究極の民主主義「シラス」



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次回の倭塾開催は7月17日(日)13時半から。場所は富岡八幡宮・婚儀殿2Fです。
テーマは「我が国のアイデンティティと日本の政治」です。

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古代ローマでは、市民というのは、国を護る意志を持ち、国を護る義務を果たせる者のことを言いました。いまでも世界では、ありもしないデタラメで世間をたばかり政府の転覆を図ろうとする者は、カルト、テロとして、家族も含めて逮捕投獄死刑があたりまえです。
ところが日本では、そうしたありもしないデタラメで世間をたばかり政府の転覆を図ろうとする者が、堂々と国政に立候補し、政治家となり、あるいはメディアを押さえて世間を混乱させています。
けれど、これは「結果」です。それ以前に有権者の意識が変わらなければならない。そのためにも、「しらす」という言葉を復活させていかなければなりません。

天皇皇后両陛下
20200716 天皇
画像出所=https://dot.asahi.com/aera/2019102300016.html
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小名木善行です。

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古事記に「国譲り神話」があります。
出雲にあった大国主神が高天原の求めに応じて国を譲り渡したお話です。
大国主は国の譲渡の条件として「私の住処(すみか)として、大地の底まで宮柱が届き、高天原まで千木が高くそびえ立つほどの、大きく立派な神殿を建ててください。そうすれば私はそこに隠れましょう」と述べました。
そうしてご創建されたのが出雲大社(いずもおおやしろ)です。

この「国譲り神話」は、わたしたちの国が、戦(いくさ)よりも話し合いで解決する精神や、敗れた側を皆殺しにしたりするのではなく、その名誉を讃え尊重するという日本的心の教えとして紹介されることが多いのですが、もうひとつ、実はとても大切な教えが書かれています。
それが「シラス」と「ウシハク」です。
この「シラス」と「ウシハク」について、古事記の大国主神話から学んでみたいと思います。

 *

大国主神は、若い頃は大穴牟遲(オオナムチ)という名でした。
この頃のエピソードが有名な因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)です。
大穴牟遅は、ウサギを助けることで、やさしい性格であること、古代の医療知識を持つ頭の良い青年であることが明かされます。
そしてこの助けたことがご縁となって大穴牟遅は八上比売(やがみひめ)と結ばれています。
つまり見た目も良い若者であったわけです。

ところが大穴牟遅が八上比売と結ばれたことで、彼は兄の八十神たちから激しい嫉妬を受けます。
古来、男の嫉妬は女性の嫉妬の何百倍も怖いといいます。
案の定、大穴牟遅は、何度も命まで奪われるような仕打ちを受けます。
多勢に無勢どころか、大勢の兄たちに対して、大穴牟遅はたったひとりです。
一方的にイジメられるのです。

心配した母や大屋毘古神(おほやびこのかみ)の勧めに従って大穴牟遅は、根の堅州国(ねのかたすくに)の須佐之男命(すさのおのみこと)を尋ね、そこで厳しく鍛え上げられます。
そして須佐之男命の太刀や弓をいただいた大穴牟遅神はイジメていた八十神たちを全部やっつけて、八千矛神(やちほこのかみ)となり、大いなる国の主となったというのが、大国主神話です。

大国主神の治世によって、中つ国はおおいに発展し、国力を充実させて遠く韓国(からくに)までも平定したということが古事記に書かれています。
彼の国は国の領域も経済もおおいに発展して大いなる国となったのです。
ところがこの大国主神の国には、二つの大きな問題がありました。
ひとつは、大国主神が大王としての権威と権力の両方を併せ持つ存在であったこと、もうひとつは、国際交流によって都市部の経済がたいへんに発展した国であったことです。

書かれたものというのは、必ず書いた目的があるものです。

王が権威と権力の両方を併せ持つという社会体制は、世界中どこにでもあったことで、いまでも世界中の国家は、たとえ民主的な選挙で選ばれたとしても、大統領、総理、総書記、いかなる名称であれ、その職務に就いた瞬間から、民衆に対する権力者であり、その権力は多くの場合、法の権威によって支えられています。
それだけを見ていたら、その何が問題なのかが見えてきません。

