だけども僕はやる・・・中田厚仁さんのこと



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「だけども僕はやる。
 この世の中に、
 誰かがやらなければならないことがあるとき、
 僕はその誰かになりたい」

カンボジアで活躍したありし日の中田厚仁さん
カンボジアで活躍したありし日の中田厚仁さん



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小名木善行です。

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中田厚仁(なかたあつひと)さんのことを書こうと思います。
昭和43(1968)年1月生まれですから、生きていれば今年53歳です。

中田さんは、平成5年4月8日に、カンボジアで選挙監視員として活動中に、何者かから至近距離で2発撃たれました。
銃弾は、一発が左側頭後部から左目にかけて貫通し、彼は「I am dying.(私は死んでいきます)」という言葉を最期に、25歳の若い命を散らせました。

当時のカンボジアは、20年もの内戦が続き、全土に1千万発ものチャイナ製の地雷が埋められていました。
日本の宇野宗佑外務大臣の努力で、カンボジアの停戦に関する国際会議が日本で開かれ、カンボジアに停戦と和平、そして国民の意思を尊重した総選挙が実施されることになったのが、平成2(1990)年のことです。

日本で、他国の戦闘行為をめぐる国際会議が開催されたのは、実は、これが戦後初のことです。
これは日本が、世界で初めて国際社会から独立国として承認されたことを意味し、その功績によって宇野宗佑氏は、内閣総理大臣に就任しています。
ところが「指3本事件」という軽薄な下ネタで、彼は世間の笑いものにされ、わずか2週間で総理の職を辞しています。

カンボジアの平和に、世界でもっとも大きな功績を持った宇野氏は、そのカンボジアの内紛に乗じて粗悪品の地雷を売って金儲けをしている中共政府からみたら、大敵でした。
失脚はそのための報復工作だったと言われています。
このあたりの事情については、当ブログの過去記事、
≪アンコール遺跡とカンボジア≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-691.html
に詳しいので、そちらをご参照ください。

実は、地雷というのは、とてつもなく原始的で、人類史上もっとも劣悪な人道上許せない最低最悪の卑劣な武器と言われています。
どういうことかというと、地雷には、人を殺すだけの威力がない。
殺さずに、腕や足を吹っ飛ばすして、大怪我を負わせるのです。

戦場においては、一瞬で死んでくれた方が、周囲の者にとっても、本人にとっても楽です。
葬式と埋葬だけで済むからです。
大怪我は違います。
怪我をした本人が痛くて辛い思いをするだけでなく、その怪我人を助けるために、周りの多くの人々に負担がかかります。
怪我人が生きている以上、周囲が面倒を見続けなければならないからです。
とりわけ地雷で手足が吹き飛ばされた場合など、復員してからも辛い人生が待ちうけています。

ですから地雷は、戦闘に勝つため、というよりも、むしろ敵の国力や戦力を削ぎ、疲弊させるために用いられます。
もちろん、そうでない場合もあります。軍事施設などへの侵入を防ぐためなどです。

ただカンボジアの地雷は、国中いたるところに埋められ、非戦闘員である老若男女の市民の手足を奪ったのです。
すくなくとも、地雷の用い方として、これは最低最悪のアコギな使い方です。

そういう非人道的な武器を、日本の悪口を言い続けているどこぞの国は、カンボジアに1000万発も売り、これをカンボジアの国中に埋めたのです。

そのカンボジアに、ようやく日本の宇野宗佑氏の努力で、平成4(1992)年に国際連合カンボジア暫定統治機構(UNTAC)ができ、20年続いた内戦に終止符が打たれ、停戦合意が成立し、総選挙を実施する事になったのです。

カンボジアは、チャイナ産の、撃てば暴発の危険があるチャイナ製の機関銃やら地雷を使って、武力で国家を統一するのではなく、民主的な公正な選挙によって、平和な国家を取り戻そうということになったのです。

けれど選挙を実現するためには、国中いたるところに埋められている地雷の撤去をしなければならない。
なぜならそれをしなければ、選挙民が安心して投票所に行くことができないからです。

そのため、日本の自衛隊がカンボジアに出向きました。
これが、戦後初めての自衛隊の海外派遣でした。

なぜそれを日本が行ったのかには理由があります。
かつて日本には、国中に焼夷弾(しょういだん)が降り注ぎました。
この不発弾処理の経験から、日本の自衛隊は世界で最も優れた爆弾処理技術を持っていたからです。

