看護婦の道を開いた17歳の覚悟の人生



拙著『子供たちに伝えたい美しき日本人たち』から、岩崎ユキの物語をご紹介したいと思います。

20220612 岩崎ユキ
画像出所=https://amzn.to/34TUUB3
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小名木善行です。

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『子供たちに伝えたい美しき日本人たち』は、いわゆる偉人伝として原稿の依頼を受けたものです。
けれど、完成までに5年を要しました。
だいたい原稿の依頼をいただくと、3ヶ月位で原稿をお渡ししています。
この本だけ、5年越しになったわけです。

なぜそれほどまでに苦戦したのかというと、偉人伝になにやら違和感があったからです。
日本の偉人伝といえば、代表的なものが内村鑑三の『代表的日本人』(岩波文庫)です。
この本は、世界的なベストセラーになった本です。
扱っている人物は、西郷隆盛・上杉鷹山・二宮尊徳・中江藤樹・日蓮の5人です。
そしてこの5人を深く掘り下げることで、「日本人とはなにか」に迫る本になっています。

けれど、違和感があるのです。
それは、「日本の偉人て、著名人だけなのだろうか?」という疑問です。
西洋は、そうです。西洋はいわば英雄譚の国であり、英雄が活躍し、その他の人々は、いわばモブキャラです。
モブキャラというのは、アニメなどにある、ただの通行人とかの、ただの背景キャラのことをいいます。
東洋史も同じです。
東洋史にも数多の英雄豪傑が登場しますが、それら豪傑にバッタバッタと切り倒される兵たちは、そこで倒されるためだけに存在するモブキャラです。

日本でも、信長や秀吉、家康を描こうとするとき、やはりその他の人々をモブキャラとして描く人がいます。
けれど、「違う!」って思うのです。

万葉集がそうです。
万葉集は、勅撰和歌集であり、その冒頭にある歌は天皇の御製です。
もちろん御皇族の歌もあれば、並み居る貴族たちの歌も掲載されています。
けれど、最も多く掲載されているのは、一般の庶民の、普通のおじちゃん、おばさん、兄さん、姉さんたちの歌です。

百人一首も同じです。
最初の一番歌は天皇です。二番も天皇です。
天皇、天皇と続けば、当然三番目には、皇后陛下とか、皇太子殿下、あるいは御皇族の歌が続きそうです。
けれど、三番歌は身分の低い柿本人麻呂、四番は下級官吏の山部赤人です。

これらが何を意味しているかというと、日本は、身分制社会ではないということです。
そして、あたりまえのことですが、ひとりひとりの人、すべてが、自分が主役として人生を生きています。
そういう一般の人々を、「おほみたから」として、たいせつにはぐくんできたのが、日本という国の国柄です。

そうであれば、偉人は、もちろん著名人も描かなければならないでしょうけれど、それ以上に、一般庶民が懸命に生きた証となる物語を描かなければ、日本の偉人伝にはならないのではないか。
そんな疑問が頭をもたげ、結果、出版までに5年の歳月を要することになりました。

本書では、30人の偉人を扱っていますが、その多くは、あまり名を知られていない人物です。
その中で、17歳の女の子の生き様を描いたのが、今回ご紹介する岩崎ユキの物語です。

 ***

 ノックの音がしました。
「失礼します」
「うん。どうかね。その後の広島の陸軍予備病院の様子は」石黒忠悳(いしぐろただのり)軍医総監が尋ねました。
「はい。現在、入院患者は五万人を越えました。しかし伝染病患者が多くて手を焼いております」
「そうか。君には苦労をかけるね」
「はい。それが実は、先日、看護婦の女性が、やはり伝染病に感染して死にまして」
「うん。聞いている。残念なことだったね」
「はい。その看護婦の持ち物を整理していたときに、実は手紙と申しますか、遺書が出てまいりまして。それがこちらでございます」
 石黒軍医総監は、その手紙を手にとって読み始めました。次第に手が震え、軍医総監がハンカチで涙を拭いました。

 日清戦争のとき、広島の宇品港には軍船がひっきりなしに往来していました。理由は、大陸がコレラや赤痢、疱瘡といった伝染病の温床だったからです。このため日清戦争の開戦とほぼ同時に、広島城の西側の広島衛戍病院も戦時編成の広島陸軍予備病院へと改編されました。
 戦争に医師や看護は付きものです。けれど戦いは男がするものですから、我が国では古来、戦場に出向くのは医師も看護師も、すべて男とされてきました(巴御前のような例外もありますが、あくまで一般的な国策としては、ということです)。
 ところが西洋では、たとえば米国では米国独立戦争(一七七五年)の際に、すでに女性看護婦が活躍していました。日本でも明治十年(一八七七)に博愛社が設立され、これが明治二十一年(一八八八)にジュネーブ条約加盟に伴って日本赤十字社と改称されて、女性看護婦の育成が行われはじめていました。しかし女性が戦場や軍病院に看護士として採用されることはなかったのです。

