海神の宮殿のもうひとつの解釈



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三内丸山遺跡は、縄文時代前期中頃から中期末葉(約5900-4200年前)の大規模集落跡とされていて、忽然と村人たちが消えた村とされていますが、急激な気温の低下によって、そこに住んでいた海神の一族が、村を捨て、今度はその時代にとても暖かかった沖縄に住んで、そこを竜の宮、竜宮と呼ぶようになったのかもしれません。

20210218 三内丸山遺跡



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小名木善行です。

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今使われている「琉球」という名は、十四世紀後半の明の時代に、明の皇帝が琉球三山時代に沖縄にあった3つの王朝(琉球國山北王、琉球國中山王、琉球國山南王)の冊封を明が認めたときに、明への冊封国の証として「氵」が「王偏」に置き換えられて「琉球」となったものです。

それ以前のチャイナでは、沖縄のことを「流求」と書いていました。
これもまた証拠があって、『隋書巻81列伝第46東夷伝』にに「流求國」とあります。
ちなみに沖縄がチャイナの史書に登場するのは、これが初出になります。

誰でも知っていることですが、古代のチャイナでは、周辺諸国を蛮族と呼び、ろくでもない漢字を当てるのが常でした。
ですから、その「流求」という字もまた、意図的に貶めようとして用いられた当て字です。
ただ、そうはいっても彼らが漢字の当て字をしようとするとき、必ず行うのが、発音、つまり音(こえ)だけは、似た発音になるようにする。

そこで記紀に、似た発音の土地があるかと探してみると、これがあります。
「竜宮」です。
つまり、我々大和民族が、竜宮と認識していたところを、チャイナは勝手に流求と書き、朝貢したら、もったいをつけて琉球にしたわけです。
そんな漢字をいまだにありがたがって使っている日本人もまたお人好し以外の何者でもない。
その意味で、個人的には、これからは琉球は、日本式に「竜宮」と表記すべきではないかと思っています。

ところで日本列島は、というより地球気温そのものがそうなのですが、千年の単位で図ると、上昇期があったり、気温の下降期があったりします。
その温度差は、直近の1万年だけでも、年間平均気温が現在よりも−8℃から+2℃まで、つまり10℃も違います。
(それ以前の10万年くらいのスパンでみると、気温差はもっと大きくなります)

このことは、戦前から昭和30年代くらいまで、日本列島がとっても寒くて、日本海側などでは、平野部でも冬になると2階の窓から出入りしなければならないほどの大雪が降ったのに、いまでは4〜50センチ程度しか積もらなくなったことでも明らかですし、夏場でも、一昔前まではラジオで「今日は30度を超える猛暑です」なんて放送していたものが、いまでは40℃を越す猛暑になったりしていることでも明らかなことです。

歴史を振り返れば、いまから6千年前には、いまよりも年間平均気温が2℃も高く、この時期には日本列島の西日本一帯は熱帯雨林でしたし、青森あたりが、いまの鹿児島のような温暖な気候でした。
逆に3000年ほど前は、いまより年平均気温が2℃低く、この頃は東日本はいまの樺太北部のような亜寒帯で、東京あたりでも、冬には零下40℃くらいになる、寒い時期であったとされています。

日本人は、もともと海洋族で、海で魚を捕り、貝を拾って食べていたことは縄文時代の遺跡から明らかになっていますし、葦舟に乗って、外洋をどこまでも航海する、航海術に長けた民族であったことも近年では明らかになりつつあります。
そして漁労を中心とする海洋族であれば、海水温の変化によって、収穫する魚が北へ移動すれば、住居も北へと移動させる。
南へ移動すれば、住居もまた南へ移動させていたと考えられます。

とにかく日本列島全体で、12万人くらいしか人口がなかったのが縄文時代です。
土地の所有権で揉める心配はないのですから、その時時の気象環境で、最も住みよいところに住めばよかったわけです。

そしてこのことに記紀を重ね合わせると、おもしろいことがわかります。

先程、琉球は竜宮であると書きました。
そして竜宮におわされたのが、海神(わたつみのおほかみ)です。

その海神の宮殿について、日本書紀がおもしろい記述をしているのです。
引用します。

ここにかごすて  いでしとき 於是棄籠遊行
わたつみかみの  みやいたる 忽至海神之宮
そのみやちてふ  ととのひて 其宮也雉堞整頓
たかどののうへ  かがやきぬ 臺宇玲瓏


