軍神広瀬中佐



※次回の倭塾は5月21日(土)13時半から富岡八幡宮・婚儀殿2Fです。
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「軍神」という言葉を軍国主義と決めつける、そういう対立的闘争的価値観では、そこに何の「学び」もありません。
そもそも日本には、もともと「対立」という概念すらありません。
「対立」は、もともと英語の「confrontation」を幕末に翻訳した翻訳語です。
漢字の「対立」という熟語は、江戸時代の昔からありましたが、読みはこれで「ならびたつ」です。意味が違うのです。

戦前、広瀬中佐が日本人の誇りであり「軍神」とされて、広瀬中佐の歌が文部省唱歌に採用なったのも、部下の命をこそ第一に考える日本の武人の姿こそ、武人の模範と考えられたからです。

広瀬武夫中佐
広瀬武夫中佐



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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
小名木善行です。

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広瀬中佐について、学んでみたいと思います。

東京駅からJR中央線に乗ると、停車駅は、東京→神田→お茶ノ水→四谷→新宿です。
ところが昭和の初めごろまで、神田駅とお茶ノ水駅との間に「国鉄・万世橋駅」という駅がありました。
いま、その駅のホームは、あらためて開放されて、商業施設になっています。

もともと江戸時代には、神田界隈は武家屋敷街でしたが、明治にはいって、あたりに洋服生地を扱う問屋街が形成されました。
昔は服地は、各地の小売店さんの店子さんたちや、行商の小売りの商人さんたちが、問屋街に買付にきました。
買い付けて仕入れた着物は、昔は宅配のトラックなんてありませんから、店子さんたちが背負子(しょいこ)でおぶったのです。
木でできた箱などに、肩に当たる部分を広く編んで作った縄や布でショルダーベルトと肩パットにして、背中におぶって運んだわけです。
その背負子(しょいこ)のことを、別名で連雀(れんじゃく)といい、連雀はそのままで行商人のことを指す言葉でもありました。

背負子
(手前の人の背負っているのが背負子(しょいこ)です)


いまでも、古い城下町などには、連雀町とか連尺町とかいう町名が残っていたりしますが、そこにはかつて、問屋街があり、そこには背負子(しょいこ)を背負った行商人さんたちなどが、軒を連ねる問屋さんに、まるでスズメ(雀)が連なるように次々と飛び込んで、商品を仕入れ、それを背負子に入れて背負い、また次のお店へと移っていったりしていたわけです。

その様子が、まるでスズメが、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら、地上に落ちている餌をついばむ姿に似ているということで、そのあたり一帯は、連雀町と呼ばれました。
連雀(れんじゃく)は、連尺(れんじゃく)とも書きますが、そういう往時の姿が、まるで目に浮かぶような楽しい町名が、昨今では次々に「何々市中央一丁目」のように、無機質な名前に変えられています。
町名変更には、それぞれ事情があるものとは思いますが、どの地名にも、その地名にまつわる歴史があるものです。とても残念に思います。

さて、明治の維新後、天皇が江戸に行幸されて、江戸は東京と名前が変わりました。
これを「東京奠都(てんと)」と言います。
「遷都(せんと)」ではなく、「奠都(てんと)」です。
遷都は都が移されることを言います。
奠都は、京都と東京都が、どちらも首都であることを意味します。
この東京奠都は、いまに至るも法的に変更されていませんから、実はいまでも我が国は、京都と東京都が、どちらも都であり首都です。

さて、江戸時代に武家屋敷街であった万世橋界隈は、明治にはいってから、武家がなくなり、廃藩置県が行われて藩がなくなり、江戸にあった諸藩の藩邸も、参勤交代がなくなって不要になり、武家屋敷は取り壊されて、そこに新たに問屋さんたちが進出しました。
そして、万世橋界隈は、衣類問屋街に生まれ変わり、連雀町と呼ばれる町に生まれ変わりました。

