
宮崎市の平和台公園に聳える八紘一宇の塔戦前に日本のスローガンとして掲げられた「八紘一宇」について書きます。
「八紘一宇」というと多くの人は「第二次大戦中、日本の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた」程度の認識しかないようです。
ほんとうにそうなのでしょうか。
世界大百科事典では、「八紘一宇」を、
「自民族至上主義、優越主義を他民族抑圧・併合とそのための国家的・軍事的侵略にまで拡大して国民を動員・統合・正統化する思想・運動である超国家主義の典型」と説明しています。
昭和32年9月、衆議院文教委員会で、松永文部大臣は、
「戦前は八紘一宇といって、日本さえよければよい、よその国はどうなってもよい、よその国はつぶれた方がよいというくらいな考え方から出発していた」と説明しました。
昭和58年1月衆議院本会議で、中曽根康弘総理大臣は
「戦争前は八紘一宇ということで、日本は日本独自の地位を占めようという独善性を持ち、日本だけが例外の国になり得ると思った、それが失敗のもとであった」と説明しました。
ほんとうにそうなのでしょうか?
普通に考えて、人々が口々に唱える日本のスローガンがそうした「侵略」目的のものであったとするなら、多くの日本人は、ついていきません。
そう思いませんか?
「八紘一宇」を唱え、命をかけて戦ったのは、私たちの祖父であり、祖母であり、曾祖父・曾祖母たちです。しかも彼らは青春を「八紘一宇」に賭け、「八紘一宇」のもとに青春を駈け抜け、そして亡くなられました。
仮に、いまこれを読んでいるあなたが、あるいはボクが、日本には八紘一宇という侵略思想があるのだ。
その思想は、他国を蹂躙して財物や婦女を奪い、その国の庶民を殺しまくるものだ。
だから一緒に悪事を働こう!! と言われたら、その気になりますか?
そのことに命をかけて戦いますか?
自ら特攻までして命を落としますか?
玉砕戦を最後まであきらめずに戦いますか?
ボクならしませんよ。
逃げだしますよ。
馬鹿馬鹿しい、誰が好き好んで悪事に手を貸しますか。
内地にいた多くの母親たちだってそうです。
誰が好き好んで愛する我が息子・・・それも、兵役にとられるのは、学業優秀、身体頑丈な、とびきりかわいい息子です・・・を、そんな悪事に加担させるために送り出しますか?
婦人会、町内会、子供会・・・村中総出で、日の丸の小旗を振って、出征兵士を送ったのですよ?
それが侵略のためですって??
誰がそう考えていたのですか?
軍部ですか?
じゃあ、軍部って、誰のことですか?
いまで言ったら自衛隊が、独善主義に陥り、自民族至上主義、優越主義を他民族抑圧・併合とそのための国家的・軍事的侵略にまで拡大して国民を動員・統合・正統化して、子を差し出せと言ったら、あなたは万歳といって子供を差し出すのですか?
戦前、出征兵士を送った人たちも、送られた兵士たちも、いまとおなじ、我々と血の繋がった日本人です。
時代がそうさせた?
じゃぁ時代ってなんですか?
みんなが理想に納得し、みんながその理想を本気で信じたから、命がけで戦った・・・そう考えた方が、自然なのではありませんか?
その時代の理想が「八紘一宇」だったのです。
「八紘一宇」とは、日本書紀に出てくる言葉です。
「掩八紘而爲宇」
(=
八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)と爲(なさ)む))が語源となっています。(「日本書紀」巻第三神武天皇の条)
「八紘」というのは「8つの方位(東西南北、北東、南西、南東、北西)」です。
8つの方位は、天地を結ぶ8本の綱だ。そしてこれが転じて「世界」を意味する語となった。
「一宇」というのは、「ひとつの家」という意味です。
つまり、「八紘一宇」は、世界はひとつの家族だ、という意味です。
明治天皇の和歌にある、
四方の海
みなはらからと 思う世に
など、波風の たちさわぐらむ
四方の海=八紘 です。
みなはらから=一宇 です。
「一宇」を指して、「これは天皇の傘の下に世界を統一しようという侵略性を持った言葉である」などとしたり顔をして説くアホがいるけれど、上に示した日本書紀の文のどこに「天皇が」と書いてあるのか?
単に世界は一家と説いているだけで、どこにも「天皇が」などいう主語はつけられていない。
よく文章を読め! と言いたいです。
そして東京裁判の折、清瀬弁護人は、
「八紘一宇は日本の固有の
道徳であり、侵略思想ではない」と述べています。
その通りだと思います。
「八紘一宇」について語るとき、よくひきあいに出されるのが、日蓮宗から新宗教団体国柱会を興した田中智學です。
彼は、1903年(明治36年)、日蓮を中心にして「日本國はまさしく宇内を靈的に統一すべき天職を有す」と説いた。
これが、八紘一宇の侵略性を示していると説く人もいる。
まったく、ヽ(´o`;lll オイオイです。
いつから戦前の日本は日蓮宗の国になったのでしょうか?
なるほど日蓮は、日本の宗教を日蓮宗に統一し、国立戒壇の建立を説きました。
しかし、戦前の日本は国家神道であったはず。
いつから日本の国教が日蓮宗の、それも当時の新興宗教である「国柱会」になったのですか?
