「発明や発見というのは、 その人一代限りの名誉でしかないんだよ。 人類は、飛行機の発明で、 これまでとまったく違った世界の扉を開いた。 このことはたいへん意義深いことだ。 だがな、 人類は未来永劫飛行機による殉難者を抱えることになる。 その慰霊ができるのは、 飛行機に愛情を注ぎ続けた 日本人の二宮忠八しかないんだ。 だから神々は、手柄をライト兄弟に譲ったんだよ」 日本文化の根幹にあるものは「つながり」です。 1位を競うことではない。
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
!!最新刊!! 世界初の有人飛行といえばライト兄弟が有名です。
ライト兄弟が飛行を成功させたのは、明治36(1903)年12月17日です。
ところが我が国では、なぜか4月29日が「飛行機の日」とされています。
なぜでしょうか。
今日は、このお話を書いてみたいと思います。
ライト兄弟が、ノースカロライナ州のキティホークにあるキルデビルヒルズで、12馬力のエンジンを搭載した「ライトフライヤー号」で、飛ばした飛行機は、最初のフライトが、わずか12秒でした。
4度目の飛行で、59秒260メートルの飛行が行われました。
下の写真は、そのときの実写版で、飛行機を操縦しているのが弟のオーヴィル、横にいるのが兄のウィルバーです。
ライト兄弟

ところが実は、ライト兄弟よりも12年も前に、飛行機を飛ばしていた人が日本にいます。
二宮忠八(にのみやちゅうはち)といいます。
香川県の丸亀練兵場で、わずか10メートルではありますけれど、日本初のプロペラ飛行実験を成功させました。
それが明治24(1891)年4月29日なのです。
だから日本では、4月29日が「飛行機の日」です。
ちなみに、二宮忠八は、翌日には、なんと36メートルの飛行に成功しています。
もっともその飛行機は有人ではありません。
個人の努力のため、予算がなかった二宮忠八は、小型の模型飛行機を作って飛ばしています。
けれどこれが人類初の「動力飛行実験」の成功であったことは、疑いのない事実なのです。
二宮忠八

二宮忠八は、慶応2(1866)年の生まれです。
このとき25歳の若者でした。
もともと忠八は、伊予国宇和郡(現:愛媛県八幡浜市矢野町)の、かなり富裕な家の生まれだったそうです。
ところが父親が事業で失敗し、さらに二人の兄が遊興に耽(ふけ)ってしまいました。
要するに遊女に狂ってしまったのです。
こうして家計が傾いたところに、父親が急死してしまう。
残された家族を養うため、忠八は12歳で、一家を支えるためにと、町の雑貨店に丁稚奉公に出ました。
その忠八は、無類の凧(たこ)好きで、奉公先でもいろいろな凧(たこ)を考案しました。
忠八の凧は、とてもよく飛ぶので、「忠八凧」と呼ばれて、たいそうよく売れたそうです。
明治20(1887)年になると、忠八は21歳で徴兵されました。
すこし補足しますが、これはとても名誉なことでした。
というのは当時徴兵された男子というのは、同年代の男子200人に5人程度の割合です。
身体頑健、虫歯もなく視力良好、痔疾を含む一切の持病なし、頭も良くて読み書きがちゃんとできること、性格良好、まっすぐで規律正しい男子だけが、甲種合格者として軍人になれたのです。
入隊した忠八は、丸亀歩兵第12連隊に入隊します。
連隊は大佐が指揮する約三千人の大所帯です。
入隊して2年経った頃、忠八に神が降ってきました。
それは、野外演習の帰りのことでした。
霧の深い日でした。
忠八が仲間たちとともに木陰で昼食をとっていると、そこにカラスが舞い降りてきたのです。
おそらく残飯の米粒を求めにきたのでしょう。
よく見かける光景です。
カラスは翼を広げ、羽ばたかずに、すべるように舞い降りてきます。
そして飛び立つときには、何度か大きく羽をあおり、谷底からの上昇気流でサァ~と舞い上がります。
「これだ!」と忠八は思ったそうです。
「向かい風を翼で受け止めたら、空気抵抗で空を飛ぶことができるじゃないか!」
これが、「固定翼による飛行原理」の発見になりました。
忠八はあれこれ工夫を重ね、一年後に「カラス型飛行器」を完成させました。
カラス型模型飛行器

明治24(1891)年4月29日の夕方、丸亀練兵場の広場で、忠八は自作のカラス型飛行器の飛行実験を行ないました。
練兵場の仲間たちがみんな見に来てくれました。
この頃忠八は、練兵場にある精神科の軍病院に勤務していました。
忠八が飛行機の動力源に選んだのが、なんと医療用聴診器のゴム管でした。
そのゴム管につながった4枚羽根のプロペラが回転すると風が起きて、飛行機が舞いあがるという仕組みです。
凧は、糸を人が引っ張って空に浮かべます。
しかし動力飛行機は、自分の力で、空に舞います。
忠八がプロペラを回してゴムを巻きました。
いっぱいに巻いたところで、カラス型飛行機をそっと地面に置きました。
忠八が手を離しました。
プロペラが勢いよく回転を始めました。
たくさんの仲間達が見守る中、カラス型飛行器は、約3メートルの助走しました。
そして、フワリと地面から浮き上がり、空に舞い上がりました。
まだ誰も飛んだことのない有人飛行に向けて、忠八の夢をいっぱいに乗せた飛行機が練兵場の空を舞いました。
ぐ~んと高度を上げた飛行機は、10メートルほど飛んで、草むらに着地しました。
成功です。
な~んだ。ただのゴム飛行機じゃないかと侮るなかれ!