人が集まるところには、自然とサービス業も進出してきます。
ですから神田界隈には、飲食店もたくさんできました。
そして落語や講談や浪曲などが行われる寄席もできました。
その寄席は、後年には映像を映し出して、弁士が音声の代わりをつとめる無声映画館に変化しました。
そのあたりは今「神田食味街」となっています。

明治中頃に、立川~新宿間に「甲武鉄道」という私鉄が開業しました。
いまのJR中央線です。
その「甲武鉄道」が利便性を求めて新宿から次第に伸びて、明治45(1912)年に始発駅が神田まで伸びました。
そしてこのときに開業したのが、万世橋駅です。

ところがこの万世橋駅、大正12(1923)年の関東大震災で、駅舎が消失してしまいました。
その後簡素な駅舎が再建されたのですが、神田駅や秋葉原駅が近くに出来たことで、乗降客が減少し、昭和18(1943)年には、中央線が神田駅に延長、次いで東京駅に線路が延長されたことで、万世橋駅はその役割を終えて廃止となりました。

取り壊した万是橋駅の資材は、戦時中の物資不足もあって、京浜東北線の新子安駅に流用されたのですが、駅舎がレンガ作りの立派な建物であったため、そのまま取り壊されずに生き残り、関東大震災や東京大空襲にも耐えて、
ついに2013年9月、JR東日本の商業施設「マーチエキュート神田万世橋」として、旧駅舎の階段などをそのままに、地上2階の商業施設としてオープンしました。

私はまだ行ったことはないのですが、かつての駅のホームが展望カフェデッキになったとやらで、窓越しに行きかう中央線の上り・下りの電車が間近に見られるのだとか。
そのうち機会があったら、是非、そこでお茶でもしてみたいと思います。

前置きが長くなりましたが、実はこの万世橋駅、往年の駅前広場には、戦前には軍神・広瀬武夫中佐と、杉野孫七曹長の立派な銅像(明治43(1910)年建立)がおかれていました。

万世橋駅前の広瀬中佐と杉野兵曹長の銅像
(実に立派な銅像が建っていたことがわかります)
広瀬中佐の銅像


広瀬中佐は、軍神と呼ばれた日露戦争の英雄です。
どこの国でも、軍の英雄は、国をあげて讃えていますが、日本では、戦後にGHQの指示によって、全部撤去されました。
かつての軍人の銅像で残ったのは、実は、大山巌陸軍大将だけです。
なぜ大山巌元帥の銅像が残ったかというと、自身も陸軍士官である連合軍最高司令官のマッカーサーが、個人的に大山巌元帥をたいへん尊敬していたからなのだそうです。
万世橋駅が商業施設として復活したのなら、せっかくですから広瀬中佐と杉野曹長の銅像も、いつの日か日本が正気を取り戻したあと、きっと復活するものと信じています。

軍神・広瀬中佐は、日露戦争の旅順港閉塞作戦における閉塞船福井丸の艦長だった方です。
彼は、撤退時に行方不明となった部下杉野孫七上等兵曹(戦死後兵曹長に昇進)を助けようとして、ひとり船内を捜索し、頭部にロシア軍砲弾の直撃を受けて戦死されました。
そして明治以降、初の「軍神」となられました。

広瀬武夫中佐
広瀬武夫中佐


広瀬武夫(廣瀬武夫)中佐は、慶応4(1868)年生まれの岡藩(大分県竹田市)藩の出身です。
岡藩というのは、織田信長と豊臣秀吉に仕えた中川清秀の家系です。
関ヶ原で徳川方につき、以降、一度の転封もなく、廃藩置県まで、この地で存続しました。

