苦しいときこそ、めげずくじけず、明るく清く、せいいっぱい働き、未来を信じて生きる、それが日本人です。
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山岡鉄舟の筆による木村屋の看板
山岡鉄舟は木村親子の成長が嬉しくこの看板を書いた。

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画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
!!最新刊!! この記事は『偕行』2012年6月号に掲載された拙稿です。
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「あんぱん」は、菓子パンの定番である。
この「あんぱん」、実は正真正銘日本生まれの日本育ち。
パンもあんも日本流なら、帝国陸軍とは深い因縁で結ばれている。
西洋式パンは、ビールと同じホップを用いたパン酵母を使って作られるが、あんぱんは、日本酒酵母の麹を使って作られている。
これはパン作りに和菓子の饅頭の皮の製法を取りいれたものである。
そのためパン自体がアンコの味によく合い、おいしくなる。
「あんぱん」が日本で最初に発売されたのは、明治七年のことである。
発明したのは、木村安兵衛(きむらやすべえ)という茨城県牛久生まれの武士である。
藩が幕府側だったことから明治維新後、すぐに藩が解体され、家は碌を失ってしまう。
このときす安兵衛はすでに五十五歳であった。
当時としては結婚の遅かった安兵衛は、この時点でまだ子供も幼い。
生活に困った安兵衛は、本家筋を頼って江戸に出た。
そしてようやく決まった職業が「東京府職業授産所」の職員であった。
名称は「授産所」だが、女性が子を産むお産ではなく、当時巷にあふれていた失業した元武士たちに職を世話したり、手に職をつけさせるための職業訓練をしたりするところである。
安兵衛はそこで事務職を勤め、ここでたまたま、長崎でオランダ人宅のコックを務めたという梅吉という人物と出会う。
そして「パン」というものの存在を知る。
これからの日本は文明開化の時代になると考えた安兵衛は、明治二年、妻のわずかな蓄えを元手にして、いまの新橋駅あたりにパン屋「文英堂」を開いた。
当時の新橋は人通りの多い一大繁華街である。
文英堂の「文」は、妻の名前の「ぶん」、「英」は、息子の名前の「英三郎」からとった。
場所もいい、店の名前もいい、商品も画期的である。
これで成功間違いなしと思ったのもつかの間、開店間もない「文英堂」は、この年の大火で、全焼してしまう。
あっというまに安兵衛一家は全てを失い、無一文となる。
それでもなお、子や妻のために生きなければと奮起した。
息子の英三郎も、パンの作り方を覚え、なんとかしてパン屋を再開したいという。
安兵衛は落ち込む心を振り切り、ようやく銀座の煉瓦街の裏通りに小さな店を借りた。
明治三年当時の煉瓦街は、一種の倉庫街であり、人通りもまばらである。
商品を作って店頭に並べておけば売れるという立地ではない。
朝早く起きて店でパンを焼き、昼間はそれを親子三人で担いで行商に歩いた。
疲れきった体で帰宅すると、夜な夜な美味しいパンを作ろうと開発に努力した。
安兵衛は、最初はとにかくふっくらして柔らかなパンを作ろうとし、ようやくできあがったそのパンを食べた客は、誰もが美味しいと喜んだという。
しかし当時の日本には、まだパンを食事として食べるという習慣がない。
明治七年、安兵衛は、パンの製法そのものを、ホップではなく、米麹を使った和風テイストのパンにすることを思い立つ。
そして、そのパンの中に小豆あんを入れたパンを開発した。
それは、これまで味わったことのない新しい食感で、安兵衛はこのパンに「あんぱん」と名前をつけた。
ある日、評判を聞きつけた山岡鉄舟がこの店にやってきた。
鉄舟は安兵衛の和風パン「あんぱん」にいたく感動する。
そして鉄舟は、明治天皇が水戸家へ行幸される折に、陛下にこの和洋折衷の米麹あんぱんを献上した。
明治天皇は「あんぱん」がとてもお気に召し、皇后陛下は特に愛され、「あんぱん」は引続き上納の栄を賜ることになった。
なんと安兵衛の木村屋は、なんと宮中御用商に加わったのである。
明治十年、西南戦争が起こると、明治新政府は、このあんぱんを陸軍の軍用食として採用した。
陸軍は木村屋から大量のパンを仕入れたのである。
軍を通じ、米麹を使ったあんぱんは、またたく間に全国に普及する。
そして日本人の常識商品とまでなった。
安兵衛の店も多いに繁盛した。
それが今に続く銀座木村屋総本店である。
木村屋総本店はいまも老舗として立派に営業している。
けれど、その背景には、明治維新でなにもかも失い、それでもがんばりぬいた安兵衛の姿がある。
彼は苦労に苦労を重ねても、明るさや家族への愛を忘れず、けっしてくじけたり、いじけたりしなかった。
安兵衛が、そういう心がけの男だから、鉄舟が見出した。
明治大帝が見出された。
そして陸軍が加給食として採用した。
木村屋に未来が拓けた。
あんぱんを食べながら、苦しいときこそ、めげずくじけず、明るく清く、せいいっぱい働き、未来を信じて生きる、それが日本人なのだと強く思う次第である。
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