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次回の倭塾開催は7月17日(日)13時半から。場所は富岡八幡宮・婚儀殿2Fです。
テーマは「我が国のアイデンティティと日本の政治」です。 ───────────────
日本は大きく変わろうとする時代を迎えています。 けれどその変化は、ユートピアのような幻想によって得られるものではありません。 いま、このときに、日本にとって、日本人にとって必要なことに全力を注ぐ。 その積み重ねの上だけにこそ、良い未来が築かれるということを、わたしたちはいまいちど、再認識していくべきです。
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家康の正妻、築山御前(瀬名姫)

画像出所=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%89%E5%B1%B1%E6%AE%BF
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
!!最新刊!! いまや世界の大金持ちになったビル・ゲイツの総資産は、なんと8兆円なのだそうです。たいしたものです。
けれど日本には、その100倍の資産を持つ大金持ちがいたことをご存知でしょうか。
それが徳川家康で、総資産は800兆円だったといわれています。
ただ、家康が偉かったのは、その莫大な資産を「自分のもの」とは考えていなかったことです。
あくまでも「世のため人のため」。
それが家康の、今風にいうならポリシーであったし、人生哲学でもありました。
家康は、古来、様々な小説の題材となり、名作も数多くありますが、ただ、イメージ的にそれらの多くが、
1 家康が、ひたすら将軍職、つまり権力を夢見たヒヒ爺いであった
2 家康はまともな人だったが、周囲(たとえば秀頼など)が能無しだった
3 家康は稀代の英雄だった
などいった切り口で語っているものが多いように思います。
おもしろさを優先する小説であれば、それも良いですし、目的は読者が楽しめれば良いのだし、私自身も、家康関連の小説はいろいろ読ませていただき楽しませていただいています。
ただ現実には、家康は、いわば超のつくリアリストであって、理想を掲げるのでもなく、欲をいだくのでもなく、未来に夢をみるのでもなく、ひたすら、部下たちのため、国のため、天下のために、その瞬間瞬間の最善を尽くそうと努力をし続けた人物です。
そしてその積み重ねが、振り返ってみれば天下人という、ものすごい事績となったのです。
つい半世紀前の学生運動華やかりしころは、共産主義が目指す未来のユートピアが理想とされ、そこに向かうことが進歩的とされました。
昨今では、それがSDGsなどと名前が代わったりしていますが、いつの時代にあっても、どんな未来予想図を描いても、それらは歴史上、すべて虚像に終わっています。
むしろそうした理想の未来は、多くの場合、ただの「人を騙し」でしかない。
早い話、会社における経営計画なるものにしても、会社のエリートさんたちが莫大なコストをかけて計画をつくるけれど、そのとおりになった試しは、おそらく世界中、どこの企業にもありません。
そもそも、567の発生ひとつで、世界中の企業が、経営計画をまるごと頓挫させています。
環境は常に変化します。
家康は、そうした変化のなかにあって、おかしな未来図など描かずに、とにもかくにも、家臣たちにとって、家臣の家族たちにとって、国にとって、天下にとって、その瞬間瞬間に最善を尽くし続けた人です。
そうすることによって、家康は、気がつけば、ビル・ゲイツの100倍の、いまのお金に換算して800兆円の資産を持つ破格の大物となりました。
これは理想を否定しているのではありません。
誰にだって、夢もあれば希望もある。
けれど、夢ばかり見て現実を見失えば、そこに残るのは悲惨です。
共産主義のユートピアという夢物語のために、どれだけ多くの人命が失われたか。
結果からいえば、共産主義のユートピア思想は、単に大量虐殺を正当化するための言い訳でしかなかったとさえいえます。
上古の頃の日本は、扶桑の国とか、蓬莱山などと呼ばれ、そこはまさに理想の国とされました。
だから日本には、日本から唐の国に行く人の数の何倍もの人がやってきて帰化人となりました。
けれど、住んでみれば、そこには天然の災害もあるし、人間関係は濃密でやっかいで、しがらみだらけだったりもするわけです。
♫天国良いとこ、一度はおいで
酒は旨いし、ねえちゃんは綺麗だ
なんていう歌が昔ありましたが、なるほど天国は平和で豊かでねえちゃんも綺麗かもしれないけれど、だからといって複数の女性と付き合ったりすれば、ドロドロの地獄絵図です。
それなら、乱世の中に咲く一輪の花のような恋のほうが、はるかに熱く燃えるような情熱を得ることができるかもしれない。
そういえば、家康が若い頃、最初に初婚で結婚した相手が、今川家ゆかりの瀬名姫でした。
後の名前を築山御前といいます。
築山御前は、家柄もよく、聡明で、しかもたいへんな美人で、家康への愛も人一倍のものがありました。
けれど家康が武田信玄と敵対関係となる中、築山御前は夫を愛するあまり、なんとかして夫の命を助けようと、武田方に通じるのです。
結果、家康は、愛する妻を斬首にしました。
そうする他なかったからです。
その斬首の場所は、いまも御前谷として名を遺します。
けれど家康は、晩年になっても、
「あのとき築山殿を、
