百人一首と察する文化



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10月23日13:30より富岡八幡宮婚儀殿で第95回倭塾を開催します。
 詳細は↓で。
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古来、男性は、支配と闘争の生き物です。
一方、女性は、受容と愛情の生き物です。
この両者の考え方や行動は、互いに相容れない別物です。

そして歴史を通じて、世界は男性原理で動いてきました。
武力による支配、競争社会、いわば弱肉強食の世の中を築くのは男性原理です。

では、大弐三位のような、女性が輝く時代というのは、どのような時代なのでしょうか。
それは、支配と闘争の男性原理ではなく、受容と愛情がたいせつにされる社会です。
なんと日本は、千年もの昔に、そんな社会を築いて来たのです。

20221011 ガーベラ
画像出所=https://horti.jp/792
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
小名木善行です。

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小倉百人一首は、平安末期から鎌倉時代初期を生きた藤原定家の作になるもので、各歌には順番が付してあります。
最初の歌が第38代天智天皇、いちばん最後が順徳院です。
名前は順徳院となっていますが、天皇を退位されたあとに院となられたものです。もとは第84代順徳天皇です。

天智天皇のご治世が668年2〜672年、順徳天皇のご在位が1210〜1221年です。
つまり百人一首は、ただ単に百人の歌人の百首の歌を並べただけではなくて、実は、天皇にはじまり、天皇に終わっている。
つまり最初の歌である天智天皇に始まるおよそ五百年の天皇のシラス統治の興亡を、百人の歌人の百首の歌を用いて、天皇と貴族と民衆、つまり皇臣民の五百年の歴史を叙情詩として描いた作品です。

天智天皇は、皇太子時代に大化の改新を行い、その後に天皇にご即位されました。
このときの取り組みによって、我が国は同じ時代の世界に例をみない平和と安定の国家を形成しています。
ところがその500年後の平安末期、政界の争いに武力が介入するという事件(保元の乱)が起こり、ここから平和な時代が音を立てて崩れていきます。
そして時代は鎌倉の武家政権へと進みました。

編者の藤原定家は、平安時代が崩れていく動乱期を生きた政治家であり、歌人です。
彼は晩年最後の作品として、500年の平和と繁栄がなぜ生まれ、その繁栄によって何がもたらされ、そしてなぜ崩れていったのかを、百人の百首の歌で、これを表現した。それが百人一首です。
だから「百人百首」ではなく、「百人一首」です。百人の百首の歌ぜんぶで、一首の歌、つまり抒情詩にしたのです。

詩文学で歴史を描くには、叙事詩と抒情詩の二つの方法があります。
叙事詩は、事件や人物など具体的な事実を用いて歴史を記述します。
抒情詩は、当事者の心の動きを用いて歴史を記述します。

現代の歴史学は、もっぱら叙事によって記述されますが、人間の世界のあらゆるできごとは、人や人々の心の動きによって形成されます。
その意味では、抒情的な描き方のほうが、もしかすると「正しい」「伝わる」ものなのかもしれません。

ただ、日本の文化は「引き算の文化」です。
西洋のように、一から十まで事細かに記述するということをしません。
必要最低限の手がかりだけ与えるから、あとは自分の頭で考えなさいというのが、日本文化です。
そして和歌は、その最たるものです。

ですから百人一首に掲載された和歌を、通り一遍の表面上に書かれていることだけを意訳しても、意味はわかりません。
わかったとしても、せいぜい近年の演歌や艶歌、浪花節にしか見えません。

そこで万葉集や古今和歌集などの古い歌集では、詞書(ことばがき)といって、歌の前後に、その歌が詠まれたシチューションなどを掲載しています。
読み手は、それらを手がかりに、歌の真意を読み解くわけです。

百人一首の場合、そのような詞書はありません。
出典となった個々の歌が掲載された歌集には詞書があっても、百人一首では、それらは省略してあります。
その代わり百人一首は、歌に順番の番号と、歌人の名前をそれぞれに付しています。