ではその何が問題かというと、例えば王の場合ですと、王は国家における最高権力者であり、同時に国家の最高権威者です。
ということは王の下にある者は、王の意のまま、もっと単純化して言うならば、王の所有物と同じです。
つまり王からみれば、国のすべては自分のものなのですから、その自分のものをどのように処分しようが、王の勝手ということになります。
つまり民衆は権力者のもとに私的に私有されてしまうことになるわけです。

国際交流によって経済がたいへんに発展して国が豊かになること自体はとても良いことです。
けれどその利益は、特定の人にしか配分されないとしたらどうでしょう。
人は食べなければ生きていけませんが、その食べ物を作っている一般の民衆は、国の経済の発展とは別に、経済的にはおいてけぼりを食うことになります。
つまり都市部に住む人達は豊かになりますが、その都市部の人達に食べ物を供給する農家は、貧しいままに据え置かれてしまうのです。

さらに人々の欲望があおられ、利益至上主義のような状況が生まれると、その都市部においてもまた、貧富の差が増大します。
富を得たものは、ますます大きな富を求めるようになるからです。
これは、単に富を手にしたものの資質という以上に、富者のもとには、ますます富むことができるような大仕掛なプロジェクトが常に舞い込むからです。

こうして富が富者に寡占されるようになります。
貧富の差は都市部においても極端に広がり、多くの下層の者たちは、仕事をいくつもこなさなければ飯が食えない状況となります。
その一方で、富める者にはありとあらゆる権益を持てるようになるのです。
すると、彼らはその権益を最大限利用してますます富み、そうでない者には隷属化が生まれます。
こうして人口の1%の富者と、99%の隷民が生まれます。

これではいけないと、高天原の天照大御神が、「中つ国」つまり地上の国でも高天原と同じ統治をさせなさいと、建御雷神(たけみかづちのかみ)を大国主神のもとに遣(つか)わします。
このとき建御雷神は、波の上に太刀を逆さまに立て、その切っ先の上に大あぐらをかいて、大国主神に次のように言って、国譲りを迫ります。そのときの言葉が次の言葉です。

 天照大御神高木神之命以問使之
(天照大御神、高木神の命以ちて問い使わせり)
 汝之宇志波祁流葦原中国者
(汝がウシハケル葦原中つ国は)
 我御子之所知国言依賜
(我(あ)が御子のシラス国ぞと言依(ことよ)せたまいき)
 故汝心奈何
(ゆえに汝の心や如何に)

ここに「ウシハク」と「シラス」という明確な言葉の対比が見て取れます。
「ウシハク」というのは、本居宣長によれば「ウシ」が主人のことで、「ハク」は、武士が刀を腰に佩(は)く、つまり自分のものにするという意味の言葉です。
要するに領主もしくは政治権力者が、私的に領土領民を支配し私物化するという体制のことを指します。

たとえば西洋の貴族にとっては、妻は私物です。
けれどその貴族は王様の私物ですから、どんなに美しい妻であっても、王様が「よこせ」と言ったら、献上しなければなりません。
これを美しく描けばシンデレラの物語になります。
しかし多くの場合、当事者たちにとって、それは悲しく辛いことであったであろうことは想像に難くありません。

王による絶対的支配は、その下の貴族層にとっても、民間においても、社会構造としては同じ支配と被支配の関係をもたらします。
そしてその最下層に置かれて人権さえも否定された存在が隷民です。

実はこのことは、近現代においても構造的には同じです。
近代以降は王権神授説などが否定され、民間の選挙によって民衆のリーダーが選ばれるようになりましたが、選ばれた瞬間からそのリーダーは任期中は、ウシハク支配者として、民衆を支配するからです。

高天原は、それが「いけない」というのです。
そして「高天原と同じ統治をしなさい」というのです。
それが「シラス国(知国)」です。

考えるまでもないことですが、高天原は八百万の神々の国です。
簡単にいえば、高天原のすべての住民は神様です。
そこに支配や収奪の関係はありません。
まして奴隷もいません。
なぜなら、みんな神様だからです。

