ススがたまれば煙突掃除をする。 これはしなければならないことです。 掃除をすることで、人々はまた暖をとれるようになります。
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山本五十六の手紙

画像出所=http://kurumenmon.com/gokokujinjya/gokokujinjya.html
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
!!最新刊!! 明治以降の日本では、義務教育があたりまえになっています。
それはとても良いことです。
けれど、その大本をたどってみると、必ずしも良いことばかりではない・・・というのが今日のお話です。
義務教育などの「学制」は、明治5年に敷かれました。
これによって、全国一律の、いわゆる国民教育が行われるようになりました。
ではそれまではどうだったのかというと、基礎教育は民間の寺子屋が行っていました。
寺子屋は義務教育ではありませんから、当然、教育を受ける子と受けない子ができてしまいます。
けれど、江戸時代の識字率は、98%あったという説もあり、これは、実は、もしかすると現代日本よりもはるかに優れた教育がなされていたことを示します。
なぜなら、当時の文は筆字です。
しかも草書体や続け文字が多用されていました。
現代日本人で、果たして、そうした文字を読める人がどれだけいるでしょうか。
トップに張った写真は、山本五十六の手紙です。
出だしのところだけ、活字にしてみると、
「拝啓
益々御清健、このたびは浦波号にて
南洋を御視察相成候よし
奉多謝。世上机上の空論
を以て国政を弄ぶの際、躬行
以て自説に忠ならむとの真摯
なる御心掛けには敬意を表候
但し海に山本在り以って御安心な
どは迷惑千万にて小生は単に
小敵たりとも侮らず大敵たりとも
懼れず」
と書いてあります。
改行位置などは、上の写真のままですが、それでも上の文字を直接読める人は少ないと思います。
私にも、正直、読めません。
活字は、写真をクリックしていただくと、掲載ページに飛びますが、これをコピペさせていただいたものです。
要するに言い換えれば、当時の水準をもってするならば、現代日本人の識字率は、おそらく1%にも満たないのです。
もちろん、活字があるから良いではないかという考え方もあろうかと思います。
けれど、活字によって私たちは、手書き文字を読み解く際の、いわゆる「行間を読む」ことや、あるいは書体や字の様子から、そこに文字としては書かれていない、相手の気持ちや思いを察するという能力が、著しく減退してしまっていることもまた事実なのではないかと思います。
山本五十六は、昭和の人です。
幕末や明治の人ではありません。
亡くなったのが昭和18年ですから、ほんの79年前には生きていた人であり、それが手紙であるということは、この手紙を受取る人もまた、上の写真の文字をちゃんと読むことができたということです。
そんな日常の文字を、私たちはすでに読めなくなっています。
外国語ではありません。
日本語です。
それが読めない。書けない。
それでいながら、私たちは、しっかりとした国語教育を受けてきたといえるのでしょうか。
それが教育の成果なのでしょうか。
明治時代に敷かれたこの学制ですけれど、実は、明治6年の徴兵令とセットになっています。
なぜそのようなことが行われたのかといいますと、当時は欧米列強に対抗するために、富国強兵を推進せざるを得なかったのです。
そのために国民皆兵、徴兵令を敷かざるを得なかったのですが、ところがいざ実際に全国から徴兵をしようとすると、言葉が通じない。
当時の明治政府のお偉方は、皆、薩長の出の人です。
それぞれ、薩摩弁、長州弁です。
徴用兵は、全国です。
言葉が違うのです。
そのため、たとえば長州の元武士が、「前へ進め!」と号令をかけても、号令を受ける側には、まるで言葉が通じない。
方言というのは、それほどまでにきついものだったのです。
ちなみに戊辰戦争は、武士同士が戦いました。
武士にももちろん方言やなまりはありましたが、彼らには全国共通の武士言葉がありました。
それが「お能」の言葉です。
当時の武士というのは、半農の足軽クラスは別ですが、ある程度の石高をいただく武士は、江戸詰めがあって、他藩の武士との交流がありました。
その際に用いられた言葉が、お能の言葉だったのです。