 日清戦争は、明治日本にとっての初の国をあげての国際戦でした。そこで日本赤十字社から「女性も看護役として軍で採用してもらいたい」という要請が出されました。しかし陸軍はこれを固辞しました。理由は二つありました。
 ひとつは予算の問題です。当時の日本はまだまだ貧しく、軍にも十分な予算がありません。軍病院に女性看護師が採用となると、男たちとは別に着替えの場所や寝所、あるいは風呂トイレに至るまで、すべて男性用と女性用を別々に作らなければなりません。それだけ余計にコストがかかります。けれどそれだけでは「国をあげての戦いに何を言われるのか!」と逆に突っこまれてしまいそうです。
 理由の二つ目は風紀の問題とされました。戦地において立派な戦功を立てた名誉の戦傷病者が、女性の看護を受けて万一風紀上の悪評でも立てられようものなら、せっかくの武功が台無しになるというものでした。
 このことは、実はたいへんに日本的な発想で、我が国は聖徳太子の十七条憲法の時代から、施政者たる者は、先に察して事前に手を打つということが奨励されてきました。事件や事故を未然に防ぐことが人の上に立つ者の役割とされてきたのです。この場合も、万にひとつも不名誉な事態が起これば、上位者も責任を問われるのみならず、戦(いくさ)に集中しなければならない軍の上官たちが余計なことにまで気を配らなければならなくなると考えられたのです。事件や事故は、起きてからでは遅いのです。
 このような理由から、軍病院への女性看護婦採用を固辞してきた陸軍でしたが、そうはいっても看護自体は仏頂面で患者の扱いが少々乱暴な男性より、笑顔でやさしく接してくれる女性のほうが兵士にとっても有り難い。そこで陸軍の石黒忠悳軍医総監が「風紀上の問題は私が全責任を負う」と明言することで、ようやく試みとして少数の女性看護婦を広島の軍病院で採用することになりました。ただし条件が付きました。女性は四十歳以上であること。そして樺山資紀海軍軍令部長婦人、仁礼景範海軍中将夫人らが看護婦たちと起居をともにして看護婦らの安全を図り、また夫人らも一緒に看護活動に当たることになりました。ここにはNHK大河ドラマで有名になった『八重の桜』の新島八重も赴(ふ)任しています。

 ところが現場での女性看護婦がたいへん評判が良い。加えて日清戦争が始まると、大陸での疫病感染によって、想定外に患者の数が激増しました。どれだけたいへんな事態であったかというと、日清戦争における我が軍の死者数が一万三三一一人です。このうちなんと一万一八九四人が疫病感染による病死でした。なんと戦死者の九割が疫病死だったのです。広島の軍病院には、こうした疫病感染者の兵士たち、とりわけ重篤患者が連日運びこまれました。感染病棟は患者で溢れかえり、看護の人手が足りなくなったのです。
 そこで篤志看護婦人会の若い女性が「看護婦助手」として広島陸軍予備病院に送られることになりました。そのなかに日本赤十字社の京都支部から派遣された、もうすぐ十七歳になる「岩崎ユキ」がいたのです。明治二十七年十一月七日のことでした。そして彼女は、伝染病棟付となって勤務中、チフスに感染して死亡してしまうのです。発症が明治二十八年四月八日、亡くなったのが同月二十五日のことでした。
 そして彼女の荷物の中から、遺書が見つかるのです。そこには次のように書かれていました。