人類を宇宙に飛ばすロケットだって、最初の一号機は、ロケット花火程度の小さなモノからの出発です。
見守る人も忠八も、飛行機が自走して空に舞ったことに大喜びしました。
忠八は、何度も飛行器を飛ばし、翌日には飛距離を30メートルに伸ばしました。
自信をつけた忠八は、いよいよ有人飛行機の設計に着手しました。
いろいろ研究しました。
有人飛行の研究のために、忠八は、鳥類の体型を詳細に調べるだけでなく、鳥や昆虫、トビウオから、天女や天狗などにいたるまで、およそ「空を飛ぶもの」ならなんでも調べたそうです。
そして、鳥の体型にヒントを得た「カラス型」では人間の体重を支えきれないことを知ります。
どうしたらいいのか。
忠八は、昆虫の飛行を研究しました。
そしてそこから4枚羽根の飛行機を考案しました。
明治26(1893)年のことです。
この飛行機は、「玉虫型飛行器」と名付けられました。
玉虫型飛行器

「玉虫型飛行器」は、はじめから人が乗れることを前提に設計されていました。
ライト兄弟の実験成功よりも10年も前のことです。
翼幅は2メートルです。
有人飛行を前提とした実機の、縮小模型機です。
飛んでくれれば、まさに、世界初の実用機となるはずの飛行機です。
ですからこの飛行機は、人間が搭乗することを前提として、空中で飛行機の向きを上下左右など自在に操れる工夫が施されました。
いよいよ、飛行実験の日がやってきました。
動力には強力なガソリンエンジンを搭載しました・・・といいたいところですが、当時は、まだガソリンエンジンは、たいへん高価なものでした。
忠八個人には、高価なガソリンエンジンを買う資金はありません。
ですから機体は、ゴムヒモだけで飛ばせる最大サイズとしました。
そして烏型と同じ4枚羽の推進式プロペラを機尾で回転させました。
この日の飛行実験で、「玉虫型飛行器」は10メートルの飛行に成功しました。
残る問題は、動力源です。
いかんせん、ゴム紐エンジンでは、人が乗るわけにいきません。
しかし、まだ電気すら通っていない明治の中頃のことです。
最先端の軍艦だって、まだ石炭を焚く蒸気機関の時代です。
けれど蒸気機関では、重すぎて飛行機のエンジンに使えないのです。
さりとてガソリンエンジンは、あまりに高価で、庶民が個人で買うことはできないものです。
忠八は、「飛行機は絶対に戦場で役に立つ!」と思いました。
そうなればきっとお国のために役に立つ。
だから軍でこの研究を引き取ってくれないか。
忠八は「飛行器」の有効性とその開発計画についてをレポートにまとめ、有人の「玉虫型飛行器」の開発を、上司である参謀の長岡外史大佐と大島義昌旅団長に上申しました。
個人では資金がないのです。
このままでは実機を作れない。
軍が研究を採用してくれれば、発動機を入手することも可能なのです。
しかし何度足を運んでも、長岡大佐の返事は「戦時中である」というものでした。
大島旅団長も乗り気ではありません。
忠八ひとりの趣味や夢に、軍の予算をまわすわけには行かないという返事でした。
あと一歩、あとすこしで有人飛行機が完成するのです。
発動機さえあれば。エンジンさえ買うことができれば・・・。
忠八は、必死に考えました。
そして軍の協力が得れないならば、自分でお金を作って飛行機を完成させるほかない、と決意しました。
忠八は、軍を退役しました。
そして大日本製薬に入社しました。
そして必死で働きました。
頑張ればその分、給金があがるのです。
だから本気で働きました。
忠八は、みるみる成績を挙げ、明治39(1906)年には、愛媛の支社長にまで出世しました。
支社長になった忠八は、すこし時間に余裕が生まれました。
それまで給料の大半を貯金に回しながら蓄えたお金も、ようやくまとまった金額になりました。
軍を辞めてから12年の歳月が経っていました。
明治40(1907)年、忠八は精米用の二馬力のガソリンエンジンを購入しました。
そして再び飛行機の研究を再開しました。
ところが、せっかく購入したエンジンなのだけれど、ニ馬力では、人間を乗せて飛ばすだけの推力が生まれません。
完全にパワー不足です。
当時、新しく開発されたオートバイ用のガソリンエンジンは、日本にも徐々に輸入されるようになってきていました。
けれど、それはものすごく高価な品で、忠八の手は届かないのです。
考えた忠八は、ガソリンエンジンの部品を少しずつ買い集めました。
エンジンそのものを自作しようと考えたのです。
