◇◇◇告知◇◇◇ 1月22日、1月30日に予定していた倭塾は、講演が入ってしまったため開催中止です。 (Facebookのイベントページは削除したのですが、画面が出てしまうようですが、中止です) 次回倭塾は、2月23日になります。 |
対立の文化のことを、別な言葉で「分離主義」と言います。 これに相対するのが「統合主義」です。 古い言葉ですと、これを「結(ゆ)い」とか「結(むすび)」です。
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
!!最新刊!! 戦国武将のひとり、堀秀政(ほりひでまさ)は、豊臣秀吉にたいへん可愛がられました。
その堀秀政が福井県の北の庄の城主だったときのことです。
城の門前に、一本の札が立てられました。
内容は、秀政に対する批判の数々でした。
秀政の部下たちは怒りました。
「犯人を捜し出して厳重に処分すべし!」という声もありました。秀政は、
「やめろ。その札を持って来い」と命じました。
そして大広間に家臣を集め、
「お前たちに聞く。
ここに書かれたことは
偽りや虚言なのか真実なのか、
討論しよう」
と部下たちに持ちかけました。
どうなったのでしょうか?
部下たちは、真剣な検討をはじめました。
「これは書き手の勘違いだ」
「これは言われる通りだ。城が悪い」
一条ごとに率直な意見が交されました。
すべての項目についての議論が終わったとき、それまで黙っていた秀政が言いました。
「今の討論の結果を
新しい立て札に書いて
門の前に立てよ。
書き手がどのような
反応をするか見たい」
一夜明けました。
秀政が立てさせた札の前に、一枚の紙が貼ってありました。
そこには、こう書かれていました。
「おそれいりました。
堀様はご名君です。
どうぞいまのままの
ご政道をお続けください」
これは堀秀政の美談として有名な話です。
秀政にしても、また秀政の前で忌憚(きたん)のない議論を戦わせた家臣たちにしても、それを立て札にした書き役にしても、そしてまたご政道に対する批判を書いた書き手にしても、全員に共通しているのは、
「互いに相手の話を
ちゃんと聞き、
その真意を受け止め、
それぞれが互いに
率直かつ誠実であった」
ということです。
すこしまとめると、
1 お互いに自己主張だけを繰り返すのではなく、相手の話をちゃんと聞いて真意を受け止めようとした。
2 身分の上下に関わりなく、互いが互いに対して率直かつ誠実に対応した。
3 お互いに自分の意見に固執するのではなく、国想う心という共通する心を抱いていた。
4 何が良いことで何が悪いことなのか、互いに価値観を共通させていた。
5 同じ言語を用いていた。
といった点があげられようかと思います。
5の同じ言語ということには、日本語の持つ特殊性かもしれません。
日本語は、「朝起きたら眠かった、眠くなかった」というように、相手の話を最後までちゃんと聞かないと、意思がどっちにあるのかわからない言語です。
ですから自然と、相手の話を最後までちゃんと聞く姿勢が備わります。
言語というのは、大昔には語順なんてものは、かなりいい加減なものだったと言われています。
いまでも、厳密にいえば、書き言葉と話し言葉は違います。
中国語など、統一された文法があるといまの日本人は誰もが思い込んでいますが、これは日本が明治維新後に近代化を成し遂げて日清戦争に勝ってから、Chineseの留学生たちがやってきて日本語の統一的な文法を学び、それに感銘を受けて、中国語にも、これを応用してからはじまったものです。
ですからもともとの中国語では、文法なんてありません。
ですから、たとえば杜甫の有名な歌の「国破山河在 城春草木深」は、韻を踏むためにこの語順になっていますが、当時の言語的には、「破国在山河、春城深草木」でもぜんぜんOKだったわけです。
ところが日本では、11世紀には、源氏物語や方丈記に代表されるように文学が生まれ、また鎌倉時代頃になると琵琶法師による箏曲「平家物語」に代表されるような「語り」の文化が発達します。
さらにこれが江戸時代には、落語、浪曲、講談のように、語りそのものが話芸として発達していきました。
その根底にあるのは、話を最後まで聞かせるための工夫、つまり結論はなんだろうと思わせて、最後の最後まで話を引っ張るおもしろさです。
ワクワクさせて、ひっぱってひっぱって、最後にオチがつくのですが、こうした話芸は、実は諸外国に、あまり例がありません。
こうした語順を、主語S、動詞V、目的語として、SOV型と呼んだりしますが、こうした語順が日本語独特のものなのかというと、実は違います。
下にある図は、その語順の分布図なのですが、北米のインデアン、南米のインディオ達、オーストラリアの原住民、インドやインドの奥地、China奥地の少数民族、モンゴル人、女真人、ウクライナや中東の人々、そしてアフリカにまで、実は極めて広範にSOV型の言語が分布しています。

15世紀以降、欧米による世界の植民地征服が行われ、その影響で世界中にSVO型の言語が普及しましたが、もしその影響がなければ、一部のヨーロッパ語族を除いては、世界中の多くの民が、実は日本語と同じ語順の言語を話している。
ちなみにVSO型とか、OVS型っておもしろいです。
おそらく話し言葉による文化形成だったのでしょうね。
SOV型「お前が敵を倒すんだ」
SVO型「お前が倒すんだ、敵を!」
VSO型「倒すんだ!お前が!敵を!!」
OVS型「敵を倒すんだよ、お前が!」
