エクゼターとエンカウンター・・・日本の武士道精神

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駆逐艦「雷」
駆逐艦「雷」


2008年12月7日、元英国海軍中尉サムエル・フォール卿(89)は66年の時を経て、埼玉県川口市内の工藤俊作氏の墓前に、念願の墓参りを遂げ、感謝の思いを伝えました。

大英帝国海軍中尉サムエル・フォール卿は、戦後英国外交官を務め、その功績によって「サー」の称号を贈られている人物です。

外交官定年退職後、1996年に自伝「マイ・ラッキー・ライフ」を上梓。

彼は、その本の巻頭に

 「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」

と記した。


そしてサムエル・フォール卿は、工藤俊作氏を、「命の恩人である」として、自らの体験談を綴りました。

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1942年3月1日、英重巡洋艦「エクゼター」(13,000トン)、「エンカウンター(1,350トン)は、ジャワ海脱出を試みて日本海軍の艦隊と交戦し、相次いで撃沈されました。
そして両艦艦長を含む約四五〇人の英海軍将兵が漂流の身となります。

翌3月2日、午前十時ごろには、彼らは生存と忍耐の限界に達し、一部の将兵は自決のための劇薬を服用しようとまでしてた。


そのとき、偶々、単艦でこの海域を哨戒中であった日本の駆逐艦「雷」が、漂流している英国乗組員を発見します。

日本の駆逐艦「雷」の乗員は220名。
漂流する敵将兵は450名余。

さらにこの海面には、敵潜水艦が多数徘徊しており、艦を停止させること自体、自殺行為に等しかったそうです。

しかし、「雷」艦長の工藤俊作少佐(当時)は、敵英国水兵の救助を決断し、艦を停止します。

そして敵兵を自艦に救助する。

救助の時点で、工藤艦長は、英国兵達の体力が限界に達している事に気づきます。

そこで万一のためにと警戒にあたらせていた要員も救助活動に投入。

いちぶの英海軍将兵は、艦から降ろした縄はしごを自力で登ることすらできなかった。

そこで、竹ざおを下し、いったんこれにしがみつかせ、艦載ボートで救助しようとしたが、力尽きて海に沈んで行く者もあった。

そこで工藤艦長は、下士官を海に飛び込ませます。
そして気絶寸前の英海軍将兵をロープで固縛し艦上に引き上げた。


サムエル・フォール卿は、当時の状況をこう回顧している。

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「雷」が眼前で停止した時、「日本人は残虐」と言う潜入感があったため「機銃掃射を受けていよいよ最期を迎える」と頭上をかばうかのように両手を置いてうつむこうとした。

ところが「雷」は、メインマストに「救助活動中」の国際信号旗が掲揚し、ボートを下した。

私はこの瞬間を、夢ではないかと思った。何度も自分の腕をつねった。
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さらに艦上ではサー・フォールを一層感動させる光景があった。

日本海軍水兵達が汚物と重油にまみれた英海軍将兵をまったく嫌悪せず、服を脱がせてその身体を丁寧に洗浄し、また艦載の食料被服全てを提供し労った。

当時「石油の一滴は血の一滴」と言われていた中で、「雷」の工藤艦長は艦載のガソリンと真水をおしげもなく使用させた。



戦闘海域における救助活動というのは、下手をすれば敵の攻撃を受け、自艦乗員もろとも自沈します。
実際、そういうケースは多々ある。

だから、そうとう温情あふれる艦長でさえ、ごく僅かの間だけ艦を停止し、自力で艦上に上がれる者だけを救助するのが戦場の常識です。

ところが工藤艦長は違った、
艦を長時間停泊させ、全乗組員を動員して、洋上の遭難兵を救助した。
しかも相手は敵将兵です。


それだけではない。

工藤艦長は潮流で四散した敵兵を探して終日行動し、例え一人の漂流者を発見しても必ず艦を止め救助した。

戦場の常識ではありえないことだった。
そして、422名が救助された。


救命活動が一段落したとき、工藤艦長は、前甲板に英海軍士官全員を集めて、英語でこう訓辞したといいます。

「貴官らはよく戦った。
貴官らは本日、日本帝国海軍のゲストである。」


そして艦載の食料の殆どを供出して歓待してくれた。

フォール卿はこの艦長への恩が忘れられず、戦後、工藤俊作艦長の消息を捜し続けてきたそうです。

工藤俊作艦長は、明治34年1月7日、山形県の生まれです。

工藤俊作氏は、明治41年4月に屋代尋常小学校に入学。

明治43年4月15日に第六潜水艇の事故があり、当時屋代尋常小学校では、校長が全校生徒に第六潜水艇佐久間艇長の話を伝えたそうです。
校長は、責任感の重要性を話し、全校生徒は呉軍港に向かって最敬礼した。

工藤俊作氏はこの朝礼のあと、担任の先生に聞いたそうです。

「平民でも海軍仕官になれますか」

担任の先生は、米沢興譲館中学(現:山形県立米沢中学校)への進学を勧めたそうです。

そして工藤氏は5年間、現在の上新田にあった親類の家に下宿して、約3キロの道のりを毎日徒歩で通学し、念願の海軍兵学校に入学します。

当時、一流中学校の成績抜群で体力のすぐれた者が志すのは、きまって海軍兵学校への受験だった。次が陸軍仕官学校、それから旧制高等学校、ついで大学予科、専門学校の順であった。

この時代、欧米の兵学校は、貴族の子弟しか入校できなかった。

ところが日本は、学力と体力さえあれば、誰でも兵学校に入校できた。

英国のダートマス、米国のアナポリス、日本の江田島、これらは戦前世界三大海軍兵学校の代名詞とされていたといいます。

工藤俊作氏は、大正9年に海軍兵学校に入学します。

その前年の大正8年、鈴木貫太郎中将(後の総理大臣)が校長として赴任していた。

海軍兵学校校長に着任した鈴木貫太郎氏は、大正8年12月、兵学校の従来の教育方針を大改新した。

・鉄拳制裁の禁止
・歴史および哲学教育強化
・試験成績公表禁止(出世競争意識の防止)

工藤ら51期生は、この教えを忠実に守り、鉄拳制裁を一切行わなかったばかりか、下級生を決してどなりつけず、自分の行動で無言のうちに指導する姿勢を身につけた。

鈴木中将は 明治天皇が、水師営の会見の際「敵将ステッセルに武士の名誉を保たせよ」と御諚され、ステッセル以下列席した敵軍将校の帯剣が許されたことを生徒に語ったといいます。

