道を選んで力を尽くすことを「擇道竭力(たくどうけつりょく)」といいます。講道館の嘉納治五郎先生の座右の銘です。
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画像出所=https://www.nippon-foundation.or.jp/journal/2021/53567
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
!!最新刊!! 「擇道竭力(たくどうけつりょく)」という言葉は、講道館の嘉納治五郎先生が座右の銘とされた言葉です。
「擇(たく)」というのは選択のことで、「擇道(たくどう)」は道を選択することです。
「竭(けつ)」というのは、「尽くす」ことです。ですから「竭力」は「力を尽くす」という意味です。
したがって「擇道竭力」というのは、「道を選んで力を尽くせ」という意味の言葉になります。
この言葉について、講道館のHPに嘉納治五郎先生の教えとして、次の一文がありますので、転載してご紹介します。
明治43年に書かれた文です。
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【嘉納治五郎師範の教え】
擇道竭力(たくどうけつりょく)http://kodokanjudoinstitute.org/doctrine/word/takudo/さて大なる目的にもせよ、小なる目的にもせよ、いよいよ志が立ったならば、次に必要なるはこれを達する道を択(えら)ぶことである。
一の目的地に達するにも道路が幾条もあるように、一の目的を達するところの手段方法にもおのずからいろいろある。
そこで目的はよくても、手段方法を誤ったならば、目的の達せられないで失敗に終るのはもとよりである。
その手段方法の良否巧拙は、実にその結果に多大の差異を致すのである。
青年は、一たび目的が定ると直情径行これを達するに急にして、その手段方法を講ずるに疎なりという傾きがある。
そうしてこれがためにせっかく立てた目的をも貫徹し得ずして、空(むな)しく失敗に終ることがあるから、よく注意せねばならぬ。
しからばどういうのが最良の手段かというと、なるべく無用な事をせずに、最もよく目的を達し得るものをいうのである。
よく思慮を加えないと、近道と思っても実際には遠い険しい道になっている事などがある。
迂遠(うえん)のようでも、その実近道の事もある。
一の目的地に達するに、自ら紆余曲折(うよきょくせつ)の存することを顧みないで、山も川も野も林もあるのを構わず、躁急(そうきゅう)にして直進しようとするのは、けだし自ら誤るのみである。
ことに注意すべきことは、手段方法は必ず正道に依らねばならぬ事である。
「目的は手段を択ばず」とか、「尺を枉(ま)げて尋(ひろ)を直うす」というがごときは、ともすれば人の囗にするところであるが、誤った考えである。
不正なる手段によって善良なる目的が達せられると考えているのが、そもそもの誤解である。
一方面から見ると、不正なる手段でも善良なる結果を生じ得るように見えるか知らぬが、不正な手段は他の方面に必ず悪結果を生じ、しまいに目的そのものをも破壊してしまうようになるのである。
西郷南洲が
「事大小となく正道を蹈(ふ)み、
至誠を推し、
一事の詐謀を用うべからず。
人多くは事の差支うるときに臨み、
策略を用いていったんその差支を通せば、
跡は時宜次第工夫の出来るように思えども、
策略の煩いきっと生じ、
事必ず敗るるものぞ。
正道をもってこれを行えば、
目前には迂遠なるようなれども、
先に行けば成功は早きものなり」といっているのは、目的と手段との関係についてすこぶる適切なる教訓といわねばならぬ。
目的は空想でない。
必ず実現し得べき望みのあるものでなければならぬ。
手段もまたそうで、その人の能力と境遇とにおいて実行し得べき着実のものでなければならぬ。
座上で想像を廻(めぐ)らしているときには、神算鬼策のように思える手段でも、さて実際となれば齟齬して何の益をもなさぬものが多い。
ゆえに手段は常に着実の上にも着実でなければならぬ。
しかし着実の好手段はちょっと見出し難い感がある。
この手段の着実を得るようになるのは、思慮と経験との結果である。