この自衛隊派遣に対し、日本の左翼は、
「平和憲法を守れ!
 自衛隊の海外派兵を許すな!」
と盛んにデモや宣伝をしていました。

けれどこれはおかしな話です。
日ごろ人命尊重だの人命重視だの人の命は地球よりも重いなどと言っている左翼が、カンボジアの人々の苦しみや生命の危険に対しては、無視して良いということだからです。
一方で世界市民とかいいながら、一方では手前勝手な理屈しか振り回さない。
こういうことを、ダブル・スタンダートと言います。

こうしてカンボジアに、戦後初の自衛隊海外派遣が行われたわけですが、同時に日本は、国連のボランティア機構を通じて、日本国内からも志願者を募りました。
カンボジア国内で、これからカンボジアで行われようとする公正な「選挙」について、それがどういうもので、いつ、どこで行われるものなのかを、あくまで中立の立場で説いて回るスタッフが必要だったからです。
そして、その中の一人が、中田厚仁さんでした。

中田さんは、大阪の出身で、大阪大学法学部に入り、国際法を専攻して、卒業後カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が平成4年に募集を開始した国際連合ボランティア(UNV)に採用されています。
そしてその年の7月にカンボジアへ渡ると、最も危険なコンポトム州の巡回要員に、自ら志願しました。

当時のカンボジアには、まだ政府がありません。
戦っている内乱グループは、細かな派閥に分かれていて、武装解除に応じないグループもまだ数多くいました。
なかでもコンポトム州というのは、地雷の埋蔵量、武装ゲリラ数とも、最低最悪の環境にある州でした。

けれど、そういう地域だからこそ「行かねばならぬのだ」と、カンボジアの人々の平和を心から願う中田さんは、コンボトム州の村々を懸命に回られていたそうです。

コンボトム州には、道すら十分にはありません。
途中で、川にぶつかればカヌーを使い、カヌーが使えないところでは、泥水のような濁った川を泳いだりして村々を回ります。
なかには2時間以上も泳いで、ようやくたどり着いた村もあったそうです。

そこで彼は、選挙の必要性などについて、必死に、真剣に説いて回りました。
武装した護衛などいません。
数人のチームは、全員が丸腰です。
そして時間をかけて、みんなが納得するまで話し、説きます。
実は、こうした手法は、日本人が古代から続けてきた、まさに日本的方法といえます。

平成5(1993)年4月8日のことです。
中田さんのもとに、国連ボランティアの人たちの安全を守るための会議に出席するようにとの連絡がはいりました。
彼は、会議出席のために、車で移動を開始しました。
その途中、中田さんの乗った車がチャイナ共産党の影響を受けた「ポルポト派」の兵士に囲まれたのです。

中田さんは、後頭部に銃を突きつけられました。
そして、左後頭部から左目にかけて、ズドンと貫通傷を負わされました。
瀕死の重傷の中で、中田さんがボランティアの本部に向けて無線で伝えらた最後の言葉が、
「I'm dying.」
でした。
直訳すれば「私は死にかけている」になるのでしょうが、日本的な意味では、少し意味が異なります。
おそらく中田さんは、
「私は死んでいきます。
 けれど、死んでもこの仕事を続けていきます」
と言いたかったのではないでしょうか。

中田厚仁さんが亡くなられた翌月の5月23日、カンボジアで総選挙が行われました。
カンボジア全体で、投票率は90%に達するものでした。
すごい数字でした。
選挙は大成功でした。

では、中田さんが担当していた、最も危険地帯だったコンボトム州の投票率はどの位だったでしょうか。
99.99%です。
考えられないような高投票率でした。

開票作業をしていた投票箱の中から、いくつも手紙が出てきたそうです。
投票用紙に混じった手紙です。
ほんとうは、投票箱には投票用紙以外のものを入れることは、禁止されているのです。
だから人々は、選挙の立会人に見つからないように苦心して、手紙を入れたのだそうです。

その一枚、一枚のすべての手紙が、中田さんの死を悼み、彼の温かい人柄を慕い、彼の誠実な活動に感謝の気持ちを述べ、中田さんの日本にいるご家族に感謝の思いを伝える内容の手紙だったそうです。

中田さんが殺害された場所は、事件当時は、無人の地でした。
総選挙が終わり、カンボジアが新たな一歩を踏み出したとき、付近の村々から、たくさんの人が、この地に集まってきました。