海軍兵学校を卒業した工藤俊作氏は、駆逐艦「雷」の艦長として、昭和15年11月着任します。工藤は駆逐艦艦長としてはまったくの型破りで、乗組員たちはたちまち魅了されたといいます。

工藤艦長の着任の訓示。

「本日より、本官は私的制裁を禁止する。とくに鉄拳制裁は厳禁する」

乗組員たちは、当初工藤をいわゆる「軟弱」ではないかと疑ったが、工藤は決断力があり、当時官僚化していた海軍でも上に媚びへつらうことを一切しなかった。

また、工藤氏は酒豪で、何かにつけて宴会を催し、仕官兵の区別なく酒を酌み交わした。好物は魚の光り物(サンマ、イワシ等)で、仕官室の食堂にはめったにでないので、兵員食堂で光り物が出る時、伝令のと自分のエビや肉と交換したり、自ら兵員食堂まで仕官室の皿を持って行って「誰か交換せんか」と言ったりもした。

工藤氏は日頃士官や先任下士官に、
「兵の失敗はやる気があってのことであれば、決して叱るな」と口癖のように言っていたといいます。

見張りが遠方の流木を敵潜水艦の潜望鏡と間違えて報告しても、見張りを呼んで「その注意力は立派だ」と誉めた。このため、見張りはどんな微細な異変についても先を争って艦長に報告していたといいます。

2ヶ月もすると、「雷」の乗組員たちは、工藤を慈父のように慕い、
「オラが艦長は」と自慢するようになり、「この艦長のためなら、いつ死んでも悔いはない」とまで公言するようになっていった。

艦内の士気は日に日に高まり、それとともに乗組員の技量・練度も向上していった。


昭和16年12月8日に大東亜戦争開戦。

開戦の二日後、日本海軍航空部隊は、英国東洋艦隊を攻撃し、最新鋭の「不沈艦プリンス・オブ・ウェールズ」と戦艦「レパルス」を撃沈した。

英国の駆逐艦「エクスプレス」は、海上に脱出した数百人の乗組員たちの救助を始めた。

日本の航空隊は救助活動にはいると一切妨害せず、それどころか、手を振ったり、親指をたてて、しっかりたのむぞ、という仕草を送った。

さらに救助活動後に、この駆逐艦がシンガポールに帰港する際にも、日本軍は上空から視認していたが、一切攻撃をしなかった。
 
こうした日本海軍の武士道は、英国海軍の将兵を感動させた。


フォール卿は語ります。

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艦長とモーターボートに乗って脱出しました。

その直後、小さな砲弾が着弾してボートは壊れました。

この直後、私は艦長と共にジャワ海に飛び込みました。

間もなく日本の駆逐艦が近づき、われわれに砲を向けました。
固唾をのんで見つめておりましたが、何事もせず去っていきました。

私たちは救命浮舟に5~6でつかまり、首から上を出していました。

見渡す限り海また海です。
救命艇も見えず、陸岸から150海里も離れ、食糧も飲料水もなかった。

この時、ジャワ海にはすでに一隻の米英欄連合軍艦船は存在しなかった。

しかし我々は、オランダの飛行艇がきっと救助に来てくれるだろうと盲信していました。

しかし一夜を明かし、夜明け前になると精気が減退し、沈鬱な気分になっていきました。

死後を想い、その時には優しかった祖父に会えることをひそかに願うようになっていました。

翌日、われわれは赤道近くにいたため、日が昇りはじめるとまた猛暑の中にいました。

仲間の一人が遂に耐えられなくなって、軍医長に、自殺のための劇薬を要求し始めた。

軍医長はこの時、全員を死に至らしめてまだ余りある程の劇薬を携行していました。
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このような情況の中、そこに偶然、通りかかったのが、駆逐艦「雷」だった。

二番見張りと四番見張りからそれぞれ、
「浮遊物は漂流中の敵将兵らしき」
「漂流者四〇〇以上」
と次々に報告がはいる。

工藤艦長は「潜望鏡は見えないか」と見張りと探信員に再確認を指示し、敵潜水艦が近くにいない事を確認した後、午前10時頃「救助!」と命じた。


フォール卿は語ります。
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午前10時、突然200ヤード(約180M)のところに日本の駆逐艦が現れました。
当初私は、幻ではないかと思い、わが目を疑いました。
そして銃撃を受けるのではないかという恐怖を覚えました。
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ここで工藤は、日本海軍史上極めて異例の号令をかけた。

「一番砲だけ残し、総員敵溺者救助用意」

工藤氏は、浅野市郎先任将校に救助全般指揮をとらせ、谷川清澄航海長に後甲板を、田上俊三砲術長に中甲板における救助の指揮をとらます。


佐々木確治一等水兵(当時21歳)が回想しています。
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筏が艦側に近づいてきたので『上がれ!』と怒鳴り、縄梯子を出しましたが、誰も上がろうとしません。

敵側から、ロープ送れの手信号があったのでそうしましたら、筏上のビヤ樽のような高級将校(中佐)にそれを巻き付け、この人を上げてくれの手信号を送ってきました。

五人がかりで苦労して上げましたら、この人は『エクゼター』副長で、怪我をしておりました。

それから、『エクゼター』艦長、『エンカウンター』艦長が上がってきました。

その後敵兵はわれ先に『雷』に殺到してきました。

一時パニック状態になったが、ライフジャケットをつけた英海軍の青年士官らしき者が、後方から号令をかけると、整然となりました。この人は、独力で上がれない者には、われわれが差し出したロープを手繰り寄せて、負傷者の身体に巻き、そして、引けの合図を送り、多くの者を救助をしておりました。『さすが、イギリス海軍士官』と、思いました。

彼らはこういう状況にあっても秩序を守っておりました。

艦に上がってきた順序は、最初が『エクゼター』『エンカウンター』両艦長、続いて負傷兵、その次が高級将校、そして下士官兵、そして殿が青年士官という順でした。

当初『雷』は自分で上がれる者を先にあげ、重傷者はあとで救助しようとしたんですが、彼らは頑として応じなかったのです。

その後私は、ミッドウェー海戦で戦艦『榛名』の乗組員として、カッターで沈没寸前の空母乗組員の救助をしましたが、この光景と対象的な情景を目にしました。

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浮遊木材にしがみついていた重傷者が、最後の力を振り絞って「雷」の舷側に泳ぎ着いて、「雷」の乗組員が支える竹竿に触れるや、安堵したのか、ほとんどは力尽きて次々と水面下に沈んでいってしまう。

