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私達を護るために立派に戦ってくださった方々をしっかり語り継ぐのも、私達日本人の役割だと思います。 それは戦争を礼賛しているとか軍国主義者だからとか、そういう低次元な話ではなく、もっとも大切な日本人の魂の血脈を受け継ぐことだからです。
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駆逐艦 夕立

画像出所=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%95%E7%AB%8B_(%E7%99%BD%E9%9C%B2%E5%9E%8B%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
!!最新刊!! 水雷艇は、またの名を魚雷艇といいます。
1870年代に開発されたもので、魚雷を積んで敵の大型戦艦の間を縫って走りまわり、近づいて巨大な破壊力を持つ魚雷を放ちます。
水雷艇は小さいので、敵戦艦の巨大な主砲もなかなか当たりません。
これは戦艦戦隊にとって脅威です。
小型高速艇が巨大戦艦を打ち破る。まさに日本らしい戦法といえますが、こうした戦果を受けて、どうにかして水雷艇をやっつけなければならないという研究が、世界中でなされます。
そして、ちょこまかと走り回る水雷艇を捕捉し退治するためには、やはりちょこまかと走り回れる水雷艇が良いと考えられ、それまでの水雷艇から、砲力と走行性能を一段と強化した水雷艇が考案されました。
それが「駆逐艦」です。
駆逐艦は、英語名をデストロイヤー(Destroyer)といいます。
駆逐艦に生涯を捧げたのが吉川潔(きっかわきよし)艦長です。
明治33(1900)年1月の生まれ、広島県広島市の段原町出身です。
吉川艦長は、「不滅の駆逐艦長」と呼ばれた人で、連合軍が恐れた五人の提督の中のひとりです。
五人の提督といいますが、吉川艦長だけ、階級が中佐です。
(戦死され二階級特進で少将の栄誉に輝いています)
吉川艦長の父は漢学者ですが、もともと吉川家は、戦国時代の猛将・吉川元春の係累なのだそうです。
吉川艦長は、旧制広陵中学(現広陵高等学校)出身で、広陵といえば、広島商業と並んで、甲子園で有名な学校です。
いまもプロ野球選手を多数輩出しています。
広陵を卒業した吉川艦長は海軍兵学校を受験するのですが、身長と胸囲が足らず、不合格になってしまいます。
彼は、口惜しさから器械体操と陸軍被服廠での積荷作業で体を鍛え上げ、翌年海軍兵学校に合格しました。
海軍兵学校時代の吉川艦長は、同期生のなかで、もっとも背が低く、後年彼は駆逐艦長を務めたときも、戦闘の指揮を執るときは専用の台の上に立ったし、部下を殴るときも、飛びあがって殴ったそうです。
兵学校での成績も下の方です。
ところがそんな小柄な吉川艦長は、相撲、柔道、剣道、水泳では抜群の能力を示し、分隊競技では、隊を優勝に導いています。
最近の学校では、ハンデがあるからと甘やかしたり、競争そのものを否定したりする風潮があるといいますが、そうではなくて、ハンデがあれば、それを克服する強い子に育てるのが、本来の教育なのではないかと思います。
そもそのハンデというのは、我々が生まれてくるときに、意図してそのハンデを背負って生まれてくるのだそうです。
これを克服することで、より高貴な魂に今生で成長する。
そのためにわざわざハンデを選んで生まれてきたのです。
それをただハンデにつぶされたままにされたのでは、生まれてきた意味がないというものです。
大正11(1922)年6月、海軍兵学校卒業した吉川艦長は、「長月」の水雷長などを経験した後、「春風」「弥生」「山風」「江風」と4つの駆逐艦長を勤めました。
そして昭和15(1940)年、40歳になった吉川艦長は中佐に昇格され、駆逐艦「大潮」の艦長になりました。
艦長としての彼は、恐れを知らない豪胆さと、決して偉ぶらない人柄、部下に対する思いやりの深さがあり、しかも艦の中で最年長だった彼は、どんなに苦しい戦いのときでも明るさを失わず、乗員のなかへ入って気軽にはいり、笑いの渦を巻き起こしたといいます。
彼の艦には「この艦長のためなら」という気風がみなぎりました。
大東亜戦争開戦後の昭和17年2月、バリ島沖海戦では、吉川艦長の指揮する駆逐艦「大潮」は、僚艦と協力して、巡洋艦3、駆逐艦7からなる米蘭連合軍に4回にわたる戦いをいどみました。
そしてオランダの駆逐艦ピートハインを砲撃と雷撃で撃沈。
さらに巡洋艦3隻中破、駆逐艦3隻小破という大金星をあげています。
この年4月、彼は一時内地に帰還し、駆逐艦「夕立」の艦長に異動となりました。
8月末「夕立」はソロモン海北西の島を基地に、陸軍一木支隊の兵員をガダルカナル島に上陸させる任務を負いました。
以来、第三次ソロモン海戦開始までの二か月半、「夕立」はガダルカナル島に18往復しています。
うだる暑さ、絶え間ない空襲、まとめて2時間と寝ることのできない不眠のなかで、一回に約150人の陸兵と、15~30トンの武器、弾薬、食糧を回送しました。
輸送任務のとき、軍医長だった永井友二郎中尉が、吉川艦長に聞いたそうです。
「輸送を何べんやっていても、
急降下爆撃機に突っ込んでこられると、
首をすくめてしまいます。
艦長はこわくないのですか」
すると髭面の吉川艦長がニヤリと白い歯をみせてこう言いました。
「そりゃ、俺だってこわいさ」
「だがなぁ、永井、
私は対空戦闘や操艦で頭がいっぱいで、
こわいのを忘れてるんだ。
軍医長のように、する仕事がなくて、
ただどうなるか待っているのはこわいはずだ。
自分の使命感で耐えるほかはないだろう」
率直に「こわい」と語る吉川艦長の言葉に、永井軍医は心を和ませられたと回想しています。
そしてその後は任務第一を心がけるように努めたそうです。
看護長の奥村忠義二等看護兵曹は、吉川艦長からこんなことを言われたそうです。
「なぁ奥村。
俺は死んでも代わりがある。
だがな、お前が死んだら
だれが病気やけがの面倒をみてくれるんだ?