彼の意見は、多様な価値観と言論の自由を許容する日本社会の中の、ひとつの少数意見にすぎないのではないですか?。
こう書くと、「そんなことはない、日本には憲兵がいて、反日思想をとりしまったじゃないか」という人がいる。
それも違います。
田中智學がこの説を説いたのは明治36年(1903年)のことです。
一定の言論統制が行われた大東亜戦争の40年以上も前のことです。
当時の日本では、実に様々な言論が、自由に主張されている。
だいたい創価学会が結成されたのも1930年です。
「八紘一宇」は、戦前の日本の国策とされました。
それは、昭和15年7月26日の「基本国策要綱」に掲げられています。
皇国ノ国是ハ
八紘一宇トスル嚢国ノ大精神ニ基キ
世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ基本トナシ
先ツ皇国ヲ核心トシ
日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル
大東亜ノ新秩序ヲ建設スルひらたくいえば、「日本の国是は、世界はひとつ、人類はみな兄弟という我が国の道徳観に基づき、世界の平和を希求し、日本国(満州・台湾等を含む)を中心に東亜の新秩序をつくる」という意味です。
これって、いまの日本国憲法の前文そのままです。
むしろ、現憲法以上に平和を希求する内容です。
東亜の新秩序というのは、アジア諸国が植民地支配を脱し、それぞれの国の独立を促すという意味で、実際、戦中から戦後にかけて、多くのアジアの国々が独立を果たし、植民地支配という隷属からの脱出を図ることに成功しました。
その被植民地からの脱出と独立にあたって、日本がおこなった現地での学校建設、行政指導、教練等が、きわめておおきな役割を果たしたのは、その後の歴史が物語る通りです。
2つの言葉を紹介します。
ひとつは、平成3年、日本傷病軍人会代表団が戦時は敵国であったオランダを訪問した際に、オランダ・アムステルダムの市長の挨拶で、公式に残っているものです。
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貴方がた日本は、先の大戦で負けて、勝った私どもオランダは勝って大敗しました。
今、日本は世界一、二位を争う経済大国になりました。
私たちオランダはその間屈辱の連続でした。
勝ったはずなのに、世界一の貧乏国になりました。
戦前のオランダは、アジアに本国の36倍もの大きな植民地インドネシアがあり、石油等の資源産物で本国は栄躍栄華を極めていました。
今のオランダは日本の九州と同じ広さの本国丈となりました。
あなた方日本はアジア各地で侵略戦争を起こして申し訳ない、諸民族に大変迷惑をかけたと自分をさげすみ、ペコペコ謝罪していますが、これは間違いです。
あなた方こそ自らの血を流して東亜民族を解放し、救い出す、人類最高の良いことをしたのです。
何故ならあなたの国の人々は、過去の歴史の真実を目隠しされて、今次大戦の目先のことのみ取り上げ、或いは洗脳されて、悪いことをしたと、自分で悪者になっているが、ここで歴史をふり返って、真相を見つめる必要があるでしょう。
本当は私共白人が悪いのです。
百年も三百年も前から競って武力で東亜民族を征服し、自分の領土として勢力下にしました。
植民地や属領にされて長い間奴隷的に酷使されていた東亜諸民族を解放し、共に繁栄しようと、遠大崇高な理想をかかげて、大東亜共栄圏という旗印で立ち上がったのが、貴国日本だったはずでしょう。
本当に悪いのは侵略して権力を振っていた西欧人の方です。
日本は敗戦したが、その東亜の解放は実現しました。
即ち日本軍は戦勝国の全てを東亜から追放して終わりました。
その結果アジア諸民族は各々独立を達成しました。
日本の功績は偉大です。
血を流して闘ったあなた方こそ最高の功労者です。
自分をさげすむのを止めて、堂々と胸を張って、その誇りを取り戻すべきです。
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八紘一宇の精神による東亜の解放。
そんなものは日本の大義名分にすぎず、内容は侵略戦争だったという人がいます。
もしほんとうにそうなら、なぜ、日本軍は、インパール作戦で、38,000人の戦死者を出し、4万人以上の戦病を出し、街道に日本兵の白骨を折り重なるように晒しながら、その街道筋にある民家や畑を襲っていないのでしょう?
飢えと病に苦しみながら、何日も水さえ呑めずに撤収する街道筋には、ビルマの村や寺が点在している。
現地の人が住んでいる。
家畜もいる。
畑もある。
女性もいる。
しかも彼らは非武装です。
そして、敗軍となって徒歩で帰る日本兵は、実弾を込めた銃を持っていました。
にもかかわらず、日本兵はその街道筋で、ただの1件も、盗みをしていない。
強姦もしていない。
殺人もしていない。
自らが、飢えと空腹、渇きにあえぎながらも、だたの1件も奪わず、殺さず、姦せず、飢えに苦しみながら、日本兵という名の多くの日本人の若者が死んでいった。
それが侵略者・掠奪者の姿ですか?
八紘一宇は、我々日本人にとって、大義名分などではなかった。
いやそれ以上の、我々日本人の生きざまだった。
心の柱だった。
どんなことでもそうじゃないですか?
生きるということは、心です。
戦うということは、銃をポンポン撃つことではない。
明確な目的のために命がけで戦うということです。
ボクはね、戦争を美化するつもりも、礼賛するつもりもありません。
しかし、命を賭けて戦った先人達の思いと、その心を、単に「大義名分であり」、「侵略だった」などと蔑むような真似だけは、絶対に許せない。
なぜならそれは、先人に対する冒涜だし、先人を冒涜するということは、とりもなおさず、いまを生きるわたしたちひとりひとりを冒涜することだからです。
もうひとつの言葉、それは先般ご紹介したパラオの碑文です。
パラオに、ペリュリュー島という島があります。
この島が、先日ご紹介した記事の舞台です。
■関連記事:大東亜戦争に勝利した日本
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-510.htmlその島に慰霊碑があります。
慰霊碑には、こう書かれています。
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諸国から訪れる旅人たちよ
この島を守る為に日本軍人が
いかに勇敢な愛国心を持って戦い
玉砕したかをつたえられよ
Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island.
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この詩を作ったのは何と敵であったアメリカ大平洋艦隊司令長官のニミッツ提督です。
ニミッツ提督は、戦後、日本の戦艦「三笠」が荒れ果ててダンスホールに使われている事を知るとこれに激怒し、海兵隊を歩哨に立たせて荒廃が進む事を阻止し、
1958年には『文藝春秋』に「三笠と私」という文を寄稿し
「この一文が原稿料に価するならば、その全額を東郷元帥記念保存基金に私の名で寄付させてほしい…」と訴え、
「三笠」の保存費用として個人的に当時の金額で二万円を寄付し、
アメリカ海軍を動かして揚陸艦の廃艦一隻を日本に寄付させ、そのスクラップの廃材代約3千万円を充てさせました。
もし、日本軍が、山賊や海賊のような侵略者であり、悪の権化の魔軍であったのなら、敵の将であるニミッツ提督が、こういう碑文を残しますか?
「八紘一宇」の精神は、なにも戦前の特殊な思想ではありません。
「八紘一宇」は、世界の人類は皆、兄弟だ、という人類普遍の心だとボクは思うのですが、みなさんは、どうお感じになりますか?
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コメント
護国神社巡拝びと
素晴らしい内容で感銘です。
今後ともよろしくお願い申し上げます。
護国神社巡拝びと拝
↓わたくしの活動ブログ
http://ameblo.jp/gokoku-jinjya
2013/07/24 URL 編集
MAT
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%B4%98%E4%B8%80%E5%AE%87
作った人が言うんだから間違い無いでしょう。
私がそれを見た限り、↓の有名な二つの言葉を併せたものだと思いました。
・みんなちがってみんな良い
・世界は一つ人類は皆兄弟
違いますかね?