甲板上の乗組員たちは、涙声をからしながら「頑張れ!」「頑張れ!」と呼びかける。

この光景を見かねて、二番砲塔の斉藤光一等水兵(秋田出身)が、海中に飛び込み、続いて二人がまた飛び込んだ。
立ち泳ぎをしながら、重傷者の体にロープを巻き付けた。

艦橋からこの情景を見ていた工藤は決断する。

「先人将校!重傷者は、内火艇で艦尾左舷に誘導して、デリック(弾薬移送用)を使って網で後甲板に釣り上げろ!」

この期に及んで敵も味方もなかった。

甲板上には負傷した英兵が横たわり、「雷」の乗組員の腕に抱かれて息を引き取る者もいた。
一方、甲板上の英国将兵に早速水と食糧が配られたが、ほとんどの者が水をがぶ飲みした。
救助されたという安堵も加わって、その消費量は三トンにものぼった。

便意を催す者も続出した。工藤は先任下士官に命じて、右舷舷側に長さ四メートルの張り出し便所を着工させた。

工藤艦長は全甲板に大型の天幕を張らせ、そこに負傷者を休ませた。艦が走ると風も当たり心地よい。ただ、これで全甲板の主砲は使えなくなった。


フォール卿が語ります。
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私は当初、日本人というのは、野蛮で非人情、あたかもアッチラ部族かジンギスハンのようだと思っていました。

『雷』を発見した時、機銃掃射を受けていよいよ最後を迎えるかとさえ思っていました。ところが、『雷』の砲は一切自分達に向けられず、救助艇が降ろされ、救助活動に入ったのです。

駆逐艦の甲板上では大騒ぎが起こっていました。水平たちは舷側から縄梯子を次々と降ろし、微笑を浮かべ、白い防暑服とカーキ色の服を着けた小柄で褐色に日焼けした乗組員がわれわれを温かくみつめてくれていたのです。

艦に近づき、われわれは縄梯子を伝わってどうにか甲板に上がることができました。

われわれは油や汚物にまみれていましたが、水兵たちは我々を取り囲み、嫌がりもせず元気づけるように物珍しげに見守っていました。

それから木綿のウエスと、アルコールをもってきて我々の身体についた油を拭き取ってくれました。

しっかりと、しかも優しく、それは全く思いもよらなかったことだったのです。

友情あふれる歓迎でした。

私は緑色のシャツ、カーキ色の半ズボンと、運動靴が支給されました。

これが終わって、甲板中央の広い処に案内され、丁重に籐椅子を差し出され、熱いミルク、ビール、ビスケットの接待を受けました。

私は、まさに『奇跡』が起こったと思い、これは夢でないかと、自分の手を何度もつねったのです。

間もなく、救出された士官たちは、前甲板に集合を命じられました。

すると、キャプテン・シュンサク・クドウが、艦橋から降りてきてわれわれに端正な挙手の敬礼をしました。われわれも遅ればせながら答礼しました。

キャプテンは、流暢な英語でわれわれにこうスピーチされたのです。

You had fought bravely.

Now you are the guests of the Imperial Japanese Navy.

I respect the English Navy,but your government is foolish make war on Japan.

(諸官は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである。私は英国海軍を尊敬している。ところが、今回、貴国政府が日本に戦争をしかけたことは愚かなことである)

フォール卿はさらに、目を潤ませて語る。

『雷』はその後も終日、海上に浮遊する生存者を捜し続け、たとえ遙か遠方に一人の生存者がいても、必ず艦を近づけ、停止し、乗組員総出で救助してくれました。

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「雷」はもはや病院船となったと言っても過言ではなかった。

「雷」の上甲板面積は約1222平方メートル、この約60%は艦橋や主砲等の上部構造物が占める。実質的に使えるスペースは、488平方メートル前後である。
そこに、約390人の敵将兵と、これをケアーする「雷」の乗組員を含めると一人当りのスペースは驚く程狭いスペースしか確保できない。
工藤艦長は敵将校たちに「雷」の士官室の使用を許可した。  

蘭印攻略部隊指揮官高橋伊望中将はこの日夕刻四時頃、「エクゼター」「エンカウンター」の両艦長を「雷」の付近を行動中の重巡「足柄」に移乗するよう命令を下した。

舷門付近で見送る工藤と、両艦長はしっかりと手を握り、互いの武運長久を祈った。
高橋中将は双眼鏡で、「足柄」艦橋ウイングから接近中の「雷」を見て、甲板上にひしめき合う捕虜の余りの多さに、唖然とした。

この時、第三艦隊参謀で工藤俊作と同期の山内栄一中佐が高橋中将に、

「工藤は兵学校時代からのニックネームが『大仏』であります。非常に情の深い男であります」と言い、高橋司令長官を笑わせた。

高橋中将は

「それにしても、物凄い光景だ。自分は海軍に入っていろいろなものを見てきたが、この光景は初めてだ」と話していたという。

救助された英兵たちは、停泊中のオランダの病院船「オプテンノート」に引き渡された。

移乗する際、士官たちは「雷」のマストに掲揚されている旭日の軍艦旗に挙手の敬礼をし、また、向きを変えてウイングに立つ工藤に敬礼して「雷」をあとにした。

工藤艦長は、丁寧に一人一人に答礼をしていた模様である。これに比べて兵のほうは気ままなもので、「雷」に向かって手を振り、体一杯に感謝の意を表していた。

「エグゼター」の副長以下重傷者は担架で移乗した。

とくに工藤艦長は、負傷して横たわる「エグゼター」の副長を労い、艦内で療養する間、当番兵をつけて身の回りの世話をさせていた。

副長も「雷」艦内で、涙をこぼしながら工藤の手を握り、感謝の意を表明していたという。

「雷」は、1944年(昭和19年)4月13日、船団護衛中にグアム島の西で米潜水艦「ハーダー」(USS Harder, SS-257)の雷撃を受け沈没しました。
乗員は全員戦死。

工藤艦長は、1942年に「雷」艦長の任を解かれたのち、海軍施設本部部員、横須賀鎮守府総務部第一課勤務、海軍予備学生採用試験臨時委員を命じられ、1944年11月から体調を崩し、翌年3月15日に待命となって終戦を迎えます。

