エビデンスというのは、証拠のことであって、どこかの偉い先生の意見のことではありません。 意見と証拠を「エビデンス」というカタカナ用語を用いてごっちゃにすることは、まぜっかえしであって、学問をする態度とは程遠いものです。
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画像出所=https://career-rules.com/evidence
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
!!最新刊!! ねずさんの話について、よく言われるセリフが「エビデンスを示せ」。
毎度無視させていただいていますが、この言葉を聞くたびに、日本人の思考力の劣化を感じずにはいられません。
なぜそのように思うのかと言うと、ここでいう「エビデンス」なるものの正体、つまりコチラに「示せ」と言われているものの正体は、常に
「どの先生が、どの本に書いたことか」
という一点に尽きるからです。
そのようなものを「エビデンス」とは言いません。
エビデンス(evidence)というのは、証拠や根拠、裏付けのことです。
だから私の主張の裏付けが、要するに「どの本に書いてあるか」というわけです。
冗談じゃあないです。
本に書かれているなら、その本を紹介します。
書かれていないことが問題なのです。
加えて、書かれていても、歴史教科書の記述がそうであるように、細部に至るまで、正確な記述が試みられていながら、肝心なところで、「しかし〜であった」と、日本の歴史や、先人たちの足跡を否定しています。
こうなると、どんな偉い先生が書いたものであったとしても、それは思想であって、歴史ではありません。
証拠の大切さを否定しているのではありません。
事実を証拠にせよと、申し上げています。
論は、それがどんなに偉い先生の力説であったとしても、あくまで論であって、証拠にはならないのです。
ということは、どこぞの本に書いてあるかどうかは、証拠にならない、ということです。
証拠にならないということは、エビデンスにならないということです。
そのようなものを求められるということは、まじめに学ぼうとする人たちに失礼です。
論は論であって、証拠(エビデンス)ではない。
歴史は、常に事実の積み重ねの上に、ストーリー化を行うものである。
自分の頭で考えよう。この3点が、いわば私の主張のすべてです。
半島系の人は、自分が上に立つために、相手をやり込めたり、スキあらば、難癖を付けて自分が上位に立とうとしたり、そのために「権威」を振りかざそうとします。
これは昔からの傾向で、何かあると、弁護士だとか、名士だとか、名前の通った人を連れてきては、自分を正当化しようとします。
これは完全に半島マインドです。
我々日本人は、どんなに偉い先生を連れてこようが、どんなに権威や権力のある人を連れてこようが、間違っているものは間違っていると、平気で主張します。
あたりまえです。
権威のある人が、いくら「ここで地すべりが起きることはありません」と力説したとしても、現実に地すべりが起きれば、被害を受けるのも、その復興をするのも、自分たちなのです。
だから我々日本人にとっては、常に本当のことが大事であって、肩書や能書きに誰も重きを起きません。
歴史についても同じです。
どんなに権威ある大学の教授が述べようが、どんな売れっ子の小説家が書こうが、「乃木大将は無能な将軍だった」というひと言で、その先生の論説は、すべてウソであるとわかります。
なぜなら、乃木大将は、激しい戦いを勝利した偉大な将軍であることが、歴史の事実であるからです。
我々は、日本を取り戻そうとしています。
そこに必要なことは、権威ではなく、事実です。
そして事実をもとに、日本を再構成しようとしています。
このときに必要なことは、事実であって、誰かが何と唱えているという論ではありません。
このように書くと、自説は正しいと言いながら、他の先生方を腐していると言われてしまうかもしれません。
そういうことを申し上げているのではありません。
筆者の主張は、一貫して、「自分の頭で考えようぜ」です。
ちょっと考えたら誰にでも簡単にわかるのに、まるで手品のように、うまいこと誤魔化されて、あたかもそこで奇術が行われたかのように錯覚させられている。
手品というのは、種がわかれば、ごくあたりまえの平凡な理屈でしかないものです。
でも、誰もその種明かしがあろうかなかろうが、いま目の前で、ありえないことが起きたかどうかは、誰にでもわかります。
そして、それがありえないことなら、必ず種があります。
あたりまえのことです。
だから、「種があるんだな」と、ちゃんと自分の頭で考えようぜ、と申し上げています。
もちろん、楽しみとして、目の前で本当に魔法が行われたと思いたいなら、それでも良い。
けれど、コトは、お楽しみのマジックではなくて、歴史であり、我々の先達たちの真剣に生きた証(あかし)なのです。
それを、語り継ごうよ、と申し上げています。
どこかの本に書いてあるなら、その本を明示しています。
書いてないから、話したり、書いたりしているのです。
間違えられたら困ります。
それに、エビデンスの正体が「どの先生が、どの本に書いたことか」という意味なら、その先生の、その本のご主張自体が、その先生の「ご意見」でしかありません。
むしろ、その根拠となるエビデンスを、コチラが示してもらいたい。
意見は意見であって、意見は証拠ではないのです。
あまりにもあたりまえのことですが、単に
「名前の通った有名な先生の言うことだから」
「どこそこの本に書いてあるから」
ということは、エビデンスではないし、証拠でさえもありません。
それは、単にその先生の主観的な判断や意見でしかない。
それが「エビデンス」なるもので、その「エビデンス」を示さないなら、ねず説はただのねず説でしかないというのは、まさに暴論です。
あたりまえのことです。
偉い先生が言おうが書こうが、偉くない市中のおじさんが述べようが、意見は意見でしかないし、意見はエビデンスにはなりません。
教科書に書いてあるから、正しいということにもなりません。
いまさら世界四大文明説なんて、政治的主張が歴史として教科書に書かれています。
古墳は、豪族たちが、自分の墓の大きさで自分の権力の大きさを示そうとした、古代の遺物なのだと書かれています。
学会ではそれが定説なのだそうです。
だからダメなのです。
少し考えたらわかるだろう。
もっと、ちゃんと自分の頭で考えようよ、というのが、私の一貫した姿勢です。
考えた結果は、もちろん間違っていることの方が多いと思います。
けれど、間違えても間違えても、繰り返し何度でもトライしていく。
そうすることで、論理的かつ科学的な歴史観を、自分のものにしていく。
そういう思考のプロセスこそが、歴史の醍醐味です。
いちばん楽しいことです。
歴史はファンタジーとは異なります。
では、ファンタジーと歴史の違いとは何かといえば、そこに論理性、客観性、必然性、蓋然性が認められるかどうかです。
たとえばコリアの時代劇では、色とりどりのチマチョゴリが登場します。
美しい王朝文化があったのだという幻想に浸りたいのでしょうけれど、残念ながら、その時代に、それだけの染料は、コリアにはありません。
それに、そもそも、それだけカラフルで美しい着物が日常的に用いられていたというのなら、なぜ、服飾に絵柄や刺繍などがないのでしょうか。
そういう単純素朴な疑問だけで簡単に崩壊してしまうようなものは、歴史とは言いません。
だから、韓流はファンタジーでしかないのです。
エビデンスというのは、証拠のことであって、どこかの偉い先生の意見のことではありません。
意見と証拠を「エビデンス」というカタカナ用語を用いることで、ごっちゃにすることは、まぜっかえしであって、学問をする態度とは程遠いものです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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