広瀬武夫は、幼少時に母親が亡くなったため、お婆ちゃんに育てられたそうです。
明治にはいり、西南戦争で家が焼失したため、一家は飛騨の高山へ引っ越しました。

小学校を卒業した広瀬中佐は、地元で小学校の教師などをしていたのですが、猛勉強して、明治18(1885)年には、17歳で海軍兵学校に入学しています。

広瀬中佐の海軍兵学校入学時の成績は19番だったそうです。
卒業時の成績は80人中64番ということですから、決して成績の良い方ではなかったようです。
そのかわり彼は、柔道を講道館に学び、有段者紅白戦では、五人をいっきに勝ちぬくという実力を身につけています。

海軍兵学校時代の広瀬中佐に逸話があります。
彼は大運動会のマラソンのとき、左足が骨膜炎で、左足切断を宣告されるまで至りながら、見事完走しているのです。
まさにド根性です。

卒業して海軍に入隊した広瀬中佐は、見習い士官になりました。
その訓練の途中、中佐を含む50名程度の海軍見習い士官が、駿河(静岡県)の清水港に上陸しました。
そこで彼らは、侠客・清水次郎長親分を訪ねています。

やってきた一同をジロリと見渡した次郎長親分は、
「見たところ、男らしい男は一匹もいねぇなあ」と、一同をけしかけました。
このあたりが、親分の意地の悪いところです。
そうやってけしかけて、男を探そうとする。

そうと知った広瀬は、前に出て、
「おうおう、そう言うなら、一つ手並みを見せてやる。びっくりするな!」と、いきなりゲンコツで、自分の鳩尾(みぞおち)を5~60発、立て続けに殴り出したのです。

これには次郎長も感心し「なるほど、お前さんは男らしい」と、互いに胸襟を開いて談話をしたという逸話が残されています。

広瀬中佐は、明治27(1894)年、26歳で日清戦争に従軍しています。
武功あって、翌年には大尉に昇進する。

このとき、清国から捕獲した軍艦「鎮遠」の移送を担当しました。
広瀬中佐は、艦内清掃で「清掃というものは一番汚いところからやるものだ」と言って、先頭切って便所掃除からはじめたそうです。

なにせ清国の船の便所です。
相当汚かったであろうことは容易に想像できます。
普通なら、ちょっと近寄りたくない場所です。
しかも当時は、いまのようなトイレ用洗剤なんて便利なものはありません。
水と雑巾でこびり着いた汚れを落とします。

それでも落ちない汚れは、普通は竹べらなどを使います。
ところがこのとき、艦内に竹べらがありませんでした。
広瀬中佐は、ためらう部下たちを尻目に、汚れを爪で擦り落としはじめました。
そうやって彼は、部下に模範を示したのです。

トイレというところは、汚れる場所だからこそ、率先してきれいにする。
栴檀は双葉より芳しといいますが、広瀬中佐は、若くして模範といえる人であったのだと思います。

明治30(1897)年、広瀬中佐は、ロシアに駐在武官として赴任しました。
明治33(1900)年には、少佐に昇進します。

明治24(1901)年1月のことです。
武官としてロシアのサンクト・ペテルブルクに滞在していた広瀬中佐は、かねてより親しくしていたロシアの海軍少将ウラジミール・コヴァレフスキー氏の晩さん会に招待されました。

そこには大男のロシアの将校たちが大勢集まっていました。
そんな中で広瀬中佐は、少将から「日本の武道の達人」と紹介されました。
「ならやってみせてみろ」というのが、西洋式です。
腕自慢のロシア将校が広瀬に挑もうとしました。

広瀬中佐は平然と「日本の柔術というものは、そんなものではありません。私がこれから柔術の説明をいたしますから、まず椅子におかけ下さい」と、大男の右手をとりました。
当時のロシア人の平均身長は、190cmくらいです。
広瀬中佐は、日本人としては大柄な方で、160cmくらいです。