戦後、工藤氏は故郷で過ごしていましたが、妻の姪が開業した医院で事務の仕事に就くため埼玉県川口市に移った。

1979年に胃癌のため死去。

生前は上記の 事実は家族にも話さなかった。

理由は、雷がその後戦没しており多くの乗組員が犠牲になったという自戒の念からだったといいます。

ご家族がこの話を聞いたのは助けられたフォール卿からです。


日本は、武士として戦ったのです。

武士だから、みずから口からは、戦時中の多くを語らなかった。

だからといって、彼らの名誉ある行動を汚すようなことを許すのは、わたしたち現代を生きる日本人のすべきことではない・・・ボクはそう思います。

この記事を読まれ、何かを感じられたら、
是非、↓こちらの記事もご一読ください。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-526.html
いま、日本で何が起こっているのかを感じていただけたら幸いです。

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※ 詳細は「敵兵を救助せよ」
http://www.bushido-seishin.com/outline/story.html
を参照させていただきました。

1-3敵兵を救助せよ 封印された奇跡 Japanese BUSIDO saved lives


2-3敵兵を救助せよ 封印された奇跡 Japanese BUSIDO saved lives


3-3敵兵を救助せよ 封印された奇跡 Japanese BUSIDO saved lives

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コメント

カッパです

No title

この雷の前に 山風が60名ほど救助しているんですよね エンカウンター号の乗員を。
WikiのPediaのエンカウンターのところを見ればわかると思います。
作戦中ですから無線封鎖していると思いますが
電報などで情報共有がなされていたのであれば
工藤さんはおそらく警戒情報として知っていたと思います

No title
名無しさん
もちろん、朝鮮出身の日本軍人の方々にも立派な帝国軍人はいらっしゃいました。
我々は英霊に感謝しなければなりませんね。

教育勅語
教育勅語に五省が海軍軍人にはしみ込んでいます。人間的には立派な人が多い、陸軍も同じ兵士に国際法を教える軍隊など世界には有りません。

田中雅栄

少し訂正願えれば幸いです
 貴重な文章にけちをつけるようで申し訳ありません。工藤2佐の山形生まれかどうかは知りません。ただ6号潜水艇事件は山口県岩国市装束町沖(慰霊碑あり、毎年4月慰霊祭を実施、1年おきに英国大使館からの参加あり。)でのことであり、屋代島とは、山口県の周防大島のことである。(戦艦陸奥の謎の沈没した島。)もしかしたら山口県大島出身かと考えます。

kinako

No title
このお話は、所さんの出ている番組で再現映像で紹介されているのが、ネットの動画でUPされているのを見たことがあり、その時もとても感動しました。その動画では、たしか雷は工藤艦長が任を降りた後撃沈されたとは言っていましたが、乗組員の中には生き残った人もいて、当時を回想していろいろ証言されていましたよ。全員亡くなったわけではないようでした。だからそうした人の中に写真を持っていた人もいたのではないでしょうか。もしかしたら、乗組員の中にも艦を降りた人もいたのでしょうかね。

Bleak

どうやって写真を撮ったのでしょうか
映像の中には、当時の救出劇の写真がいくつか出てきます。あれって誰が撮って今に残っているのでしょうか。日本側だとしても乗り組み員は後ほど全員なくなってるようですし、工藤艦長はこの件に関して何も流布していないようですし。イギリス側だとすると、水の中に20時間漂って、カメラが無事だったのでしょうか。素朴な疑問ですが、教えていただけますか。

うらぬす

No title
椿 #-様

フォール卿は、新聞にこのことを発表しているはずです。
どなたかのブログで拝見した気がします。
「日本人養成講座」だったでしょうか
それで、陛下御訪英反対運動が沈静化したとかかれていました。
勿論納得できない元軍人の方もいらっしゃるでしょうから100%と
言う訳にはいかなかったのでしょうね。

現在の所謂主要なアメリカ人は、私には、インディアンを抹殺し、
ハワイを侵略したレイシストという認識です。
これからは、移民による白人のマイノリティ化でどんな国になる
のか?私が生きている間には間に合わないので見届けられな
いことが残念です。

??

No title
日本軍>>>>>米・英・支・ソ軍>>>>>>>>>>「朝日」、とその周辺に屯す左翼人種。



原爆であれだけの一般市民を殺したアメリカの方が上だと?

通州事件。シナ人の残虐さにドイツ人も驚き、千倍にして返されても仕方ないとまで言わせてましたね、、、
南京では自国民を殺し略奪し、シナ人中国の兵士同士で殺しあって死体山積み、、、それを日本軍のせいにしようと必死なシナ中国。

そのシナの方が上だと、そうおしゃるのですか、、、これはすごい


長文を書いて親日に見せかけた、反日サヨクですか。手が込んでますねww


それから、朝日サヨク連中はシナ中国と同等ですよww

かぐやひめ

白黒黄
高校の同級生に台湾人の男子がいました。
彼は、とても気さくで優れた人で、リーダーシップがあり、みんなが嫌がる掃除当番の時にも、率先して雑巾を持ち「掃除って楽しいね!」と、その場の空気を支配しました。
生徒会長にもなり、神戸大学に進みました。

後日、同級生に、彼の消息を聞くと「自殺した」と。大学で学園紛争に飛び込み、挫折した、と。

高校二年の時、彼の書いた作文が披露されたことがあります。題は「白黒黄色」でした。
「世界は、3色の人種で構成され、この人種間闘争こそ、世界の真実相だ」と、書かれてありました。

日本人と同じ顔をしていながら、外国人であった彼には、スケールの大きな視点がありました。
その彼が20歳そこそこで自ら死を選んだ・・・
私は、思い出す度、思考停止します。

椿さん、こういうことではないでしょうか?

越えられない「白黒黄色の壁」が、今までの世界でした。
明日、越えられるのかどうか・・・いつまでも、互いに責めあうのは、いけないけれど、簡単に越えられるものではないーそれが世界だと。

愛信

台湾の開祖鄭成功は1624年、長崎の平戸に生まれた。
http://blog.goo.ne.jp/twfumi/e/9108b8cd73618fa73271f52229884cac
台湾の開祖鄭成功は1624年、長崎の平戸に生まれた。
母親は日本人の田川氏である。
成功は幼名を福松、後に森と命名され、7歳の年に父芝龍によって福建に連れて行か
れるまで、母親と平戸で暮らしていた。


虚空天上【書籍街の掲示板】台湾の歴史
http://www.aixin.jp/gktj/index.cgi

椿

長い間考えていたのですが…


サムエル・フォール卿が、雷の艦長である工藤俊作少佐に救助された事を自叙伝に書き、感謝されていることは、本当にうれしく思います。が、しかし…、私はどうしても、いくつか疑問があるのです。

天皇皇后両陛下が訪英された折に、元イギリス軍人達が、両陛下の馬車の両脇の沿道で、「天皇帰れ!」、「虐殺者!」等と口汚く罵り、プラカードを持ち、ヒドイのに至っては、陛下に向かって、裸のお尻を突き出して、中指を立てたりしていました。今でも、よーく覚えています。かなりショッキングでした。

でも、サムエル・フォール卿も、雷艦長に救助された英国人422名の軍人達も、同じ元英国軍人らが、日本の天皇陛下に、そのような“野蛮なデモ”をしているという、事実を知らなかったのでしょうか?