たとえば、大学頭であった大江匡房(おほえのまさふさ)は、「前権中納言匡房」としてあります。
単に大江匡房と名前が書いてあるだけなら、それは個人的な歌です。
けれど「前権中納言匡房」と、職名を付してあるなら、その歌は仕事上の、仕事に関係した歌ということになります。
着流し姿の普段着の言葉と、裃(かみしも)を付けたオフィシャルな言葉では、伝えるものが違うのです。

73番歌にある大江匡房の歌は、次のように記述されています。

 七拾参 前権中納言匡房
 高砂の尾の上の桜咲きにけり
 外山のかすみ立たずもあらなむ

歌の表面上の意味は、「尾根の上に桜が咲いた。山にかかる霞よ、じゃまだからどいてくれい」といった意味になります。
ところが大江匡房は、後三条天皇のもとで延久の善政を実行し、朝廷の腐敗を改善し、遠く青森までを朝廷の傘下に組み込んだ人物です。
つまり、シラス統治によって、遠く青森県の民衆も、天皇の「おほみたから」とした人物です。
これにより民衆は、豪族たちによる私的支配を受けなくても良くなったのです。
それは民衆が人として生まれ、人として生きるために、絶対に不可欠なことです。
つまり、東北地方まで、人が人として生きれるようになったことを意味します。
その一方で、大江匡房は、宮中の貴族たちの財産や権力を、かなり削っています。

つまりこの歌の真意は、
「シラス国を取り戻すために改革をしているのだから、
 並居る高官のみなさん、
 あまり口出しをしないでくださいな」
といったことを伝えようとした歌だとわかります。

百人一首の49番に、大中臣能宣朝臣(おおなかとみのよしのぶのあそん)の歌があります。

 御垣守 衛士のたく火の 夜は燃え
 昼は消えつつ ものをこそ思へ

この歌を現代の多くの解説書が「恋の歌」だと解説しています。
「御垣守の衛士たちが焚く篝火(かがりび)のように、
 私の恋心は、夜は炎のように燃えるけれど、
 昼間は消えてしまう。
 いったいどうしちゃったんだろうね」
といった解説がなされています。

恋心が、夜燃えるは結構な話です。
しかし、昼間消えてしまうのはちょっと困りものです。
どうしてそんな下品な歌が、名歌といえるのでしょうか。

そもそもこの歌を詠んだ大中臣能宣朝臣は、神祇官の大副であった人です。
神祇官というのは、天皇直下にあって、太政官と並ぶ大きなお役所です。
しかも伊勢神宮の祭主でもあった人です。
要するに神官であり、しかもたいへんな大物です。
そのような人物が、職名で、「私の恋心は〜」とだけしか言いたいことはなかったのでしょうか。

歌にある「御垣守」は、今でいうなら皇宮警察官です。
いまは給料をもらう公務員ですが、江戸時代までは、皇居の警備を行う衛士(えじ)は、各藩が勤めました。
幕末の蛤御門の変(禁門の変)は、京都御所の西側の門を守る会津藩と、長州藩が激突した事件ですが、このとき蛤御門の警固をしていた会津藩は、朝廷から給料をもらって警固をしていたわけではありません。

江戸時代を通じて、京都御所の警固は、各藩が持ち回りで行っていましたが、その警固のための費用(京都までの旅費、宿泊費、食費、警固期間中の藩士たちの給料の一切は、それぞれの藩が持ち出しです。
それよりももっと古い、源平時代には、源氏と平氏が交代で禁門の警固に当たっていました。
これまた経費一切は、それぞれの持ち出しです。
ちなみに禁門というのは、天皇の御所のことを、神聖にして侵してはいけないということから禁裏(きんり)と呼びますが、そこから御所にある全ての門が「禁門」と呼ばれています。

武士が台頭してからは、もっぱら禁門の警固は武士たちが行うようになったのですが、その武士が登場するよりも古い時代はというと、全国から皇居に勤労奉仕に集まる一般の庶民が、御所の警固にあたりました。
その人々も、旅費、交通費、宿泊費、食費等は全て自前です。
自分のお金で上京し、勤労奉仕をしていたのです。