彼らは、平成7(1995)年、そこに新しい村を作りました。
村の公式名は「ナカタアツヒト・コミューン」です。
村人達は、親しみを込めて「アツ村」と呼んでいます。

その村で、村人たちが作詞作曲した村歌があります。

~~~~~~~~~~~
題名【アツヒト村の歴史】

♪新たに発展したアツヒトの村
 地方にある田舎の村である
 森の中に生まれた新しい村
 みんなの手によって作られた

♪93年の出来事を思い出せ
 地域一帯は地雷でおおわれていた
 旅人はとても恐れた
 そこには山賊もひそんでいた

♪4月8日のこと
 おば おじ 祖母 祖父はある事件のことを聞いた
 道の途中でいつも恐怖におびえていた
 銃撃(じゅうげき)の音を耳にして

♪その時アツヒトは殺された
 痛々しく苦しんでいた
 学校の前にあるクロラッニュの記の近くで
 その事件は歴史に刻まれた

♪彼は死んだが 
 彼の名前は生き続けている
 石碑に刻まれている
 学校の中庭にその石碑が置かれている
 クメール人に語り続けている

♪新しいコンクリートの家が作られた
 種々の樹木を植える
 カンボジアの発展のために
 それが彼の願いである

♪クメール人よ 記憶にとどめよ
 これは心の平和である
 彼に学び 従えよ
 わたしたちの幸福は彼の力によるのだ

~~~~~~~~~~~

信じることのために、たったひとりでも命をかけて行動する。
そこにあるのは、力による支配や奴隷的隷属ではありません。
民衆のひとりひとりが、人として、互いの尊厳をわきまえながら、納得できるまで話し合いをし、納得してみんなで行動する。
それが日本人の古代から延々と続く日本的考え方だし、行動です。

不思議なことですが、それだけおおきな貢献をし、命を亡くされた中田厚仁さんについて、日本のメディアはほとんど報道していません。
教科書にも載っていません。
日本国政府も、国葬をしませんでした。
チャイナへの配慮、なのだそうです。

中田さんの事件を掘り下げると、中共によるカンボジアへの武器供与、地雷の敷設、中田さんを殺害した中共系ゲリラの活動などに触れざるを得ない。
だから事実上、単なる殺人事件として報じられ、それ以上には、何の報道もされていないし、政府も外交上の理由から動かない。

いったい、どこの国のマスコミなのでしょう。
いったい、どこの国の政府なのでしょう。
こうした問題は、米国ばかりの問題ではないのです。

亡くなられた中田さんの言葉です。

「だけども僕はやる。
 この世の中に、
 誰かがやらなければならないことがあるとき、
 僕は、
 その誰かになりたい。」

筋骨隆々な白黒の人たちや、自己主張の塊のようなチャイナやコリアの人たちと異なり、日本人は、一見するとひ弱に見えるかもしれません。
けれど、人としての誠実を尽くすことにかけて、日本人の右に出るものはいません。
日本は、そういう国柄で良いのだと思います。

そして日本人は、そうであるからこそ、長い年月の間に、世界中から賞賛される民族になっていくことができたのだと思います。
付け焼き刃で、多国の人たちのような我儘を真似したところで、所詮、我儘のプロフェショナルには敵わないのです。
むしろ、日本人は日本的誠実の道を、しっかりと、そして堂々と歩むべきだと思います。

中田さんのご冥福を心からお祈りいたします。

今日は、私の誕生日です。
66歳になりました。
その誕生日に、過去記事の再掲ではありますが、中田さんのことを記事にアップさせていただきました。
「だけども僕はやる」
自分も、一隅を照らすために、自分なりにできることを誠実に道として歩んで行きたいと、決意を新たにします。

お読みいただき、ありがとうございました。


※この記事は2013年1月の記事のリニューアルです。
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コメント

渡辺

以前に紹介していただいた打坂峠の鬼塚道夫さんの話を思いだしました。思い出すたび、目頭が熱くなります。
当時5歳の娘に話してやったときは話している私も声を詰まらせてしまいましたが、このような感性や価値観を抱けることに感謝の気持ちが湧いてきます。そして、共感出来る同胞がいることに。

おきー

こんな話、初めて知った。知れてよかった。

はっち

いつも更新ありがとう御座います。
中田さんの事は、以前の記事で初めて教えて頂きました。
最後になりましたが、お誕生日おめでとうございます。
ねすさんにとって、今年も佳き年になりますように。
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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