奥村、おまえは体に十分注意しろよ」
これを言われたときは、激しい戦闘中だったそうです。
奥村兵曹は、この言葉に涙があふれて・・・・。
バリ島沖海戦では、こんなエピソードがあります。
撃沈した「ピートハイン」からボートで脱出中の敵乗員10人を、吉川艦長の「大潮」が救助したのです。
そして彼らを捕虜収容所に送りました。
1ヵ月ほどして、捕虜の食糧が欠乏していると聞いた吉川艦長は、「そりや大変だ」と言って食糧、菓子、タバコを持って、捕虜たちの慰間をしています。
このとき吉川艦長が捕虜たちを見る目はとても暖かく、まるで自分の息子に語しかけているように見えたそうです。
輸送作戦に従事していた9月4日、陸兵をガ島に揚陸したあと、敵飛行場を発見した「夕立」は、これを砲撃し大打撃を与え、さらに敵の駆逐艦二隻を撃沈します。
このときのことを連合艦隊参謀長宇垣少将は、9月5日の日記にこう書いています。
「吉川中佐の如き攻撃精神旺盛、
体力気力抜群の者が武人として
よく勝ちを収める」
昭和17年11月12日深夜、第三次ソロモン海戦が起こりました。
日本艦隊はルンガ岬に進出しました。
そこには、カラハン少将率いる米艦隊が待ち伏せしていました。
「敵艦隊発見!」
そのままでは、日本艦隊は包囲され、壊滅してしまいます。
吉川艦長は、僚艦の「春雨」とともに、みずから操縦する駆逐艦「夕立」と2隻で、米艦隊に向けて猛突進を敢行しました。
米艦隊は、この2隻の駆逐艦との衝突を避けようとパニックに陥いる。
この隙を見て、日本艦隊は先制砲火を開始します。
先制砲火を確認した吉川艦長は、艦を反転させると、日本の主隊と交戦を始めた敵艦隊の真っただ中にもぐりこみました。
そして軽巡洋艦「アトランタ」に魚雷2本を命中させて航行不能に陥らせ、次いで至近距離から旗艦「サンフランシスコ」に多数の命中弾を浴びせました。
真っ暗ななかでの戦いでした。
「夕立」は、なんと敵からだけでなく、味方の砲撃まで浴びて航行不能に陥るのだけれど、この戦いにおける駆逐艦の戦いぶりは、世界の海軍史を通観しても、これに匹敵する事例を他に見出せないものとして、いまでの世界中の海軍でケース・スタディとして学ばれているのだそうです。
吉川艦長の戦歴見ると、全海戦で8隻を撃沈、12隻撃破というめざましいものです。
しかし彼は、功を誇ることは一切せず、訓練においては、必ずみずから号令を下し、砲戦、水雷戦が自分の意図どおりに行なわれるよう、厳しく部下を訓練行う人であったそうです。
第三次ソロモン海戦を振り返って部下だった中村悌次さんは、吉川の冷静で果断な指揮を
「闇夜のなか、
流れるように口をついて出る的確な号令は、
まさに自己訓練の賜物だった」
と語っています。
第三次ソロモン海戦から帰投した吉川は、海軍兵学校教官への転任を断り、駆逐艦「大波」の艦長を引き受けて、ふたたび激闘のソロモン海へ向かいました。
ガダルカナル島撤退の後、敵の北進を阻止するため、「大波」はブーゲンビル島北端のブカ島への輸送、補給を行いました。
目的を果たして帰投中の昭和18年11月24日、最新式レーダーを装備した米駆逐艦に雷撃され、「大波」は大爆発を起こし、数分で乗員もろとも海底に没してしまいました。
吉川潔艦長は、戦死後、駆逐艦長としてただ一人、二階級特進の栄誉をいただき、少将に任ぜられています。
よく「明治の軍人は立派だったけれど、昭和の軍人は軍国主義に汚染された鵺(ぬえ)のような存在だった」などという話を聞くことがあります。
情報の出どころは朝日がバックアップした司馬遼太郎さんだったようですが、司馬遼太郎の作品は好きで、たぶん全部読んだと思うのだけれど、いまにして思えば、朝日が自社の主張を通すためにひとつの才能を利用主義的に利用したものであったような気がします。
実際のところは、明治の軍人も立派だったし、昭和の軍人もそれに輪をかけて立派だったのです。
そしてその精神は、いまの自衛隊の皆様にもちゃんと通じているし、目を歴史に転ずれば、いつの時代においても我が国の武人たちは立派な人たちであったし、民衆が豊かに安全に安心して暮らせるようにと、その全力を投じ続けてきたのです。
なぜならここは、国家最高の御存在である天皇が、民衆を大御宝とする日本だからです。
そして私達を護るために立派に戦ってくださった方々をしっかり語り継ぐのも、私達日本人の役割だと思います。
それは戦争を礼賛しているとか軍国主義者だからとか、そういう低次元な話ではなく、もっとも大切な日本人の魂の血脈を受け継ぐことだからです。
日本をかっこよく!
お読みいただき、ありがとうございました。
※この記事は2009年11月の記事のリニューアルです。
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