十七条憲法は一般に「和をもって貴しとなせ」と、仲良くすることを範とする内容の憲法と誤解されていますが、この十七条憲法が主導しているのは、和ではなく、ちゃんとした議論をして問題を解決しようということです。
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
!!最新刊!! 推古天皇の時代、つまりそれは聖徳太子が政務を司る時代であったわけですが、極めて大きな問題が噴出しています。
それは、一般によく言われるのは、チャイナに隋の大帝国が出来たことですが、実はもっと身近な問題があったのです。
それが新羅問題です。
推古天皇7年(599年)に、日本に大地震が起きるのです。
このとき百済は日本の朝廷にお見舞いを献上しているのですが、新羅は、日本国内が地震の復興で大変なこの時期に、日本の直轄領であった任那に攻め込むのです。
朝廷はすぐに1万の兵を起こして新羅に攻め込むのですが、すると新羅の王は恐れかしこまり、すぐに降参して朝廷への服従を誓うのです。
さらに朝廷に使者を派遣して、朝貢を行うだけでなく、
「天に神があり、地に天皇がおわします。
この二神を除いて、
どこに恐れかしこまるものがあるのでしょうか。
以後、一切の戦闘行為は行いません。
また船の舵を乾かさないで、
毎年必ず朝貢を行います」
と上奏文を提出するのです。
そこまで言うのならと、朝廷は半島に派遣していた軍を撤収するのですが、するとすぐに新羅はふたたび任那に侵攻したのみならず、日本に間者(スパイ)を送り込むのです。
こうした状況から602年には、来目皇子(くめのみこ)を将軍にし、2万5千の兵を立てて新羅征伐を図ろうとするのですが、残念なことに突然、来目皇子が病にたおれてしまいます。
来目皇子は、そのまま翌603年にはお亡くなりになってしまいます。
やむなくこの年、来目皇子の兄の当麻皇子(たぎまのみこ)を征新羅軍の将軍にするのですが、同行した妻の舎人姫王(とねりのひめおほきみ)が、旅の途中の明石で急死してしまい、このため新羅征伐はできずに終わります。
この二つの死には、二つの理由が考えられました。
ひとつは新羅の工作による変死です。
そしてもうひとつは、神々が新羅征伐を望んでいないという考え方です。
新羅は、もともと神功皇后の時代に日本への服属を誓った国です。
とはいえ、その後もスキを見ては、何かと周辺国に難癖をつけて、他国の財を奪おうとしました。
そのくせ堂々と兵を差し向ければ、戦わずにすぐに降参するし、あるいはあらゆる裏工作を行って事態を混乱させます。
では、こうした混乱を起こさせないためには、どのようにすれば良いか。
ここが思案のしどころです。
そしてこの中から出てきた答えが、実は、冠位十二階と十七条憲法でした。
日本は、ワガママで身勝手な他所の国を責めるのではなく、まずは自分たちが率先して秩序のある良い国になっていこうとしたのです。
古来変わらぬ日本人の姿勢です。
603年12月こうして冠位十二階が制定されました。
服属している他国(つまり新羅)を責めるのではなく、まずは日本自体が率先して上下の秩序を明確に示そうとしたのです。
翌604年元旦に出されたのが十七条憲法です。
秩序は上下関係ですが、それだけでは日本の国柄に反します。
ですから上下一体となって、相互に議論を交わすことを「憲法」として発布したのです。
十七条憲法は一般に「和をもって貴しとなせ」と、仲良くすることを範とする内容の憲法と誤解されていますが、この十七条憲法が主導しているのは、和ではなく、ちゃんとした議論をして問題を解決しようということです。
この議論のことを、古い言葉で「論(あげつらふ)」と言います。
現代用語で「あげつらう」といえば、悪意ある批判のこととされてしまっていますが、もともとの「あげつらふ」はそうではありません。
「あげ」は、「ことあげせず」の言葉にもあるように、相手を「上げる」ことを意味します。
相手の言葉をちゃんと聞き、その相手の言葉に、自分の言葉を重ねることで、議論を昇華させていくことが「あげ」です。
「つらふ」の「つら」は「面」、つまり互いの顔です。
ですから「あげつらふ」は、互いに顔を合わせて、相手の意見を聞き、その意見に自分の意見を重ねていくによって、よりよい議論にたかめていくことです。
第一条には次のように書いてあります。
「和をもって貴しとし、人を恨んだり人格攻撃をしてはいけない。
問題があれば互いに議論を交わしなさい」
最後の17条では
「物事はひとりで勝手に決めてはいけない。
必ずみんなと議論しなさい。
特に重要なことは、
必ずどこかに間違いがあると疑って、
しっかりとみんなで議論をしなさい」
と書かれています。
軽々に軍事侵攻をするのではなく、どこまでも話し合いで解決する国柄であることを、まずは率先して日本が示すことによって、新羅もまた、軽々に侵略に走るのではなく、話し合いで物事を解決することを期待したのです。
ところがその後にどうなったかというと、新羅はまるで現代におけるどこかの政党の誰それみたいに、何も問題がないところで、声を大にして意味不明の大騒ぎをして自己の利益ばかりを図ろうとする。
それがまるで、みんなが静かに寝たい寝室で、布団を叩いて大騒ぎするような国だということで、新羅に付いたあだ名が「栲衾(たくぶすま)」であったわけです。
これが7世紀のはじめの出来事です。
あれから1400年以上経過しましたが、あの国も、あの国から戦後に日本にやってきた人たちも、まるで変わっていないようです。
※この記事は2020年6月の記事の再掲です。
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コメント
ねずさんファン
いつもながら、ことばを分解して分析して解説して頂く、その分かりやすさには、感動します。
2022/06/30 URL 編集