ですから武士は、歌舞伎や芝居などは、婦女であっても観てはならないものとされていました。
観てよいのはお能だけです。
お能は、ご覧になった方もおいでになると思いますが、歌がうたわれています。
その歌言葉が、全国の武士たちの共通語となっていたのです。
ところが庶民は、お能を観ません。
とりわけ農村部では、いわゆる旅芸人や農村歌舞伎のようなものが親しまれましたが、それらも各地によって、それぞれ言葉が違います。
つまり地方に住む限り、方言しか用いることはないのです。
しかし、方言で言葉が通じないからと、欧米列強に植民地化されるわけにはいきません。
そこで明治政府が行ったことが、学制を敷いて、全国共通語の普及を図ることでした。
ちなみに、この徴兵に関して、いまでもそうなのですが、日本人は行進が下手です。
いまでも自衛隊の行進は、北朝鮮やChinaの軍隊と比べても、小学生の運動会と同じレベルという人もいます。
それが良くないと言っているのではありません。
おそらくそんなことを思う日本人は皆無であろうと思います。
そもそも日本には、行進という概念自体がなかったのです。
そもそも武士の行軍は、全員が足並みをそろえて、イチ、ニ、イチ、ニという行進などしません。そういう伝統もありません。
武道は、基本、すり足であり、腿を上げて、歩くという身に危険をもたらす行軍は、武道にはないのです。
常住坐臥、いつにても体を入れ替え、毛筋一本で敵の刃をかわせるようにするのが武道の心得です。
その武道家が、武士であり、大挙して進軍するのです。
そこにイチ、ニ、イチ、ニはありません。
外国の軍隊と異なり、我が国の武士は、奴隷兵ではないのです。
そういう次第ですから、日本には、イチ、ニ、イチ、ニとリズムをとるという習慣がありません。
このことが明治のはじめに西洋人から指摘されて問題となり、
「日本人はリズム感が欠けているから行進ができないのだ」
とまで言われるようになりました。
そこで、このリズム感を養うために取り入れられたのが、学校における音楽教育です。
昔の文部省唱歌にシンパシーを感じる人は多いと思いますが、それらの歌がなぜ教育カリキュラムの中に取り入れられたのかと言えば、実は、軍事教練の際に必要なリズム感を養うという目的のためです。
ですから戦後、というかこの2〜30年くらいの間に、学校教育のなかから文部省唱歌が崩れ、もっとリズム感の溢れた軽音楽としての、New Musicや、JーPOPなどが採り入れられるようになったのは、むしろ明治以降のひとつの流れの中にあるともいえることです。
同時にこの時代、欧米列強諸国が、共通してキリスト教徒であったことも問題となりました。
欧米では、いわゆる道徳観、倫理観は、宗教によってもたらされるものです。
ところが日本には、それに匹敵する宗教がない。
実はあるのですが、日本社会ではそれは特別なものではなく、あまりにも日常的な常識になっていたから、日本人に宗教という自覚自体がなかったのです。
そこで明治3年には、いわゆる廃仏毀釈の太政官布告が発布されています。
神道をキリスト教に代わる日本的一神教に見立てようとしたのです。
いまにしれみれば、ずいぶんと乱暴な話ですが、その乱暴は、明治7年ごろまで、全国のお寺の大伽藍が破壊され、由緒ある仏像が次々に破壊されるろいう狼藉にまで及ぶ事態となりました。
外国にかぶれると、ありえないことが日常になるというお手本のような出来事です。
さらに、全国の寺子屋で使われていた「実語教」と「童子教」が廃止になりました。
両者とも、江戸時代の高い民度を築いた、極めて教育効果の高い洗練された教科書だったのですが、その内容に、お寺等への喜捨寄進を推奨する内容が書かれていたことが、廃止の理由となりました。
そして、これらに変わる新たな教育の柱として、廃仏毀釈運動のさなかに出されたのが、教育勅語であったわけです。
教育勅語は、素晴らしい内容です。
その教育勅語によって、失われたものもありました。
それが、「師道」です。
「師道」は、言葉としては「指導」に置き換えられてしまいました。
けれど、江戸時代までの教育において、「師道」はきわめて厳格なものでした。
童子教には、師の前にあっては、常に姿勢をただすようにとありました。
時代劇などで、上司が入室してくると、それまで大激論をしていた若侍たちが、いっせいに正座して身をただし、「御家老殿、お帰りなさいませ」などと全員が頭を垂れる姿が描かれたりしますが、まさにそれが、幼年教育から徹底して仕込まれた寺子屋教育であったわけです。