 お父さま、お母さま、ユキはたいへんな名誉を得ました。家門の誉れとでも申しましょうか。天皇陛下にユキの命を喜んで捧げる時が来たのであります。数百名の応召試験のなかから、ユキはついに抜擢されて、戦地にまでも行けるかも知れないのであります。ユキは喜びの絶頂に達しております。死はもとより覚悟の上であります。
 私の勤務は救護上で一番恐れられる伝染病患者の看護に従事すると云う最も大役を命ぜられたのであります。もちろん予防事項については充分の教えは受けております。しかし強烈あくなき黴菌(ばいきん)を取り扱うのでありますから、ユキは不幸にしていつ感染しないとも限りません。
 しかしお父さまお母さま、考えても御覧下さい。思えば思う程この任務を命ぜられたのは名誉の至りかと存じます。それはあたかも戦士が不抜と云われる要塞の苦戦地に闘うのと同じであるからであります。戦いは既にたけなわであります。恐ろしい病魔に犯されて今明日も知れぬと云う兵隊さんたちが続々病院に運ばれて来ます。そして一刻も早く癒して再び戦地へ出してくれろと譫言(うわごと)にまで怒鳴っております。この声を眼のあたりに聞いては伝染病の恐ろしいことなぞはたちまち消し飛んでしまいます。早く全快させてあげたい気持ちで一杯です。感激と申しましょうか、ユキは泣けて来て仕方がありません。
 今日で私の病室からは十五人もの兵士たちが死んで行きました。身も魂も陛下に捧げて永遠の安らかな眠りであります。また、なかには絶叫する兵士たちもありました。「死は残念だぞ!だが死んでも護国の鬼となって外敵を打たずに済ますものか」と苦痛を忘れて死んでいったのです。あるいは突然「天皇陛下万歳!」と叫ぶので慌てて患者に近寄りますと、そのまま息が絶えていた兵士たちもありました。しかも誰一人として故郷の親や兄弟や妻子のことを叫んで逝った者はありません。恐らく腹の中では飛び立つほどに故郷の空が懐かしかったでありましょう。ただそれを口にしなかっただけと思われます。故郷の人たちは、彼の凱旋を、どんなにか指折り数えて待っていたことでありましょう。
 悲しみと感激のなかに、私はただ夢中で激務に耐えております。数時間の休養は厳しいまでに命ぜられるのでありますが、ユキの頭脳にはこうした悲壮な光景が深く深く焼きついていて、寝ては夢、醒めては幻に見て、片時たりとも心の落ちつく暇(いとま)がありません。
 昨日人の嘆きは今日の我が身に振りかかる世のならいとか申しまして、我が身たりとも、いついかなる針のような油断からでも病魔に斃されてしまうかも解(わか)らないのであります。しかしユキは厳格なお父さまの教育を受けた娘であります。決して死の刹那に直面しても見苦しい光景などは残さない覚悟でおります。多くの兵士たちの示してくれた勇ましい教訓通りにやってのける決心であります。決してお嘆きになってはいけませぬ。男子が御国のために名誉の戦死をしたと同様であると呉れ呉れも思し召して下さい。

 岩崎ユキは、明治十年十二月二十三日生まれで、明治二十七年十月十日に、日本赤十字社京都支部に採用になりました。看護婦として軍に召集されたのが同年十一月四日です。はじめ救護団に編入されましたが、十一月七日には感染病棟である広島陸軍予備病院第三分院付きとなっています。
 彼女に腸チフスの発症が確認されたのは、勤務開始からわずか五カ月後の明治二十八年四月八日のことでした。そして十七日後の四月二十五日に亡くなりました。昭和四年四月十三日、靖國神社合祀。
 岩崎ユキの遺書は石黒軍医総監の元に渡り、その後、昭憲皇后陛下のお涙を催させ給うことになりました。女性であっても、ここまでの覚悟をして病院に赴いている。岩崎ユキのこの手紙がきっかけとなり、看護婦の崇高な職務が国民の間に浸透していきました。そして陸軍が正式に女性看護師を採用したのは、この二十五年後の大正八年、そして陸軍の養成看護婦は、先の大戦中の昭和十九年のことです。

 日清戦争当時、広島予備病院のほか各地の予備病院にも日本赤十字社救護看護婦が配置されました。また、赤十字社の病院船である博愛丸、弘済丸はもちろん、他の臨時の病院船にも、また海軍病院にも看護婦が配属されました。そしてこれら女性看護師の登用が、いずれも良い結果を収め、風紀上に一点の悪評も起こらず首尾よく日清戦争は終わりを告げました。
そしてこれまでまったく軍の医療施設に女性看護婦が配置されなかったものが、極めて短期間にその数を増やし、日本赤十字社救護看護婦たちは、その後、日露戦争、第一次世界大戦、支那事変、大東亜戦争にそれぞれ出征して戦傷病者の看護に大きな貢献をするに至るのです。そしてその背景には、若干十七歳だった岩崎ユキの覚悟と死があったのです。

 日本は、男だけでなく、女も勇敢に戦い、そうすることで我が国は列強の植民地とならずに、独立自尊を保ち続けたのです。私たちはそんな曽祖父母、祖父母、父母たちのおかげで、世界に五百年続いた植民地支配という収奪を終わらせ、今の命を、そして社会をいただいています。


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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
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昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

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