2012/11/28 URL 編集
薫
ありがとうございます。
「八紘一宇」についてちょっと書き込みをさせて下さい。
今から10年ほど前に書道を始めました。
最初に書いていただいたお手本が
「八紘一宇」でした。
何も知らない私は
《何これ、どんな意味?》でした。
先生に伺ったら
「なんだ、そんなことも知らないのか。これは、世界が一つという意味で
終戦まで、どこにでも『八紘一宇』と書いてある塔があった。」
と教えていただきました。
後に、先生のお供で、靖国神社の正殿で御参りさせていただく機会がございました。
その岐路、携帯の時間を見ると止まっておりました。
私は、後にも先にも携帯の時間が止まるという経験をしたことが御座いません。
携帯が壊れたのではなく、メールも電話も出来るのに。
しかも、腕時計も同じ時間で止まっておりました。
思えば、正殿で御参りさせていただいた時間で止まっておりました。
それまで、ぼや~~っと生きてきた私でしたが、
『これは!』と思い始める経験となりました。
《憲兵》のことも出ておりましたので、《憲兵》についても書かせて下さい。
戦時中は
《憲兵》に捕まれば、拷問にあい、大変なめにあう
と思い込んでおりました。
しかし、たまたま、親戚からこのような話を聴きました。
私の大叔父は、戦時中、「戦争反対」を叫び、集会などをする人でした。
そういう集会があると《憲兵》が来ていて、
そういうニュアンスの話をしそうになると
机をコンコンとたたくそうです。
そんな日々、大叔父は憲兵に連れていかれたそうです。
しかし、大叔父は昼は《憲兵》と一緒に家に帰って来るそうです。
夜になれば、《憲兵》とともに牢屋に帰って行く、
とういう生活だったそうです。
親戚(大叔父の娘)は幼かったので、
「どうして、お父さんは、他のお父さんと逆なの?」
ときいたそうです。
普通のお父さんは、夜になると家に帰ってくるのに、
自分のお父さんは、夜になると出かけるからです。
《憲兵》さんって、本当のところ、どんな風だったのでしょうか。
その大叔父は、戦後代議士になり、自民党に参加しました。
初めまして、ですのに長々と失礼致しました。
2012/11/12 URL 編集
ロクドウ
八紘一宇についてとてもわかりやすい説明をしていただいていると思います。
私も同じ感覚を持っているので、とても嬉しいです。
リンクフリーとのことで、ブログなんかではらせていただきたいと思います。
さて、わたくしはこの八紘一宇を戦前の頭の良い人々が考えた、日本が世界に対して思想面で負けないために生み出されたものだと考えています。
自由も平等も元を正せばアメリカ建国宣言やフランスの人権宣言に行き着き、結局はキリスト様によって保証されている物です。
自由、平等を旗頭にする限り、絶対にキリスト教国を追い抜くことは出来ません。
八紘一宇は、自由、平等を口にしながら植民地支配を繰り返し、武力財力によって有色人種を支配しているキリスト教徒の偽善を打ち破り、真に平和な世界を手に入れるための思想だと思います。
天皇は天照大神から続く万世一系の神の血筋です。
八紘一宇はこの実在する血筋と伝統を担保にした建設的な平和論であり、その裏ではキリスト教国でない日本人が世界をリードするために必要な思想なのでしょう。
21世紀を迎えてもキリスト教徒は殺し合いを続けていて、平和な世界はやってきそうにありません。
戦争には負けましたが、この八紘一宇の思想が無くなったわけではありません。わたくしは今こそこの八紘一宇が復活すべき時なのではないかと思います。
2012/05/31 URL 編集
minamisinakai
20世紀初頭、欧米列強(英仏蘭露米)の植民地支配は、アジアを含む全世界に及び、その支配体制は覇道的(恐怖体制)で、ひどい人種差別に根ざしていた。例えば、黄色人種は、猿なみの劣等であり、優等な白人種による支配は、必要かつ正当である。
シナを含むアジア全域は、列強の過酷な支配下にあり、日本が交易を求めても入り込む隙間も無い。民衆は虐げられ家畜以下の扱いであった。やがて、孫文の三民主義や大アジア主義を初めとして、民衆の中に、アジアの解放や祖国の独立を願う運動が、主に日本を足がかりにして広がっていった。
世界恐慌に翻弄されていた日本は、列強の植民地体制を打破し、アジアを解放する以外、帝国としての存立が困難であった。この日本の戦略は、列強からの民族解放と祖国独立を熱望するアジアの指導者たちの戦略と、利害が一致した。このような状況を背景に、大東亜共栄圏(八紘一宇)の理念が、日本、シナ及びアジア各地域の正義を目指す指導者たちの間に形成されていった。
日本は、大東亜共栄圏のモデルとして満州帝国を立ち上げたが、列強の干渉や妨害がひどく、シナでの日本の利権侵害や居留民虐殺などのテロも頻発するようになった。列強の傀儡に堕して挑発を繰返す蒋介石やその手先となりテロを行う共産党を懲らしめるため、日中戦争が始まった。
蒋介石や共産党は、民衆のためと言いつつ、民衆を戦争の楯に利用し、彼らを虫ケラのように犠牲にしてきた。日本は、このような列強の手先である蒋介石と共産党を打倒し、満州帝国の安定存立と、過酷な植民地支配からのシナ民衆の解放を、目指した。
しかしながら、大東亜共栄圏(八紘一宇)の理念は正しかったが、この理念を実践する大日本帝国陸軍がお粗末だった。理念的に、日中戦争の目的は、列強の傀儡である蒋介石と共産党を打倒し、満州帝国を安定存立させると共に、シナ民衆を列強の植民地支配から解放することであった。この大義を、帝国陸軍はその組織内部に十分に浸透させることを怠った。
日中戦争・太平洋戦争を主導した統制派軍人エリートには、惻隠の情を持ち弱者を庇う武士道精神が欠如していた。更には、日本人一般に、シナ人・アジア人蔑視の考えがあったこと、これに初年兵を陰湿に殴り苛める内務班的な陰険体質が加わり、占領地の民衆は牛馬のごとく扱われた。「なんだ、これでは列強の支配下より悪いじゃないか」
兵士や民衆の命を紙切れのように見なす精神主義、統制派的エリート主義、現地調達主義など。これらの主義に犯された無能で危険な参謀たちに、兵士の命や占領地民衆の貧しい生活などは、ほとんど無視された。ましてや、国際世論などは、全く配慮できない。宋美齢やコミンテルンによる国際世論の操作・工作に一方的に利用されるだけだった。
このような帝国陸軍の組織体質は、いくら反省しても反省仕切れない。なぜなら、未だ現代日本の公的組織や民間会社組織にすら、これが色濃く残っているからだ。
しかし、いくら戦争に負けたからと言って、「正義の理念」までも否定してはいけない。大東亜共栄圏(八紘一宇)は正義の理念だった。1930年頃以降、日本が、この理念を高く掲げ、その実現に邁進したことを、今の日本人は、誇りに思うべきである。
余談だが、汪兆銘を、日本の傀儡・売国奴と評価するのは間違いである。無節操に共産党と合作し、民衆を戦争の楯に利用し続け、列強の手先と成り下がった蒋介石とは、汪兆銘は決別せざるを得なかった。そして、列強からの真のシナ独立と民衆解放を目指し、日本と柔軟かつしたたかに交渉を重ね、1940年、南京国民政府を樹立した。彼こそ真の愛国者である。この正しい評価を今の中国共産党は聞く耳を持たないだろう。しかし、日本は、少なくとも台湾に対しては、正しい評価をするよう働きかける義務が有る。
2011/08/09 URL 編集
島 春風
被告の中でも、平沼騏一郎氏や荒木貞夫氏らは特にこのことを憂え、彼らの誤解を解きたいという切なる願望があった。「八紘一宇」は、神武天皇建国の理想であり、世界中の国々の民族が互いに「魂の兄弟」として一つに睦び合い、それぞれの国々にはそれぞれの都がありながら、それらを兼ねて世界連邦の都をつくり、共存共栄して行こうと云うのである。かくの如き全人類を一家の如く考える平和な思想である。