いえ、100歩譲って知らなかったとしても、あれだけTVで報道されていたのだから、もしあのような野蛮なデモが行われていると知れば、同じ軍人同志として、これらの元軍人達に、雷艦長の話を伝え、諌めたりすることは無かったのでしょうか?それがとても疑問なんです。

そしてまた、サムエル・フォール卿が仰るように、雷艦長の救出活動は、奇跡に等しい行為であったのならば、絶対に本国イギリスやイギリスの植民地国にも、伝わっていたはずだと思います。

なのに・・・何故、イギリスは、武装解除した戦闘能力の無い日本兵捕虜をあそこまで残虐に、“虐待・拷問死”させることが出来たのでしょうか?

一人しか救出されていないのなら、信憑性無しと思われても仕方がありませんが、まだ、422名以上もの英国軍人が、雷艦長に救出されている“生き証人”なんです。

その方達の助言によって、日本兵捕虜への虐待・拷問は“回避”されなかったのでしょうか?

私は雷艦長の救出活動は、実に立派な行為だと、誇らしく思います。ですが、『世界は実に腹黒い』とも思うのです。

何日か前のトピックで、日系アメリカ人による“命をかけた救出活動や忠誠心”も、戦争が終われば、紙屑のように捨てられてしまう。このような思いを日本人はもう何百回と経験しているのではないでしょうか? そう思うと、この雷船長のお話や日系アメリカ人のお話には、素直に喜べないものがあります…。

トルコやポーランドは、日本の救出に対して、出来る限りの誠意を見せて下さいましたが・・・、英米蘭中露は、本当にやり切れません!!

特にアメリカと中国です。この両国は、誇り(プライド)というものが無さ過ぎると思います。彼らを信じ助ける事が、人類にとって良いものかどうか?いえ、“禍になる”のでは?と、真剣に考え込んでしまいます。

長々と失礼いたしました。



ねずきち

間違いを訂正しました。
fukuzawaさん、ご指摘ありがとうございます。

文中の1941年とあるは、1942年の誤りです。

お詫びして訂正します。

-

素晴らしいと言わずにおれない
これこそ日本人の歴史。
永久に保存して子孫に伝えていただきたい物語です。

OOIDOYA

公職追放
 日本が戦争に負けたあとGHQは思想的に国粋主義の人を20万人入れ替えました。その中には多くの教育者も含まれています。そこから日本の教育は自虐史観は始まりました。
 やはり教育は大事ですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AE%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0
 こちらはあの有名なウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラムのWikiです。

かぐやひめ

占領軍に心を殺された
先人のみなさんのおかげで、日本の人口の90%の死滅はまぬがれたけれど、「大和魂」「日本精神」の90%を殺されたような気がします。

噂の真相箱というNHKラジオ、報道統制、その他、仕組まれた犯罪、事故、事件、また、それらへの圧力、制圧、左翼活動の勧めなどなど、巧妙に計算しつくされた(ダドゥイック研究所ですか?)プログラムで、日本の「心の90%」が殺害されたと思います。

戦争目的を知り、何が起こったか、わかっている世代は、大きな声で話せない空気を感じ黙った・・・黙っていても、人種間戦争という、このあたりまえの事実を血を分けた子や孫が見誤るはずなどないと信じていたのに・・・

日教組の偏向教育と、亡国マスコミが子と親、祖父と孫を分断してしまった。
こうして、日本の心の90%は死に絶えたように見えた・・・・

でも、命をかけて残してもらったこの命には「言葉を越えて、さとる力」が秘められていた。

さとられた真実は、言葉と文字で拡散し始めた・・・長い時間が必要だったけど・・・
昭和が終われば、大きな声で語れるようになると考えていたのに・・・あれから20年もたちました。

だけど、今、ついに、語れるようになりました。
語り合えるようになりました。
嬉しいですね。
工藤艦長のこと、パラオのこと、硫黄島のこと、
感謝と感激と誇りで語り合える日が来たのです。
うれしいですね。

殺された90%の心の命も、きっと復活する。
そして、心さえ生き返ったら・・・民族は復活すると信じます。
みなさん、本気でがんばりましょうね。


LAY

左傾が過ぎると虐殺魔!
築地カルトを知りすぎ  様

はじめまして。

>イデオロギーに狂った、左翼の非人間性、冷酷さには心底ゾッとします。 <  本当にそうなんですよね。

私は高校時代に「あさま山荘事件」をTVに噛り付いて見ておりましたが、この連合赤軍が起こした事件にはその直前に「山岳ベース事件」というのがあります。
これは「同志に対するリンチ殺人事件」だったのです。
【総括】という私刑が実行され、>「連合赤軍の実質的リーダーであった森恒夫と永田洋子の2人は「殴ることこそ指導」と考えていた。殴って気絶させ、目覚めたときには別の人格に生まれ変わり、完全な共産主義を受け入れ真の革命戦士になれるという論理を展開し、部下にも強いたが、絶対的上下関係の中ではその思考は疑うことができないままに受け入れられるしかなかった。」<(Wikipediaより)

そして、1971年12月末からの約2ヶ月半の間に死亡したメンバーは12人(内女性は4人)にもなり、死亡者の中にはメンバー同士で恋仲だったり、兄弟であったりしたものもいたのです。中には妊娠8ヶ月の女性メンバーもおりました。

私は17歳でしたが、この事実を知って「こいつ等は偽物だ!」と直感したのです。 難しい事は分かりませんので、「仲間や友達を殺しての革命」なんてありっこない!と思ったのです。