すこしずつ器材も買い揃えはじめました。
このとき忠八が自作しようとしたエンジンは、12馬力のエンジンでした。
実はライト兄弟の「フライヤー1号」も、12馬力エンジンです。
そのライト兄弟ですが、いまでこそ、世界初の有人飛行として有名になっていますが、明治36(1903)年12月17日のライト兄弟の有人飛行というのは、アメリカ本国内ですら、当時はまるで報道されませんでした。
これには、ライト兄弟自身がアイディアの盗用を恐れて公開飛行を行わなかったことも理由のひとつですが、地上すれすれに僅かの距離を飛行したということが、この時代には、まだ「大型の凧上げ」程度にしか一般に認識されなかったのです。
ですからようやくライト兄弟による有人飛行成功が広く世間に広まったのは、明治40年になってからのことです。
そしてこのことが、日本の雑誌「科学世界」の明治40(1907)年11月号で報道されました。
忠八は、ライト兄弟の成功を知りました。
ショックでした。
このとき忠八は、それまで蓄えていた飛行機自作のための機材をめちゃめちゃに壊したという話があります。
実際に壊したかどうかは別として、忠八にとって、このことがとてもつらく悔しかったであろうことは、容易に想像できることです。
人生をかけてやってきたことの、すべてを失ったという気持ちにさえなったかもしれません。
結局忠八は、せっかく支社長にまでなっていた大日本製薬も辞め、飛行器の開発も止めてしまいました。
よほどショックだったのでしょう。
忠八は、それまで貯めていたお金で薬の製造の仕事にうちこみ、明治42(1909)年に、マルニという製薬会社を起こしています。
このとき忠八が製作しようとした飛行機は、長い間重量が重過ぎて完成しても飛べないだろうとされてきました。
平成3年10月、有志によって忠八の当時の設計図通りに、実機が作られました。
なんと、この飛行機は、見事、故郷の八幡浜市の空を舞っています。
さて、だいぶ時が経ち、大正8(1919)年といいますから、忠八が53歳のときのことです。
明治から大正にかけての日本人の平均寿命は、44~45歳くらいだといいますから、いまの感覚でいったら、60歳くらいの社長さんという感じかもしれません。
忠八は、たまたま同じ愛媛出身の白川義則陸軍中将(当時)と懇談する機会に恵まれました。
このとき、ふとしたはずみに、忘れようとして忘れられない、若き日の陸軍時代の飛行機製造の話で会話が盛り上がりました。
この白川義則という人、後年、陸軍航空局長を務め、最終階級は、陸軍大将になるお方です。
後に関東軍司令官、上海派遣軍司令官、陸軍大臣を歴任した人物でもあります。
タダモノではありません。
忠八の言葉に関心を抱いた白川義則は、実際にそうした上申があったのかどうか、すぐに確認させるとともに、忠八の上申内容が技術的に正しいかどうか、専門家に検証を命じました。
すると、見事、正しい。
なんと、日本はライト兄弟よりはるか以前に、動力飛行機による飛行実験を成功させていたことが確認されたのです。
白川は、陸軍その他に働きかけ、大正11(1922)年に忠八を表彰しました。
さらにその後も数々の表彰を忠八に授けるよう、運動してくれました。
おかげで忠八は、大正14(1925)年には、安達謙蔵逓信大臣から銀瓶一対を授与され、
大正15(1926)年5月には、帝国飛行協会総裁久邇宮邦彦王から有功章を賜い、
昭和2(1927)年には、勲六等に叙勲され、
さらに忠八の物語は、昭和12年度から、国定教科書に掲載されました。
このことを知った長岡外史大佐(かつて忠八の上申を却下した大佐)は、わざわざ忠八のもとを訪れ、謝罪してくれています。
ちなみに、このときの長岡大佐の謝罪は、上から強制されたものではありません。
もうとっくに軍を退役したおじいちゃんです。いまさら命令もありません。
彼は、自らの不明を恥じ、自らの意思で忠八に頭を下げに来たのです。
これは、実に素晴らしい、男らしい振舞だと思います。
誰だって、自分を正当化したがるものです。
失敗を他人やご時世の「せい」にしたがるものでもあります。
そうやって、自らの責任から逃れようとしたがるものです。
しかし長岡大佐は、自らの非を認めました。
自分に厳しいから、他人に対して頭を下げることができるのです。
往々にして、他人に罪をなすりつけたがるタイプの人は、自分に甘いのです。