このような世界連邦建設の大理想が今から三千年近く前に、神武天皇が述べられ建国の理想とされたということは、まことに驚嘆すべきことと云わねばならない。八紘というのは、天地の四方八方あらゆる方角で世界中みんなということであり、一宇は一家のことであり、世界中の人々が一家族のように仲良く相和し、助け合い、生かしあって生きていくという意味である。
そこで清瀬一郎弁護人は、日本の古典、明治当初の文献などに翻訳をつけて裁判所に証拠書類として提出するとともに平沼氏より井上氏を証人として推薦してもらい、この言葉を十分に説明してもらった。
東京裁判では、その結果として、裁判所側も「日本の道徳上の目標である」ことを認めざるを得なくなった。このことは東京裁判の判決書(日本文)13ページ下段より19ページ上段にいたるまで記載されている。
「皇道と八紘一宇の原理」
日本帝国の建国の時期は、西暦紀元前660年であるといわれている。日本の歴史家は、初代の天皇である神武天皇によるといわれる詔勅が、そのときに発布されたといっている。この文書の中に、時のたつにつれて多くの神秘的な思想と解釈がつけ加えられたところの、二つの古典的な成句が現れている。
第一のものは、一人の統治者のもとに世界の隅々までも結合するということ、また世界を一つの家族とするということを意味した「八紘一宇」である。これが帝国建国の理想と称せられたものであった。その伝統的な文意は、究極的には、全世界に普及する運命をもった人道の普遍的な原理以上のものでもなかった。
行為の第二の原則は「皇道」の原理であって、文字どうりにいえば「皇道一体」を意味した古い成句の略語であった。八紘一宇を具現する途は、天皇の仁慈に満ちた統治によるものであった。したがって「天皇の道」ー皇道または「王道」-は徳の概念、行為の準則であった。八紘一宇は道徳上の目標であり、天皇に対する忠義は、その目標にたっするための道であった。
これらの二つの理念は、明治維新の後に、ふたたび皇室と結びつけられた。1871年(明治4年)に発布された勅語の中で、明治天皇はこれらの理念を宣言した。その当時に、これらの理念は、国家組織の結集点を表現したものであり、また日本国民の愛国心への呼びかけともなった。
以上のごとく東京裁判では、「八紘一宇」が道徳目標であり、侵略思想でないことを明白に肯定したのである。あの日本弱体化をはかり、敵意をもった裁判官さえ、かくのごとく判決をせざるをえなっかた事実には、注目しておくべきである。否、われわれ日本国民が決して忘れてはならない歴史的事実なのである。
2010/08/31 URL 編集
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ある人から見れば、侵略に見えたかもしれない。でも日本政府としては、列強からアジアを開放するという大義名分があった。
一般市民は、その崇高な大義名分を信じて他国の為に戦った。そういう先代たちを彼らの死を蔑む日本人がいたら、日本は近い将来、中国や朝鮮のような民度の低い国になってしまうだろう。
2010/08/03 URL 編集
どら猫
2010/07/19 URL 編集
中島
織田信長の軍隊ですら強姦・略奪行為をしたら即打ち首という厳しい軍紀が徹底されていたし、敵国を攻めて打ち負かしたあとの統治を考えた軍紀が旧日本軍には絶対にあったはずと考えていました。 なぜなら、元士族がたくさん旧日本軍にいたからです。 しかし、強姦や略奪行為をしないことを裏付けた資料をこれまで目にすることがありませんでした。 ここでのビルマの話しがそのずっと求めていた資料でありとても喜んでいます。
2010/06/11 URL 編集
kinako
2010/02/15 URL 編集
おれんじ
いえいえ、違いますよ。最初から独立を手助けするためにやっていたのです。独立後は日本を支援してもらおうと。当時の方のインタビューを読むと、我々以上に冷静かつ客観的。今の政治家と代わって欲しい(笑)。
以前ねずきちさんがこちらでインドネシア独立軍について取り上げてくださっているのでご覧になってみてください。それからインド独立についてはこちらを。
「グローリアス・サクセス」藤原機関のご本人の記述
http://vaccine.sblo.jp/article/17294471.html
ねずきちさん、度々失礼しました。
2009/06/10 URL 編集
おれんじ
今日、「日本はどれほどいい国か」を読み始めましたが、白人の人種偏見に基づく日本たたきと日本の素晴らしさが書かれていて血が沸騰すること請け合いです(笑)。
長文失礼いたしました。
2009/06/10 URL 編集
おれんじ
こんなことツアーに全く関係ないですよね?私もそのころは自虐史観でしたし、他の参加されていた日本人も英語も歴史も良く分からなかったみたいで(笑)何もおきませんでしたが、その頃ですら「イギリス人だって酷いことしているはずなのに、まあああよく自分の事を棚に上げて言えるものだ」と憤慨してましたが。
日本人だと「蟻(頭が黒くて沢山いるから)」とか「猿」とか「つり目」とか、たまに言われるかな。あと、出会い頭に「鯨を食うのをやめろ!(キリスト教徒から見る非文明的な日本人という意味がみえみえ)」とか(このときは私も理由を説明)。アフリカ系の人は「おい、お前!さっさとジャングルに帰れよ」とか言われてました。黒人も大変だなあ。
八紘一宇、素晴らしい理念だと思います。一体あの帝国主義の時代にどの民族がこんな考えを打ち出せるでしょう。
ただ、以前ご紹介した金子智一さんのように純粋に人種平等やアジア独立を願って行動した方も大勢いらっしゃいますが、一方で日本が戦争に踏み切らねばならなかった多くの要因(米国の野心、コミンテルンの工作活動など)についても事実に基づいて冷静に分析する事が必要だと思っております。まだ公開されていない資料も沢山ありますから、これから驚愕するような事実が明らかになるかもしれません。そして白人のレイシズムに基づく残虐な行為についても忘れてはいけません(ねずきちさんのご紹介になったエントリーは衝撃的でした)。
応援クリック!これからもじっくり拝見させていただきます。
2009/06/10 URL 編集
LAY
>日本人には狂気の沙汰が出来ないのではないでしょうか?戦う時には死をいとわぬのに戦いが終わると冷静に戻る、それが負け戦で敗走中であろうと。
だからこそ東南アジアの諸国から解放者として支持されるのだと思いますが、いかがでしょうか?<
まったく否定できませんね。 しかし、ねずきちさんの>当時の日本人将兵の情念を形成した概念が、八紘一宇であったのではなだろうかと思うのです。 < も同じように否定できません。
それでいいのでしょう。 何ら不都合はないのですから。
2009/06/10 URL 編集
LAY
>私は、多くの方々が戦前日本の素晴らしいことをとりあげ、こういった自虐史観を正したいとお考えで、これはもっと宣伝されるべきだとおもうのですが、やはり一方的に戦前を賞賛するより、公平に悪い事も分析して理由なども解明していけば、より多くの人が納得し、そしてそれらの人々も自虐史観から救われるように思います。 <
おっしゃる通りですね。 年代により自虐史観から抜け出せない、「GHQ・NHK・日教組などに洗脳されてる」と疑うことさえしない国民がわんさかいるのです。
ところで一つ質問があるのですが、「一方的に戦前を賞賛する」という表現の戦前とはどこまでを含みますか?この場合の「戦」は大東亜戦争(=第二次世界大戦)ですよね?