そんな勤労奉仕団の人々は、女性はいまと同じで御所の清掃活動、男性は門番を任せられました。
日頃は農家や漁業をしているおじさんやお兄さんたちが、禁門の衛士を任せられるのです。
これはとっても名誉で嬉しいことでした。
だから彼らは、一晩中篝火(かがりび)を絶やさないし、寝ずに番をするし、昼間はもちろん篝火は消すけれど、雨が降っても雪が降っても、直立不動の姿勢を崩しませんでした。

どうしてそこまでするのかって?
あたりまえです。
一庶民である自分たちが、権力からの一方的な支配を受けない、奴隷とならないで、それどころか豊かに安心して安全に暮らすことができているのは、天子様(天皇のこと)が自分たち庶民を「おほみたから」としてくれているからなのです。
海外の歴史などを知れば、なおのこと、その日本のありがたさがわかる。
そういうことを一般の庶民の誰もが常識として知っていたのです。

これはとても大切なことです。
実際日本では、上古の昔から、庶民たちが自分の費用で京の都まで旅をすることができたし、このときに女性であっても途中で盗賊に襲われる心配をすることなく、安心して旅をすることができたのです。
だからこそ、京の都で天皇の存在のありがたさに感謝して、何日も宿泊したり食事をしたりしながら、禁門の警固や皇居の清掃作業などをよろこんで行っていたのです。
ここにシラス統治の完成された姿があります。

大中臣能宣朝臣は、だから「そういう庶民の姿を、自分たち貴族、政治を預かる者たちは、しっかりと認識しようではないか」とこの歌に詠んでいるのです。
そしてこのことがわかるように、百人一首の編者の藤原定家は、歌に大中臣能宣朝臣と、職位を付しているのです。

「私の恋心は夜しか燃えない」などと次元の低い意味でしか捉えることができないのは、日本人の劣化以外のなにものでもありません。

7世紀の天智天皇が行った大化の改新は、古くからの日本の形である天皇のシラス統治を復活させようとしたものです。
その統治のありがたさが、一般庶民の間にも広く浸透し、民衆がまさに平和と繁栄と豊かさと安全を享受できた、平安中期の心得が、この歌に描かれているのです。

大中臣能宣朝臣は、十世紀に生きた人です。同時代を生きた有名人としては、美人で名高い藤原道綱の母や、紫式部、清少納言、和泉式部らがいます。
シラス統治が完成の域に近づいた時代は、まさに女性たちが輝く時代でもあったのです。

女性が輝くという時代は、世が戦乱の渦に呑まれていたり、あるいは女性たちが貞操の危機に晒される暴力が支配する世とは、まさに対極にある時代です。
そしてそれこそがシラス国の目指す平和な社会です。

この大中臣能宣朝臣の歌は、百人一首の四十九番に置かれた歌です。
百人一首は冒頭の数首の歌で和歌そのものの醍醐味や味わい方を示したあと、一番歌の天智天皇にはじまるシラス国が形成され、完成されていく様子を、ひとつづの歌で描き出しています。
そして中盤、五十三番歌から六十二番まで、中に一首、大納言公任の歌が五十五番にありますが、これを除いて九首連続で女流歌人の歌を配置しています。
そこに、美人で名高い藤原道綱の母から、和泉式部、紫式部、清少納言など、中世の日本を代表する女流歌人たちの歌が並んでいます。

いかに女性が輝いたのかということを、百人一首58番の大弐三位(だいにのさんみ)から学んでみたいと思います。
大弐三位は、紫式部の娘です。
十六歳のときに母が他界してしまうのですが、たいへん美しく、また才能に恵まれた女性で、まさにキャリアウーマンとして大成した女性です。
生涯にたくさんの歌を遺していて、勅撰集には三十七首が入集しているのですが、藤原定家はその中から、次の歌を百人一首に入れました。

 有馬山猪名の篠原風吹けば
 いでそよ人を忘れやはする
(ありまやま ゐなのささはら かせふけは いてそよひとを わすれやはする)

単純に現代語に訳すと、
「有馬山の近くにある猪名(いな)にある笹原に風が吹くとき、
 どうして私があなたのことを忘れるのでしょうか」
といったものになります。
けれどこれだけでは、何を歌っているのかさっぱりわかりません。

