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10月23日13:30より富岡八幡宮婚儀殿で第95回倭塾を開催します。 詳細は↓で。
https://www.facebook.com/events/1041364216516794■□■━━━━━━━━━━━━━■□■
大正9(1920)年、トランペルドールは、パレストナのガリラヤ地方でアラブ人の武装集団の銃撃を受け、息を引き取りました。最期となったとき、トランペルドールがヘブル語で言った言葉が、 「アイン・ダバル!トフ・ラムット・ビアード・アルゼヌ!」です。 意訳すると、 「俺に構うな!国のために死ぬほどの名誉はない!」となります。 それは大阪の浜寺で、彼が日本人の一兵士から教えられた言葉でした。
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
!!最新刊!! イスラエルは昭和23年(1943)に建国されたユダヤ人の国家です。
新しく国家を建設したわけですから、周囲はすべて敵国に囲まれています。
このためイスラエルは建国から日が浅いですけれど、幾度となく大きな戦争を経験しています。
イスラエルでは、軍に新兵が入隊すると、死海のほとりにあるマサダ砦の跡地で、入隊の式典を行ないます。
新兵はマサダ砦で右手に自動小銃を握り、左手に旧約聖書を持って
「マサダは二度と陥ちない」
と誓うのです。
マサダ砦というのは、二千年前に古代イスラエル国がローマ帝国によって滅ぼされた際に、最後まで抵抗戦をした砦です。
そこですこし歴史を遡ってみます。
古代ユダヤ王国が誕生したのは、いまから3000年前、紀元前11世紀頃のことです。
古来、敵を倒すには、敵を分断し、バラバラにして各個撃破するというのが常套手段です。
古代ユダヤ王国は、他国につけこまれて紀元前922年に、内乱が起こり、南北に分裂してします。
北がイスラエル王国。
南がユダ王国です。
分断されたイスラエルは、紀元前721年には北のイスラエル王国がアッシリアに滅ぼされ、紀元前612年には、南のユダ王国も新バビロニアに滅ぼされてしまいます。
イスラエルの民(ユダヤ人)は自分たちの民族の国家を失ってしまったのです。
国家を失うということはどういうことか。それは、民族としてのアイデンティティも風俗習慣も、先祖を祀る歴史も、個人の私有財産も、すべて奪われ、奴隷として収奪されるということです。
イスラエルの民は、紀元前143年、独立運動を行います。
これがマカバイ戦争です。
マカバイ戦争を勝ち抜いたユダヤ民族は、いったんイスラエルの地の独立を勝ち取ります。
ところがせっかく作った国家も、内紛につけこまれ、政治的にローマ帝国の属州にされてしまいます。
これを不服としたユダヤ人が、再度立ち上がったのが、100年後の西暦66年です。
これが第一次ユダヤ戦争です。
彼らはなんとか独立を勝ち取るのですが、これを不快に思ったローマ帝国は、軍を派遣して、西暦70年、首都エルサレムを陥落させています。
このとき最後まで抵抗したのが、エルアザル・ベン・ヤイル率いる967名のユダヤ人たちです。
彼らは、「マサダ砦」に立てこもり、最後まで抵抗戦を行いました。
包囲する敵(ローマ軍)は1万5千人の大軍です。
その大軍を前に、マサダの967人は、なんと3年近くもこの砦を守り通します。
しかし衆寡敵せず、西暦73年には、ついに砦は攻め落とされてしまうのです。
砦が陥落する直前のことです。
ユダヤ人たちは、投降してローマの奴隷となるよりは死をと、2人の女性と5人の子供を残して、全員が集団自決します。
その自決に際して、エルアザル・ベン・ヤイールは、次の通り演説したとヨセフスの「ユダヤ戦記」に記載されています。
*
高邁なる友よ、
我々はずっと以前から、
人類の唯一なる真にして義である主なる神以外には、
ローマ人であれ、何人であれ、
奴隷にならないと決心してきた。
そしてこの決意を実行に移して眞なるものとすべき時が
今や到来した。
我々が自由な状態で勇敢に死ねることは、
神が我々に与えたもうた恵であると、
私は思わずにはおれない。・・・
我々にはまだ、
最愛なる同志とともに
栄光ある死を選ぶこともできる。
我々の妻たちが辱めを受ける前に、
子供たちが奴隷を経験する前に、
死なせてあげようではないか。
自由を保持してゆこうではないか。