つまり、一部の者が富むのではなく、誰もが豊める社会を築きなさいということが、この「シラス」という言葉に集約されているわけです。

では、シラスは具体的にどのような統治形態になるのでしょうか。
高天原には、最高神として天照大御神さまがおいでになります。
その天照大御神さまは、政治権力者ではなく、どこまでも高天原の最高権威としての存在です。
ですから古事記の上の文にも「天照大御神高木神之命以」とあります。
高木神という政治上の最高責任者が、最高権威である天照大御神さまの名前で、大国主神に国譲りを迫っているのです。
だから「高木神の命(みこと)以(も)ちて」と書かれています。

そして地上世界である葦原中つ国には、天照大御神の孫にあたる邇邇芸命(ににぎのみこと)が天孫降臨しました。
その直系の霊(ひ)を受け継がれているのが天皇です。
日本は太古の昔から、天皇を最高権威として、すべての民を天皇の「おおみたから」とする国となりました。

「皇臣民」といいます。
天皇のもとに臣(大臣や閣僚などの政治権力者)も民も、等しく「おおみたから」です。
そして臣は、その天皇の「おおみたから」を預かる立場です。
自分の領土領民を私的に支配するのではなくて、天皇の「おおみたから」が安心して安全に豊かに暮らすことができるように、天皇に任命されて(これを親任といいます)、最大限の民へのサポートをするのが臣の仕事です。

このことは江戸時代も同じです。
江戸時代は徳川政権の時代ですが、そのトップは将軍です。そして将軍は天皇から任命される役職です。
全国のお大名も同じです。
天皇から直接の場合と、将軍からの場合がありますが、一定の領土領民の面倒をみるのが、大名の勤めです。

「大名(だいみょう)」とは「大名主(おおなぬし)」の略です。
名主というのは、その土地や領民を私的に支配する存在ではありません。
天皇から領土領民を預かり、また領土領民を代表し、担当エリア内の全ての人々がその時代において最大限、豊かに安心して安全に暮らせるようにしていくことが、名主の勤めであり、大名主である大名の勤めです。
だから「領主」と言わず、「大名」というのです。

このような日本の神代の昔からの統治の形態は、ズバリ言うなら「究極の民主主義」というべきものです。
19世紀以降の西洋生まれの民主主義が、選挙で代表を選びながら、選び終えた瞬間にリーダーをウシハク統治者にしてしまうのに対し、日本の統治はどこまでもリーダーが、天皇の「おおみたから」を預かる立場にあるからです。

このことをわかりやすく述べてみます。
たとえばいま、ガラスのコップで水を飲んでいるとします。
コップは手の中にあります。
そのコップを水を飲むことに使おうが、捨てようが、投げて割ってしまおうが、自分勝手になんでもできることができる状態にあります。

ところがその場所が、たとえばレストランや喫茶店であり、コップもお店のコップであったらどうでしょうか。
コップは自分のものではなく、他人のものです。
お店も他人のお店です。
そうであれば、コップはあまり汚したりせず、あたりまえのことですが、最後はちゃんとお店に返さなければなりません。

つまり、同じコップであっても、それが
「自分のコップ」であるのか、
「他人のコップ」であるかによって、
コップの置かれた処遇は180度違ったものになります。

これが日本の統治の根幹です。
国家は人の集合体ですから、そこにはおのずと得手不得手がありますし、社会的分業が生まれます。
そして大勢の人を統治していくためには、どうしても行政や司法や立法に際して、これを専門に行う権力者、つまり人の上に立つ者の存在が必要です。

その「人の上に立つ者」が、領土領民を私的に私物として支配したらどうなるか。
民衆は私物のコップさながらに、命を奪われたり、財産を収奪されたり、たったひとりの権力者のために、何もかも犠牲にさせられてしまうということが現実化してしまいます。

そこで日本では、はるか上古の昔に、国家の権威と、国家の政治権力を立て分け、政治権力者は、国家の最高権威によって親任されるという形を生み出しました。
国家の最高権威が天皇です。
日本の領土領民は、すべて天皇の「たから」です。
これを「おほみたから」と言います。
漢字で書いたら「公地公民」です。公地も公民も、どちらも読みは「おほみたから」です。
そして権力を親任された者は、天皇の「おほみたから」が、常に安全に安心して豊かに暮らしていけるようにすることが仕事であり使命です。

このことは、民衆の側から見たときに、ものすごく大きな違いとなってあらわれます。
民衆は、むしろ積極的に天皇の権威のもとに庇護されることによって、権力者からの自由を得ているのです。
そして民衆こそが、国家最高の宝であるということが、「おほみたから」という語によって示されています。

