如何棄置当就之国而 つくべきくにを いかにすておき
敢窺窬此處乎」 あへてところを うかがふや」
乃結髮為髻 すなはちかみを まげにゆひ
縛裳為袴 ものすそひいて はかまとし
便以八坂瓊之五百箇御統(御統、此云美須磨屢) やさかのたまの いおつみすまる
纒其髻鬘及腕 そのみいなだき たぶきまきつけ
又背負千箭之靫(千箭、此云知能梨)与五百箭之靫 ちのりといおの ゆきをせおいて
臂著稜威之高鞆(稜威、此云伊都) うでにはいつの たかともはきて
振起弓彇急握剣柄 ゆはずふりたて たかびしばりて
蹈堅庭而陷股 かたにはふみて ももにふみぬき
若沫雪以蹴散(蹴散、此云倶穢簸邏邏箇須) あはゆきのごと くひはらちかし
奮稜威之雄誥(雄誥、此云鳥多稽眉) いつのおたけび ふるはして
発稜威之嘖讓(嘖讓、此云舉廬毗) いつのころひを おこしては
而俓詰問焉 ただになじりて といたまわれり
《現代語訳》
素戔鳴尊(すさのをのみこと)が天(あめ)に昇(のぼ)ろうとしたとき、青い海はとどろきわたり、山岳もまた鳴(な)り吠(ほ)えました。これらは素戔鳴尊(すさのをのみこと)の神性が猛々(たけだけ)しかったことによります。
天上界にあって天(あめ)を照らす天照大御神(あまてらすおほみかみ)は、やって来ようとする素戔鳴尊(すさのをのみこと)が暴(あばれ)者の悪い神であると知り、力を込めて怒りかつ驚かれたご様子で、
「我が弟がやってくるのは善(よ)い心からではない。
父母はたくさんの子を生んだが、
子の神々はそれぞれに境界を保っている。
おもうに自分がやるべき国(海原の国)を
すておいてあえて高天原(たかまがはら)に来(き)たるのは、
高天原を奪おうとする
悪心をもってのことである」
とおっしゃると、髪を解いて男髷(まげ)に結(ゆ)い、裳(も)の裾をたくしあげて袴(はかま)にし、五百個の八坂の勾玉ででできた輪を御髪(みぐし)と腕に巻き付けて、背には千本の矢の入った靫(ゆき)、5百本の入った靫を負い、腕には高い音をたてる矢避けを付けて、弓の弦を振り立てて、剣の柄を握りしめると、堅い庭の土を腿(もも)のあたりまで踏み抜いてまるで淡雪のように蹴りたて、雄叫びをあげると、威力の強烈な怒りの声で、素戔嗚尊(すさのをのみこと)を問い詰めました。
▼健全な態度あらすじで申し上げました通り、素戔嗚尊(すさのをのみこと)の高天原の姉訪問は、もともとちゃんと父大神である伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の了解のもとに行われています。ところが高天原に向かうときの素戔嗚尊の様子は、青い海が嵐のようにとどろき、山もまた鳴り吠えているかのようなすさまじい様子です。ところがよく読むと日本書紀は、こんなにすごい様子になったのは、素戔嗚尊の持つ神性が雄々しくて「健康なため」であったと書いています《神性雄健使之然也》。
決して暴君のような態度や不愉快な態度とは描写していないのです。
一方、高天原(たかまがはら)におわす姉の天照大御神(あまてらすおほみかみ)は、やって来ようとする素戔鳴尊(すさのをのみこと)を「暴(あばれ)者の悪い神であると知れている」と一方的に決めつけたのみならず、力を込めた怒りの声で
「我が弟がやってくるのは、善(よ)い心からではない。
父母の生んだたくさんの神々には、
みんなそれぞれに境界が保たれているのに、
素戔嗚尊がわざわざやってくるのは、
高天原を奪おうとする悪心によるものである」
とのべられて、みずから武装して素戔嗚尊を待ち受けます。
しかも自ら男装して武装しただけでなく、「背負千箭之靫、与五百箭之靫」とあることから、後ろに矢を満載した矢立を背負い腰に帯剣した千人、五百人の高天原の八百万の神々の軍団を率いていたことが文意から明らかにされています。
そんな大軍を率いた天照大御神が、庭の土をまるで淡雪でも蹴散らすかのようなものすごい勢いで素戔嗚尊を出迎えたのです。
そして雄叫びをあげて、威力のある声で素戔嗚尊(すさのをのみこと)を問い詰めるのです。
これはすごい描写です。
しかしここで大切なことは、素戔嗚命が、ただ姉に会おうとしに来ただけなのに、なぜ天照大神は武装し、軍団まで従えて素戔嗚命を恫喝(どうかつ)したのか《問題①》ということを、ちゃんと考えながら読むことです。
▼二神の子のたて分けここは大事なところですので、場面を少し先の記述まで進めます。
姉のただならぬ様子に驚いた素戔嗚命は、姉に高天原までやってきた理由を縷々(るる)説明します。