2009/06/10 URL 編集
帰ってきた酔っ払い
朝 日 新 聞
だったりするのが、笑えない冗談のような事実
2009/06/09 URL 編集
あんぽんたん2世
しかし負けた時はわずかな悪事も何千倍に拡大されてしまう、日本以外の国には恥とか、公平さなどはないのが現実でしょう。 いや、戦後に突出した反日左翼は、自分自身が免罪符を得るために悪い事だけとりあげて教育までダメにした。
これらの人々が元凶ですが、これらの人々を作り出したのも日本です。 外国系が多いのも事実ですが。私は、多くの方々が戦前日本の素晴らしいことをとりあげ、こういった自虐史観を正したいとお考えで、これはもっと宣伝されるべきだとおもうのですが、やはり一方的に戦前を賞賛するより、公平に悪い事も分析して理由なども解明していけば、より多くの人が納得し、そしてそれらの人々も自虐史観から救われるように思います。
年齢を経て日本人・人間・自分というものがわかってくると、先人たちの勇気や犠牲に感謝する気持ちがひとしおという感じがしています。
2009/06/09 URL 編集
かぐやひめ
確か高松宮様の戦時中の日記でしたかで、「中国のありさまは、理想とは違う」と、嘆いていらっしゃいました。
「現実」が理想通りでないのは、戦時も平時も同じです。
しかし、財閥が「自身の金儲けのために戦争を利用した」ということは「ありません」
財閥は、日の丸を背負って商売をしていました。
日の丸のありがたさを、骨身にしみて知っていました。
今のGDP世界何位の日本、グローバリズムの世の中とは違います。
「世界というひのき舞台」に登場して、まだよちよち歩きでした。
国家の庇護と後ろ盾が、なければ企業も個人も、何もできなかった。
西欧に追いつき追い越せという国是は国民全体の願いでした。
祖父は戦後GHQによって「副社長の座」を追われた「財閥の一員」でした。
軍に戦闘機を寄贈ーその写真が残っています。
祖母は「国防婦人会」のたすきをつけて軍服姿の祖父と写真に写っています。6人の息子も全員兵隊に出しました(幸い、誰も戦死しなかった)
戦後、祖父は大金持ちから転落しました。預金封鎖、新円切り替え、等々、国家の政策に全面的に協力した結果だったそうです。
でも、一度も「戦争のせいで・・・」という愚痴をきいたことがありません。負けたことは悔しかったでしょうが。
みんなが一丸となって戦った戦争でした。
国家の意志は、個人の意志と同じでした。
国家の夢は個人の夢と同じでした。
八紘一宇は、みんなの夢だったと思います。
舅は、戦争中、陸軍中尉さんでした。しばしば懐かしそうに軍隊でひどいめにあった話をしていました。
舅が年金を受け取る年齢(60歳)になった時、私は、何の気なしに尋ねました。
「おとうさん、65歳まで待ってから年金を受け取ることにしたのね。やっぱり、あとからもらう方が有利なの?」
すると、舅は、当然のことだといわんばかりに返事しました。
「わしは、まだ収入がある。
今、年金を受け取ったら、お国に対して申し訳ない。」
はー!私は、その言葉に襟を正しました。
(孫たちも、この祖父を尊敬しています。)
戦後教育を受けて「功利的に」しか、ものを考えられない私たちには、とうてい計り知れない父たちの「お国」への思いがあります。
年金が破たんすると、騒いでいるのを見るたびに、父の言葉を思い出します。
みんなが、父のように考えるのなら「破たん」はないでしょう。
受け取る方も、扱う方も「お国=公」を考えず、私利私欲に走れば・・・破たんしない方がおかしいのと違いますか?
誰かではなく、自分が、いつかではなく今、姿勢を正さなければ、日本は危ないと思います。
先人をうんぬんする資格のある人は、今の日本にひとりもいないと思います。
世界中の宗教が共通して教える理念は「自分のしてほしいことを、他にしてあげること。自分のしてほしくないことは、他人にむかってしないこと」です。
当時の日本は、一人ひとりがきちんと実践できたかどうかは、別としてこの「理想」を、当然のこと、常識としていました。社会と個人の「ものさし」としていました。
2009/06/09 URL 編集
椿
日本が呼びかけて昭和18年(1943年)11月5、6日の両日、東京の国会議事堂で二日間にわたって開かれたのが『大東亜会議(THE ASSEMBLY OF GREATER EAST-ASIATIC NATIONS)』です。
『大東亜会議』は、米英など連合国の「大西洋憲章」に対抗して“日本の戦争目的を討議”したもので、参加者は日本(東条英機首相)、中国(汪兆銘行政委員長)、タイ(ワンワイタヤコン首相代理)、満州国(張景恵国務総理)、ビルマ(バー・モウ首相)、フィリピン(ラウレル大統領)、インド(チャンドラ・ボース自由インド仮政府代表)の七カ国の代表らが集結いたしました。
日本はすでにこの年、ガダルカナルからの撤退をし、5月にはアッツ島守備隊玉砕があって戦況は悪化していました。ビルマのバー・モウ首相はサイゴン、台湾経由で日本に来られ、途中サイゴンを出たところで搭乗機が墜落、危ういところで一命を取り留めたそうです。しかし、アジアの代表達は「命の危険を乗り越えて」東京に集結し話し合ったのです。
◆そして、この会議の結果打ち出されたのが『大東亜共同宣言』です。
◆『大東亜共同宣言』は、大東亜戦争の原因を『米英の大東亜に対する侵略搾取』にあるとして、大東亜戦争を戦い抜き『大東亜を米英の桎梏(しっこく)より解放』するとしています。
① 『道義に基づく共存共栄の秩序を建設』
② 『自主独立を尊重し親和を確立する』
③ 『人種差別を撤廃し文化を興隆し資源を解放し、世界の進運に貢献する』などを目標として掲げています。
そして、ここに謳われた『人種差別の撤廃』こそが日本が明治の開国以来求め続けてきたものです。第一次世界大戦後、国際連盟を創設した時に日本が、列強に強く求め拒否された、それが『人種差別の撤廃』です。
◆そして米英(連合国)の戦争目的を記したのが「大西洋憲章」。
①「領土の拡大を求めず」
②「すべての国民は自らの手で政府の形態を選ぶ権利を有する」
③「主権及び自治を強奪されたものに、再びそれらが回復されることを希望」等と謳われていますが、現実には・・・、
▼ソ連は戦争で領土を拡大し、
▼イギリスは戦後インドの植民地を継続しようとしてチャンドラ・ボース率いたインド国民軍(INA)の幹部を軍事裁判にかけました。またマレーやシンガポールでも植民地を維持しようとして戦いました。さらにインドネシアに対してもオランダを支援して武力行使しています。
▼フランスはベトナム、ラオス、カンボジアに兵士を派遣し、植民地を維持しようとしました。
こうして見てみるといったい『大東亜共同宣言』と「大西洋憲章」と、どちらが先進的なものだったのでしょうか?