「おほみたから」は、漢字では他にも「黎元」とか「百姓」と書かれます。
「黎元」というのは、農作物をつくる人のことを言います。
「百姓」というのは、文武百官という言葉があるように、百は「たくさん」を意味し、姓(かばね)というのは天皇から与えられた栄えある役職のことです。
つまり「百姓」とは、天皇から役目を与えられた名誉ある人々を示す言葉です。
百姓一揆という言葉も、一揆は「心をひとつにすること」を意味します。
ですから天皇から役目を与えられた名誉ある人々が、心をひとつにして木っ端役人何するものぞと立ち上がったのが百姓一揆です。

近年、この「百姓」という言葉が「差別用語にあたる」として、禁止用語になったのだそうです。
どこの国の人が禁止を言いだしたのでしょう。
歴史を知らない馬鹿者の発想です。

さて、権力者が権威と権力の両方を持ち合わせていれば、それは選挙で選ばれようが世襲であろうが、権威と権力の両方を併せ持った時点で「ウシハク」統治です。
「ウシハク」というのは、「うし(主人)がは(佩)く」という意味で、佩くというのは刀を腰に佩くというように、自分の身に付けること、つまり私有を意味します。
つまり主人が私有することをいいます。

ですから「ウシハク統治」は、民衆を私有し、私物化する統治です。
主人にしてみれば、民衆を騙そうが、奪おうが思うがままです。
主人にいかなる不正があろうが、そもそも主人のものなのですから、どこからも苦情が来ない。
それが「ウシハク」です。
そこに「公正」はありません。
あるのは主人の「都合」だけです。

ところが「シラス」では、この状況が一変します。
権力者は常に公正でなければならず、私心を持たずに民衆の安寧のために奉仕する役割となるからです。
これこそまさに「究極の民主主義」です。

日本の天皇を、西欧など大陸の王や皇帝と同じものであるかのようにいう人がいますが、それは違います。
西欧など大陸の王や皇帝は、常に絶対的権威であり、絶対的権力者であり、ウシハク者です。

日本の天皇は、神代の昔から続く万世一系のお血筋であり、国家の最高権威であって最高権力者ではありません。
つまりウシハク者ではありません。
権力者の上位にある国家最高権威であり、シラスご存在です。
これを「しろしめす」といいます。
日本は天皇のしろしめす国です。
そして天皇という存在があることによって、民衆と権力者は人として対等な存在となり、民衆は権力者からの自由を得ているというのが、日本の古くからの形です。

そしてそのありがたさは、「なぜそうなのか」を誰もが知ることによって共有されなければならないことです。
だから「シラス」統治は、漢字では「知」と書かれます。
それが上古の昔からの日本の統治の根幹であり、現代にまで続く日本の原点です。

本来、民族とか国家というものは、そうした民族の長い歴史伝統文化を共有する者たちのための共同体です。
国の政治も、その国の歴史文化伝統の上に立って行うのが本来の政治の姿です。

ところがいまの日本では、
「日本の文化を学ばず知らない者」と「日本の文化を破壊したい者」と、ただ「目立つ人、金のある人」が政治家に立候補し、
「日本の文化を学ばず知らない者」と「日本の文化を破壊したい者」と「単なるミーハー」が無責任に投票を行っています。
これは普通の国家ではありえないことです。

古代ローマでは、市民というのは、国を護る意志を持ち、国を護る義務を果たせる者のことを言いました。
いまでも世界では、ありもしないデタラメで世間をたばかり政府の転覆を図ろうとする者は、カルト、テロとして、家族も含めて逮捕投獄死刑があたりまえです。

ところが日本では、そうしたありもしないデタラメで世間をたばかり政府の転覆を図ろうとする者が、堂々と国政に立候補し、政治家となり、あるいはメディアを押さえて世間を混乱させています。

けれど、これは「結果」です。
それ以前に有権者の意識が変わらなければならない。
そのためにも、「しらす」という言葉を復活させていかなければなりません。
日々の筆者の活動も、まさにそのためのものです。


※この記事は2020年7月の記事のリニューアルです。
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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
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昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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