40年後の現在、共産主義に対する考えは同じですね。 中国共産党は自国民に軍隊の機銃掃射(天安門事件)を浴びせ、しっかり虐殺しましたもの。 

中国は人口が多いから人命を軽視するんだ、と考える人がいますがちょっと違いますね。 人口とは関係なく「共産主義」が人命を軽視するイデオロギーだという事は、ちゃんと押さえておきたいところです。



手取川

身をもって示す人道的な行為
 工藤中佐の(敵兵を救助せよ)はだいぶ前に読みました。
いつかはねずきちさんが取り上げでくれるだろうと思っていたんですが、早かったのには驚きです。 リトアニアの杉原領事にしても両者とも人道的な思いが、心がそうさせたのでしようね。 しかし軍規に従えば救助は余計なことであり、まかり間違えば自分の艦が標的になる恐れもある、また救助の途中に次の作戦の指令があったとしたら動けなかったかも。
杉原領事のビザにしても独断であり、外務省の規則に違反しているわけで、帰国後外務省を退職させられています。
人道的な行為というのは決してきれいごとですまされない自己の責任が伴うものであるということでしょうか。
 友愛だ、護憲だ、無防備だとか、たわけたことを口にしている政治家には分からないでしょうね。

愛信

焦点はD案の成否 臓器移植法改正案、18日に衆院本会議で採決
A案が否決された場合、子供の臓器移植に道を開きたいA案支持者が、次善の策とし
てD案の賛成に回る可能性がある。

国籍法改正でDNA判定を排除した偽装親子関係には忍び難い親子の情愛はない、
麻薬密売に替わる闇市場の臓器密売の途を開く臓器移植法改正であってはならない。
この法案は、あのDNA判定を排除した国籍法改正を強行した媚中派河野親子が河野
洋平政界引退記念の法案として提出された。これを推進しているのが日本人社会の
破戒者創価学会公明党

【臓器移植法改正案関係の掲示板】
http://www.aixin.jp/axbbs/kzsj/kzsj11.cgi
【臓器移植法改正案タイトル一覧】はこちらをクリックして下さい。

PS:
麻生騒動はこちらから国民の関心をそらすための情報操作かも知れません。
この法案は中国への貢物です、辺恒が熱心です。

町工場の親方、(=「朝日」 築地カルトを知りすぎ

続き
「朝日新聞をみんなで叩き潰す掲示板」---平成13.10.31.

【ポンコツ天声人語】・・・コアラのマーチ

>本島元長崎市長

あいかわらず、(朝日は) この人間を美化しているな。わざわざ昭和天皇が危篤のときに、「天皇の戦争責任」、をぶち上げたイヤラシイ奴だ。
「南京大虐殺」、等を引っ張り出してきて、「日本人の遺伝子には残虐性がすりこまれているとしか思えない」、とほざいたのもコイツである。相当に偏狭的な人物だ。こんな発言に象徴されるような寛大な人間ではない!

【私の最も許せぬ人間】・・・町工場の親方

コアラのマーチ様、「築地」、は本島ごときを美化していますか。

私の手元に一枚の紙があります。

《原爆投下・東京大空襲を容認するー前長崎市長》

『本島発言対する共同抗議声明』

前長崎市長・本島等氏は、本年7月29日の共同通信社のインタビューや同月31日の産経新聞の取材に、

「原爆は落とされるべきだった。(満州事変から終戦までの)、15年間にわたるあまりに非人道的な行為の大きさを知るに従い、原爆が日本に対する報復としては仕方が無かったと考えるようになった」、「東京大空襲や沖縄戦も同じだ」、

などと発言しています。
これは、原爆投下や東京大空襲、さらには沖縄戦における犠牲者を冒涜し、米軍の民間人虐殺も正当化する暴言であり、私たちは、ここに共同して、本島氏に対し強く抗議します。
本島氏の発言は、原爆の投下や東京大空襲がなぜじっこうされたのか、という歴史的検証から逃避し、ただ単に、連合国側の加害・残虐行為を全く不問に付した東京裁判の、「勝者の論理」、に完全に追従したものにほかなりません。
昭和21年、連合国の手によって開かれた東京裁判においては、敗者である日本のみが一方的に裁かれ、勝者である連合国側の戦争犯罪や国際法違反行為は全く裁かれませんでした。この為、「勝てば全てが許される」、という悪しき前例が生まれ、国際法に違反した原爆の投下や一般市民の大量虐殺も容認されるようになったのです。東京裁判で原爆投下が裁かれなかったため、核兵器の保持・使用は正当化され、その後恐るべき核軍拡・核拡散の中で、私たち人類は核兵器の恐怖に脅えなくてはならなくなったのです。同じく東京大空襲などの連合軍の残虐行為が裁かれなかったことがベトナム戦争やユーゴ内戦などでの残虐行為の横行をもたらしたのです。こうした東京裁判昨に対する批判が外国の識者の中で高まってきたことが、昨今の国際司法裁判所の画期的な、「核兵器違法判決」、や国際刑事裁判所の設置決定を生んだのです。日本軍の残虐行為を理由に原爆の投下を正当化してきた東京裁判の考え方に対する反省が、ようやく国際社会で認められるようになったのです。
その意味で、本島氏の発言は、国際的に克服されようとしている東京裁判の論理に相変わらず立脚して日本の、「非」、のみを責めることによって、国際法による公正な世界を造ろうという、今ようやく始められた国際的な努力を阻害するものにほかなりません。
私たちは、本島氏の発言に強く抗議するとともに、核兵器もなく人類全てが平和で安心して暮らせる世界の構築に寄与していく一つの確かな手立てとして、原爆投下容認論にもとづいた原爆資料館・平和祈念館の、「加害」、展示を是正、いかなる事情があろうとも原爆投下や市民大虐殺は国際法上許されないとする国際世論の創出に努めることを、改めてここに決意いたします。

平成10年8月6日

           平和祈念館を正す都民連絡会

          長崎の原爆展示をただす市民の会

イデオロギーに狂った、左翼の非人間性、冷酷さには心底ゾッとします。
あの時代を一生懸命に生き、生活していた日本人、同胞の犠牲者に対する思い、同情はカケラもありません。
私には敵国よりも、国内にいる、こういう手合いが何とも許せぬ気持ちです。
こんなのを評価、美化する、「築地」、(朝日)、の下劣さに一層の怒りが湧いてきます。

イデオロギーに狂った、本島の同類項のような憎日人間が、日本人全体としては少ないものの、マスコミ、出版、教育界、左翼・鳩山民主党の事務局などには大勢います。
今後、日本国内は思想的に、内戦状態になると考えます。