すると天照大御神は「どうやってお前の赤心(きよきこころ)を明かすのか」と問います。
素戔嗚命は
「では誓約(うけひ)をしましょう」
と申し出ます。
誓約(うけひ)というのは、神様からの神託を得るための方法です。
そしてあらかじめ
「素戔嗚尊が生む子が女(たをやめ)なら濁心(きたなきこころ)、
男(ますらを)ならば清(きよ)き心」
と取り決めます。
すると結果は、
・天照大御神が素戔嗚命の剣から生んだ子が三柱の女性神
・素戔嗚命が天照大御神の髪飾りから生んだ子が五柱の男性神
でした。
結果は素戔鳴尊(すさのをのみこと)が生んだ子が男子であったわけですから、素戔鳴尊(すさのをのみこと)は清き心であったということになります。
実際、ここまでの流れはその通りです。
ところが天照大神はなぜか
「生む元になった道具は男の子が天照大御神の髪飾り、
女の子は素戔嗚命の剣だったのだから、
男神が吾が子であり、
女神が素戔嗚命の子である」
とおっしゃられるのです。
こうなると素戔嗚命には濁心があったということになります。
ここで問題です。なぜ天照大神は、誓約(うけひ)の結果を、敢えて逆に言い換(か)えられたのでしょうか《問題②》。
このとき生まれた三女神が宗像三女神です。そして宗像三神は、以後ずっと素戔鳴尊(すさのをのみこと)の子として、海の守り神となります。
また素戔鳴尊(すさのをのみこと)が生んだ男神のうちの一柱が天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)で、その子が天孫降臨の瓊々杵尊(ににぎのみこと)となり、その孫が初代天皇となられる神武天皇、そして現代の今上陛下にまで続く万世一系の天皇となります。
さて、このことは何を意味しているのでしょうか。《問題③》。
ここで大切なことは、天照大御神は最高神であられるということです。
最高神であるということは絶対神であるということです。
つまり天照大御神の言動に一切の間違いはないし、そこに疑いをはさんでもいけない。
それはご不敬にあたることです。
そうであれば《問題③》の答えは簡単です。
たとえ素戔嗚命が天照大御神の髪飾りから生んだ子であっても、絶対神であり最高神であられる天照大御神が「それが我が子」と言い換えられれば、天照大御神のお言葉が正しい答えとなります。
そこに疑問や異論を挟むことはご不敬です。それは軽からざる罪です。
では、なぜ天照大御神は、誓約(うけひ)の結果を言い換えられた《問題②》のでしょうか。
また天照大神が武装して軍団まで従えて素戔嗚命を恫喝(どうかつ)した理由は何だったのでしょうか《問題①》。
答えは天照大御神が「自(みずか)ら武装して出迎えた」というところにあります。
もし、やってきたのが危険のない弟の素戔嗚尊ではなく、高天原に対する重大な脅威であったのなら、どうなったことでしょうか。
その場合も、天照大御神が、常に先頭に立って脅威と直接対決をしなければならなかったのでしょうか。
もっとわかりやすく例えるなら、大手企業の窓口に大声を上げるクレーマーがやってきて「社長を出せ」と凄んだら、毎度社長がわざわざ本社から飛んでいって、クレーマーと直接対決しなければならないのでしょうか。
対応は本来、現場の役割ではないのでしょうか。
高天原への脅威は、高天原におわす八百万の神々のすべてに影響のある脅威です。
ならば、責任をもってまず対応しなければならないのは、八百万の神々であり、あるいは八百万の神々の中の担当者ではないでしょうか。
本抄の天照大御神のお言葉にもある「諸子各有其境(おのおのはそのさかひをたもつ)とは、単に伊弉諾大神の子についてだけのことではありません。
高天原においても、八百万の神々は、それぞれに境を持ち、それを保っているのなら、それらを守るのは、天照大御神にただ甘えるだけではなく、自分たちで責任を持って行うべきことです。
たまたま今回は危険のない弟の素戔嗚尊だったから良かったようなものの、もし本物の悪神がやってきたときはどうするのか。
それによって天照大御神の身に万一のことがあれば、この世は真っ暗闇になってしまうのです。
次回は、そうした天照大御神の深いお考えについて、続く物語で明らかにしてきます。
※この記事は、月刊『玉響』に連載している記事を再掲したものです。
月刊『玉響』(
http://www.nihoniyasaka.com/book/)
お読みいただき、ありがとうございました。
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