■□■━━━━━━━━━━━━━■□■新刊 『奇蹟の日本史』ねずさんが描く庶民をこんなに幸せにした日本というシステムhttps://amzn.to/3eeXDcohttps://good-books.co.jp/books/2967/■□■━━━━━━━━━━━━━■□■ 12月10日は、マレー沖海戦があった日です。この海戦は、大東亜戦争開戦の2日後である1941年12月10日にマレー半島東方沖で、日本海軍の航空部隊(一式陸攻、九六式陸攻)と、大英帝国東洋艦隊の間で行われた海戦です。 よく「戦艦大和は航空機によって沈められた。時代は航空機主体の時代に変わっていたのに、日本は空母を作らず大艦巨砲主義の巨大戦艦大和を作り、結局、米航空体によって大和は沈められた」といった話を耳にします。私も学生時代、学校の先生から、大鑑巨砲主義に傾倒した日本がアホだったと教わりました。 しかし、これは違います。世界最初に航空機をもって戦闘態勢の戦艦を沈めたのは日本です。これにより世界の海戦の態様が変わりました。日本が、変えたのです。それがマレー沖海戦です。
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画像出所=https://twitter.com/hwtnv/status/939618502641463296
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
!!最新刊!!マレー沖海戦で、日本は英国海軍が世界に誇る、当時の技術における世界最強戦艦を撃沈しています。
航空機で戦艦を沈めたという先例なら、タラント空襲、真珠湾空襲などもあるのですが、それらは、停泊中の戦艦を航空機で叩いた、というものです。
当時は停泊し、エンジン機関を停止している戦艦は、主要な武器が使えなかったのです。
人に例えれば、寝込みを襲われるようなものです。
ところが作戦行動中の戦艦というのは、全身が鋼鉄の要塞であり、対空防衛力、対潜防御力、攻撃力いずれをとっても、蚊蜻蛉(かとんぼ=航空機の蔑称)くらいで倒せるようなシロモノではないというのが、先の大戦開戦当時の世界の常識だったのです。
なかでも当時マレーに配備されていた英国戦艦プリンス・オブ・ウェールズは、14インチ(35.56cm)砲を10門装備、さらにポムポム砲と呼ばれる対空砲を装備していました。
この砲は1分間に6000発もの弾丸を発射するというすさまじい砲です。
英国は2年も前から、ヨーロッパ戦線でドイツ・イタリアの航空機に襲われる経験を積んでいました。
つまり十分な対空戦の経験もあったのです。
ですから英国の誇るこの大戦艦の前に、当時の技術では、世界中のどの戦艦も敵わないし、どんな航空機攻撃をも撃退されるとされていました。
プリンス・オブ・ウェールズは「20世紀最強の暴君」と呼べるだけの海の最強戦艦だったのです。
英国首相のチャーチルは、東洋にある英国領土の植民地利権を守るために、この最強戦艦を旗艦とする艦隊をマレーに派遣しました。
これによって、いつ日本が攻めてきても、鎧袖一触。
いつでも打ち払える用意を整えていたのです。
ところが日本が昭和16年のマレー沖海戦で、限られたごく少数の航空機だけで、この世界最強戦艦に挑み、プリンス・オブ・ウェールズのみならず、それに付属していた巡洋戦艦レパルス、その他駆逐艦4隻で構成する英国G艦隊をまたたく間に沈めてしまいました。
さらに英国乗組員の退避のための十分な時間を与えて、乗員の命を永らえたのみならず、戦域を逃れて漂流後に沈んだ英国海軍の将兵までも救助しています。
稼働中の戦艦が航空機によって沈められたという事例は、今日までの世界のあらゆる海戦の中で、このマレー沖海戦と、終戦間際に圧倒的な航空機をもって戦艦大和が撃沈された坊ノ岬沖海戦(1945年4月7日)、同様に大多数の航空機をもって戦艦武蔵が沈められた捷一号作戦(1944年10月24日)の3例しか、世界の戦史にありません。
そしてこの三つの海戦のうち、あとの二つが昭和20年に、まるで雲霞のように空を覆いつくさんばかりの航空機で戦艦を叩いたのに対し、日本が行ったマレー沖海戦では、限られたごく少数の航空機だけで、見事に戦艦を沈めています。
しかも、戦艦がいよいよ沈み始めたとき、日本の航空隊は、乗員避難のための猶予を英国側に与えるという紳士的行動をしています。
これに対し、大和、武蔵が沈んだときには、海上に逃れた抵抗できない日本の海軍乗員は、空からの航空機による銃撃による虐殺を受けています。
プロパガンダは、歴史ではありません。
大鑑巨砲主義だとか、日本軍には知恵がなかったとか、本当に戦後の我々は、いい加減な嘘を垂れ流されてきていたのです。
もうひとつ大事なことがあります。
第二次世界大戦が始まったのは、この海戦の2年前の昭和14年9月のことです。
ナチスドイツによるポーランド侵攻。