-

【NHK】武士は死んだ
NHKは“武士の末裔”とは思えないほど卑怯な禁じ手を使って取材をしていました。
いつからNHKは武士道を捨てたんでしょうね?
困ったものだ。。。

「人間動物園」の遺族は悲しんでいなかったー「JAPANデビュー」に悪質捏造疑惑 (付:被取材者本人の証言動画)
http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/blog-entry-789.html

【台湾取材レポート】「かなしいね」の本当の意味[桜 H21/6/15]
http://www.youtube.com/watch?v=VfU1ib_LzDs&feature=channel

椿

敵を救出したから、驚いたのではないですか?
fukuzawa さん、
>1941年3月は、まだイギリスとの戦争は始まっていない。一度確認してね<

それではなぜ、サムエル・フォール卿(89)は、『『雷』を発見した時、機銃掃射を受けて、いよいよ最後を迎えるかとさえ思っていました。ところが、『雷』の砲は、一切自分達に向けられず、救助艇が降ろされ、救助活動に入ったのです。』と、日本の救出活動に、ビックリされているのでしょうか?

もし英国人が日本人の敵でなければ、この日本海軍の救出活動は、ごく普通の人道的行動であり、彼らもそんなにビックリしなかったのではないでしょうか?

それなのに、サムエル・フォール卿は、日本軍のイギリス兵士救出活動に、深い感動を覚え、自身の自叙伝にも『工藤艦長への深い感謝』を述べています。

これは、敵対同士であれば、決して救出などあり得ない状況下で、日本人が命の危険を顧みず、敵国の英国人を救出してくれたせいではないでしょうか? 


bb

すみません、もう一言
今朝鳩山弟さんが麻生さんからの私信を公にしました。事の顛末や正邪はまだ分かりませんが、彼は少なくとも武士道の心得は無いと見ました。

bb

ねずきちさん、こんにちは。
先日別のところで、アメリカに日本兵の捕虜が少ないのは、捕虜にするより、いたぶって殺したと言う残酷な話を読んだ後なので、この違いは何なのかと考え込んでしまいました。戦争を賛美はしませんが、個々にどう戦ったかという証言が少ないのは、これもまた武士道のなせる業かも知れません。ともすれば自慢話になってしまうおそれがあるでしょう。自慢話が苦手ですよね、私たち。私ようなヘタレは自分に優しく人には厳しい(そうでもないかな、人にも少し優しい)けれど、真の侍は自分に厳しく他に優しいでしょう。鼻高々が苦手なんですね。だから本人ではなく、周りが努力して周知しなければいけませんね。ねずきちさんの語り口でもっともっと良い話を紹介してください。

かぐやひめさま

私の育った家ではアメリカ帰り(22年に帰国)の父が底抜けに明るい人だったのであまり悲惨な話はしませんでした。「天ちゃん、火星ちゃん」というのはありました。子供心だったので親しみを込めてと受け止めてはいました。そのことは今の御皇室に対する、世の中に溢れる不敬に繋がっているかもしれませんね。両親の年代は、かぐやひめさんの言うような傾向があるとは思います。ただ父は下っ端の上等兵でしたから、消灯ラッパと起床ラッパの替え歌を口ずさみながら仕事をしているような人でした。一言も反戦は言いませんでしたし、苦労を聞いた覚えもありません。団塊の世代の最後っ屁のような私ですが、この世代はややこしい。戦争の臭いをかぎながら、戦後の食糧難も経験せず、思春期は安保やらべ平連やら三派系やら、妙に中途半端な宙ぶらりん、地に足を付けようにも地面がぬかるんでいる様に感じていました。

でもまだ間に合いますよね。私の目の黒いうちは日本を守り抜きたいと思います。かぐやひめさん、頑張りましょう!!

あきちゃ

本日も
私の好きなエピソードのご紹介をありがとうございます。
いい話ですよね。
偉大な先人達のエピソードを目にするたびに、
奇跡の国と呼ばれた日本のすばらしさを再認識すると共に、
自分の不甲斐なさを痛感いたします。
先人達のような立派な日本人になりたいと思います。

さて、、、、
大手メディアでは民主党の本質が一切報道されないまま、
自民党の内部崩壊により、朝鮮民主党政権が実現しそうで
非常に恐怖を感じております。
本当に日本はこのまま亡国になってしまうのでしょうか。
皇紀2669年、日本人は目を覚ますのか。
そのまま深い眠りについてしまうのか。

このままでは先人達に申し訳も立ちません、、、

fukuzawa

No title
1941年3月は、まだイギリスとの戦争は始まっていない。一度確認してね。

LAY

広く日本人に知らせたい!
ねずきち 様

工藤艦長の驚愕すべき武士道精神に感激し落涙しました。

戦場は悲惨です。 なぜなら殺し合いをするところだからです。その残虐性を強調(中国の言うありもしない南京30万人大虐殺)し比べあって何がわかるのでしょう?
それはむしろ逆であり、戦場における美談にこそその民族性が顕れるのです。 日本軍のこうした逸話はたくさんあります。(天安門で国民に機銃掃射をした中国人民解放軍とは雲泥の差なんです。)

このような逸話を聞くたびに、かえすがえす無念であり、憤りを感じるのは自民党の議員でありながら、旧軍に対する無礼を恥としない政治屋たちです。

私には確信があります。それは「靖国神社の英霊に堂々と頭を垂れることのできる総理大臣でなくてどうして国を護れましょう!」ということです。

戦後60数年、日本がおかしいのは、日本人の精神がおかしいからです!