上に述べましたように、日本語と同じSOV型の言語では、最後まで聞かないと、どうしたら良いのかわかりません。
けれども、日本語でも英語でもChina語でも、日常会話はVSO型です。
つまり日常的な話し言葉では、VSO型になりがちです。
「この電車は新宿に行きますか?」は、英語にしたらたぶん
「Does this train go to Shinjuku?」
とでもなるのでしょうが、日常会話では
「Go to this train , Shinjyuku? .」
でも通じてしまいます。
要するに日常会話では言語の語順も、実はかなり怪しいもので、ほとんどVSO型かOVS型になってしまっているわけです。
なにせ、とにかく伝われば良いのだし、身振り手振りや表情など、会話の要素は言語以外の要素が8割を占めるとさえも言われるほどなのです。
ところが同じ会話でも、上の人が下々に示達したり、子供たちに言葉を教えるときなどには、規範的な文法が必要になります。
要するにその言い方(語順)が正しいもので、それ以外は正しくない、という区別がされるようになるわけです。
これを「規範文法」と言います。
日本語でも日常会話でなら、
「やりなさい、宿題あるんでしょ」
で事足りるのですが、きちんとした席でなら、
「あなたは宿題をやりなさい」
となります。
これが規範文法になります。
そして多くの場合、主語(S)もはぶかれて、
「宿題をやりなさい」
となります。
その意味では、日本語はSOV型というよりも「(S)OV型」になっているといえるかもしれません。
これは我が国では古来、常に「私」を捨てて「公(おほやけ)」に尽くすことが「正しい」とされたからで、ですから書く文章でどうしても「私は」とか「私儀」とか書かなければならないときは、行の一番下に、他の文字よりも小さく「私」と書くのが書法とされてきました。
こうして、あらゆる場において、私を捨ててみんなのために尽くすことが「正しい」とされる文化が育成されたから、堀秀政のような逸話が生まれ、それが美談として、あるいは世の習いとして日本社会に定着していったわけです。
そしてこうした文化は、社会の上層部だけでなく、民衆の間にも熟成されて行きます。
そうすることで、秀政の施政に不満を持った者まで、最後には、秀政に感動して頭を下げることになるわけです。
よく言われる日本語の特徴として、「SOV型で動詞が最後に来ているから、日本語は話しを最後まで聞かないと、どうしたら良いのかわからない。そのため日本では、話を最後まで聞くという習慣が根付いた」という話を聞くことがあります。
けれど、もし規範文法がSOV型であることが話を最後まで聞くという習慣に直結するなら、Korea語も、同じSOV型の語順です。
しかし彼らには人の話を最後まで聞くという文化がありません。
むしろ自分の言いたいことを、激しく主張するのが、彼らの文化的特徴です。
このような現実からすると、おそらく日本語の「(S)OV型」になっているという特徴こそが、日本文化形成の大きなファクターになっているように思えます。
自分の意見をゴリ押しするのではなく、どこまでも相手のことを考えて行動する。
そうした社会環境が、SOV型というよりも、(S)OV型の言語を構築し、「私」よりも「みんな」や「公」をたいせつにする日本語を形成してきたのではないかと思うのです。
だいぶ以前になりますが、ホワイトシェパードのブリーダーをやっている人のことを、このブログでご紹介したことがあります。
アメリカで生まれ育ったホワイトシェパードは、とても気が荒い。
ところがその子を日本に連れて来ると、しばらくすると、飼い主の言うことをちゃんと聞き、他の犬たちにも思いやりをもって接する子に変わっていくのだそうです。
これは、俺の指示や命令によって相手を屈服させていうことをきかせるというSVO型の文化環境ではなく、日本がSOV型だからということだけでは説明がつきません。
むしろ、飼い主(ブリーダーさん)が、自分のことよりもホワイトシェパードのことをたいせつに思う、共存共栄の意思が根っこにあり、その意思のもとで「OV」という命令がくだされていることを、ホワイトシェパードが敏感に感じ取っているということなのではないかと思います。
このような日本文化は、はるか1万7千年という途方もなく古くて長い縄文以来の日本社会の中で自然と形成されてきたものです。
そして上の図の緑の点が示すように、そうした文化は、実は過去において世界に普及し、ある程度世界中に思いやりややさしさをたいせつにする文化が広がったことがあるのではないかとも思います。
けれどそれが対立し屈服させ、奪う文化によって大きく変形してしまった。
それがいまの世界なのかもしれません。
こうした対立の文化のことを、別な言葉で「分離主義」と言います。
これに相対するのが「統合主義」です。
古い言葉ですと、これを「結(ゆ)い」とか「結(むすび)」です。
日本人が日本人としての自覚に目覚めることは、そうした分離主義に染まった現状から脱皮して、共存共栄の結びの精神を取り戻していくことなのではないかと思います。
※この記事は2019年1月記事の再掲です。
お読みいただき、ありがとうございました。
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コメント
J.K.
小名木先生にはどう映るのか知りたいので、是非見ていただいて感想を聞かせて頂きたいです。
2022/01/20 URL 編集