糧食のほかは何も残さずにおこう。
何故なら、
我々が死んだときの証として、
我々が制圧されたのは
必需品が不足していたからではなく、
最初からの決意に従って
我々は奴隷よりも死を選んだことを
示してくれるだろうから。
そして男たちは自らの手で最愛の者達(妻と子)を殺しました。彼ら(男たち)の中から籤で十人を選び、残りの者達は首を差し出しました。
選ばれた十人は恐れることなく使命を果たした後、再び籤(クジ)で一人を選び、殺されていきました。
最後に残った一人は、宮殿に火を付け、自らの剣を体に刺し貫いて死にました。
マサダ砦は、この戦いのあと、ローマ軍によって徹底して破壊されました。
それは単に砦を破壊したというだけにとどまらず、周辺の地勢まで変えてしまうほど徹底したものでした。
マサダは台地ではありますが、千人近い人たちが約3年間立てこもったということは、三年間そこで生活できるだけの水や緑の豊かな自然がそこにあったということです。
にもかかわらず、いまでは辺り一帯は、草も木もない荒涼とした荒れ地です。
おそらくローマは、二度と抵抗が起こらないよう、辺り一帯の木を全部刈り取ってしまったのでしょう。
木を伐られた土地は貯水能力を失い、いまではすっかりそこは瓦礫の台地となっています。
こうしてローマは、イスラエルの歴史を徹底して消し去りました。
60年後の西暦132年、ユダヤ人バル・コクバは、ローマに対してふたたび独立戦争を挑みます。
これが第二次ユダヤ戦争と呼ばれるものです。
バル・コクバは一時イスラエルを奪還して政権を奪いましたが、翌135年にはローマ帝国に滅ぼされています。
こうしてイスラエルの民は各地に離散し、昭和23年にいまのイスラエルが建国されるまで、長い流浪生活を余儀なくされました。
ちなみにこの離散生活者のことを
「ディアスポラ
(διασπορά、英:Diaspora,diaspora)」
といいます。
ディアスポラは、植物の種などの「撒き散らされたもの」という意味のギリシャ語に由来する言葉です。
「難民(refugee)」とは違います。
難民は元の居住地に帰還する可能性を含んでいますが、ディアスポラには帰るべき国がないからです。
不思議な事に、この「ディアスポラ」に邦訳はありません。
これもまた現代日本の教育の欠陥だと思います。
イスラエルの民は、第二次ユダヤ戦争のあと、約二千年にわたって「ディアスポラ」になったのです。
しかし「マサダの戦い」で「自由のために糧食を残しておいた」という史実は、ユダヤ人たち間で神話となりました。
ローマの徹底した破壊によって、実は長いことマサダ砦のあった場所さえ、ずっとわからなくなっていたのです。
そのマサダの跡地が発見され、神話が証明されたのは、なんと1838年になってからのことです。
ドイツ人研究者によって発見され、伝説の戦いが実際に起こったものであることが立証されました。
マサダの山頂の発掘から、この籤で選ばれた十人が、それぞれ自らの名を署名した陶片が見つかったのです。
ユダヤ人たちは、二千年前に国を失いディアスポラとなりました。
けれど彼らは奴隷となる道は選びませんでした。
流浪の民となっても「俺達は人の奴隷にはならない」という誇りが彼らの主体性を保ち続けたのです。
実はここに神話や伝承の持つ凄味があります。
神話は民族のアイデンティティとなるのです。
こうして時が経ち、日露戦争が行われる時代になりました。
このとき日露の激しい戦いが行われた旅順のロシア要塞に、ユダヤ人のヨセフ・トランペルトールがいました。
彼は帝政ロシアに住んでいたのですが、ある日、突然、拉致され、ロシア兵に仕立てられ、旅順要塞に兵士として立て篭もらされていました。
戦いの途中、彼は日本側の砲撃によって、左腕を根元から失いました。
それでも残った一本の右手で、拳銃を撃ち、最後まで戦いました。
当時のロシア軍では、拉致した兵(これを当時のロシアでは徴兵と呼びました)が昇格することはありえなかったのですが、トランペルトールはその勇敢さゆえに伍長に抜擢されました。
しかし彼らが勇敢に戦った旅順要塞は陥落し、トランペルトールは1万人のロシア捕虜と共に、大阪府堺市の浜寺にある捕虜収容所に連れてこられました。
当時の日本はまだ貧しかったけれど、国際法に準拠して捕虜たちに最大限の待遇を与えました。
新鮮な肉や野菜やパンをふんだんに支給し、将校には当時のお金で月額で三円、兵には五〇銭の給料も支給していていました。