そうした師道が、実は、明治の学制公布後に崩れるのです。
それでも明治の中頃までは、江戸時代の教育を受けてきた人が教師であったために、教育の厳格さはある程度保たれました。
ところがこれが昭和初期くらいになりますと、明治以降の教育制度の中で育った教師が、学校の教師を務めるようになります。
ある程度の年齢になれば誰にでもわかることですが、生まれてからずっと、毛筋一本の間違いもない立派な師匠などという人はいません。
立派な師匠というのは、本人の自覚や努力もさりながら、周囲の生徒や親たちが、立派な師匠だと称えるから、立派になるのです。
ところが、周囲のそうした称えがなくなるとどうなるかというと、師匠(この場合は教師)は、ただ教えるだけの人になります。
教室に教師が入ってきても、起立、礼、着席の習慣さえも失われていく。
すると生徒の支えを失った教師は、ますます教えるだけの人になってしまうわけです。
つまり、師道が指導に変わってしまうのです。
昭和初期には、青年将校たちが、陛下の側近の閣僚たちの暗殺を企てる事件が起こりました。
似たような事件で、大老井伊直弼が暗殺された桜田門外の変がありますが、これを行った実行犯たちは、元水戸藩士や、薩摩藩士でしたが、いずれも「脱藩した後」に、この犯行に及んでいます。
現職の藩士という立場、つまり、現役の陸軍将校という立場で、陛下の兵を率いて事件を起こすということなど、江戸時代にはまったく考えられないことであったのです。
江戸の常識と昭和の常識では、それだけの開きがあるのです。
226事件を良いとか悪いとか評価しているわけではありません。
教育の崩壊についての話をしています。
私たち日本人が、大切なものを失ったのは、必ずしも戦後だけの話ではなくて、もっと以前から、その喪失は始まっていたのです。
繰り返しますが、それが良いとか悪いとかいうのではありません。
良い面もあり、また失われて悪い面もあった。
そういうことを、しっかりと踏まえて、私たちは、より良い未来を築いていく責任があるのだと思います。
なんでもかんでも戦前が良く、戦後は何もかもが悪いというような、二律相反論を展開される方もいますが、そういう対立的な姿勢が、ほんとうはいちばんいけないものです。
働き蟻はよく働くのですが、中に2割くらい、ぜんぜん仕事をしない蟻がいるのだそうです。
そこで実験として、その「働かない」働き蟻を群れから取り除きます。
すると、「働き者」の蟻ばかりになるはずなのですが、そうはならないのだそうです。
残った蟻の中で、やはり2割が働かなくなる。
世の中の全部がよくなれば、その良くなった中に、悪いものがまた生まれるのです。
善悪は紙の裏表です。
だからいつの時代にも悪はあるというのが、古くからの日本の教えであり、古事記の教えです。
古代において、カマドは暖炉として暖かさを与えてくれ、そのカマドの上には祭壇が飾られました。
けれど、だからこそカマドには真っ黒いススがたまるのです。
そのスス(悪)を抱えながら、ときどき、ススを取り除いたりして、よりよい日々を築いていくことこそが大事なのです。
戦前、つまり明治元(1868-1869)年から、終戦の昭和20(1945)年まで、ちょうど73年です。
そのわずか73年の間に、戊辰戦争、西南戦争、佐賀の乱、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、日華事変、大東亜戦争と、8回も大きな戦役がありました。
そういう時代が、果たして本当に良い時代といえるのか。
むしろ、平和という意味においては、戦後の77年は、一度も日本は戦争による死者を出していません。
もちろん、戦後に失われた多くのものもあります。
要するに、戦後日本というのは、良い面もあれば、悪い面もあるのです。
そして現在は、戦後77年の真っ黒いススが、だいぶたまってしまったというのが実際のところです。
ススがたまれば煙突掃除をする。
これはしなければならないことです。
掃除をすることで、人々はまた暖をとれるようになります。
※この記事は2017年1月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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