広瀬中佐は、大男が腰を下ろそうとした瞬間、「エイッ!」とばかり、大男を投げ飛ばしました。
それは一本背負いだったのか、はたまた大外刈りだったのか。
詳細は伝わっていませんが、見事な投げ技だったようです。
床に腰をぶつけた大男は、腰をさすりながら、おどけて「日本の柔術コワイコワイ」と言ったそうです。
これに部屋中が湧きました。

相手の虚をつくその機転、自分よりはるかに体の大きな男を投げつける武勇、そして相手を投げ飛ばしながらも、相手が頭部に怪我をしないよう、きちんと養生するやさしさ。
一同は、「ヒロセ君に乾杯!」と、歓声をあげました。

この事件がきっかとなって、広瀬中佐はぺテスブルグで、ロシア軍の参謀本部の将校たち相手に柔道を教えはじめました。
世の中というのはおもしろいもので、このことがきっかけとなって、ロシア内に柔道が普及しました。
そして日本とロシアとの国交がなくなったあとも柔道は残り、後にロシアがソ連となったあと、これが軍隊用格闘技「コンバット・サンボ」という名前の格闘技に発展します。
サンボは、いまではロシア発のオリンピック種目です。
そして勝負は「Ippon(一本)」で、決まります。

ちなみにロシアの現大統領のプーチン氏は、大の柔道好きとして知られますが、そのきっかけも、おおもとをたどれば、広瀬中佐に行き当たるわけです。

この広瀬中佐が、ロシア将校を投げ飛ばしたとき、その部屋にいたコヴァレフスキー少将の次女のアリアズナは、一部始終を目撃していました。

アリアズナという娘は、肌は抜けるように白く、目はキラキラかがやき褐色、髪は亜麻色で、とても頭が良く、優雅で気品にあふれ、しかも子供のように無邪気で快活で明るい娘であったそうです。
いまでもそうですが、ロシアの女性たちというのは、若い頃はまるで妖精のように美しいです。
まして、当時のロシア貴族の娘さんとなれば、その美しさは計り知れない。

投げ飛ばし事件のあった翌日、アリアズナは、広瀬中佐のアパートを訪ねたそうです。
もちろん貴族であり、ロシア高官の娘さんですから、たくさんの従者をしたがえての訪問です。

このとき広瀬中佐は、軍艦の断面図を開いて、熱心にメモをとっていたそうです。
そしてその図面を、アリアズナに見せながら、
「これは戦艦アサヒです」と、ロシア語で解説したそうです。
「アサヒとは、朝のぼる時の太陽のことです。朝の太陽のように清らかで、若々しく、力づよいという心をこめているのです。
私は去年4月にイギリスで完成したばかりのこの船に乗りました。おそらく世界で一番新式な一番大きな軍艦でしょう。私の国はこういう艦を6隻も持っているのですよ。」

若い広瀬中佐の嬉しそうに目を輝かせる様子が、まるで目に浮かぶようです。

アサヒ、ヤシマ、シキシマ、ハツセ、フジ、ミカサ・・・
中佐は、それぞれの艦の名前を言い、その意味をアリアズナに説明しました。

「美しい名前です。日本は美しい国だから、日本人はみな美しいものを愛しているんです!」
「どんなに堅牢な新式の大軍艦にも、われわれは日本人は、連想をかぎりなく刺激する詩のように美しいひびきをもった名前をあたえます。アサギリ、ユウギリ、ハルサメ、ムラサメ、シノノメ・・・ほらね。」
「力は強い。しかし心はやさしい。姿はうつくしい。これが我々日本人の理想像なんです!」

強くてハンサムで、エキゾチックでまじめで立派な武官で、しかも広瀬中佐は独身です。
アリアズナは中佐にすっかり恋心を抱いてしまいました。

すこし付け足しますと、使命感を持った男というのは、同性の目からみても、実にかっこいいものです。
顔立ちや人相の問題ではなく、全身から漂う真っ直ぐなオーラのようなもの自体が輝きます。
とりわけ広瀬中佐の語る言葉や行為は、すべて「祖国を愛する」という愛情から発しています。
それは信念でもあります。
そして信念を持つ男は、輝きます。