長岡大佐は、実に立派な人であったと思います。
ただ、ひとこと言わせていただくならば、当時長岡大佐が忠八の進言を容れて、軍の上層部に上申したとしても、おそらく100%の確率で却下されたものと思います。
明治24年といえば、日清戦争の3年前です。
当時の日本政府は、ほんとうにお金がないなかで、列強の軍事力に屈しないために巨額の建造費のかかる軍艦の製造もしなければならなかったし、陸軍の兵士として採用した者たちへの給金、あるいは宿舎等の手当など、出費がかさんでいました。
日清戦争が始まってからも、戦傷病者のための病院施設に、看護婦を採用することさえなかなかできなかったのです。
看護婦は女性です。
女性看護婦を採用すれば、看護婦の宿舎や更衣室、トイレなどを、男性用とは別にまた造らなければならない。
その予算がなかったのです。
そういう厳しい情況下にあって、このうえさらに、できるかできないかわからない飛行機のために予算を割くだけの余裕は、軍にはまったくなかったことは、連隊指揮官である長岡大佐にもよくわかっていたし、軍の上層部も、そうした状況下で軍を維持管理運営していたのです。
そういう意味では、長岡大佐の不明というばかりではないのです。
けれど、それでも、可能性を潰してしまったことに、長岡大佐は自責の念を抱いたわけです。
さすがは明治の陸軍軍人、立派な人であったと思います。
飛行機は、その後、瞬く間に世界に普及しました。
ただし初期の頃の飛行機は、事故も多かったのです。
満足な滑走路も、飛行管制塔もない時代です。
エンジン性能も、いまどきのエンジンのように安定したものではありません。
このため飛行機事故で、多くの人が命を失っています。
忠八は、数々の表彰等でいただいたお金を、ずっと貯めて持っていました。
そして自らの青春の夢をかけた飛行機で、多くの人命が失われていくことに深い悲しみを覚えました。
そして、飛行機事故の防止と犠牲者の冥福を祈るためにと、彼は私財を投じて、京都の八幡市に「飛行神社」を設立しました。
そして会社もたたみ、神職の勉強をして資格をとると、自ら神主になりました。
そこで生涯、航空の安全と航空殉難者の慰霊に一生を投じたのです。
飛行神社

忠八は、昭和11(1936)年、70歳で永眠しました。
忠八は、ライト兄弟のような有人飛行機を飛ばすには至っていません。
しかしライト兄弟が成功する14年も前に飛行原理を着想し、10年前には実験に成功もしています。
二宮忠八が飛行機の開発にいそしんだ時代は、まだ日本に電気はありません。
ガソリンエンジンは高価だったし、忠八にはお金もありません。
けれどそんな中で、世界初の有人飛行という夢に向けて研究に没頭した忠八は、近年「日本の航空機の父」、「飛行機の真の発明者」と称されるようになってきています。
日本語の「飛行器(機)」というのも、二宮忠八の造語です。
ライト兄弟よりもずっと前に、日本で飛行機が実際に研究され、作られていたんだって、なんだか感動です。
そしてこのお話は、戦前の教科書にはちゃんと載ってたお話です。
どうして戦後は教科書から削除してしまったのでしょうか。
このお話のどこに不都合があったのでしょうか。
二宮忠八は、飛行機に限りない愛情を注いただけでなく、飛行機によって亡くなられた方々の御魂を慰めるために、私財を投げ打って飛行神社を創建し、世界中の飛行機による殉難者の慰霊に残りの生涯を捧げています。
神々が、二宮忠八ではなく、最終的にライト兄弟に世界初の有人飛行の手柄を譲ったことについて、こんな話を聞きました。
「発明や発見というのは、
その人一代限りの名誉でしかないんだよ。
人類は、飛行機の発明で、
これまでとまったく違った世界の扉を開いた。
このことはたいへん意義深いことだ。
だがな、
人類は未来永劫飛行機による殉難者を抱えることになる。
その慰霊ができるのは、
飛行機に愛情を注ぎ続けた
日本人の二宮忠八しかないんだ。
だから神々は、手柄をライト兄弟に譲ったんだよ」
そうかもしれないな、と思いました。
日本文化の根幹にあるものは「つながり」です。
1位を競うことではない。
※この記事は2010年4月の記事をリニューアルしたものです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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