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10月23日13:30より富岡八幡宮婚儀殿で第95回倭塾を開催します。 詳細は↓で。
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日本の歴史は、7世紀の大改革(大化の改新)、19世紀の大改革(明治維新)がキーポイントとなっていますが、同時にこれを再構築しようとした1069年の「延久の善政」も、わたしたちにとって、忘れてならない大改革であったのです。 高砂の尾の上の桜咲きにけり 外山のかすみ立たずもあらなむ 実に、深い歌だと思います。
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画像出所=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%8C%A1%E6%88%BF
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
!!最新刊!! 大江匡房(おおえのまさふさ)といえば、百人一首の73番歌に、前権中納言匡房として歌が掲載されています。
高砂の尾の上の桜咲きにけり
外山のかすみ立たずもあらなむ
この歌は、ひとことで言ったら
「シラス国を取り戻すために改革をしているのだから、
並居る高官のみなさん、
あまり口出しをしないでくださいな」
といった意味の歌です。
歌そのものは直訳すれば、「遠くの山のてっぺんに桜が咲いているのが見えている。だから手前の低い山並みに、いまはかすみが立たないでほしいなあ」ですが、作者の大江匡房は、別に風景としての遠景と近景を対比させたかったわけではありません。
大化の改新(645年)のあと、我が国は天皇が民衆を直接「おおみたから」とする「シラス国」を目指す国つくりを目指したのです。
それが平安時代も中期になると、新田の開墾が進み、それら新田が私有地となり、そこに住む人々が、天皇のおおみたからとしての民ではなく、豪族や貴族たちの私有民と化す傾向が生まれてきました。
そしてそういう私有地、私有民の中には、領主によって民衆がまるで奴婢のように私的に支配され、収奪されるという状況も一部に生れるようになってきていたのです。
大江匡房は、これを改めるために「延久の善政」を実施した人です。
彼は子供の頃から、いわゆる「神童」と呼ばれた天才児で、長じても平安時代有数の碩学(せきがく)とされ、その学才は菅原道真と比肩されていました。
要するにたいへんな逸材です。
長じては大学頭(だいがくのかみ)となりました。
大学頭というのは、いまで言ったら東大の総長です。
ですが当時の大学頭は、単に東大総長というだけでなく、政治にも強い影響力を持ちました。
つまり東大の総長であって、かつ、内閣の行財政改革の筆頭といった立場であったわけです。
そして大江匡房は、第71代の後三条天皇のご治世(1068-1072)のとき、天皇の側近として朝廷政治の大改革を実施しました。
これがたいへんな善政であったことから、これを「延久の善政(えんきゅうのぜんせい)」と呼びます。
大江匡房に関する逸話としては、源氏の頭領である八幡太郎義家(源義家)が、大江匡房の兵法の弟子になったというものがあります。
前九年の役でたいへんな苦労をした八幡太郎義家が、実戦の苦労から、当時日本一の英才であり兵法の達人であった大江匡房に弟子入りしたわけです。
その甲斐あって、義家は後三年の役のときには見事に快勝を果たしています。
大江匡房が果たした延久の善政とはどのようなものだったのでしょうか。
彼は後三条天皇を支える太政官のブレーンとして、形骸化しつつあった律令制度の再構築と、内裏の再建、財政基盤の再確立、そして征夷の完遂を打ち出し、このための施策を次々に実行していきました。
この「延久の善政」によって、私的に私財を蓄えていた摂関家は、かなりの財産を失いました。
けれど内裏の財政はうるおい、またこの時代に起きた「延久蝦夷合戦」によって、いまの青森県までの本州全土が、完全に朝廷の支配下に入り、豪族の私有するエリアではなく、天皇のシラス国の仲間入りをしました。
奥州諸国が天皇のシラス国の仲間入りするということは、奥州の豪族たちにとっては、あまりいいことはありません。
朝廷への納税の義務が発生するし、領民たちはそれまでの私有民から、天皇の民という位置づけになるからです。
ところがそこに住む領民たちからすると、それまでは領主である豪族たちに私的に支配される隷民でしかなかった地位が、今度は我が国最高権威である天皇の民という地位に大昇格するわけです。
支配層である豪族たちは、それまでは領民たちを生かすも殺すも自由だったものが、こんどは領民たちは天皇からの預かりものという地位になりますから、勝手に殺したり奪ったりされることがない。
領民たちこそが、最高のたから、という位置づけになるのです。
「延久の善政」における「延久蝦夷合戦」は、朝廷の支配圏の拡大や征服地の拡大を意味するものではありません。
同じ国土に住む一般の民衆が、人として安心して暮らせる国の民となるという意味を持つものであったわけです。
冒頭の歌には、歌の詠み手の名前として、大江匡房ではなく、前権中納言と職名が書かれています。
ここまでくれば、この歌が、表面上に書かれた「単に遠くに見える山頂の桜を詠んだ」というだけの歌ではないことが、はっきりしてきます。
つまり、ここでいう「高砂の尾の上」は、遠く奥州の津軽半島や下北半島までの遠くにある地域のことであり、「桜」はそこが本朝の一部となったこと、そして「桜」は、朝廷の財政再建にあたって、本来の我が国の理想とする姿である「シラス国」であること、すなわち美しい国日本の理想の姿を示したものであることがわかります。
これを実現するにあたって、障害となっているのが、朝廷内にある「ウシハク」に取り込まれた人たち、つまり低い山に群がる「かすみ」であり、それが「外山のかすみ立たずもあらなむ」と、「どうか、いま行おうとする改革の邪魔をしないで下さいな」と詠んでいるわけです。
つまりこの歌の意味は、
「遠く奥州までもが我が国の領土となり、
朝廷の財政も改革が成功しようとしている。
どうか身近にいる摂関家を筆頭とする改革反対派のみなさん、
その改革事業のじゃまをしないでくださいな」
というところに、その歌意があるわけです。
たいへん不思議なことに、昨今の中学や高校では歴史の授業で、この「延久の善政」を教えません。
教科書だけでなく、副読本にさえ「延久の善政」は書かれていないことが多いようです。
なぜなら、この「延久の善政」に触れることは、当時の日本社会が理想とし、明治の大日本帝国憲法が理想として「シラス国」の概念を説かなければ、延久の改革が「なぜ善政と呼ばれたか」の説明がつかなくなるからです。
大江匡房はまさに碩学と呼べる人です。
その人およびその思想、あるいは彼の理想としたものは、同じく幕末から明治にかけての碩学・井上毅(いのうえこわし)にたいへんよく似ています。
井上毅は、大日本帝国憲法を起草し、また教育勅語、学制序文などを起草した人ですが、彼の理想もまた「シラス国」の再現にありました。
日本の歴史は、7世紀の大改革(大化の改新)、19世紀の大改革(明治維新)がキーポイントとなっていますが、同時にこれを再構築しようとした1069年の「延久の善政」も、わたしたちにとって、忘れてならない大改革であったのです。
高砂の尾の上の桜咲きにけり
外山のかすみ立たずもあらなむ
実に、深い歌だと思います。
日本をかっこよく!お読みいただき、ありがとうございました。
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