これが第2次世界大戦のはじまりです。
そしてナチスドイツは、はじめの2年間でヨーロッパ全域をほぼ掌握し、昭和16年末頃には、英国への空爆を盛んに行っていました。
ロンドンも、ナチスドイツの空襲にさらされるようになっていたのです。
ここで皆様にもお考えいただきたいのです。
このような状況にあれば、英国は、英国の誇る最強戦艦プリンス・オブ・ウェールズを英国の護りに使うべきところです。
あたりまえです。英国本土そのものが危機状態に至っていたのです。
ところがどういうわけか、チャーチルは、そのプリンス・オブ・ウェールズを、英国領インドの東側の防衛ラインであるマレーに派遣しています。
軍の行動というのは、意図があってのものです。
つまり英国は、日本が開戦に踏み切るよりもずっと前に、日本が戦争を開始することを察知していたし、日本の開戦が、英国の本土防衛上に、きわめて重要な意味を持つと考えていたということになります。
ヨーロッパ全域がナチスドイツによって領有され、残るは英国ばかりとなり、その英国もナチスドイツの軍門に降らなければならない状況に至っていた。
そうした中にあって、英国の起死回生のためには、もと英国領であった米国に、どうしてもヨーロッパでの戦いに参戦してもらわなければならない。
ところがこの時点における米国のルーズベルト大統領は、米国民を絶対に戦争に参加させないと、繰り返し誓って大統領に就任した人物です。
米国の参戦がなければ、英国はドイツによって占領され、大英帝国そのものが崩壊する。
その危機にあって、英国が起死回生を図るためには、日本に米国を叩かせなければならない。
日本を戦争に駆り立てるためには、日本への石油輸出を禁じれば良い。
そうすれば、日本は乾坤一擲の勝負に出ざるを得ない。
米国が石油を禁輸すれば、日本は、もとオランダ領のインドネシアの油田を目指すことになる。
この時点ですでにオランダという国はありません。
ですからインドネシアの油田を守っているのは、オランダ軍ではなく、オランダという国を失った元兵士たちです。
すでにこの時点で、オランダ領は、事実上ナチスドイツ領になっています。
日本とドイツは同盟国です。
当然日本は、同盟国ドイツが持つインドネシアの石油を求める行動に出る。
ところがそのためには、米国領のフィリピンを通らなければなりません。
つまり、日本がインドネシアの石油を得るためには、当然、フィリピンにある米軍を叩くことになる。
すると中立を決め込んでいた米国は、当然に参戦しなければならなくなる。
そして日米が開戦となると、日本と同盟関係にあるナチスドイツとも、米国は戦争状態になる。
米国は、米国本土を護るために、戦線を米国本土にするわけにいきませんから、当然に、ヨーロッパに派兵しなければならないし、ドイツと戦わなければならないことになる。
ナチスドイツからの空爆を受け、いまや国の存続が風前の灯火になった英国にとって、起死回生の一策は、もはやそこにしかない。
けれど、そうなると、英国領であるインドやインドネシアに近いシンガポールも、日本の標的になる。
これを護るためには、英国が誇る最強戦艦のプリンス・オブ・ウェールズをマレー沖に派遣するしかない。
と、こういう流れなのです。
米国がヨーロッパ戦線に参戦すると、その時点でヨーロッパ全域に戦域を広げて、手一杯状態になっているナチスドイツは、限界ギリギリ手一杯のところに、新たな敵を迎え撃つことになります。
そこに英国の勝機がある。
いかにも政治家であるチャーチルらしい、政治的な絵です。
逆に言えば、日本は、そうした策謀によって、禁輸制裁という挑発を受けて、やむなく自衛のために戦争を起こしています。
この「挑発を受けて相手にアタックする行為」、つまり戦争を始める行為は、国際法上、侵略戦争とみなされません。
そもそも戦争には、
1 侵略戦争
2 自衛戦争
3 制裁戦争
の三つの区別があります。
このうち、明らかに国際法上「違法な戦争」とされるのは、1の侵略戦争だけです。
2は、攻撃を受けての反撃ですから、これは国家存続のための必要な行為です(これを国家生存権といいます)。
3は、違法な侵略国や、ジェノサイドを行っているような国を、世界の諸国が協調して制裁を科すための戦争であって、これまた国際社会に必要な戦争であって、違法な戦争ではありません。
日本国憲法が禁止しているのも、ごく一部のわずかな国を除いて、世界中の国々が規制しているのも、侵略戦争だけです。
2と3は、日本国憲法上も、完全に合法な行為です。
従って、昭和16年の大東亜の開戦も、日本は「挑発を受けて開戦した」のですから、これはマッカーサーも後に認めているように、明らかに「自衛戦争」であって、国際法上も完全に合法的な戦争であったのです。
ここは大切なところです。
日本が真珠湾攻撃を行って、大東亜戦争を開始したのが、12月8日です。
ところがマレーには、その前日である12月7日に、英国東洋艦隊が、トーマス・フィリップス海軍大将司令長官の指揮のもとZ部隊を編成して、シンガポールを出航しています。