女なのだから尼にして逃してやればよかった。
命まで奪うことはなかった」
と、ずっと悔やんでいたと伝えられています。
実際、家康は、その後、正妻を迎えていません。
迎えたのは側室ばかりです。
しかも、身分の高い女性や、いわゆる美人は、決して側女にはしませんでした。
家康に仕える女性は多く、なかにはとびきりの美女もたくさんいました。
聡明な女性もたくさんいました。
身分の申し分のない女性もありました。
けれど家康は、
「美女を側女にすれば瀬名(築山殿の名前)が悲しむ」
と、生涯、死んだ築山御前がヤキモチしない程度の女性関係に終始しています。
家康は源氏の棟梁です。
そしてこの時代は、なにより家が第一とされた時代です。
俸禄も恩賞も、働いた個人に支払われるのではなく、その人の所属する家に支払われた、そういう時代です。
ですから何より、家を安泰化させるためには、どうしても子が必要でした。
まして家康は、当代一の天下人です。
家康のもとには、全国から「是非子をなしてご親戚に」と、古式にのっとってたくさんの女性が集いました。
けれど家康は、自分では決して、そうした女性たちに手を出すことをせず、農家の小太りの、周囲から見たら、あまり魅力を感じさせないような女性との間に子をもうけています。
どうしてだったのか。
魅力的な女性と関係したら、瀬名が悲しむからです。
それだけ家康は、愛情深い人柄だったし、だからこそ、そういう家康のために、家臣たちは自分にできる最大を尽くして行こうと決意したし、天海僧正のような立派な人物も、家康に寄り添ってくれたのです。
政治は、ときに人間性を否定するような決断に迫られることがあります。
けれど、だからこそ非情な世にあってなお、人として正しく生きよう。
それが家康が生涯自分に課した思いです。
このことは、裏を返せば、それだけ家康が妻を愛していた、ということですし、築山御前は、そんな夫に愛されていたからこそ、武田の猛攻の前に、夫の命を救いたいと願ったのです。
築山御前の斬首は、妻と夫の、互いの深い愛が生んだ悲劇だったといえるではないかと思います。
残念なことに、いまも家康を描く作品の多くは、そんな築山御前を毒婦としてしか描きません。
これはあまりに人間を軽く見ているというか、人間を知らなさすぎるように思います。
じゃあお前は人間を知っているのかと言われれば、自分だってまだまだです。
ただ、人の愛は、片方を毒婦として描けば済むような軽いものではないということだけは、わかります。
家康は、愛情深く、そして常にいまできる最善を尽くすことだけに全力を注いだ人物といえます。
そしてそのことが、800兆円という途方も無い財を築かせることになりました。
いま日本は大きく変わろうとする時代を迎えています。
けれどその変化は、ユートピアのような幻想によって得られるものではありません。
いま、このときに、日本にとって、日本人にとって必要なことに全力を注ぐ。
その積み重ねの上だけにこそ、良い未来が築かれるということを、わたしたちはいまいちど、再認識していくべきではないでしょうか。
※以上のお話は、本年12月刊行予定の筆者の新刊本の原稿企画からの抜粋です。
日本をかっこよく!お読みいただき、ありがとうございました。
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コメント
海道一の弓取り
もともと今川家と武田家は甲相駿三国同盟で味方同士でした。信玄の長男・太郎義信が甲府・東光寺に幽閉・廃嫡され、永禄10年に亡くなる(病死とも自害ともいわれる)と、義信正室の嶺松院(義元長女)は駿河に送り還され、両国の同盟関係は破たんします。この頃の信玄は織田への接近を模索しており、織田を後ろ盾とする松平(徳川)と今川が遠江(瀬名姫の故郷)を取り合っている状況で今川との関係を見直す方向を打ち出し、義信ら親今川派と対立したのかもしれません。
ということで武田家中には親今川派が居たわけです。三国同盟は信玄・氏康・義元が若いときからあったものでそれなりに長く続いていたので、甲駿の国境に近い領主たちは両属に近い者が多くいました。義信派粛清後も逼塞はしていましたが根絶やしになったわけではなく、氏真が織田と手打ちをしてからは親織田・徳川派となった一派が武田家中にあって、それが築山殿や信康(家康長男、駿府生まれ)が繋がっていたとしても不思議はないと思われます。
築山殿や信康だけではなく家康、あるいは信長も了承済みの事実だったかもしれません。が、それが信康室・五徳姫経由で露見。そうなると武田側のカウンターパートは誰か、武田家中で織田・徳川に通じているのは誰かという話になります。時代は長篠・設楽原の戦いの後、すでに武田と織田・徳川の関係は不倶戴天の間柄。問題を放置すれば、武田家中で親織田・徳川派が義信派同様に粛清の憂き目に遭うかもしれない状況でした。武田(というか勝頼)を打倒するには親織田・徳川派を見捨てることはできない。実際、天正10年の武田攻めでは戦いらしい戦いは高遠城ぐらいで、武田方は寝返り・逃亡・無血開城が相次いでいますし、本能寺の変を挟んで同年夏から秋にには家康が旧武田家臣たちをそっくり傘下に収めています。穴山梅雪(この人も駿府育ち)の武田離反も「裏切り」というより、もともと親今川→親徳川(反勝頼)だったと考えた方が腑に落ちます。
築山殿や信康もそうした駿府人脈の中にあった、家康もそれを承知していた――からこその「命まで奪うことはなかった」なのではないかと考えます。
2022/07/06 URL 編集