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8月14日(日)に靖国神社でみなさまとご一緒に昇殿参拝を行います。
事前申込は特に必要ありません。
是非、ご一緒に英霊に感謝を捧げ、護国への決意を新たにしていきたいと思います。
詳しい内容は↓コチラ↓
https://nezu3344.com/blog-entry-5295.html ───────────────
なぜ日本が強かったのか。日本人が、愛し愛され愛を知る国であり兵であったからです。愛されていない、愛を知らない兵士は弱い。日本人は愛を大切にする民族だから強かったのです。愛があるから、自分の意思で戦えるのです。「どーせむり」では、強制されて戦うことしかできません。 昭和の戦いで散華されたすべての英霊に、そして生き残って戦後の復興のために努力されたすべての先輩たちに、深く感謝の意を表したいと思います。
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
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戦後、たいへんなベストセラー作家となり、数々の作品を発表した司馬遼太郎は、昭和の軍人について「まるでヌエのような醜い塊のような」と形容しました。私はその一文を、発表当時、「純粋にしっかり戦いながら、そのような理解にされてしまった哀しみを司馬遼太郎が述べたもの」と理解しました。
昭和の軍人は、結果として敗軍となってしまったために、戦後、様々に論評されてきました。けれど、彼らのひとりひとりが、苦難という言葉では形容しきれないほどのすさまじい戦いに身を投じながら、その中にあって純粋に、かつ人として、一生懸命に生きたことを、私達は決して忘れてはいけないと思います。
はじめに、いくつかの特攻隊隊員の遺書を紹介させていただきます。
【特攻隊員の遺書】我が一生、ここに定まる
お父さんへ、いふことなし。
お母さんへ、ご安心ください。
決して卑怯な死に方をしないです。
お母さんの子ですもの。
それだけで僕は幸福なのです。
日本万歳、万歳、かう叫びつつ死んでいった幾多の先輩達のことを考へます。
お母さん、お母さん、お母さん、お母さん! かう叫びたい気持ちで一杯です。
何か言ってください。
一言でも十分です。
いかに冷静になって考へても、何時も何時も浮かんでくるのはご両親様の顔です。
父ちゃん! 母ちゃん! 僕は何度でも呼びます。
お母さん、決して泣かないでください。
修が日本の飛行軍人であったことに就いて、大きな誇りを持ってください。
勇ましい爆音を立てて先輩が飛んでいきます。
ではまた。
富田 修中尉 長野県出身 日本大学卒
海軍第十三期飛行予備学生
昭和19年9月3日台湾にて殉職 23歳西条の母上には幼時より御苦労ばかりおかけし、不孝の段、お許し下さいませ。
今回帝国勝敗の岐路に立ち、身を以って君恩に報ずる覚悟です。
武人の本懐此れにすぐることはありません。
鎌倉の御両親に於かれましては、本当に心から可愛がっていただき、その御恩に報いる事も出来ず征く事を御許し下さいませ。
本日、帝国の為、身を以って母艦に体当たりを行い、君恩に報ずる覚悟です。
皆様御体大切に。
父上様、母上様
教え子へ(第四十二期飛行学生へ)
教え子は 散れ 山桜 かくの如くに
里子殿
何もしてやる事も出来ず散り行くことは、お前に対して誠に済まぬと思って居る。
何も云わずとも、武人の妻の覚悟は十分出来て居る事と思う。
御両親に孝養を専一と心掛け生活して行く様、色々思出をたどりながら出発前に記す。
恵美ちゃん坊主も元気でやれ 行男
関 行男大尉 愛媛県出身 海軍兵学校卒
神風特別攻撃隊敷島隊
昭和19年10月25日
比島レイテ湾にて特攻戦死 23歳戦いは日一日と激しさを加えて参りました。
父母上様、長い間お世話になりました。私も未だ十九才の若輩で、この大空の決戦に参加できることを、深く喜んでおります。
私は潔く死んでいきます。
今日の海の色、見事なものです。
決してなげいて下さいますな。
抑々海軍航空に志した時、真っ先に許されそして激励して下さったのは、父母上様ではなかったでしょうか。