団塊後世代

No title
私の親は80歳ですが、立派な愛国者です。
年齢ではなく、背景によるのではないでしょうか。
国のありがたさに鈍感になる環境、左翼にかぶれる、など、年齢に関係なく危ないと思います。

bingo

涙が止まらないんですけど
知らない事が多いですね。

紫の上

有り難うございます
ねずきちさん、今日も泣けました。
毎日、こちらのブログを訪問するのが、楽しみです♪
こういったエピソードは今の日本人は知らない人が多いと思います。
多くの人々に知って欲しいです。

北の熊

No title
武士道は英・独の騎士道に相通ずるものがあるのでしょうか?
少なくとも蛮族の米国にはないでしょうね。
このような逸話はおそらくたくさんあるのでしょう。
ただ日本人としてそのような話をあまり他言したくない、ということだと思います。
また他の方のコメントにもありましたが、世代による「偏向」は確実にあります。
わたしの父は昭和一桁、「神国日本」そのものでわたし自身50代前半ですが、小学校時代は高等師範(戦前)出の先生が多かった時代で、「偏向」教育の影響は少ないのかもしれません。やはり「親」のスタンスと思考だと思います。
普通の日本人ならこのようなねずきちさんの内容を読めば自然と涙が出てくるでしょう。
失われた「日本人の誇り」が胸を熱くさせるのだと思います。
「教育」というものは極めて重要です。
また、戦後米国への恨みを持たせないように教育や情報統制やらでかなりうまくやられているということも良くわかります。
数日前、沖縄の集団自決問題について新たな証言が出されました。
われわれの民度が世界的に見ても遜色ないのは先人たちが残してくれた伝統・遺産であると思います。
それが一番の証拠であると思います。
そのような先人たちが戦争で蛮行を働いたなどというのは到底信用できるはずではありません。

ファシズム対民主主義という大東亜戦争ではなく、人種差別戦争であったと断言することができると今では確信しております。
「雷」はそのことを「日本の姿勢」として内外に示している好例だと思います。
「日本人」は胸を張れる「民族」です。

-

No title
☆☆☆ご協力のお願い☆☆☆
6月16日のTBS「朝ズバッ」で鳩山大臣辞任について偏向報道があったので、

『偏向報道にはスポンサー問合せ』にてスポンサー情報を更新いたしました。

TBS系朝400~昼1200
http://www23.atwiki.jp/inquiry_003/pages/24.html

スポンサー問合せにご協力ください。

siva

No title
ねずきちサン、本日も有難うございます!!
良い1日になりそうです。^^

かぐやひめ

愛信さま、ナベツネ世代こそ何も知らないのです
現在75歳~85歳のあたりの世代は、一般的に「反日」です。

戦時中は「大本営発表」のニュースが実は「嘘」だった・・・それを信じて「日本は勝っている」と、思っていたのに、実は負けていた・・・という体験。
2等兵レベルにしかいない年齢層であって、敗戦に近い軍隊で、ひどいいじめにあったり、「先輩軍人から嫌な目にばかりあわされた体験」
ものごころついたときから戦争ばかりで、修学旅行もなくなったなどの被害者意識。

戦争目的を教わるだけの知識も教養もないまま、戦場に送り込まれた・・・何もわからないで、日本の戦争に巻き込まれ「ひどい目にあった」としか、思っていないところに、戦後のおびただしい「洗脳」を受け「そうだったのか!日本はひどい国。天皇が何だ?」と、胸に深く刻んでしまった。

この1世代が、どれほど戦後の日本をだめにしたか!
ここに日本の悲劇があったと、私は思っています。(自然ん発生ではなく敵国によって作られた)

男も女も、「信じる」という「心」を失っています。
「ともかく、疑う。絶対に信じない」精神的に不安定な人が多いと思います。
人の心を信じられないから「物欲だけ」
人を信じない人は、信用できないです。いつ、他人を裏切るかわかりません。危険です。

大量に作り出された戦後世代=敗戦時成人したてから、小学校高学年程度だった世代は、その1年前の世代とも、まったく異質です。

この世代が、責任ある立場になるに従って、日本の大切な社会構造が失われて行きました。
中曽根氏は、それより前の世代だから、戦争目的を知る世代です。

戦争を目撃しながら、なお、その真の意味を知らず、
だから、日本が戦争目的を果たし、真の意味の戦勝国であることも、わからないで、
日本を貶める。

自分たちこそ、箸にも棒にもかからない無国籍人種のくせに「戦争を知っている」と、戦争を批判する。
おおかた、大江健三郎もこの世代じゃないですか?(この世代のしっぽのところに生まれていますね。)

さらに、気の毒だったのは工藤艦長のような方が、いっさい語っていないので、この世代は何も知らないくせに、知っているつもりなのです。

bbさま、わかるでしょう?あなたと私の母親の世代です。
「天ちゃん、火星ちゃん」と、平気で言っていましたです。

真実を知る前に、間違った知識で固められて・・・思えば、戦争犠牲者の一人でした。
が、加害者でも、ありました。

現在88歳になると、もう違います。少しの時間差で、違うのです。

けれど、この親たちが育てた子供が、いかんのです。
影響を受けてつながっています。全共闘世代ですね。

つまり団塊世代です。
団塊ジュニアと合わせて「17歳の連続殺人」なんかを初めて日本で発生させた世代です。

しかも、現在情報弱者として、「いっぺん民主党にやらせないと、自民党は悪すぎる」なんて、いっています。

添付の番組の司会者、ビートたけしも、団塊です。彼が「赤信号みんなで渡れば・・・」と言ったことが、どれほど日本をだめにしたかは周知のことです。

ハハサウルス

細かいことですが…
いつも素晴らしい記事を読ませて頂き有難うございます。時には涙を拭きつつ、心を熱くさせて頂いております。

細かいことで申し訳ありませんが、工藤氏の通われた米沢興譲館中学を(現:山形県立米沢中学校)とされていますが、現在の山形県立米沢興譲館高校のことではないでしょうか。(一時期「米沢中学校」の名称でした)

すみません、気になったものですから…。失礼致しました。

愛信

あんたはアホだ。 麻生を弄るな!!
小平の言葉によって、私は『親中派』となった・・・読売新聞・渡辺恒雄

私は陸軍2等兵としてあの戦争に参加したことがあり、軍隊の残忍性を知っており、当時、
多くの若い軍人が自殺行為を余儀なくされたり、戦闘機を操縦して敵に体当たりしたな
どは今日の自爆テロ行為と同じであり、非常に残忍なことであった。
【あじあん通信】より転載
陸軍2等兵で何が分かるバカタレ、小平は中共を否定した男だ、今日の体制破綻に
経済崩壊の元凶といえる小平の言葉によって、私は『親中派』となった・・
あんたはアホだ。 麻生を弄るな!!

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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: nezu3344@gmail.com
電話:080-4358-3739
出身:静岡県浜松市
住所:千葉県野田市
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「明治150年真の日本の姿」、「日本と台湾の絆」、「奇跡の将軍樋口季一郎」、「南京事件は4度あった」、などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。
日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
《著書》
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』
『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦
『ねずさんと語る古事記 壱〜序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
『ねずさんと語る古事記・弐〜天照大御神と須佐之男命、八俣遠呂智、大国主神』
『誰も言わない ねずさんの世界一誇れる国 日本』
最新刊
『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』
『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』

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