■この点に関して戦後、GHQの下で働き労働基本法の策定に携わった、米国の日本専門家ヘレン・ミアーズ女史は『アメリカの鏡・日本』という著書で、『歴史的に見てアジアの民衆を「奴隷にしていた」のは、日本ではなく私達が同盟を結ぶヨーロッパの民主主義諸国である』と明確に断じています。
■また『日本は現地住民に独立を約束した。それだけでなく独立を保障した具体的な行動を進めている』と書かれています。
↓
①日本は、1935年にすでに満州での治外法権を放棄していたし、
②日本は、1940年には中国に正式に約束し、
③日本は、1943年には中国政府に租借地を返還している。
④大戦中日本は、実際に、占領したすべての地域に現地『独立』政府を承認していた
というように、彼女は米国の戦争目的に疑問を呈し「私達が『解放戦争』と呼んでいたものは、実はヨーロッパによるアジアの再征服(恥ずかしい事にアメリカが手を貸した)だったのである」と述べています。
わたくしは日本の戦いに(大東亜戦争)に、日本人は大いに誇りを持つべきだと思います。
それを侵略戦争だと一方的に決めつけ、盲従的に謝罪する「村山談話」なるものは、祖先への冒涜であり、また現代を生きる私達や子孫への犯罪行為だと思います。
戦争に突入することになってしまった責任、さらに敗戦の責任はあるけれど、それは米英など連合国と相身互い、日本だけが裁かれる理由はないし、それどころか日本の戦いに、日本国民はもっと誇りを持つべきではないでしょうか?
2009/06/09 URL 編集
椿
↑
違うと思います。
『大東亜を米英の桎梏(しっこく)より解放する』ことが
『大東亜戦争』の目的だったと思います。
日本が呼びかけて昭和18年(1943年)11月5、6日の両日、東京の国会議事堂で二日間にわたって開かれたのが『大東亜会議(THE ASSEMBLY OF GREATER EAST-ASIATIC NATIONS)』です。
『大東亜会議』は、米英など連合国の「大西洋憲章」に対抗して“日本の戦争目的を討議”したもので、参加者は日本(東条英機首相)、中国(汪兆銘行政委員長)、タイ(ワンワイタヤコン首相代理)、満州国(張景恵国務総理)、ビルマ(バー・モウ首相)、フィリピン(ラウレル大統領)、インド(チャンドラ・ボース自由インド仮政府代表)の七カ国の代表らが集結いたしました。
日本はすでにこの年、ガダルカナルからの撤退をし、5月にはアッツ島守備隊玉砕があって戦況は悪化していました。ビルマのバー・モウ首相はサイゴン、台湾経由で日本に来られ、途中サイゴンを出たところで搭乗機が墜落、危ういところで一命を取り留めたそうです。しかし、アジアの代表達は「命の危険を乗り越えて」東京に集結し話し合ったのです。
◆そして、この会議の結果打ち出されたのが『[太字]大東亜共同宣言』です。
◆『大東亜共同宣言』は、大東亜戦争の原因を『米英の大東亜に対する侵略搾取』にあるとして、大東亜戦争を戦い抜き『大東亜を米英の桎梏(しっこく)より解放』するとしています。
[太字]① 『道義に基づく共存共栄の秩序を建設』
② 『自主独立を尊重し親和を確立する』
③ 『人種差別を撤廃し文化を興隆し資源を解放し、世界の進運に貢献する』などを目標として掲げています。
そして、ここに謳われた『人種差別の撤廃』こそが日本が明治の開国以来求め続けてきたものです。第一次世界大戦後、国際連盟を創設した時に日本が、列強に強く求め拒否された、それが『人種差別の撤廃』です。
◆そして米英(連合国)の戦争目的を記したのが「大西洋憲章」。
[太字]①「領土の拡大を求めず」
②「すべての国民は自らの手で政府の形態を選ぶ権利を有する」
③「主権及び自治を強奪されたものに、再びそれらが回復されることを希望」等と謳われていますが、現実には・・・、
▼ソ連は戦争で領土を拡大し、
▼イギリスは戦後インドの植民地を継続しようとしてチャンドラ・ボース率いたインド国民軍(INA)の幹部を軍事裁判にかけました。またマレーやシンガポールでも植民地を維持しようとして戦いました。さらにインドネシアに対してもオランダを支援して武力行使しています。
▼フランスはベトナム、ラオス、カンボジアに兵士を派遣し、植民地を維持しようとしました。
こうして見てみるといったい『大東亜共同宣言』と「大西洋憲章」と、どちらが先進的なものだったのでしょうか?
■この点に関後、GHQの下で働き労働基本法の策定に携わった、日本専門家ヘレン・ミアーズ女史は『アメリカの鏡・いう著書で、『00]歴史的に見てアジアの民衆を「奴隷にしていた」のは、日本ではなく私達が同盟を結ぶヨーロッパの民主主義諸国である』と明確に断じています[/色]。
■[/色]日本は現地住民に独立を約束した。それだけでなく独立を保障した具体的な行動ている』と書かれています。 [/太]
↓
[太字は、1935年にすでに満州での治外法権を放棄していたし、
②日本は、1940年には中国に正式に約束し、
③日本は、1943年には中国政府に租借地を返還している。
④大戦中日本は、実際に、占領したすべての地域に現地『独立』政府を承認していた [/色]
というように、彼女は米国の戦争目的に疑問を呈し[太字]、「私達が『解放戦争』と呼んでいたものは、実はヨーロッパによるアジアの再征服(恥ずかしい事にアメリカが手を貸した)だったのである」と述べています。
は日本の戦いに(大)に、日本人は大いに誇りを持つべきだと思います。
それを侵略戦争だと一方的に決めつけ、盲従的に謝罪する「村山談話」なるものは、祖先への冒涜であり、また現代を生きる私達や子孫への犯罪行為だと思います。
戦争に突入することになってしまった責任、さらに敗戦の責任るけれど、それは米英など連合国と相身互い、日本だけが裁かれる理由はないし、それどころか日本の戦いに、日本国民はもっと誇りを持つべきではないでうか? [/色]
2009/06/09 URL 編集
あんぽんたん2世
残念ながら、高邁な理想を掲げつつも自己の利益も計るものではないでしょうか。 日本の大東亜戦争の旗印を信じて死んで行った方々を侮辱するつもりはまったくありませんが、組織の下の人間の方が理想に燃えて頑張るものでしょう。上になれば保身・自己利益を考える余裕もできてきます。自分の人生を振り返ると、若い頃の理想はいつしか忘れ、自己の成功を考えるようになっていた自分を見つけ甚だ恥ずかしく思うことが度々ありました。純粋な高砂族などのほうが士官学校出のエリートよりも理想を信じて死んで行ったのではないかと。
日本軍人全員が真の理想に100%殉じたのでなく、一部の指導者は自身の栄達・国家エゴのために戦争をおこない、最期は300万人の日本人をしなせた責任があると。
但し、その日本の国家エゴの部分は敗戦と多くの犠牲者で償う事になりましたが、理想部分は見事、アジア諸国の欧州植民地からの短期の独立と言う形で大いに報われたと考えます。 国家エゴといっても、その当時は当然のもので、列強の覇道と比べれば到底比較にならない程度だとも思いますが、強敵を相手にするには、100%ちかく純粋な動機であり、義のための戦いであれば、もっとやりようがあったであろうかと。
もっと本気で理想のために戦えばよかったのでしょうが、上杉謙信とは違いますね。
