これまでの西洋の歴史や東洋の歴史では、常に英雄がモブキャラを使って革命を起こすというスタイルでした。そして革命の都度、多くの命が失われてきた。そういう歴史でした。 けれど、日本は違います。 だれひとり殺さない。英雄なんていない。主役はあくまでひとりひとりの庶民です。その庶民が照らす一隅が、世界の良心を目覚めさせ、世界を良い方向に導いていく。 もし、神々にお望みがあるのだとしたら、それこそが「神々の希望」であり、「神々の目指すもの」なのではないかと思います。
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神谷宗幣編著『古事記紙芝居』より
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
!!最新刊!! 古事記のなかに、イザナギのミコトが黄泉の国から逃げ帰る際に、
「黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂の本にあった
桃子(もものみ)を三個取って、
千五百の黄泉軍を待って擊ちました。
すると黄泉軍はことごとく逃げて行きました」
という記述があります。
原文ですと「到黄泉比良(此二字以音)坂之坂本時、取在其坂本桃子参箇待擊者、悉坂返也」とあるところです。
たかが桃の実3個で、1500の軍勢を追い返すなんて、できるはずねーだろ!みたいに言われがちなこのシーンですが、ここへくる前に、古事記は伏線を置いています。
それが、
「イザナミが、予母都志許売(よもつしこめ)を遣(つかは)して伊耶那岐を追わ令(し)めた」という記述です。
予母都志許売(よもつしこめ)は「此六字以音」とありますから、使われている漢字には意味がありません。
大和言葉で「よもつ しこめ」です。
「よもつ」は、「黄泉の国の住民」です。
「しこめ」は、日本書紀ですと「醜女(しこめ)」と描かれていますから、みにくい人たちという意味になります。
ですからここは、黄泉の国から逃げ帰ろうとするイザナギを、妻のイザナミが「黄泉の国の醜い女達に追わせた、という意味になります。
ところがこの「しこめ」たち、逃げるイザナギが、食べ物を投げると、「追え」という命令も忘れて、その食べ物に食らいつくのです。
ということは、「しこめ」たちというのは、貧しくて、ろくに食べ物も与えられず、ガリガリにやせ細った飢餓状態にありながら、上からの命令で「追え」と言われれば追うしかない、可愛そうな人々ということができます。
だから、食べ物を与えられたとき、追うという使命も忘れて、食べ物に取り付いたのです。
ものすごく哀れな話ですが、そんな「よもつしこめ」に続いて、今度は1500の黄泉軍がイザナギを追ってくるのです。
その黄泉軍に、イザナギは桃の実を3つ投げ与えた。
すると、黄泉軍が帰っていったというのです。
そこでこのことを考えてみるに、果たして1500人の追手の大軍に、桃の実を3個投げたくらいで、大軍は引き下がるものなのでしょうか。
常識で考えて、そんなことはありえないことであると思います。
ということは、ここで「投げ与えた」とされる「桃の実」は、別な何かの象徴であったと読む必要がありそうです。
では、「桃の実」が象徴しているのは、何なのでしょうか。
桃の実は、秋に収穫できる美味しい果物です。
桃の実の味は、ひとくち頬張っただけで、「ああ、しあわせだなあ」と思わせる、甘くて、酸っぱくて、とてもみずみずしい味をしています。
ということはつまり、ここで桃の実に化体して述べられていることは、そんな甘くて、酸っぱくて、みずみずしい・・・つまり、甘くて、やさしくて、幸せ感のある味であり、それが3個ということは、そこに述べられていることは、
やさしさ
愛情
おもいやり
の3つといえるのではないでしょうか。
ただ上から強制されて、まさに「モブキャラ(背景キャラ)」としてイザナギを追ってきたのが、黄泉の軍勢です。
それは1500名もの大軍であったけれど、全員が十把一絡げのモブキャラです。
けれどイザナギは、そのひとりひとりに、人間としての
やさしさ
愛情
おもいやり
を投げ与えたのです。
本当のことをいえば、誰だって、人間に生まれた以上、自分を主役とする人生を生きることができるはずです。
けれど、それまで、黄泉の彼らは、まったく人として扱われなかった。
ただのモブキャラ、ただの兵卒、ただの背景としてしか見られなかった。
そんな彼らをイザナミは人して扱い、やさしさと愛情と思いやりをもって彼らと接したのです。
生まれてはじめて、彼らは人として扱われる。
いや、幼い頃に両親から可愛がられ、子として、人として扱われていた昔があった。
「そうだ!俺たちだって人間なんだ!!」
そう思ったときに、彼らはまさに、
「俺たちは何をやっているのだろうか」と目覚めたのです。
だから、ただ命令されて、モブキャラとなって追いかけたって、それってなんの意味もないよな、となって、追うことを止めて、元いた場所に帰っていった。
そういうことを古事記は述べているのかもしれないと思うのです。
1500の大軍というのも、十把一絡げの1500人ではなくて、そのひとりひとりは、自分の人生をまさに主役です。
そうあるべきなのです。
そして、どんな人にも、必ず良心というものがあります。
そういうものを、しっかりと信じ、ひとりひとりを、まるで抱(いだ)くように、たいせつに、やさしさと愛情とおもいやりの心を持って接する。
そういうことを、根本から大切にしてきたのが、日本という国の文化の最大の特徴です。
これこそが、まさに日本の神々の心です。
そういうことを古事記は、ここでしっかりと説いているのではないか。そのように思うのです。
そしてそういう精神のもとに、帰国したイザナギは、三貴神であられる天照大神、月読命、建速須佐之男命をお生みになられます。
つまり、三貴神の神としての精神(あるいは霊(ひ)の根幹)にあるのは、まさにやさしさと愛情とおもいやりの心なのです。
この日本文化の精神は、時を越え、時代を超えて、まさにいま世界中の人々が求める偉大な人類の良心へと発展しようとしています。
我々日本人のひとりひとりが照らす一隅が、世界を変えるのです。
これまでの西洋の歴史や東洋の歴史では、常に英雄がモブキャラを使って革命を起こすというスタイルでした。
そして革命の都度、多くの命が失われてきた。そういう歴史でした。
けれど、日本は違います。
だれひとり殺さない。英雄なんていない。主役はあくまでひとりひとりの庶民です。
その庶民が照らす一隅が、世界の良心を目覚めさせ、世界を良い方向に導いていく。
もし、神々にお望みがあるのだとしたら、それこそが「神々の希望」であり、「神々の目指すもの」なのではないかと思います。
日本をかっこよく!
お読みいただき、ありがとうございました。
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