完全に、日本側の動きは、察知されていたのです。
先の大戦は、日本の「奇襲攻撃によって始まった」とされていますが、実際には日本は、網を張り、待ち構えている中に、日本が飛び込まされたのです。
いわば、蜘蛛の巣にひっかかったようなものです。
マレー沖海戦で、日本の輸送船団を警護していたのは、金剛と榛名です。
両艦とも近代化の改装こそ受けていますが、艦齢は27年を越えている老朽船でした。
最近の自動車は、当時と比べてかなり耐久性の面で向上していますが、それでも27年オチの車となると、いい加減、ボロボロです。
兵装や装甲の厚さも、巡洋艦程度の実力しかない船です。
これを、英海軍は、世界最強の戦艦二隻を含む最強艦隊で出迎えたのです。
最新鋭艦の戦艦プリンス・オブ・ウェールズは、当時の英国王ジョージ6世の兄王であるエドワード8世の即位前の名前をいただいた船です。
いかに自信満々の船であったかがわかります。
同行するもうひとつの戦艦レパルスも、建造年月こそウエールズより古いものの、装備はウエールズと同じです。
しかも、それまでにドイツ軍航空機による爆撃を何度も受け、それらを完全に撃退してきているという実践経験の豊富な戦艦です。
普通の常識で考えれば、余程のアホでも、ここまで戦力が違えば、日本の輸送船団は完全壊滅させられると確信できます。
では日本はどうしたかというと、とにかく輸送船団を護衛しなくちゃいけない。
ですからサイゴン(いまのホーチミン)にある航空基地から、航空機(九六式陸攻59機、一式陸攻26機、計85機)を発進させました。
海上の戦力が乏しいのです。
空から補わなくちゃならなかったのです。
そして運良く、英国東洋艦隊を発見します。
各攻撃隊は東洋艦隊主力めがけて殺到しました。
戦いは、熾烈なものでした。
航空機による攻撃を、完全撃退してきた実績を持つレパルスと、それをさらにひとまわりも強化したプリンスオブウエールズが相手です。
しかもボムボム砲が、弾幕で空を覆いつくしています。
この戦いで日本側は、陸上攻撃機未帰還3、帰投時の不時着大破1、偵察機未帰還2、その他30機以上に深刻な被害を受けました。
飛び立った半数が深刻な被害を受けたのです。
どれだけたいへんな戦いだったかわかります。
そしてその大激戦の結果、日本はなんと、戦艦プリンス・オブ・ウェールズと、巡洋戦艦レパルスの両方を撃沈して、沈没させてしまうのです。
この戦いで、ウエールズ撃沈の報告を聞いた英国チャーチル首相は、
「あの艦が!」と絶句し、
「戦争全体で(その報告以外、)私に直接的な衝撃を与えたことはなかった」と著書の第二次世界大戦回顧録で語っています。
それだけ、チャーチルにしてみれば、自信満々の日本叩きのための「絶対沈まない船」のはずだったのです。
マレー沖海戦では、まず戦艦レパルズが沈みました。
次いでプリンス・オブ・ウェールズが、大破しました。
プリンス・オブ・ウェールズの艦長のトマス・フィリップス海軍大将は、日本の航空隊に向け、乗員を退艦させるので、30分時間をほしい、と打電しました。
日本の航空隊は、これをのみました。
おかげでウエールズの乗員たちは、巡視船エクスプレスに乗り移ることができたし、レパルスの乗員も捜索する時間が与えられ、エレクトラが571名、ヴァンパイアが、レパルスの艦長と従軍記者を含む225名を救助しています。
その間、日本の攻撃隊は空で待機しました。
英国軍の救助活動の間、いっさいの攻撃行動をしなかったのです。
当時の飛行機は、いまの時代にあるようなハイブリット・タイプでも省エネタイプでもありません。
空で待機していれば、燃料が減り、その減ったところに敵機が、援軍機で攻めて来たら、帰投するガソリンさえもないまま、撃ち落とされなければならなくなるかもしれないというリスクがあります。
それでも日本の航空隊は、待ちました。
ウエールズの乗員が全員退艦したあと、トマス司令官が、ひとりデッキに残ったのです。
彼は海の男です。
やはり、艦とともに死を選んだのです。
日本の航空隊は、それを見届けると、上空で全機整列し、一機ずつデッキ前を通過して、トマス艦長に航空機での最敬礼をして、敬意を払っています。
トマス艦長も、最敬礼で応答しています。
つまり、日本の航空機が空で待機したのは、まさに武士道そのものであったのです。
さらに、マレー沖海戦の翌日、一機の日本機が、戦闘のあった海域に再度飛来しています。
何をしにきたのでしょうか。
その機は、海面すれすれまで下降すると、現場海面に花束を投下して去って行ったのです。
敵となり、味方として死んで行った同じ海の男達の敢闘に、弔意を表したのです。
これが日本の示した武士道です。
日本をかっこよく!お読みいただき、ありがとうございました。
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