2009/06/08 URL 編集
LAY
>八紘一宇、言葉の意味するところは、ねずきちさんの主張するような意味でしょうが、実際にはそうでなかったということでしょう。 選挙の公約みたいなもんですよ。<
私はそうは思いませんね。 志願兵にしろ赤紙召集兵にしろ、送りだす家族でさえ、自己を納得させる意味においても、実際の戦場にあっても、「八紘一宇」の精神が果たした役割は大きいと思います。
しかし戦況の不利が続くようになると、戦場でも、国内でも、現実問題として徐々にそのような理想を追求する余裕も無くなってきたものと考えています。
>戦地の、そして前線の将兵の士気は、それが負け戦であっても落ちなかった、だからこそ民間人に手を出さなかった。
これは八紘一宇うんぬんよりも理性というべきものでは? <
これについては、ねずきちさんの「戦場というのは狂気の場であって、理知的な場ではないです。だからこそ、情や信念、生きざまという生身の人間に沁み込んだ情念が、大事とされたのではないかと、ボクは思っています。 」 とのお考えに共感するところ大であります。
当時のアジアはまさに列強の悲惨な植民地なのですから、日本人なら日本をそうさせてはいけないと思うのは当然で、西欧・アメリカとの対立軸に、アジアの解放を掲げる日本があったのは歴史の必然かもしれない、とも考えております。
2009/06/08 URL 編集
スピードスター
http://news.livedoor.com/article/detail/4192231/
2009/06/08 URL 編集
mohariza
変な<国威向上>意識で無く、古代から培われ、日本(人)の芯になった<国民性になったもの>を見直すことが、今後、世界に幅広く、<日本(自身)>を広めることに通じると思います。
「世界の人類は皆、兄弟」と云う(「八紘一宇」にこめられた)考え(心)は、単なる<理想(理念)>だけで終わらせてはならない<人類普遍の心>とすべきと思います。
2009/06/08 URL 編集
スポンサー問合せ
6月8日のテレビ朝日「ワイド!スクランブル」で麻生内閣について偏向報道があったので、
『偏向報道にはスポンサー問合せ』にてスポンサー情報を更新いたしました。
テレ朝系昼1200~夕方1700
http://www23.atwiki.jp/inquiry_003/pages/33.html
スポンサー問合せにご協力ください。
2009/06/08 URL 編集
bb
子どもの頃、なつメロの番組を見ていて、昔の言葉は美しく慎ましやかだなと感じていました。今も美しい言葉は沢山ありますが、八紘一宇のように言霊を秘めた言葉がどれほどあるでしょう。それと比例するように人々の心も浅く、軽い物になっていったように思えてなりません。
2009/06/08 URL 編集
愛信
採決をにらんだ議論が活発化する。
採決順に苦慮、後ほど有利?=臓器移植法改正4案-衆院
異なる4案が審議中の臓器移植法改正案をめぐり、与党が衆院本会議での採決方法
に苦慮している。与党や民主党などは「個人の死生観にかかわる」として党議拘束を外
すため、「採決順序が投票行動に大きな影響を与えかねない」(自民国対幹部)ためだ。
衆院議院運営委員会は8日の理事会から具体的な調整に入る。
貴方はどの案に賛成ですか。アンケートはこちらをクリックして下さい。
現行法改正不要 19
A案 1
B案 0
C案 3
注)D案は命との交換、曰く付きの臓器を前にして倫理委員会の判定は抑止力を持たない、
曰く付きの臓器が排除される事は無い。
この事から、D案はA案の代替案になりえない。
命と交換、生命の尊厳に関する臓器移植法、法案提出者は改正案が必要な理由を
明確にして下さい。
この10年間に何人の患者が臓器移植をしたか、法改正で何人の順番待ちの患者が救
われるのか。
国籍法が改正されて、臓器販売を目的としてDNA鑑定を排除して偽装認知した子供の
臓器提供の防止策が十分であるか、特に麻薬密売闇市場よりも、更に深刻な臓器密
売闇市場に対する対策が十分であるか、臓器販売闇市場の開設を企む犯罪行為に加
担するために臓器移植法の改正を急ぐのであれば、この法案の成立を許してはならない。
【臓器移植法改正案関係の掲示板】
http://www.aixin.jp/axbbs/kzsj/kzsj11.cgi
【臓器移植法改正案タイトル一覧】はこちらをクリックして下さい。
2009/06/08 URL 編集
ねずきち
コメントありがとうございます。
もしかしたら、天皇家は、日本土着の民族に対する征服王朝だったのかもしれません。
しかし、韓半島に、日本独自の前方後円墳などが発見されているところをみると、まったく逆に日本で生まれた天皇家が、韓半島に進出していたのかもしれない。
このあたりの想像は実に楽しいです。
ただ、はっきりといえることは、天皇家が、その発生の当初から「民」を第一に考える王朝だったということ。
そして、史上に明らかなとおり、平安王朝を通じて、死刑を行わなかったこと。
ボクは、決して死刑反対論者ではなく、むしろ重罪犯は、積極的に死刑にすべしという論をとっています。
しかし、やや血なまぐささのあった雄略天皇以降、天皇王朝は、死や、怪我を非常に嫌った。そして民の間に絶対的な信頼を築いた、という史実、そしてご指摘の記紀に見られる年貢の免除や減免措置といった「仁」による政治というものが、日本人の心を形成するのに、非常におおきな意味を持ったという事実は、誰も否定できないのではないかと思っています。
>けんぶつさん
コメントありがとうございます。
≪八紘一宇は自らの思想を語っているが、前文はまわりは平和勢力であるという前提に立って自らを律するという趣ではないかな?まったく違うと思いますが・・・いかが?≫
ご質問ですので、僕なりにお答えします。
たしかに本文中において、「八紘一宇の精神は、日本国憲法前文と同じ」という一文は、やや説明不足です。
日本国憲法の前文・・・長いので中略しますと、こう書いてあります。
「日本国民は,われらとわれらの子孫のために,諸国民との協和による成果と,わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保する。これは人類普遍の原理であり,この憲法は,かかる原理に基くものである。」
「われらは,全世界の国民が,ひとしく平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」
「いづれの国家も,自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」
「日本国民は,国家の名誉にかけ,全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」
・日本国民は、諸国民との共和する。それは人類普遍の原理である。
・全世界の国民は、ひとしく平和のうちに生存する権利を有する。
・いづれの国家も,自国のことのみに専念して他国を無視してはならない。
・日本国民は,国家の名誉にかけ,全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成する。
いかがですか?