既に今日あるは覚悟の上でしょう。
私も魂のみたてとして、ただただ大空に身を捧げんとして予科練に入り、今日まで猛特訓に毎日を送ってきたのです。
今それが報いられ、日本男子として本当に男に花を咲かせるときが来たのです。
この十九年間、人生五十年に比べれば短いですが、私は実に長く感じました。
数々の思出は走馬燈の如く胸中をかけめぐります。
故郷の兎追いしあの山、小鮒釣りしあの川、皆懐かしい思出ばかりです。
しかし父母様にお別れするに当たり、もっと孝行がしたかった。
そればかりが残念です。
随分暴れ者で迷惑をおかけし、今になって後悔しております。
お身体を大切に、そればかりがお願いです。
親に甘えた事、叱られた事、皆懐かしいです。
育子、昌子の二人は私の様に母に甘えたり叱られたり出来ないかと思うとかわいそうです。
いつまでも仲良くお暮らし下さい。
私も喜んで大空に散っていきます。
平常あちこちにご無沙汰ばかりしておりますから、何卒よろしくお知らせ下さい。
お願いします。
御身大切にごきげんよう。
神風特別攻撃隊 大和隊員
一飛曹 塩田 寛 18才
昭和19年10月26日 レイテ沖にて特攻戦死謹啓 御両親様には、相変わらず御壮健にて御暮しのことと拝察致します。
小生もいらい至極元気にて軍務に精励いたしております。
今までの御無沙汰致したことをお詫び致します。
本日をもって私もふたたび特攻隊員に編成され出撃致します。
出撃の寸前の暇をみて一筆走らせています。
この世に生をうけていらい十有余年の間の御礼を申し上げます。
沖縄の敵空母にみごと体当りし、君恩に報ずる覚悟であります。
男子の本懐これにすぎるものが他にありましょうか。
護国の花と立派に散華致します。
私は二十歳をもって君子身命をささげます。
お父さん、お母さん泣かないで、決して泣いてはいやです。
ほめてやって下さい。
家内そろって何時までもいつまでも御幸福に暮して下さい。
生前の御礼を申上げます。
私の小使いが少しありますから他人に頼んで御送り致します。
何かの足しにでもして下さい。
近所の人々、親族、知人に、小学校時代の先生によろしく、妹にも......。
後はお願い致します。
では靖国へまいります。
四月六日午前十一時記す
神風特別攻撃隊第二御盾隊銀河隊
昭和20年4月7日
海軍一等飛行兵曹 松尾巧 享年20才
佐賀県出身 乙飛17期 ***
さて、いろいろな遺書を調べているときに、あるサイトに「特攻隊員は自らの死を飾りたかったのだ」と書いているサイトがありました。どのサイトか、あまりにも悲しくてすぐに閉じてしまったので、もうわかりません。知りたいとも思いません。戦後の浅薄な反日左翼的思考に染まりきり、血のにじむ魂の叫びを読んでさえ、そんな程度にしか思えない、そんなバカ者が日本人顔をして、いまこの世にいる事自体が私にはとても残念に思えます。
日本国憲法の第一条には、何と書いてあるでしょうか。お近くにいる何人かの人に聞いてみてください。おそらく10人中9〜10人が答えられないと思います。「憲法を護れ」とか、「憲法9条を世界遺産に」とか、やかましく宣伝する割には、誰もその憲法を知らない。おかしくないでしょうか。これが戦後教育、戦後社会や戦後教育の実態です。都合の良い点だけを声高に主張し、あとは口にチャックで黙っている。そしてそのことを、より掘り下げて見てみれば、日本国内の、日本人のような顔をして日本語をしゃべる日本人でないごく一部の特定利権者たちにとってのみ都合の良い点だけが、美化されて声高に主張されているだけであることがわかります。それに易易と乗せられてしまった日教組の日本人の先生や、特定政党、特定宗教団体に、「自分の幸せ、家族の幸せのために」と洗脳されてしまった日本人こそ、あわれなものなのではないでしょうか。
大日本帝国憲法の時代、大日本帝国憲法の第一条が「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」は、誰もが知る日本の常識でした。戦後生まれの我々でさえ、暗唱出来る人が多いくらいです。戦前戦中は、100人に聞けば100人とも諳んじることができました。そこにある「統治す」を私達は「とうちす」と音読みするだけで、読めた気になっていますけれど、昔の人はその訓読みがわかりました。教えられていたからです。