この歌は『後拾遺集』(七〇九)に詞書があります。
そこに「かれがれなる男の、おぼつかなくなど言ひたりけるによめる」とあります。
どういう意味かというと、離れ離れになってしばらく逢わないでいた彼が「おぼつかなく」、つまり「私のことを忘れたのではないですか」などと気弱な手紙を書いてきたので、「忘れていませんよ」と歌にして送ったというのです。

ちなみに有馬山と聞けば有馬温泉が思い浮かびますが、有馬温泉は日本三古湯のひとつです。
六三一年に舒明天皇が湯治のために三カ月間滞在したという記録が『日本書紀』にあります。
平安時代『日本書紀』は貴族たちの定番の歴史教科書でしたから、有馬山といえば有馬温泉、有馬温泉といえば舒明天皇の湯治、つまり「癒し」を連想させるものでした。

歌の冒頭に「有馬山」があるということは、大弐三位に手紙をよこした彼は、癒しを求めたことがわかります。
その彼が大弐三位に、
「あなたがどのように思っているのか、不安で心配です」
という手紙を書いたわけです。

そこで大弐三位は、「有馬山」で彼の気持ちに理解を示し、「猪名の」は「否の」でもありますから、彼の心配に「否」と答えています。
そして下の句では、
「どうして私があなたを忘れるでしょうか。
 忘れるはずがありません」
と念押しをしています。

母を失いながらも、大弐三位は明るく自信に満ちた女性に育ちます。
しかも母が名士の仲間入りをしてくれたおかげで、その恩恵を十二分に受けています。
そんな大弐三位に対しては、貴人すらも気弱に「私のことをお忘れでは?」と問わなければならないほどだったことが、この歌を通してわかります。
彼女はまばゆいほどの光彩を放つ女性だったのです。

しかも大弐三位の魅力は、彼女自身が輝く存在でありながら、この歌のように細やかに相手の気持ちを思いやる優しさと、豊かな感受性を持っていたところです。
おそらく手紙を出した男性は、不安で一杯だったことでしょう。
そのことを、ちゃんと察しているのです。

しかも、ここで大弐三位は、まったく相手の男性に媚びていません。
堂々と対等に、しかも爽やかな清涼感で歌を返しています。

大弐三位は、母の紫式部の後を継いで一条彰子に仕え、その後、関白藤原道兼の次男兼隆と結婚して一女をもうけています。
そしてのちには、第七十代後冷泉天皇となる親仁(ちかひと)親王がお生まれになられたときに、その乳母に任ぜられています。
乳母というのは、皇子の母親がわりとなって子育てをする、たいへん重要なお役目です。
その後、典侍(ないしのすけ)に任じられ、女房として最高の従三位まで栄達しています。
どれだけ優秀な女性であったかということです。

大弐三位は三十六歳のとき太宰府長官の高階成章(たかしなのなりあき)と再婚し、夫の成章が大宰大弐に就任し、本人も従三位に昇叙したことから大弐三位と呼ばれるようになりました。
要するに大弐三位という名は、夫婦揃って高級官僚で、今風にいえば、まさにキャリアウーマンとして大成した女性だったことを示しています。

当時の女性が全部が全部、大弐三位のように優秀で栄達できたとはいいません。
いつの時代でも、男性の不条理に泣かされた女性も数多くいたことでしょう。
けれど同時に、大弐三位のような溌剌と輝く女性が、平安中期に生きていたこともまた事実であろうと思うのです。

11世紀という時代にあって、世界の中でそのようなことを現実化できたのは、世界広しといえども日本だけです。
そしてそのことは、当時の日本が、平和で豊かで誰もが安全に安心して生きることができる世の中であったことを証明しています。

古来、男性は、支配と闘争の生き物です。
一方、女性は、受容と愛情の生き物です。
この両者の考え方や行動は、互いに相容れない別物です。

そして歴史を通じて、世界は男性原理で動いてきました。
武力による支配、競争社会、いわば弱肉強食の世の中を築くのは男性原理です。

では、大弐三位のような、女性が輝く時代というのは、どのような時代なのでしょうか。
それは、支配と闘争の男性原理ではなく、受容と愛情がたいせつにされる社会です。
なんと日本は、千年もの昔に、そんな社会を築いて来たのです。


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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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