日本は世界の最先端数学国だった・・・というお話です。
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画像出所=https://otonanokagaku.net/issue/edo/vol3/index.html
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
!!最新刊!! 「産医師異国に向かう 産後厄なく 産婦みやしろに 虫散々闇に鳴く・・・」
ご存知円周率の暗記法です。
学生時代に一生懸命暗記しようとした方もおいでかもしれません。
ここまでで、
3.141592653589793238462643383279
で、小数点以下30桁までの暗記文になります。
長いものですと、次のようなものもあります。
~~~~~~~~~
産医師異国に向こう。産後薬なく、産婦みやしろに虫さんざん。闇に鳴くころにや、弥生も末の七日あけむつのころ、草の戸をくぐるに、皆いつかはと小屋に送る。仲良くせしこの国去りなば、医務用務に病む。
二親こそ悔やむに、やれみよや不意の惨事とこそ世にいうなれ。むなしくやしき不意の死は、親にはむごい惨事にや、文読む虫なれ草葉よし。労苦いとわぬ孝行や、夫婦とみたり一つなり。
不意の惨事はいつかくるよと親はいう。早よとは言うなよい頃に。
弥生は末の七日行く、都に行くとここまでも、酷務をせしむに、にくらしや。苦しい心をよく見つめ、お宮へ行くと虫死にて、葉はとうに朽ちて無し。
「衣濃く、再三再四無理言うや、夜となる頃夜半にさんざん。悩むほど、悩み色濃になるという」を一句置く。ハイ終わり。
夜毎の虫や、ころろころ文読む御身よ。病む人をよろこばしむる道踏むや、虫やに人やにさんざんと、草の戸に群れ何をかを申すに、よくぞと医師いうなり。
皆伏して小屋に並ぶ。ムムと無言身一つにて心細し。早や人なつかし、早や人恋ふに「奥に奥、無理にや次の国に来よ。奥に人無し人混みもなし。虫見つむるな薬草に、心配れば見つむれば、一草一草心して、見ろ笹を分け、いつか良い葉はみずからを匂はしむ。
はるか向こうに一宮よ、一つ詠む句はこの一句。よいできなれば心地いい。
「労苦浸み身は粉になれ。身も粉に刻苦刻苦と行くぞこの身は。」
国の人や無理言うな。宮に行く身に無理言うな。草の戸恋しやこの世は同じ。読む文もなく酌む酒に、鮒良く頃は夏となる・・・・
~~~~~~~まあ、ここまでマニアックにならなくても、3.14159265(産医師異国に向こう)程度は、いまでも覚えておいでの方は多いのではないでしょうか。
円周率の計算は、古代バビロニアの粘度板から、当時の人々(紀元前17~19世紀)が、3.125などを使っていたことが明らかになっています。
いまやコンピューターを駆使して、なんと小数点以下10兆桁まで計算されるようになった円周率ですが、世界では円周率の計算式を求めて、18世紀から19世紀にかけて大激論が交されていました。
ところが日本では、江戸初期となる17世紀、寛文3(1663)年には村松茂清が小数点以下7桁までの正しい値を求め、日常的に使用する円周率を3.14と決めています。
つまり私たちが学校で習う3.14は、日本国内で350年もの長きにわたって使われてきたものです。
ちなみに寛文3年といえば、関ヶ原の戦いから63年目の年です。
また村松茂清は、播州赤穂藩の人です。
赤穂といえば、赤穂浪士が有名ですが、討入りした村松喜兵衛、三太夫の親子は、村松茂清の息子と孫にあたります。
赤穂浪士は、円周率の開祖でもあったのです。
要するに日本では円周率について、赤穂浪士討入り前から「3.14」が使われていたのであって、それを日教組は、ゆとり教育だのとほざいて円周率をただの「3」にしてしまったわけです。
時代を逆行どころか、昭和、大正、明治をすっとばして、350年もさかのぼった!
で、日本人をアホにした。
ありえない暴挙です。
高レベルだった日本の教育を、地に落した責任は、万死に値する、と思います。
さてこの円周率を、さらに深く研究したのが、江戸時代中期の数学者、関孝和(せきこうわ)です。
関孝和は、暦の作成にあたって円周率の近似値が必要になったため、天和元(1681)年に、小数点以下第16桁まで、正確に算出しています。
このとき関孝和が用いた計算法は、後に「エイトケンのΔ2乗加速法」と呼ばれるようになった計算手法を用いたものです。
ところがこの計算技法、西欧で発見されるのは、1876年(明治9年)になってからのことです。
つまり、世界が「Δ(デルタ)2乗加速法」に目覚めたよりも、なんと約200年も前に、日本では関孝和によって、その計算技法が使われていたのです。
これまたすごい話です。
関孝和の数学への探求は、円周率だけでなく、これを応用した暦学、多元連立方程式、微分積分など多方面に及び、どれも世界最古といってよい内容の研究となっています。
先ほどの村松茂清は播州赤穂藩ですが、関孝和はもともと幕臣で、江戸城天守番を勤め、後年、甲府(山梨県)徳川綱重のもとで勘定吟味役を務めています。
甲府徳川家が綱重から、子の綱豊に移ると、綱豊が将軍家宣となったため、これについて江戸にのぼり、将軍家の財産管理理職である御納戸組頭にとりたてられています。
ただし、それだけの大役を担いながら、関孝和の禄高は300俵です。
300俵取りというのは、米1俵が60kgですから、お米10kgを6000円とすると、だいたい年収1000万円のお侍さんということになります。
ただし「俵取り」ということは職の重さに対して、身分が低い(直参の許されない)御家人です。
直参旗本なら「石取り」で、この場合は「300俵取」でなく、「120石取」という表現になります。
これは果たすべき責任の違いで、「石取り」の場合は、知行地の農家が飢饉に遭わないように面倒をみることが義務付けられていました。
「俵取り」の御家人は、ただ給料をもらうだけですから、その分、同じ禄高の直参旗本より、暮らし向きは楽だったようです。
もっとも御家人でありながら、御納戸組頭という大役を拝したということは、関孝和がそれだけ立派な人物であったということで、この時代、武家の高官は、単に頭が良いだけでは栄達はできず、やっとう(武道)の腕前も相当なものでなければ、出世は見込めません。
要するに青白きインテリではこの時代の出世はまず無理だったわけで、なるほど冒頭の絵の関孝和をみると、いかにも体格がよくて強そうです。
ちなみにこの関孝和というのは、実に不思議な人で、生前の身分や功績は数多く伝わっている(本人が本にしている)のですが、生年や来歴などは、どうやら群馬県の藤岡市あたりではないかという程度で、あまりよくわかっていません。
ただ彼が残した和算の技術は、彼の書や弟子とともに大きく発展し、またたく間に全国に普及しました。
関孝和の時代のすこし後に、伊能忠敬が全国行脚して、日本全地図を正確な測量のもとで作っていますが、これだけの地図を、伊能忠敬が短期間に作ることができた背景には、彼が測量に歩いた全国各地に、彼の用いた和算による測量技術がすでに普及したことを意味します。
関孝和の影響力の大きさが知れるものとなっています。
日本は世界の最先端数学国だったのです。
それにしても日本人て、すごいです。
※このお話は2012年5月のねずブロのリニューアルです。
日本をかっこよく!
お読みいただき、ありがとうございました。
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