日本の兵隊さんと較べて、決して多い金額ではありませんが、三食昼寝完全看護付きです。
このとき日本は、捕虜収容を、彼らの宗教によって建物を分けました。
宗教上の対立を持つ彼らの国情を、ちゃんとわきまえての措置です。
このために、約500人いたユダヤ人たちは、同じ建物で暮らすことができました。
トランペルドールは当時、日本人の所長にかけあって、収容所の中に学校をつくる許可を得ています。
ユダヤの捕虜たちに、ロシア語の読み書きや算術、地理、歴史などを教えるためです。
また、トランペルドールがユダヤ人のために収容所内で、過越の祭をしたいと言うと、所長は横浜のユダヤ人社会と連絡をとってくれて、ユダヤ人捕虜のために種なしパンの粉と、パンを焼くためのカマドを取り寄せてくれたりもしています。
そんなことからトランペルドールは、日本はなんと文明国なのだろう、と考えるようになりました。
敵の捕虜たちに対してさえ、これほどに親切に接してくれるのです。
ところがあたりをみれば、周辺の民家には夜、灯りがともらず真っ暗、電気さえ通っていないのです。
トランペルドールは思いました。
「電気もない貧しい小国が、
なぜ大国ロシアを相手に
勝つことができたのだろうか」
そして一生懸命日本語を習得して、なぜそんな貧しい日本が、大国ロシアに打ち勝つことができたのか、その秘密を探ろうとしました。
答えは意外と身近なところで見つかりました。
警備をしているひとりの若い日本兵が言ったのです。
それは、
「国の為に死ぬほど名誉なことはない」
という言葉でした。
この言葉はトランベルドールに衝撃を与えました。
ユダヤ人であるトランペルドールには、死に値する「祖国」がなかったからです。
ユダヤ人である彼にとって、ユダヤ人の国家の建設は、ユダヤ二千年の夢です。
しかしユダヤ人の国家を樹立するとはいっても、その国家は、どのような国家でなければならないか。
夢を現実にするためには、その具体的な青写真がなければ、同志を巻き込み、新国家樹立をすることなどできません。
そうした問題意識を抱いていたトランペルドールはやがて、
「新しく生まれるユダヤ国家は、
日本のような国家でなければならない」
と心に刻むようになりました。
明治38(1905)年、日露講和条約によってロシアに帰国したトランペルドールは、やがてパレスチナに渡りました。
当時パレスチナはまだ、オスマン・トルコ帝国の領土です。
彼はそのパレスチナで、イスラエル国の建国運動の中心的なリーダーになりました。
このとき彼が、具体的に築くべき理想国家図にしたのが、日本でした。
彼はイスラエルに、日本を手本としたユダヤ人国家を建設しようとしたのです。
大正9(1920)年、トランペルドールは、パレストナのガリラヤ地方でアラブ人の武装集団の銃撃を受け、息を引き取りました。最期となったとき、トランペルドールがヘブル語で言った言葉が、
「アイン・ダバル!
トフ・ラムット・ビアード・アルゼヌ!」です。
意訳すると、
「俺に構うな!
国のために死ぬほどの名誉はない!」
となります。
それは大阪の浜寺で、彼が日本人の一兵士から教えられた言葉でした。
今日、イスラエルのトランペルドールの記念館にある像には、この「国のために死ぬほどの名誉はない」という言葉が刻印されています。
また展示されている彼の遺品には、「新しく生まれるユダヤ国家は、日本的な国家となるべきである」と書かれています。
こうして建国されたイスラエルでは、冒頭に申しましたように、マサダ砦の誓いが行われ、またとランペルトールは建国の英雄とされ、そして日本を手本とした国作りがいまなお行われているわけです。
マサダの伝説は、2千年の間、ユダヤ人たちが奴隷化されることを防ぎ、彼らに主体性を与え、そして二千年の時を超えてイスラエルの建国にまで至りました。
そしてその根幹にあったのは、マサダの伝説であり誇りであり、命を賭けるに足る祖国であったわけです。
そして彼らにとっての祖国観は、「日本のような国家」にあるわけです。
では、その日本とはどのようなアイデンティティを持った国なのでしょうか。
実はその秘密は、日本の神話の中にあります。
これについては、また後日。
日本をかっこよく!お読みいただき、ありがとうございました。
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