アリアズナには、セルゲイという海軍少尉の兄がいたそうです。
兄の縁故で、彼女のまわりには、貴族出身のロシア海軍の若い士官たちがいつも群がっていたそうです。
なかでもドミートリ・ミハイロフ大尉ははっきりとアリアズナに好意を示していて、彼女の心を捉えようとしていました。

ところがそのアリアズナは、貴族の御令嬢です。
厳重なしつけを受け、物腰は優雅で美しく、しかもエカテリーナ女帝がつくった貴族女学校を優秀な成績で卒業した才媛です。
そんなプライドの高いアリアズナにとって、ミハイロフらは、どうしても物足りなさを感じたのだそうです。
そこに広瀬という男らしさくて、ロマンあふれる男が舞い込んだのです。

彼女は広瀬に強い好意を寄せました。
ところが、実は、ロシア貴族が外国人、それも東洋人に恋するなどということは、本来はありえないことでもあったのです。

というのは、帝政ロシアというのは、もともとはノルウェーのバイキング族による王朝です。
ロシアというのは、もともとはスラブ族の住む土地でした。
ところがある日、そこにバイキングたちがやってきて、勝手に国をこしらえました。
要するに外来征服王朝で、それが帝政ロシアのロマノフ王朝です。

ですからロシアという国名にしても、語源となっている「Russ」は、「漕ぐ人」という意味です。
ロシアは内陸国なのに、どうして「漕ぐ人」なのかといえば、もともとはバイキング族だからです。
そのロシア王朝の王族や貴族たちは、ですから地域にいるスラブ族に対して、ものすごく選民意識が強かった人たちです。
言葉も、スラブ語ではありません。
公用語は、フランス語です。
いまのロシア語は、そのロシアなまりのフランス語に、スラブ語が混ざってできたものです。

そんな具合ですから、結婚するにしても、スラブ系の人たちとは、決して血を混ぜない。
お相手は、わざわざ同じくバイキングのフランスやノルウエーから連れて来たくらいだったのです。

それだけの選民意識の強い国柄にありながら、アリアズナが広瀬中佐に恋をしたということは、当時の日本人が、人種の垣根や、西洋貴族の選民意識を超えるだけの魅力を持った、輝く人たちだったことを意味しています。

そんなある日広瀬は、ミハイロフ大尉から、アリアズナが広瀬に好意を寄せていると知らされます。
広瀬は、びっくりする。
でも、広瀬も、次第に彼女に心を寄せていきます。
ふたりは度々逢って、いろいろな話をしました。
話だけです。
それだけで、二人の心はときめきましたが、その広瀬中佐は、あくまでアリアズナを、まるで妹をいたわるような気持ちで接していたそうです。指一本触れない。

このことは、性に対してきわめて厳格だった日本の陸海軍の伝統に基づきます。
性の処理は、遊郭などの専用施設で済ませればよく、そこが内地であれ外地であれ、現地の女性に対しては、絶対に関係を持たない。
関係すれば、たとえそれが結婚を前提としたお付き合いであったとしても、強姦罪に問われ軍法会議に処せられて本国に送還になり、故郷に帰っても、強姦魔と世間から一生嘲(あざけ)られることになる。
それが、帝国軍人というものであるというのが、明治の初めから変わらぬ日本の軍人精神です。
けれど、惹かれる気持ちは、日々つのる。

そんな広瀬中佐に、明治35(1902)年、帰国命令が出ます。
祖国日本が、ロシアを仮想敵国とみなす事態となったのです。

いよいよサンクト・ペテルブルグを出発する日、アリアズナは広瀬に小型の銀側時計を渡しました。
時計には、「A」と文字が彫ってありました。
アリアズナのA、Amor(愛)の「A」です。
時計の鎖には彼女の写真のはいったロケットもついていました。