>《現代語訳》
 塩土老翁(しおつちのおきな)に作ってもらった籠(かご)に乗ってしばらくして岸辺に着いた山幸彦が、籠を捨てて歩くと、たちまち海神(わたつみのかみ)の神殿に到着しました。
その神殿は、高々とした土壁《これを雉(たかがき)といいます》の上に、立派な垣根(かきね)《堞(ひめがき)》が、きちんと手入れされていて《頓》、周囲を見渡すように建てられた高い建物《臺(うてな)》は、燦々(さんさん)と輝いていました。


現代語訳をお読みいただくとわかりますが、海神(わたつみのかみ)の宮殿の様子がかなり細かく描写されています。
原文で
「其宮也雉堞整頓臺宇玲瓏門前有一井」
とあるなかの「雉(ち)」という字は、高さ9メートルほどの土塀(どべい)のことを言います。
石垣ではありません。
土を盛り上げた塀のことです。
つまり、堤防に近いイメージです。

その土塀の上に「堞(ひめがき)」があります。
これは垣根(かきね)のことで、簡単にイメージするなら盛土した堤防の上に植樹がされている情景です。

その「堞(ひめがき)」が、きちんとえられていて、しかもたいへん手入れが行き届いている《頓》と描写しています。

さらに塀の内側には、周囲を見渡すように建てられた高い建物である「臺(うてな)」があります。
「臺(うてな)」というのは今風にいえばタワーのことです。

そしてそのタワーが「玲瓏(れいろう)」とあります。
これは「美しく光り輝いている」という意味の言葉です。
これはひとつには、そのタワーが太陽の光を浴びて燦然(さんぜん)と輝いていると書いているようにも見えますが、もうひとつ、そのタワー自体が光を発しているという意味とも受け取ることができます。
つまり、灯台です。

そして、実際にこの情景にそっくりな遺跡があります。
それが三内丸山遺跡です。

三内丸山遺跡には、六本柱の巨柱がありますが、この柱は2度の傾斜を付けて建てられていたことがわかっています。
この2度の傾斜というのは、現代の東京スカイツリーや、全国にある灯台の建築と同じです。
わずかにハの字型に傾斜を付けることによって、塔の倒壊を防いでいるのです。

そしてその六本柱の居中の近くには、壮大な建築物があり、この巨柱の周囲は、ゆるやかな傾斜になっていて低地へと接続しています。

その低地の部分ですが、縄文時代には、海であったと推測されています。
いまの青森市のあたりは、沖積平野で、川の土砂の堆積と、海水面の低下によって平野となったものです。
昔は、平野部は概ね海で、三内丸山遺跡は、その海に面した村落であったわけです。

その海の宮に、山幸彦が「潮の流れに乗って船で」やってきます。
黒潮は、対馬海峡から日本列島沿いに北上して青森に至り、太平洋へと抜けていきます。
そして昔は日本海側が経済の中心地ですから、海流を考えれば、三内丸山遺跡にやってきたとしてもおかしくはないのです。

しかも、「臺」のような建築物の遺跡は、すくなくとも現代においては三内丸山遺跡でしか見つかっていません。
もしそれが、日本書紀にある「臺宇玲瓏」であるとするならば、実は三内丸山遺跡こそが、海神(わたつみのかみ)の宮殿跡であったということになります。

三内丸山遺跡は、縄文時代前期中頃から中期末葉(約5900-4200年前)の大規模集落跡とされていて、忽然と村人たちが消えた村とされていますが、急激な気温の低下によって、そこに住んでいた海神の一族が、村を捨て、今度はその時代にとても暖かかった沖縄に住んで、そこを竜の宮、竜宮と呼ぶようになったのかもしれません。

ちなみに、沖縄という呼称は、初出が淡海三船が記した鑑真の伝記の『唐大和上東征伝』(779年)で、この書の中で鑑真らが、島民に
「ここは何処か」
との問うたとき、島民が
「阿児奈波(あこなは)」と答えたところから来ています。
いまでは、実際には、沖縄の方言で「「阿児奈波(あこなは)」は、「私の名は」といった意味であったことであろうと言われています。

この表記を「沖縄」にしたのは江戸中期の新井白石で、1719年の『南島誌』の中で『平家物語』に登場する「おきなわ」を「沖縄」と記したことが初出です。

いずれにしても、はっきりといえそうなのは、日本列島、北から南まで、みんな祖先をひとつにする家族だ、ということです。
これはとても大切なことです。


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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
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昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

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