日本の歴史に、モブキャラなんてひとりもいない。それが日本の歴史です。このことを万葉集から考えてみたいと思います。
吾(あ)が背子(せこ)は
物(もの)な念(おもひ)ぞ
事の有(り)は 火にも水にも
吾(われ)七国(なくに)莫(な)し
(訳)
私が背負った夫について日頃から思っていることは、 火にも水にも、そして私の知りうる限りの国に、 ウチの夫に比べる人なんていないということです。
これが1300年以上前の庶民の女性の歌です。
このような歌が残されているのは、世界に日本しかありません。
日本は庶民の国であり、庶民のひとりひとりを慈(いつく)しんできた国です。
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画像出所=https://www.pixivision.net/ja/a/3036
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
!!最新刊!! 万葉集に、安倍女郎(あべのいらつめ)の歌二首が掲載されています。
愛する夫のことを詠んだ歌です。
女郎(いらつめ)というくらいですから、おそらくは地方のごく普通の若い奥さんです。
その奥さんが、夫のことを「背子(せこ)」と呼んでいます。
自分が生涯をかけて背中に負った子という意味です。
【万葉集 安倍女郎歌二首】
今更 いまさらに いまさら
何乎可将念 なにをかおもふ 何を強く思うかといえば
打靡 うちなびく 強くなびいた
情者君尓 こころはきみに 澄み渡った心情は 、夫との
縁尓之物乎 えにししものを 美しいご縁をいただいたことです
吾背子波 あがせこは 私が背負った夫について
物莫念 ものなおもひぞ 日頃から思っている
事之有者 ことのりは その根幹にあるもの
火尓毛水尓母 ひにもみずにも 火にも水にも
吾莫七国 われなくになし 私の知りうる限りの国に、ウチの夫に比べる人なんていないということです
これが1300〜1400年前に生きた、ごく普通の女性の歌です。
和歌を詠んだというだけでもすごいことですが、同時代の世界中の女性が、教養を持つことはおろか、文字を書くこと自体が禁忌とされた時代に、我が国では、ごく普通の女性が、教養を持ち、夫を愛して普通に生きることができたのです。
「遊行女婦(うかれめ)」と呼ばれた女性の歌もあります。
後年、遊行女婦(うかれめ)は、文字が短縮されて「遊女」と書かれるようになり、また文化性の高い女性が人々に好まれたことから、遊女=売春婦であるかのように言葉が変化していきましたが、万葉集にある遊行女婦(うかれめ)というのは、神社をめぐり、雨乞いなどの神事を専門に行う女性のことをいいました。
そんな遊行女婦(うかれめ)の歌です。
凡有者 おほならば あたしが普通の女の子なら
左毛右毛将為乎 さもうもせむを 袖を左右に振って
恐跡 かしこみと かしこみながら
振痛袖乎 ふりたきそでを 痛いほど袖を振りたいです
忍而有香聞 しのびてあるかも でもそれをこらえています
倭道者 やまとぢは 都への道は
雲隠有 くもにかくれり きっと雲に隠れた遠くまで続いているのでしょうね
雖然 しかれども だから
余振袖乎 あがふるそでを あたしが振る袖のこと
無礼登母布奈 むれとおもふな 決して無礼とは思わないでくださいね
この歌が詠まれたときの情況を、万葉集は次のように書いています。
【補記】
右は太宰帥大伴卿、大納言兼任のため京に向ひて上道(かみだち)す。
此の日、馬を水城(みずき)に駐めて府家(ふか)を顧(かへ)りみ望む。
このとき卿を送る府吏の中に遊行女婦(うかれめ)あり。
其の字(あざな)を児嶋と曰ふ。
ここに娘子(をとめ)、この別れの易きを傷み、その会ひの難(かた)きを嘆き、涕(なみだ)を拭(のご)ひて、自ら袖を振りこの歌を吟(うた)ふ。
その大伴旅人の返歌です。
【大納言大伴卿の和(こた)ふる歌二首】
日本道乃 やまとぢの 日本男児の行く道です
吉備乃児嶋乎 きびのこじまを これから吉備の国の児嶋郡も通ります
過而行者 すぎゆかば そのときはきっと
筑紫乃子嶋 つくしのこじま 筑紫で小さな肩を震わせた 児嶋
所念香裳 おもほゆるかも おまえのことを心に刻んで思い出すよ
大夫跡 ますらをと 日頃から男らしくありたいと
念在吾哉 おもへるわれや ずっと思ってきた私だけれど
水茎之 みつくきの こうして歌を贈ろうと筆を持ち
水城之上尓 みずきのうえに 水城の上に立ちながら
泣将拭 なみたのこはむ 流れる涙を止めることができません
大伴旅人は、太宰府の長官です。
とっても偉い人です。
その偉い長官が、新たに大納言に昇進することになって、都へと旅立つことになったわけです。
その旅立ちのとき、たまたま太宰府に来ていた神に仕える雨乞いの神事を行う児嶋という女性が、太宰府の門の前で大伴旅人の一行を見送りながら、旅人に歌を贈るのです。
一介の女性の歌です。
大伴旅人は、受け取るだけで終わりにすることさえもできたはずです。
けれど大伴旅人は、そんな一介の女性のために、馬を停め、返歌を二首書き送ったのです。
近年の国文学の教授で、当時、大伴旅人が、奥さんを病気で失って日も浅かったことから、この歌のやり取りの相手であった児嶋が、旅人の情婦であったのだと書いている人がいます。
そういうものを邪推(じゃすい)と言います。
大勢が大伴旅人のもとに仕えているのです。
人目というものがある。
太宰府の長官が、奥さんが亡くなったからと、大喜びで別な女に手を出すような痴れ者なら、大納言昇進など、決してあり得ないし、また、旅立ちの日に馬を停めて歌を返すなどということも、絶対にありえないのです。
なぜなら自分の情婦のために馬を停めたのなら、それは私を優先したということになります。
太宰府の長官は、国の護りの要です。
その長官のもとには、全国から集った大勢の防人たちがいます。
そして防人たちは、いざとなったら長官の命令のままに、死ななければならないのです。
そういう男たちの前で、旅の行列を停めて、自分の情婦に歌を書くような馬鹿者が長官なら、男たちにしれみれば、そんな自分勝手な都合を優先する長官のもとでなど、とてもじゃないけれど働けない。
まして命をかけるなんて、とんでもないことになります。
そうではないのです。
一介の、自分の情婦でもなんでもない神官の女性が、わざわざ歌を書いてくれたということで、長官は、わざわざ馬を停めて、それへのお返しの歌を詠んでいるのです。
どんな人にも公平に、対等に接するという大伴旅人長官の、それが姿勢なのです。
そして「どんな人にも公平に、対等に接する」ということは、防人である兵たちにたいしても、そのひとりひとりの命を、たいせつに思ってくれている長官であるということです。
そんな長官だから、防人たちも、一緒に都までお供をする兵たちも、
「このひとのためなら」
と命をかける気になれるのです。
そして今回ご紹介した6首の歌は、いずれもが、一介の、ごく普通の、平凡な人々が、それぞれにモブキャラなどでは決してなくて、それぞれが自分の人生を立派に主役として生きた人物であるということを、万葉集は高らかに主張しています。
日本の歴史に、モブキャラなんてひとりもいない。
それが日本の歴史の根幹です。
お読みいただき、ありがとうございました。
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