二人は、からなず再び逢おうと誓い合いました。
しかし、その日が二人には永遠の別れとなりました。

実は、この広瀬中佐とアリアズナの恋物語は、中佐の死後も長く世に伏せられていました。
中佐の死後20年ほどたった頃、広瀬中佐と同時期にペテルブルグに駐在した加藤寛治大尉が、広瀬とアリアズナの交際を知り尽くしていて、大正13(1924)年に加藤が第二艦隊司令長官として旗艦「金剛」に座乗して大阪湾から伊勢湾にむかって航海中、同乗した大阪朝日新聞の記者大江素天に、「もう話してもいいころだろうから」といって、克明に語ったことで明らかになったものです。
広瀬中佐の恋物語は、同紙に5日間にわたって連載され、大反響となりました。

下の絵は、広瀬武夫が義理の姉である春江に、絵葉書で示した恋人アリアズナの面影です。
きっとこの絵のイメージとアリアズナの面影が、どこか重なるところがあったのでしょう。
美しい女性です。

アリアズナ


明治37(1904)年2月、東郷平八郎中将率いる連合艦隊は、旅順口閉塞作戦を立てました。
それは、旅順港の入口に老朽船を沈めることで、ロシアの旅順艦隊を港から出れなくしてしまおうという作戦でした。

作戦会議のとき、秋山真之(さねゆき)参謀は、
「もし敢行すれば、閉塞部隊は全員、生きて帰れません」と作戦に反対しました。
実は広瀬中佐と秋山参謀は同じ歳です。
ただ事情があって海軍兵学校では、広瀬中佐が秋山参謀より二級上にいました。

海軍軍令部諜報課員として着任した頃、二人は東京・麻布霞町で、同じ下宿に住んでいました。
その下宿の向かいの屋敷のお手伝いさんの談話が残っていて、
「広瀬さんという人は武張ったかんじだけど、話をしてみるとやさしくて近づきやすかった。秋山さんはその逆だった」そうです。

この二人が、会議で意見が対立しました。
あくまでも閉塞作戦に反対する秋山参謀、断固実施すべしとする広瀬中佐。

会議は、広瀬中佐の、「断じて行えば鬼神もこれを避くといいます。敵からの攻撃などはじめからわかっていることです。退却してもいいなどと思っていたら、なんどやっても成功などしない。」というひとことで、ついに旅順港閉塞作戦は実施と決まりました。

しかし第一回の閉塞作戦は失敗してしまう。
第二回の作戦は、明治27(1904)年3月27日に実施されました。
投入された艦は、千代丸、福井丸、弥彦丸、米山丸の四隻です。
そして「福井丸」に、広瀬中佐が艦長として搭乗しました。

実行の三日前、秋山真之が旗艦三笠から、福井丸の広瀬中佐のもとに出向きました。
秋山参謀は、友でもある広瀬に「敵の砲撃が激しくなったら、必ず引き返せ」と迫りました。
作戦はもちろん成功させたい。
しかし、友を決して死なせたくなかったからです。

旅順港閉塞戦
旅順港閉塞戦


いよいよ決行の日となりました。
3月27日未明、まずは先鋒の千代丸が、旅順湾入り口に向かいました。
ところが、近づいたところをロシアの哨戒艇に発見されてしまい、サーチライトを浴びます。
照明に照らされた千代丸に、旅順港の丘の砲台が一斉に火を噴きました。
集中砲火を受けた千代丸は、湾の入り口の南東、海岸から100メートルの地点に沈んでしまいます。
作戦失敗です。

次鋒は弥彦丸でした。
弥彦丸は、湾の入り口手前まで近づきますが、猛烈な砲火を浴び、旅順港の入り口に対して、縦に沈んでしまいます。失敗です。
続けて猛烈な砲火の中、副将の米山丸が湾の入り口に進み、弥彦丸と船尾を向かい合わせるように西向きに自沈しました。
これで港の入り口は、ようやく半分がふさがりました。
けれど、まだ閉塞は実現していません。