これって、八紘(世界)一宇(ひとつ)の精神と、おなじものだとおもうのですが?
>手取川さん
コメントありがとうございます。
(゜-゜;)ウーン
八紘一宇より理性、というご指摘。
なるほどそうかもしれません。
しかし、場所は戦場です。理知的なやり取りの場ではない。
実際、理性も誇りもあるはずの米軍将校が、死んだ日本兵の頭がい骨をコレクションしたり、金歯をコレクションしたりしたという報告は、兵士として参戦したチャールズリンドバーグの手記にもあります。
基本、戦場というのは狂気の場であって、理知的な場ではないです。
だからこそ、情や信念、生きざまという生身の人間に沁み込んだ情念が、大事とされたのではないかと、ボクは思っています。
そして、当時の日本人将兵の情念を形成した概念が、八紘一宇であったのではなだろうかと思うのです。
>北の熊さん
コメントありがとうございます。
戦後の日本人は、誇なき国民になったのではないか、というご指摘、激しく同感です。
ボクもそう思います。
そしてその象徴が、自虐史観であろうかとも思っています。
実は今日、パラオのペリュリュー島のことを書く予定でいたのですが、手の怪我の病院が長引き、書く時間がとれない><;;
また明日にでも書こうかと思っていますが、そこには、「皇軍としての誇り」が絵にかいたように鮮明に出てきます。
>VEさん
コメントありがとうございます。
≪八紘一宇は、「日本人の管理、支配の下で」世界の・・・というのが当時の 理解であった≫
というご指摘は、なるほどそのように理解している人もいたかもしれないとお答します。
というのは、当時の世界・・・すなわち列強の植民地争奪戦という争乱期において、教育を奪われ、行政機構や組織化を奪われた多くの東亜諸国においては、誰かが傘にならなければならないという側面があったと思うからです。
たとえば、ハワイ王朝。
ハワイでは、昔、「所有」という概念がなかったといいます。
すべては等しく国民みんなのものと考えられていた。
そこに白人たちがやってきて、略奪の限りを尽くし、当時30万人いたハワイの人口は、わずか5万人に減ってしまいます。
知識のある者は、アヘン付けにされ、抵抗する者は情け容赦なく殺された。
そうして、黄色い猿たちは、白人の奴隷とされていた。
これに対抗するためには、それなりの知識と組織、行政力を、現地において養わなければならなかった。
ただ、ボクが思うに、八紘一宇の精神というものは、そうした限定的な一地域の内政干渉に関する狭い意味のものではないと思うのです。
もっとその奥底に、人類は平等だ。肌の色で奴隷なんかにされるいわれはない。
そういう普遍的な真理を持った言葉であるように思います。
たしかに日本は、南方等の周辺国で、日本式の学校を作ったり、日本式の教育を施したり、社会的インフラの整備を行った。
それらは、内政干渉というより、彼らの独立のための手助けに他ならなかったのではないかと思います。
つまり当時の日本による東亜各国に対する内政への干渉は、八紘一宇の心を実現するための手段にほかならない。
目的はあくまで、「人種平等の実現=八紘一宇の実現」にあったとするならば、内政への取り組みは、それを実現するための手段にほかならない。
議論の上で、目的と手段を混同させてはならないのではないかと、思います。
2009/06/08 URL 編集
VE
「日本人の管理、支配の下で」世界の・・・というのが当時の
理解でしょう。
管理人さんの理解では、「博愛主義」との区別が付きませんし
今話題の「友愛」を批判することもできません。
自国にとって無害な他国には、干渉しないというのが良いと思うしだいです。
2009/06/08 URL 編集
北の熊
先の戦争は誤りであった。日本は悪いことをしたのだ。特攻隊は9.11テロの見本となった。などとよくそのようなことが言えるものだと常々思っておりました。
当時を簡単に否定、批判する輩によくネットで書き込みをしました。「天に向かって唾をはく行為である」と。
先祖を貶める行為は自らも貶める行為である、と。
ねずきちさんも同じ考えなのだと思いうれしく思いました。
確実に歴史はゆがめられています。
「公」を大切にしていた「日本人」の基本が敗戦することですり替えられてきたのだと思います。
父親母親がよく言っています。「子供が親に刃を向けたり、親が子を殺したりわたしたちの若い時代にはなかったことだ。
権利ばかり主張して義務を疎かにしている。戦後の教育が間違っているとしか思えない。日本人はもっとプライドがあったはずだ。」と。
前の投稿された方で「理性」という文言があったが、「皇軍」だった日本軍は「天皇」の名のもと戦っていたわけで、そのような略奪や陵辱は「天皇」を貶める行為であり「軍紀」にも厳しく記されていたはず(父親論)であると言っております。
「理性」ではなくやはり「皇軍」だったと思います。そこには「誇り」以外の何物もなかったのだと。
そのような「誇り」までも「敗戦」は捨てさせてしまったのだと思います。
日本は「誇り」を取り戻す必要があります。
2009/06/08 URL 編集
手取川
司令官の中には現地の実情に即した軍政をしていた人たちもいます、インドネシアの今村将軍のように。
教育や産業の振興はともかく、軍事教練の本音は日本軍の手先として使うため、その看板が独立という言葉ではなかったのか。なんて思うのです。代表的なのがイギリスのインド兵やグルカ兵などがそれでしょう。 参謀本部はそういう考えをしていたのではないのでしょうか? しかし日本は敗戦した。 これが結果的には良い方向へ作用した、つまり独立運動へと。 現在のアセアンの国々はまさしく当時の日本が提唱していた国の集まりそのものですから。
参謀本部の連中が無能であったことは、インパールやガダルカナルの作戦が証明しています。 彼らはジャングルを知らなかった、卓状の理論だけで作戦を進めようとして泥沼に足を入れて抜けなくなって多数の死者を出す事に。
アメリカの元将軍はプレスに問われて。(今度原隊に復帰したらどこの国の兵隊を指揮したいか? 日本兵に決まっている、彼らほど優秀で勇敢な兵隊など何処にもいない。)
提督のニミッツもぺリリュー島の戦いの後、(もし同じ条件であったら我々は絶対に勝てなかった)と。
戦地の、そして前線の将兵の士気は、それが負け戦であっても落ちなかった、だからこそ民間人に手を出さなかった。
これは八紘一宇うんぬんよりも理性というべきものでは?
2009/06/08 URL 編集
けんぶつ
2009/06/08 URL 編集
かぐやひめ
ちなみに、 日本書記をちょっと、開くと(私も全部は読めなかった)「今年はコメの出来が良くないから、年貢は免除」という記述が、しばしば出てきて、驚かされます。
なにも、仁徳天皇が、史上、一回きり2年間の税免除をされたわけでなく、以後歴代天皇さまは、民をつつむ大御心を発揮されたのです。
どうやら、前の大戦での日本の勝利は確定したようです。
勝って兜の緒ーの例え通り、今度は反対方向に、どっと走るのではなく、冷たい頭と、熱い心で、じわじわ世直しをやっていきましょう。
2009/06/08 URL 編集