「統治す」の訓読みは「スメラヒ、シラス」です。
「スメラヒ」は、スメラミコトの「スメラヒ」です。そしてもともとは「シメラフ」です。
「シメラフ」は動詞で、これが名詞になると「シラス」です。ですから「統治す」は、「シラス、シラス」です。
つまり、日本は天皇の「シラス」国であるということが、日本人の憲法の一番初めにくる考え方です。
そして「シラス」とは、天皇がすべての臣民を「おおみたから」とするという意です。このことは、わたしたち日本人が、ごく一部の特権階級者によって隷属させられない、私有民にされない、支配されないことを表しています。
世界の有色人種が、みんな欧米列強によって、モノとして私的に支配されていた奴隷制の時代に、日本は、民衆こそ宝であるという憲法を高らかに掲げたわけです。すごいことだと思います。
そして権力からの自由を得た日本人は、誰もがその日本を護ることは、すなわち家族や身近な人たちを護ることであると、ごく自然に考えました。自分のことより、周囲の人を助けたい。守りたい。たとえそれによって自分の命が失われることになってでも、です。
ところが戦前戦中においてさえも、そうやって自分たちが「おおみたから」としての幸せを与えられていることを理解できない人というのは、ごく一部ですが、いました。自分たちがいま幸せであること、「おおみたから」であることに感謝の心をもつどころか、自分が幸せであることが「あたりまえ」であって、国が戦争をしているのが良くないと主張する人たちです。
天皇のシラス国、国民が「おおみたから」とされているからこそ、わたしたちが権力からの自由があり、だからこそ互いを思いやることができる人にやさしい社会が営まれ、みんなが貧しいかもしれないけれど、みんなが食えて幸せな社会を築いていたのです。ところがそのことが理解できない。理解できないどころか、まったく逆に考える。自分がちょっぴり不幸なのは社会のせいだという。
戦時中にそんなことを言い出されたら、みんなが辛くても必死になって戦っているときなのです。それこそ人心を乱すことになる。だから当時の政府は、そういう人たちを逮捕投獄しました。
戦後、そういう人たちが刑務所から出てきて、彼らの思い通りの政治や宗教をはじめました。それから70年以上が経ちました。歳月は「はじめの一歩」の歪みを拡大していきました。
戦時内閣は東條英機首相でしたが、日本の陸軍の総帥であり、日本の最高権力者であった東條英機首相は、きっと個人で相当な蓄財をしていたに違いないとばかり、戦後GHQが徹底的に調べあげましたが、まったく何も出てこなかったというのは有名な話です。臣として本当に民のために尽くし、丸裸になって生き、戦後処刑された人と、ウシハク存在となって、個人の蓄財をし、自分だけが良い思いができる組織をこしらえた人。その心の違いが、上にご紹介した遺書にも明確に現れているといえるのではないでしょうか。
遺書を読んだらわかります。愛があるから戦えたのだと。
なぜ日本が強かったのか。日本人が、愛し愛され愛を知る国であり兵であったからです。愛されていない、愛を知らない兵士は弱い。日本人は愛を大切にする民族だから強かったのです。愛があるから、自分の意思で戦えるのです。「どーせむり」では、強制されて戦うことしかできません。
昭和の戦いで散華されたすべての英霊に、そして生き残って戦後の復興のために努力されたすべての先輩たちに、深く感謝の意を表したいと思います。
なお、軍人は、時期によって階級が変化します。そこで本書では、わかりやすさを優先するために、階級名は、最終階級で統一しています。このため、大佐としてお亡くなりになられた方は、生まれたときから大佐として表記していますが、ご理解を賜われればと思います。
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『後世へ語り継ぎたい 美しく猛き昭和の軍人たち』
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