「なにがなんでも、湾を塞がねばならぬ」
旅順港にいるロシア太平洋艦隊の戦力は、日本海軍とほぼイーブンです。
しかし大西洋からは、世界最強のバルチック艦隊が日本に向かって近づいてきています。
もし、旅順にいるロシア太平洋艦隊とバルチック艦隊が合流したら、日本の海軍力とは雲泥の差が出てしまう。
そうなれば、日本は制海権を失い、朝鮮半島、満洲にいる日本軍は補給を失って孤立し、日本軍はせん滅させられてしまうのです。

広瀬は、最後の福井丸を駆って旅順港の入り口に向かいました。
残り半分をどうしても塞がねばならないからです。

敵のサーチライトを浴びました。
丘から砲弾が矢のように飛んできます。
福井丸は、ようやく湾の入り口に到達しました。

福井丸は、右舷を旅順港側、左舷を沖に向け、艦を横にして湾を塞ぐ体制をとります。
あとすこし、あとすこし進んで投錨し、自沈すれば、湾を塞げる。
あとすこし、あとすこしです。

ところがそのとき、猛烈に撃ちまくるロシア駆逐艦の砲弾が、福井丸の船首に命中しました。
その一撃で、福井丸の船首は、こなごなに、吹き飛ばされてしまいます。
福井丸は、船首から海に沈み始めます。

艦の操船不能。
もはやこれまで。

広瀬は、砲弾が飛んでくるのとは反対側、左舷の救命ボートをおろさせ、乗員全員を乗り移らせました。
ところが、点呼をとると、杉野孫七上等兵曹がいません。

「俺が捜すっ!」
広瀬中佐は、ひとり上甲板に戻りました。
敵の弾は、まだ次々と飛んできています。
丘に近いのです。銃弾も飛んできます。
る砲弾も飛来する。

艦は浸水し、沈没まであとわずかの時間しか残されていません。
艦の沈没の際の渦に巻き込まれたら命はありません。
しかも船は爆破して旅順港封鎖のために沈めなければならないのです。
杉野の命はもうあきらめなければならない。
普通ならそう決断しなければならないところです。

けれど広瀬中佐は違いました。
これまで、厳しい訓練に耐え、寝食を共にしてきた可愛い部下です。
決して死なせるわけにはいかない。
無事に連れて帰りたい。
広瀬中佐は、必死に杉野兵曹をさがしました。

「杉野~!、
 杉野はいいるか~!!、
 杉野はどこだ~!!」

一説によれば、彼は艦内をくまなく、三度にわたって探したといいます。
しかし杉野上等兵曹は見つかりませんでした。
やむなく広瀬中佐は、福井丸が海にのみ込まれようとする、ぎりぎりにボートに乗り移りました。

そしてボートが、六挺身ほど離れたころで、福井丸の爆薬に点火しました。
半ば沈んだ福井丸が大爆発を起こします。
海が明るくなる。

福井丸の爆発によって、救命艇が、敵の前にさらけ出されました。
そこをめがけて、敵弾が飛んで来きました。
場所は湾の入り口のすぐそばです。

広瀬中佐は、他の乗組員に、
「頭を下げろ!」
と大声で命令し、自分も頭を低くしました。

けれど、広瀬中佐は艦長です。
そしてこの作戦の指揮官でもあります。
戦況を、きちんと見届けて確認しなければなりません。
それが艦長である広瀬中佐の責任です。
ですから広瀬中佐は銃弾の中で顔をあげました。