年少者にありがちなように、一時の考えにはやって、軽々に手段を決するようなことは、決して目的を達するゆえんの捷路(しょうろ)ではない。
むしろ迂遠のようでも着実な手段を取った方がよいのである。
立志と択道、この二者によって、吾人のなすべき事が定ったならば、次には竭力(けつりょく)してこれを成就することを努めねばならぬ。
百の空しい願望百の空しい計画は、一の実行に及ばない。
成功とは畢竟(ひっきょう)一の目的に向って力を用いた結果をいうのであって、力を用いれば用いるほど成功もまた大になってくるのである。
たといその目的と手段とにおいて、善尽し美尽せるものがあっても、実行せられなければ畢竟美しい夢のようなものである。
戦争に必要なのは智略であるけれども、勝敗は智略のみによって決しない。
よく謀るものも力行を須(ま)って勝つので、謀の拙なるものも時に力行によって敗れざるを得ることがある。
勝敗は実行する力いかんによって分れることが多いのである。
座上では着実な目的着実な手段と考えておっても、いよいよ実行となれば種々の艱難種々の障害が生ずるものであって、堅忍不抜の意志をもって努力奮励するを要することの多いのが、人生の真相である。
およそ事の成敗は因果の法則によって行わるるものであって、大なる果実は忽然(こつぜん)としては生ぜぬ、
相当の結果を得るには必ず相当の力を要するものである。
価値のある事であればあるほど、これがために長日月の努力を要するものと覚悟せねばならぬ。
大事は一朝一夕の感激をもってよく成し得るものでない。
青年は鋭気に満ちているけれども、とかくに一時に功を収めようとあせりやすいが、躁急はそもそも功を収むるゆえんでない。
あせって功を得ないと、倦厭(けんえん)する。
倦厭すれば沮喪(そそう)する。
沮喪すればしまいに自棄するようになりやすい。
進むに鋭きものは、退くこともまた速やかで、かくのごときものは当初の意気込の盛んなのに似ず、なんらの成功を見ないで終ってしまうものが少なくはないのである。
ことに人生に最も必要なのは、建設の事業であって破壊の作用でない。
時に破壊の要せらるるのは、一層善良なるものを建設せんがためである。
その建設の事業になると、必ず長日月を要するものである。
吾人の身体を傷害することは即時に容易に行われるけれども、これを健全に発育せしむることは決して容易の事でない。
建設の事業は、すべてこれと同様であるから、いやしくも善美の事業を成そうとするには、十分に覚悟して躁急を避け着実を取りじりじりと歩武を進め、仮にも一事を始めたならば、終生の全力を尽してこれを成就するという決心をもってせねばならぬ。
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日本をかっこよくしたい。
そのために活動しています。
ただいまの時勢に頓着(とんちゃく)して、日々怒りに暮らす人は多いです。
けれど、怒りによって築かれる未来は、怒りと不平不満の未来です。
誰もそのようなものは望んでいない。
誰もが望むのは、愛と希望のあふれる、やさしさのある未来です。
ならば、日々の活動もまた、愛と希望のあふれる、やさしさのある活動でなければならない。
そして「仮にも一事を始めたならば、終生の全力を尽してこれを成就する」
要するに、「自分でやると決めたら、やる」のです。
では「竭力(けつりょく)」、つまり「力」はどのようにして得たら良いのでしょうか。
これは筋トレと同じです。
馬鹿になって、日々努力を重ねていくしかない。
自分にとって、このブログが「竭力」の根幹です。
自己の「みがき」のために日々書いているものです。
それが「力」になるかどうか。
そんなことはわかりません。
けれど、回り道かもしれないけれど、馬鹿になって毎日続けていれば、必ずそれは「実力」になる。
そう思って、ねずブロは、かれこれ14年、ほぼ毎日書き続けています。
これからも書き続けていきます。
最近では、ブログよりも動画の方が、圧倒的に影響力が濃いです。
でも、書くことは、話すことと違って、自己の学びがあります。
だから続けます。
道を選んで力を尽くす。
擇道竭力(たくどうけつりょく)です。
お読みいただき、ありがとうございました。
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