そのとき広瀬中佐の頭部に敵の銃弾が命中しました。
中佐の頭が吹き飛びました。
身体が海中に落ちました。

「艦長~~!!
 艦長~~!!」

日ごろから広瀬中佐を慕う乗組員は、必死の思いで艦長の姿を海に求めました。

その模様を、朝日艦長の山田彦八大佐が東郷平八郎に出した報告書には、「頭部に撃たる海中に墜落」と書かれています。
また明治天皇紀には「一片の肉塊を残して海中に墜落」と書かれています。

広瀬中佐が敵弾の直撃を受けたとき、近くにいた兵のそばを、飛び散った肉片がかすめたそうです。
その痕跡がくっきりと残った兵の帽子が、靖国神社遊就館で時折展示されます。

広瀬中佐の遺体は、旅順港に流れ着きました。
遺体はロシア軍によって埋葬されました。
広瀬武夫柱、享年36歳でした。

広瀬中佐は、翌日、一階級昇進によって中佐になりました。
そして、日本初の「軍神」となりました。


さて、ここまでが「軍神・広瀬中佐」の物語です。
戦後、「軍神」という言葉は、あたかも軍国主義の象徴であり人殺しの象徴として、むしろ忌むべきものとして反日左翼主義者たちに喧伝され続けてきました。
しかし、ここまでの物語を読んで、みなさんは何をお感じになったでしょうか。
「軍神・広瀬中佐」は、戦争好きで、人殺しの象徴でしょうか。

違います。
部下をかわいがり、身の危険を顧みず、最後の最後まで自らの命を犠牲にして部下の姿を追い求めた。
そういう広瀬中佐の、日ごろからの人としてのやさしさ、ぬくもり、思いやり、勇気が、多くの人々に、愛され、尊敬されたのです。
だからこそ、広瀬中佐は「軍神」とされたのです。

歴史は、後世に生きる私たちが「学ぶ」ためにあります。
日ごろから正々堂々と清々しく生き、危険や苦難に際しても部下への気遣いを忘れない。
そういうことを「学ぶ」ことこそが、歴史を学ぶ意義でもあります。
なぜなら歴史はアイデンティティを育成するものだからです。

「軍神」という言葉を軍国主義と決めつける、そういう対立的闘争的価値観では、そこに何の「学び」もありません。
そもそも日本には、もともと「対立」という概念すらありません。
「対立」は、もともと英語の「confrontation」を幕末に翻訳した翻訳語です。
漢字の「対立」という熟語は、江戸時代の昔からありましたが、読みはこれで「ならびたつ」です。意味が違うのです。

戦前、広瀬中佐が日本人の誇りであり「軍神」とされて、広瀬中佐の歌が文部省唱歌に採用なったのも、部下の命をこそ第一に考える日本の武人の姿こそ、武人の模範と考えられたからです。
そういうことを知り、学ぶことこそ、やれ軍国主義だ、人殺しだとゴタクを並べるよりも、はるかに大切なことです。

世界の国々は、自国の武人たちのことを誇らしく顕彰しています。
「自由の国」アメリカでも、アラモの砦を守った人たちのことを歌に、映画にして伝えていいます。
硫黄島で戦った兵士たちも、銅像にして讃えています。

その硫黄島は、アメリカ領ではありません。
直接に自国を守るのではなくても、外国との戦いに勇んだ軍人が誇りなのです。

国防だけではありません。
永世中立国スイスは、フランスのルイ王朝を守って戦い死んだスイス傭兵たちの武勲と節操をライオン像に託して残しています。
戦って生きても、その戦いで死んでも、その栄誉は語り継ぐのが世界の国々の常識です。

日本だけがそれを止めました。
その結果、子どもたちは自分の国を誇ることを知らず、その子どもたちが長じて、国軍の長であることを知らず世界に恥をさらす政治家に育ちました。

そのようなことで良いのでしょうか。
日本を取り戻す。
それは、日本人が日本人としての価値観と誇りを取り戻す事でもあるのです。

お読みいただき、ありがとうございました。
※この記事は2014年2月の記事のリニューアルです。
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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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